ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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逆転する立場

 黒夜は、ここ数日——いや、正確には“ある日”から、ひとつの違和感を抱えていた。

 それは、自由の時間が、露骨に削られているという違和感だった。

 

 朝、いつもの様に執務室に顔を出し、本日の予定を確認する。

 

 そこから先はほとんどが護衛任務。

 ナギサに同行し、ミカに付き、セイアに付き——とにかく誰かの隣にいることが前提になっている。

 

 昼食には必ず三人の誰かが同席する。

 いや、ここ最近は誰かではない。

 

 三人そろっている。

 

 夕食も同じだった。

 誘われる頻度が増えた、というより、誘われない日がほとんどなくなった。

 

 最初は、怪我をしている自分を気遣ってくれているのだと思った。

 

 自分が怪我をして。

 皆を心配させた。

 だから距離が近くなったのだと。

 そう解釈するのが自然だったし、そう思っていたかった。

 

 けれど、その“気遣い”は、ある日から明らかに質を変えた。

 

 例えば——視察。

 

 以前なら、ナギサが外部へ出る時だけ黒夜が同行し、ミカとセイアは学園に残って執務をしていた。

 役割分担があった。

 

 なのに最近では、どこへ行くにも三人一緒だ。

 視察も、打ち合わせも、ただの移動も。

 

 もちろん昼食も夕食も三人一緒。

 

 そして、決定的だったのは——

 

 黒夜が少し席を外した時の反応。

 

 お手洗いに立つ、廊下へ出て三人から離れる、時間にしてほんの数分。

 それだけで三人は血相を変え、周囲を探し始める。

 

 護衛として守るべき立場の自分が、まるで迷子になった子どものように扱われている。

 

 自分の姿を確認した瞬間。

 

 ナギサは深い安堵の息を吐き、

 セイアも目を伏せるようにして息を吐く。

 

 そしてミカは。

 

 今にも泣き出しそうな表情で縋りついてくる。

 

「よかった……」

 

 震える声。

 

「帰ってきてくれて…よかった……」

 

 その言葉が、胸に刺さる。

 

 黒夜は思う。

 

(明らかに三人に守られている)

 

 これでは立場が逆転してしまっている。

 護衛が守られ、主が怯える。

 そんな関係が続けば、流石に鈍い自分でもおかしいと気付く。

 

 だが、原因が分からない。

 どう考えても、現状を引き起こした理由を把握できなかった。

 怪我のせいか?

 自分が死にかけたせいか?

 それとも、単純に距離が縮まっただけなのか?

 

 原因を三人に問えば答えが返ってくるだろう。

 返ってくるはずだ。

 

 そうわかっているのに黒夜は、聞く勇気を持てなかった。

 

 ——もし、自分の想像より重い理由が出てきたら。

 

 ——自分のせいで、三人が壊れ始めているのだと分かったら。

 

 黒夜は、それを受け止める自信がなかった。

 だから今日も、何も言えずに過ごす。

 違和感を飲み込み、笑顔で誤魔化し、いつも通りに振る舞う。

 

 そうして数日。

 

 今日もまた、予定表通りの一日が終わり。

 夕暮れの街で、黒夜は三人と共にナギサの行きつけというレストランへ来ていた。

 行きつけと言うには明らかに豪華な高級店の個室席。

 

 白いテーブルクロス。

 磨かれた銀食器。

 落ち着いた照明。

 

 静かで、穏やかで、品のある空間。

 

 そこに座る三人の姿は、まるで絵画のように整っている。

 ナギサは優雅に背筋を伸ばし、ミカは明るい笑みを浮かべ、セイアはいつも通り冷静な眼差しで周囲を見ている。

 

 黒夜だけが、その中心にいることにまだ慣れていない。

 料理が運ばれ、会話が続く。

 黒夜は左腕を少しだけ動かしながら、慎重にフォークを持つ。

 最近、少しずつ動かせるようになってきた。

 

 その様子を見ていたセイアが、穏やかな声で言った。

 

「左腕も少しだけだが動かせるようになったんだね。回復に向かっているようでよかったよ」

 

 黒夜は自分の左腕を見ながら頷く。

 

「そうですね。フォークくらいなら使えるようになってきました」

 

 笑って付け足す。

 

「それでもまだまだ不便ですが……それはしょうがありませんね」

 

 その言葉に、隣で食べていたミカがすかさず身を乗り出した。

 

「不便ならそう言ってよ~!」

 

 明るい声。

 

「じゃあ私が食べさせてあげるよ。はい、あ~ん☆」

 

 冗談のようで、冗談ではない勢い。

 ミカは自分のナイフとフォークを使ってローストビーフを切り分け、そのまま黒夜の口元へ差し出した。

 黒夜は目を瞬きそれとなく遠慮する。

 

「み、ミカ様……さすがにそれは……」

 

 しかし、ミカは引かない。

 フォークが近い。

 逃げ場がない。

 

 そこへ、ナギサとセイアが同時に割り込んだ。

 

「ミカさん」

 

 ナギサの声は柔らかいが、芯がある。

 

「いくら個室でも、少しはしたないと思いますが?」

 

 そしてセイアが淡々と続ける。

 

「ミカ。黒夜も対応に困っている。やめるべきだよ」

 

 ミカはむっとした顔をして、二人を見る。

 

「え~? 黒夜のことを手伝ってるだけだよね~?」

 

 そして、まだフォークを差し出し続けた。

 黒夜は困った顔で笑うしかなかった。

 

 ——その笑顔を見た瞬間だった。

 

 ミカの表情が、ひどく変わった。

 まるで何かに刺されたみたいに、目が揺れる。

 

「……え?」

 

 ミカの声が掠れる。

 

「あっ……ごめっ……ごめんなさい……」

 

 突然、フォークを下げた。

 さっきまでの勢いが嘘のように、しゅんと小さくなる。

 

「迷惑だったよね……」

 

 ミカは視線を落とし、肩をすぼめた。

 黒夜は困惑した。

 

(え、なぜ……?)

 

 冗談の範囲を越えたことに気付いたから?

 それとも、さっきの自分の表情が、ミカ様を傷つけた?

 黒夜は慌ててフォローする。

 

「いえ! 迷惑なんかじゃありませんよ!」

 

 急いで言う。

 

「むしろ、気遣っていただいて嬉しいです。ありがとうございます」

 

 そう言いながら、ナギサとセイアにも視線を送る。

 

 助けてください。そんな目線。

 

 だが、二人も沈んだ顔をしていた。

 

 ナギサは口元を一度引き結び、

 セイアは紅茶のカップを持つ手をわずかに止めている。

 

 黒夜の内心は困惑で埋め尽くされる。

 

(なぜ……?)

 

(どうして急に、こんな……)

 

 だが問いかける言葉は出ない。

 

 問いかけた瞬間、この場の空気が壊れる。

 それを黒夜は恐れていた。

 だから黒夜は、いつものように笑う。

 笑って、流す。

 それが、最も簡単な“解決”だから。

 

 空気はどこか歪んだまま、食事は続いた。

 味は、分からなかった。

 会話も、上滑りする。

 そして何とか、食事を終える。

 

 会計の段階になり、黒夜が支払いを申し出ようとする。

 だがナギサが即座に言った。

 

「今日は私がお誘いしたので、私が払います」

 

 きっぱりと言われてしまう。

 黒夜は一瞬躊躇する。

 

「いえ……毎回は……」

 

「いけません」

 

 ナギサは柔らかい笑顔のまま、逃がさない。

 

「今日は私の責任です」

 

 黒夜は結局、頷くしかなかった。

 店を出て、夜の街を歩く。

 

 トリニティの灯りが遠くに揺れる。

 石畳が規則正しく足元に伸びる。

 

 三人の様子は、明らかに沈んでいた。

 黒夜は内心で焦る。

 

(私が原因だ)

 

 そう思うしかない。

 だから黒夜は、必死に三人をフォローしようとする。

 明るく話し、笑い、話題を変え、気遣いの言葉を並べる。

 だが、三人の沈みは晴れない。

 

 その時だった。

 

 唐突に視界が歪んだ。

 ふらり、と足がもつれる。

 

(……え?)

 

 世界が傾く。

 次いで、眩暈がひどくなる。

 

 膝が笑う。

 黒夜は咄嗟に踏ん張ろうとするが、うまく力が入らない。

 

(まずい……)

 

 そう思った瞬間には、もう遅かった。

 黒夜の身体は石畳へ向かって倒れ込む。

 視界の端で、三人がこちらへ駆け寄ってくるのが見える。

 

「黒夜さん!」

 

 ナギサの声。

 

「黒夜!!」

 

 セイアの声。

 

「やだ……黒夜!!」

 

 ミカの叫び。

 

 泣きそうな顔。

 

 縋る手。

 

 焦り。

 

 恐怖。

 

 薄れゆく意識の中で黒夜は、その光景を最後に見た。

 三人が、泣きそうな顔で黒夜の名前を叫んでいる。

 その姿を見て、胸が痛んだ。

 

(……すみません)

 

 謝ろうとした。

 だが声にならない。

 

 黒夜の意識は、暗闇へ沈んでいく。

 世界の音が遠のき。

 最後に残ったのは。

 

 必死に、必死に。

 

 自分を呼ぶ声だった。

 

 

 黒夜が倒れた瞬間。

 

 ナギサも、ミカも、セイアも——泣きそうな顔で駆け寄り、膝をついて黒夜に寄り添う。

 必死に名を呼ぶ。肩に触れる。頬に触れる。脈を確かめるように指先が彷徨う。

 

「黒夜さん……!」

 

 ナギサの声が震えている。

 

「黒夜、聞こえるかい!」

 

 セイアの声は冷静さを装っているだけで、喉の奥が掠れていた。

 

「ねぇ、やだ……起きて……!」

 

 ミカはもう泣き声に近い。

 

 けれど黒夜は反応しない。

 

 瞼は閉じられたまま。

 呼吸はある。

 だが、返事がない。

 

 それが——

 

 あの事件の日に死にかけた黒夜の姿を、あまりにも鮮明に想起させた。

 

 血の匂い。

 担架。

 冷たい床。

 

 そして“呼吸が止まった”という言葉。

 

 現実の石畳の上で、三人の思考は同じ恐怖に絡め取られていく。

 

(また……?)

 

(また、私たちの目の前で……?)

 

(また、守れない……?)

 

 冷静な判断ができなくなる。

 そんな中で、最初に“動いた”のはナギサだった。

 ナギサは大きく息を吸い、指先を震わせながらも、声を作る。

 

「……ミカ!」

 

 普段なら、穏やかで上品な声。

 今は、切羽詰まった命令の声。

 

「ここから近い場所に、私が保有している物件があります」

 

 一瞬、言葉が途切れる。

 視界が揺れているのだろう。

 それでもナギサは続けた。

 

「そこに黒夜さんを運んでください!」

 

 ミカの瞳が驚きで大きくなる。

 

「え、えっ……わ、わかった……!」

 

 ナギサはセイアへ視線を向ける。

 

「セイアさんはすぐに救護騎士団を手配してください。住所は——ここです」

 

 そう言って、ナギサは震える手で端末を操作し、物件の住所を共有する。

 

 セイアが一瞬だけ、その住所を見て目を細めた。

 (ここから近い。確かに合理的だ)

 だがそれ以上考える余裕はない。

 

「わかった!」

 

 セイアはすぐに通信を繋ぎ、救護騎士団へ連絡を入れる。

 

 ミカは黒夜の身体を抱きかかえた。

 

 重い。

 けれど、重さ以上に恐怖が重い。

 

(お願い……お願い……)

 

 ミカの腕が震える。

 それでも落とさない。

 落とすわけにはいかない。

 

 ナギサは先導するように走る。

 

 夜のトリニティ。

 白い街灯。

 静かな道。

 

 普段なら優雅に歩く場所を、今は息を切らして走る。

 到着したのは、トリニティの中でも一等地の住宅街だった。

 

 整えられた庭木。

 静かな石畳。

 高い塀。

 

 音がない。

 人の気配も薄い。

 

 まるでここだけが、別世界のようだ。

 ナギサは震える手を押さえながら鍵を開ける。

 カチリと音がして扉が開く。

 

「こちらへ……!」

 

 ナギサは声を絞り出し、ミカを中へ導く。

 

 内装は広い。

 柔らかな照明。

 高級ホテルのスイートルームのような落ち着いた空間。

 

 だが三人にとって、豪華さはどうでもいい。

 ただ安全な場所が欲しかった。

 

「こちらのベッドに!」

 

 ナギサが急ぐように言う。

 ミカはその指示に従い、黒夜を慎重にベッドへ下ろす。

 黒夜の身体が沈み、白いシーツが小さく皺を作る。

 

 ミカはそのまま黒夜の手を握った。

 強く、強く。

 

「黒夜……黒夜……」

 

 名前を呼び続ける。

 

 祈るように。

 縋るように。

 

 セイアが通話を終え、短く告げる。

 

「救護騎士団が到着するまで……十分ほど掛かるそうだ」

 

 遠い。

 

 長い。

 

 ミカは握った手を離さない。

 セイアは奥歯を噛みしめ、震えそうになる自分を理性で押さえ込む。

 

 ナギサも、同じだった。

 ティーパーティとしての責任感が、彼女を立たせていた。

 もしそれがなければ、今すぐ膝をついて泣き崩れていただろう。

 ナギサは黒夜の顔を見つめ、懸命に祈った。

 

「お願いします…私から黒夜さんを奪わないでください…」

 

 そして十分後。

 

 玄関のチャイムが鳴った。

 ナギサが立ち上がり、扉を開けると救護騎士団の制服を着た生徒がいた。

 

 鷲見セリナ。

 

 慌てた様子で周囲を見回しながら言う。

 

「緊急と聞きましたが、患者さんはどこですか?」

 

「こちらです……!」

 

 ナギサが案内する。

 セリナはすぐに客室へ向かい、黒夜の様子を診察し始めた。

 

 脈。

 呼吸。

 皮膚の色。

 瞳孔反応。

 

 三人は固唾を飲んで見守る。

 

 セリナの表情が少し曇るだけで、心臓が跳ねる。

 指先が止まるだけで、世界が崩れそうになる。

 やがて診察を終えたセリナが、一息ついた。

 

「……大丈夫です」

 

 その言葉に、三人の肩が同時に落ちた。

 

「黒夜さんは軽度の過労で倒れてしまったようです」

 

 セリナは続ける。

 

「このまましっかり休んでいれば、すぐに回復するはずです」

 

 ミカがその場で泣きそうな顔になる。

 ナギサは深く息を吐き、胸を押さえた。

 セイアは拳を握っていた手を、ゆっくり開いた。

 

「……よかった……」

 

 ミカが絞り出すように呟く。

 

 ナギサはセリナへ頭を下げる。

 

「ありがとうございます……本当に……」

 

 セイアも静かに言う。

 

「助かったよ」

 

 セリナは少し照れたように頬を掻いた。

 

「いえ……当然のことです。私は救護騎士団ですから」

 

 そして道具を片付けながら言う。

 

「お水、置いておきますね。意識が回復した際に少しでも飲ませてあげてください」

 

「わかりました」

 

 ナギサはセリナを玄関まで見送るため、共に廊下を歩く。

 扉の前で、ナギサは少しだけ言葉を選びながら切り出した。

 

「セリナさん……ひとつお願いがあります」

 

「はい?」

 

 セリナが首を傾げる。

 

 ナギサは微笑みを作る。

 だがそれは、優雅さよりも必死さが滲む笑みだった。

 

「できれば……今日の件は、黙っていていただけませんか」

 

 セリナが驚いた顔をする。

 

「え……? でも、それは……」

 

「政治的な理由です」

 

 ナギサは即座に理由を重ねた。

 

「護衛が倒れたという話が広まれば、よからぬことを考える人が出るかもしれません」

 

 セリナは少し考え、やがて頷いた。

 

「……ナギサ様がそう判断するのであれば。私は黙っていることにします」

 

 ナギサは深く頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

 

 セリナが帰っていく背を見送り、扉が閉まる。

 ナギサはその場で一瞬だけ、壁に手をついた。

 

 手が震えている。

 息を整え、振り返る。

 

 客室へ戻ると、ミカが黒夜のそばに座り込み、手を握り続けていた。

 セイアも近くに立ち、視線を落としている。

 

「……ミカさん、セイアさん」

 

 ナギサは小さく声をかける。

 

「リビングに来てください」

 

 ミカは名残惜しそうに黒夜を見つめ、そっと手を離した。

 セイアは無言で頷き、後に続く。

 

 リビング。

 

 落ち着いたソファ。

 柔らかな照明。

 静かな空気。

 

 ここもまた、豪華で、完璧で、何も不自由がない。

 何も不自由がないように作られた空間。

 ナギサはソファへ腰を落とし、片手で顔を覆った。

 

「……このままじゃ」

 

 声が震える。

 

「また黒夜さんに無理をさせてしまう」

 

 ミカが目を潤ませる。

 ナギサは続ける。

 

「でも……私の知らないところで、左目のような怪我を……これ以上負ってほしくない……」

 

 その言葉が、ミカの涙を堰き止められなくした。

 

「私も……同じ気持ちだよ、ナギちゃん……」

 

 ミカは小さく嗚咽を漏らす。

 

「黒夜が……これ以上何かを背負って……どこかに行ってほしくない……」

 

 セイアも静かに言った。

 

「黒夜は優しいからね……」

 

 淡々とした声のようで、奥に震えがある。

 

「自分の左目を奪ったサオリたちを許すくらいだ。自由にさせていたら……本当に取り返しのつかないことになる」

 

 ナギサが顔を上げる。

 目の奥が濡れている。

 

「取り返しのつかないこと……」

 

 その言葉を口にした瞬間。

 三人の胸中に同じ考えがよぎる。

 

 ——このままでは、黒夜はいつか死んでしまう。

 

 それは突飛な想像ではない。

 

 呼吸が止まったと聞いた。

 失明しても笑っていた。

 倒れても謝りそうな人だ。

 

 彼は、そういう人だ。

 

 その恐怖が、三人を支配する。

 すると、思考の順序が変わる。

 正しさよりも先に、恐怖が来る。

 恐怖の次に、言い訳が来る。

 

 守るため。

 これ以上傷付けさせないため。

 今だけ、少しの間だけ。

 本人が落ち着くまで。

 回復するまで。

 

 理由ならいくらでも用意できる。

 

 ナギサは唇を噛んだ。

 

「……ここなら」

 

 小さな声。

 

「ここなら、黒夜さんを……安全に休ませられます」

 

 ミカが顔を上げる。

 泣き腫らした目で、ナギサを見る。

 

「……安全に」

 

 その言葉は甘い。

 そして危険だった。

 セイアが静かに付け加える。

 

「彼は、自分の意思で休まないからね」

 

 淡々と。

 

「だから、休ませる必要がある」

 

 言葉の端が、わずかに硬い。

 ナギサは息を吸う。

 胸の奥にある“良心”が叫ぶ。

 

(違う。これは……違う)

 

(自由を奪うのは、守ることじゃない)

 

 だが、次の瞬間に恐怖が良心を踏み潰す。

 

 黒夜がいなくなる未来。

 笑いながら消える未来。

 もう二度と帰らない未来。

 

 それに比べれば彼の自由など、小さい。

 そんな浅ましい思考が、静かに形を得ていく。

 ミカが震える声で言った。

 

「……外に出したら、また……」

 

 言葉が詰まる。

 

「また、どこかで倒れて……今度こそ……」

 

 最後まで言えない。

 言った瞬間、現実になるから。

 

 セイアが目を閉じ、ゆっくりと吐く。

 

「……しょうがない」

 

 その言葉は、誰かに言っているのではなく、自分自身に言い聞かせる言葉だった。

 

 しょうがない。

 必要だ。

 合理的だ。

 最善だ。

 

 言い訳の鎖が、理性を縛る。

 ナギサは最後に、決定的な一言を口にする。

 

「……このまま黒夜さんを」

 

 声が小さい。

 

「この場所から、出さない」

 

 その言葉が落ちた瞬間。

 ミカの瞳が揺れた。

 恐怖と安堵が、同時に宿る。

 

「……うん」

 

 ミカは涙を拭きながら頷く。

 

「私が、そばにいる。ずっと」

 

 セイアは視線を落とし、淡々と頷いた。

 

「必要なら、手段も考える」

 

 ナギサは、喉の奥が冷たくなるのを感じた。

 

 これは普段の自分なら、しない決断だ。

 

 政治のために誰かを閉じ込めることはある。

 だが“愛のため”に閉じ込めることはない。

 

 ——ないはずだった。

 

 けれど、今は。

 黒夜を守るためなら。

 これ以上傷付けさせないためなら。

 自分たちの恐怖を終わらせるためなら。

 どんな言い訳でも、正当化できてしまう。

 

 ナギサは立ち上がり、客室の方を見る。

 そこに眠る黒夜。

 何も知らず、ただ呼吸をしている。

 この静かな寝息が、今は何よりの救いだった。

 

 そして同時に。

 

 何より危険な“許可”だった。

 

 ——眠っている間に、決めてしまえばいい。

 

 ——起きた時には、もうここが“普通”になっていればいい。

 

 そう思ってしまう自分に気付き、ナギサは胸が痛む。

 

 それでも。

 止まらなかった。

 

 この夜。

 

 この優しさで出来た鳥籠の扉は、静かに閉じられた。

 鍵はまだ掛かっていない。

 だが、掛ける準備は整ってしまった。

 そして何より恐ろしいのは。

 三人がそれを“守り”だと信じていることだった。

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