ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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甘い檻の一日

 

 朝になり、黒夜が目を覚ました時、ひどく混乱していた。

 

 視界に入る天井は、見覚えのない模様。

 壁紙の色も、照明も、漂う匂いも、どれも自分の知る部屋とは違う。

 

(……ここは、どこだ?)

 

 寝起きの鈍い頭で状況を探ろうとして、すぐに心臓が早鐘を打つ。

 自分は昨夜、確かに帰り道に——。

 そこまで思いかけて、記憶がふっと途切れる。

 

 黒夜は上体を起こそうとし、シーツが微かに擦れる音がした。

 その音に反応する者はいない。

 周囲を確認しようと視線を巡らせた、その時。

 ベッドの脇で座り込むようにして眠っている影があった。

 

 うつ伏せの体勢で髪は寝癖で少し跳ねていて、頬には薄い赤みが残っている。

 呼吸は浅く、規則的。

 

 ミカだった。

 

(……ミカ様?)

 

 見知った顔がそこにあるだけで、胸の緊張が少しだけ解ける。

 同時に、別の疑問が浮かぶ。

 

(なぜミカ様が、ここに……?)

 

 黒夜はベッドの端に体を寄せ、そっとミカの肩に手を置いた。

 揺らす強さは最小限。

 

「ミカ様……ミカ様、起きてください」

 

 囁くように呼びかける。

 

「ん~……?」

 

 ミカが小さく身じろぎする。

 

「なーに……もう朝……?」

 

 寝ぼけた声。

 目をこすりながら、しばらくぼーっとしていた。

 

 だが次第に視界が焦点を結び、目の前に黒夜の顔があると気付いた瞬間——。

 

「あっ!」

 

 ミカは勢いよく顔を上げた。

 

「黒夜!!」

 

 瞳が大きく開かれる。

 

「体は大丈夫!? 違和感とかない? 痛いところとか、変な感じとか……!」

 

 矢継ぎ早。

 

 黒夜は少し驚きながらも、落ち着いた声を作って答える。

 

「大丈夫です。しばらく寝たからなのか、気分もすっきりしてますし」

 

 ミカは目を伏せ、肩の力を抜いた。

 

「……よかった」

 

 小さく、安堵の吐息。

 それは胸の奥に沈んでいたものがやっと外へ出たような息だった。

 ミカはすぐに思い出したように立ち上がり、ベッドの近くに置かれていたペットボトルを手に取る。

 

「そうだった。はい、これ」

 

 透明な水。

 冷たさでボトルが少し結露している。

 

 黒夜は受け取り、喉を潤す。

 水が喉を通る感覚が生々しく、現実感が戻ってくる。

 

「……ありがとうございます」

 

 飲み終えたところで、黒夜は恐る恐る尋ねた。

 

「それで……どうして私は、ここで寝ていたのでしょうか」

 

 ミカは「え?」と首を傾げる。

 

「覚えてないの?」

 

 黒夜は小さく首を横に振る。

 昨夜の記憶が曖昧に途切れている。

 

 ミカは少しだけ眉を寄せ、けれど優しく教える。

 

「黒夜、昨日の夜にみんなと一緒にご飯を食べた後、道端で倒れたんだよ」

 

 黒夜の脳裏に、昨夜の場面が断片的に蘇る。

 

 石畳。

 夜風。

 三人の声。

 眩暈。

 

「……そうだ」

 

 黒夜はぽつりと呟く。

 

「私は……帰り道で突然眩暈がして、倒れたのでした……」

 

 ミカは大きく頷いた。

 

「そうだよ。それで大慌てでみんなでこの場所に黒夜を運んで……診てもらったんだよ」

 

 黒夜は息を呑む。

 

「診てもらった……?」

 

「うん。そしたらね、過労だって言ってたよ」

 

「過労……ですか」

 

 黒夜は自分の手を見つめた。

 

 確かに最近忙しかった。

 予定表は埋まり、自由時間は削れ、睡眠も浅かった気がする。

 

 だが、倒れるほど疲労が蓄積されていたとは、自分で気付けなかった。

 

「……最近忙しかったとはいえ」

 

 黒夜は苦笑した。

 

「倒れるほど疲れが溜まっていたとは、気付きませんでした」

 

 ミカは少しだけ怒ったような顔をする。

 

「黒夜ってさ、そういうところあるよね」

 

 優しい怒り。

 

「自分のこと、ぜんぜん見ない」

 

 黒夜は反射的に「すみません」と言いかけ、飲み込んだ。

 そして、ふと大事なことを思い出して顔色が変わる。

 

「……そういえば、今何時ですか!?」

 

 ミカは壁の時計を見る。

 

「もう10時過ぎだね」

 

 黒夜は慌てて布団を跳ね上げ、起き上がろうとする。

 

「ミカ様! 私たちは盛大に遅刻していますよ! 早く準備して行かないと――」

 

 その瞬間。

 

 ミカが黒夜の手を掴んで止めた。

 

 ぎゅっ、と。

 

 思った以上に強い力。

 

「今日はもう行かなくていいの、黒夜」

 

 ミカの声は優しい。

 だが、その優しさの中に、揺るがない意志が混ざっている。

 

「だって過労で倒れたんだよ?」

 

 黒夜は言葉を失う。

 

「いつもみたいにトリニティに行ったら、また倒れちゃうよ?」

 

 ミカは黒夜の目を真っ直ぐ見て言う。

 

「だから今の黒夜がやらなくちゃいけないことは、ちゃんと休んで元気になることだよ」

 

 その言葉は、正論だった。

 黒夜は何も言えない。

 内心で思う。

 

(確かに……無理して行ったところで、また倒れでもしたら周りに迷惑をかけるだけか……)

 

 黒夜は小さく息を吐き、頷く。

 

「……わかりました」

 

 そして、少しだけ力の抜けた声で続ける。

 

「そういうことなら、しっかり休むことにします」

 

 ミカの肩が、ほんの少しだけ落ちる。

 安堵の合図。

 

 黒夜は看病してくれたであろうミカに、丁寧に頭を下げる。

 

「ありがとうございます、ミカ様。看病していただきまして」

 

 そう言ってベッドから降りようとした。

 

 だが。

 

「待って」

 

 ミカがまた黒夜を止める。

 

「どこに行こうとしてるの?」

 

 黒夜はきょとんとする。

 

「え? いや……自分の家に帰ろうかと……」

 

 その言葉を言い切る前に、ミカが被せる。

 

「ダメだよ」

 

 即答だった。

 ミカの目が揺れる。

 

「また道中で倒れちゃうかもしれないでしょ?」

 

 反論しようとして、喉が詰まる。

 確かに可能性はある。

 そして、昨日倒れたという事実が、その可能性を重くする。

 

 ミカは続けた。

 

「当分はここを使っていいって、ナギちゃんも言ってたから」

 

 黒夜の目が少し見開かれる。

 

「ここに……?」

 

「うん。黒夜はここにいていいの」

 

 ミカは黒夜の肩に手を置き、そっと押す。

 

 寝かせるように。

 逃げないように。

 優しく、でも確実に。

 

「それにね」

 

 ミカは笑おうとする。

 だがその笑顔は少しだけ影が差している。

 

「夜になればナギちゃんもセイアちゃんも帰ってくるよ」

 

 そして、言葉を添える。

 

「その時に黒夜がいなかったら、二人とも悲しむと思うな~」

 

 黒夜はその言い方に、微かな違和感を覚えた。

 

 なぜそこまで。

 

 けれど、その違和感はすぐに“優しさ”の解釈に飲み込まれる。

 

 心配をかけたから。

 自分が倒れたから。

 昨日のあの場面が、よほど怖かったから。

 

 そう考えれば辻褄は合う。

 

 黒夜は静かに頷いた。

 

「……わかりました」

 

 少し恥ずかしそうに笑う。

 

「しばらくは、ここで休ませてもらうことにします」

 

 ミカは肩から手を離し、ほっとしたように息を吐いた。

 それからベッドの脇に座る。

 

「じゃあさ」

 

 明るい声を作る。

 

「二人が帰ってくるまで、私とお喋りでもしてようよ」

 

 黒夜は少し驚き、そして小さく笑う。

 

「……はい。お付き合いします」

 

 こうして、ミカと黒夜の二人の時間が始まった。

 

 話す内容は普段と違った。

 

 仕事の話ではない。

 政治の話でも護衛の話でもない。

 

「普段って、どんな事して過ごしてるの?」

 

「え?」

 

「休みの日! 休みの日ってあるでしょ?」

 

「……最近は、あまり……」

 

 黒夜が苦笑すると、ミカが頬を膨らませる。

 

「ほら~! そういうところ!」

 

 それから笑って他愛のない会話は続いていく。

 

「黒夜の手料理、久しぶりに食べたいな~」

 

 黒夜は少し照れたように視線を逸らす。

 

「左腕が治ったらですね。約束してしまっている相手が多くて……」

 

「え~? 私を最優先にして欲しいな!」

 

「それは、難しいですね…」

 

「む~! 私、ティーパーティーなのに~!」

 

 冗談の応酬。

 ミカの笑い声。

 

 その時間は穏やかで、平和で、温かかった。

 黒夜は久しぶりに、ゆったりとした時間を過ごしていることに気付く。

 

 肩の力が抜ける。

 呼吸が深くなる。

 胸の奥に、柔らかいものが広がる。

 そして自然と、年相応の笑みが零れていた。

 

 無防備な笑み。

 

 その笑顔を“自分に向けてくれた”と感じたミカは、目を輝かせた。

 まるで宝物を見つけたような表情。

 

(よかった……今、黒夜が無垢な笑顔を向けてくれている。私の前で、私に向かって)

 

 ミカは心から嬉しそうに笑い、黒夜との会話を楽しむ。

 黒夜は本当にこの気楽な時間を幸せに感じていた。

 

 夕方になり。

 

 窓の外の光がゆっくりと薄まり、街灯の光が廊下に落ち始めた頃。

 玄関の鍵が回る音がして、家の空気が少しだけ動いた。

 

 ナギサとセイアが帰ってきたのだ。

 

 ふたりは靴を脱ぐと、ほとんど迷いなく廊下を進み、黒夜がいる客室の扉を開けた。

 まるで当然そこに行くと決まっているように。

 

 扉が開く。

 

 そこにいたのは、ベッドの上で背もたれに寄りかかり、ミカと楽しげに会話している黒夜だった。

 穏やかな声。

 笑い声。

 久しぶりに見る肩の力が抜けた表情。

 

 黒夜とミカは、帰ってきたふたりに気付くと同時に顔を上げる。

 

「おかえりなさいませ」

 

 黒夜が柔らかく言う。

 

「おかえり~!」

 

 ナギサの表情が、ほんの少し緩む。

 

「ただいま戻りました」

 

 セイアは軽く肩をすくめるように笑い、部屋の空気を確かめるように目を巡らせた。

 

「随分会話が弾んでいたようだね」

 

「うん!」

 

 ミカが誇らしげに頷く。

 

「今日は黒夜と色んな会話をしたもんね」

 

 そう言って黒夜を見る。

 黒夜も、照れくさそうに笑って答えた。

 

「そうですね。本当に色んなことを話しましたね」

 

 その笑顔に、ナギサは息をひとつ落とす。

 

 よかった。

 

 それが本音だった。

 それだけで今日の疲れが少し軽くなるほどに。

 

 ナギサは穏やかに、いつもの調子に戻した声で言う。

 

「元気になったようで、よかったです」

 

 そして、少しだけ視線を逸らしながら続けた。

 

「黒夜さん、食欲はありますか? 一応、帰ってくる途中で人数分テイクアウトしてきましたから。食べられますか?」

 

 黒夜は少し驚いたように瞬きして、すぐに頭を下げる。

 

「ありがとうございます。いただきます」

 

 ミカもにこにこしながら言う。

 

「ナギちゃんありがとう! セイアちゃんもお疲れ~!」

 

 セイアは淡々と返した。

 

「君が機嫌良さそうで何よりだよ」

 

 四人はリビングへ向かう。

 廊下を歩く間、黒夜はふと気付く。

 自分は案内される側になっている。

 

 ここはナギサの個人所有の物件。

 本来なら招かれる側である自分が、当たり前のようにここで過ごしている。

 

 それは、ありがたい。

 ありがたいはずなのに。

 

 胸の奥に小さな棘が残っていた。

 

 食事は静かに進んだ。

 味はちゃんと美味しい。

 豪華で、優しくて、温かい。

 

 黒夜はミカと一緒に過ごしたせいか、今日は少しだけ肩の力を抜いて食べられた。

 

 食後。

 

 ゆったりとした時間が流れる。

 

 ナギサ、ミカ、セイアの三人は紅茶を、黒夜はミネラルウォーターを飲んでいた。

 

 窓の外で揺れる夜の灯り。

 

 黒夜は、心の中で静かに息を整えた。

 今日一日、ミカと過ごして決意が固まった。

 いや、覚悟が固まったと言うべきか。

 

 それは、三人に左目のことを伝えること。

 

 そして専属護衛を降りると申し出ること。

 

 黒夜は思った。

 

 この数日、自分は甘えすぎている。

 昼食も夕食も誰かが用意し、支払いもさせてもらえず。

 豪華なこの部屋も休むためだけに使っていいと言われる。

 

 その懐の深さ。

 その優しさ。

 

 自分は感謝している。

 だからこそ、これ以上迷惑をかけたくない。

 

 自分が護衛である以上、守れない体になったのなら辞めるべきだ。

 辞めることで、三人の負担を減らすべきだ。

 

(……恩を返すなら、それが筋だ)

 

 黒夜はグラスを置き、静かに言った。

 

「皆さん」

 

 三人の視線が揃う。

 ナギサが柔らかく微笑む。

 

「はい」

 

 ミカも身を乗り出す。

 

「なになに?」

 

 セイアは言葉を遮らないように、ただ目を細めた。

 

 黒夜は一度息を吐く。

 胸の奥が痛い。

 だが、ここで言わなければいつまでも言えない。

 

「少し……聞いてほしいことがあります」

 

 沈黙が落ちる。

 黒夜は自分の頭へ右手を持っていく。

 包帯に指をかけた。

 

 ほどく。

 少しずつ。

 

 白い布が解けていくたび、空気が冷たくなる。

 そして黒夜は、三人を見ながら言う。

 

「私のこの怪我のことで……」

 

 包帯が外れ、隠していたものが露わになる。

 

「皆さんには伏せていたのですが……この左目のことを隠すために巻いていました」

 

 左目に斜めに入った裂傷の痕。

 生々しい傷跡。

 皮膚の色がわずかに違う。

 

 失明していることは知っていた。

 だが、直接見るのは初めてだった。

 

 ナギサが息を止める。

 ミカの唇が震える。

 セイアの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。

 

 黒夜は淡々と続けた。

 

「もうこの左目は見えていません。治療も不可能だそうです」

 

 言葉が、重い。

 

「このことを……なかなか勇気が出ずに伝えられず、申し訳ありませんでした」

 

 三人は何も言えない。

 ただ黙ってその傷を見つめる。

 

 黒夜は、ここが本番だと自分に言い聞かせる。

 

 喉が詰まりそうになる。

 それでも、言う。

 

「そして……この左目では、どうしても左側に死角ができてしまい、今までのように満足に護衛ができないと思われます」

 

 黒夜は小さく頭を下げるようにして言った。

 

「……ですので、私の専属護衛を解いてください」

 

 その言葉が最後まで言い終わる前に。

 

 ミカが動いた。

 

 椅子を引く音。

 足音。

 そして抱きしめられる。

 

「やだ……!」

 

 ミカは泣きながら黒夜に抱きついた。

 

「そんな悲しいこと言わないで!」

 

 黒夜の胸に顔を埋めるように。

 

「黒夜じゃなきゃダメなの! 左目が見えないとか、そういうの関係ない!」

 

 黒夜は固まる。

 

 突然の体温。

 突然の涙。

 

 胸が締め付けられる。

 

「ミ、ミカ様……」

 

 震える声で言いかけた瞬間、今度はナギサも席を立つ。

 そして黒夜の肩へ、そっと手を置く。

 優しく、でも逃がさないように。

 

「ミカさんに、ほとんど言われてしまいましたが……」

 

 ナギサは微笑もうとする。

 だが笑顔が揺れている。

 

「私も同じ意見です」

 

 静かな断言。

 

「黒夜さんだから、専属護衛にしたのです」

 

 黒夜の目が揺れる。

 

 セイアも立ち上がり、黒夜の反対側へ回った。

 そして、いつもの調子で言おうとして声が少しだけ柔らかくなる。

 

「そうじゃないんだよ、黒夜」

 

 ミカの腕の中で、黒夜は震える息を吐く。

 

「ですが……このままでは……」

 

 黒夜は必死に言葉を探す。

 

「私は皆さんに迷惑を……」

 

 セイアが静かに遮った。

 

「君は、迷惑をかけていると思っている」

 

 黒夜は小さく頷く。

 

「はい……」

 

 セイアは続ける。

 

「でも私たちは、君が居なくなるほうが困るんだよ」

 

 その言葉に、黒夜の喉が詰まる。

 

 ナギサが言う。

 

「他の人ならいいわけではありません」

 

 少しだけ声が震える。

 

「黒夜さんでなければ、意味がないのです」

 

 黒夜は視線を落とす。

 涙が溜まっていく。

 

 自分は今、慰められている。

 支えられている。

 許されている。

 

 その事実が嬉しくて、苦しい。

 

(嬉しいのに……どうして苦しいんだ)

 

 黒夜はようやく声を絞り出した。

 

「……こんな私でも、いいんですか?」

 

 問いというより、確かめる言葉。

 ミカは顔を上げ、涙で濡れた目で頷く。

 

「うん……うん……」

 

 ナギサも迷いなく言った。

 

「黒夜さん以外に、考えられません」

 

 セイアも静かに告げる。

 

「君を手放す気は、毛頭ないよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 黒夜は堪えていた涙を落とした。

 

 ぽろり、と。

 

 頬を伝う温かいもの。

 恥ずかしくて、拭おうとする。

 だがミカが抱きしめる腕がそれを許さない。

 

 黒夜は震える声で言った。

 

「……ありがとうございます」

 

 言葉が詰まる。

 

「私は……いつも皆さんに救われてきました」

 

 それは、黒夜の本音だった。

 

 疑われた時。

 暴行を受けた時。

 スパイとして苦しんだ時。

 爆弾で死にかけた時。

 

 三人は、自分を救ってくれた。

 

 だから黒夜は思う。

 

 恩を返さなければならない。

 迷惑をかけてはいけない。

 負担を減らさなければならない。

 

 それが“筋”だ。

 

 黒夜は涙を拭き、言葉を続ける。

 

「だからこそ……これ以上、甘えるわけにはいかないと思ったんです」

 

 ミカの抱きしめる腕が強くなる。

 

「甘えていいよ……!」

 

 涙混じりの声。

 

「甘えてほしい……!」

 

 ナギサが静かに言う。

 

「黒夜さんは、いつも“返す”ことばかり考えています」

 

 目を伏せる。

 

「でも……私たちは、返してほしいのではありません」

 

 黒夜が顔を上げる。

 セイアが淡々と、けれど今夜は少しだけ正直に言った。

 

「君がいてくれることが、私たちにとっての答えなんだ」

 

 黒夜は言葉を失う。

 

 彼らは、自分の“恩返し”を求めていない。

 ただ“いてほしい”と言っている。

 

 ——それは、嬉しい。

 

 けれど黒夜の中では、別の怖さが生まれる。

 

(私が“いる”ことが、答え……?)

 

(私は、そんなに価値のある存在なのか)

 

(それに応えられなかったら……?)

 

 黒夜は小さく、弱い声で言った。

 

「……私が、皆さんの期待に応えられなくなったら……?」

 

 ミカが首を振る。

 

「期待とかじゃないよ……!」

 

 ナギサが静かに言う。

 

「“必要”なのです」

 

 その言葉が、黒夜の胸に落ちた。

 

 必要。

 

 守るべき人に言われる「必要」。

 

 それは温かい。

 そして重い。

 

 黒夜は、泣きながら笑ってしまう。

 

「……ずるいですね」

 

 ミカが目を潤ませたまま聞く。

 

「なにが?」

 

 黒夜は小さく息を吐く。

 

「そんなふうに言われたら……私は、断れません」

 

 それは本音だった。

 

 恩義がある。

 感謝がある。

 三人に救われた事実がある。

 

 自分の中の感謝の気持ちが、断ることを許さない。

 

 ナギサは微笑んだ。

 

「断らなくていいのです」

 

 セイアも淡々と頷く。

 

「そう。今は、ただ休んでくれればいい」

 

 ミカは涙を拭き、ぎこちなく笑う。

 

「ね? 黒夜、今はさ、ここで休もう。これからの事は明日考えよ」

 

 黒夜は頷いた。

 

「……そうですね」

 

 その日。

 

 黒夜は左目のことを伝えた。

 

 そのせいで護衛を解かれると思っていた。

 けれど現実は逆だった。

 

 三人は、黒夜を手放さなかった。

 むしろ、強く抱きしめた。

 

 黒夜はそれを感謝と幸せとして受け取った。

 

 自分が思っている以上に、

 自分は大事にされていた。

 

 だからこそ、胸が満たされる。

 

 暖かい。

 嬉しい。

 救われる。

 

 ――そして

 

 だからこそ、黒夜は気付けない。

 黒夜はまだ“優しさ”として抱きしめられていると信じていた。

 抱きしめる側が、もう“離したくない”と決めてしまっていることに。

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