ある日を境に、トリニティの空気が微かに変わった。
最初に気付くのは、鈍い者ではない。
いつも周囲の変化に敏感な者、噂に生きる者、立ち位置を読む者、そして権力の揺らぎに鼻が利く者たちだ。
ティーパーティーの三人が。
揃わなくなった。
必ず、三人のうち一人が欠けている。
ある日はナギサが不在。
ある日はミカが姿を見せない。
ある日はセイアだけが会議に居ない。
しかもそれが、偶然に見えない頻度で続く。
それを尋ねれば
「外交です」
あるいは、
「用事で外部に」
あるいは、
「大事な調整がありまして」
どれも笑顔で返される。
否定しようのない言葉。
追及しづらい理由。
そして、ティーパーティーらしい完璧な“理由”。
だからこそ、注目は集まる。
好む好まないに関わらず、視線が集まる。
誰もが思う。
(何かが起きている)
(何かを隠している)
(あるいは派閥が揺らいでいる)
その違和感の影に隠れて、もう一つの“不在”が埋め込まれていた。
月城黒夜。
ティーパーティー専属護衛。
あれほど目立つ立場の者が、ひっそりと姿を消した。
だが、不思議なことに。
それを“噂”として大きく広げる者は少なかった。
誰もが見ているはずなのに、誰もが言葉にしない。
それは三人が、そう仕向けていたからだ。
決して誰にも悟られないように。
静かに。
確実に。
黒夜の不在を“包む”ように、三人は振る舞った。
だが、そんな三人の思惑とは別に、すでに黒夜がトリニティに来ていないことを看破していた者が、二人いた。
蒼森ミネ。
そして、白洲アズサだった。
ミネは黒夜の定期健診を担当している。
いつも通りなら、週に一度、診察室へ顔を出す。
包帯の具合、左腕の回復、痛みの程度。
そして“隠された左目”の経過。
だが、ある日。
定期健診の日に、黒夜は現れなかった。
最初、ミネは深く考えなかった。
(体調でも崩したのかもしれない)
だが次の日になっても。
次の日になっても。
何日経っても、黒夜は来なかった。
診察室のスケジュールは空いたまま。
連絡もない。
流石におかしいと思い、ミネはモモトークで連絡を入れた。
「黒夜さん。定期健診の日程が過ぎています。体調は大丈夫ですか?」
返事は来ない。
二通目。
「無理をしていませんか? 返事がない場合、こちらから訪ねます」
返事は来ない。
三通目。
「返事をしてください。あなたの体の状態は、あなた一人の問題ではありません」
それでも、返事は来なかった。
ミネの疑念が確信に変わる。
黒夜がこんな不義理をするわけがない。
礼儀・誠実・気遣い。
それが月城黒夜という人物像だ。
そしてミネは、黒夜が不義理をしないように生きていることを知っている。
だから、これは不義理ではない。
何かが、起きている。
一方でアズサも、別の角度から同じ結論に辿り着いていた。
アズサは、サオリたちに頼まれてカルテを盗み見た。
そしてミネに怒られた日から、ずっと揺れていた。
黒夜に、謝るべきか。
知らないふりをするべきか。
謝れば、黒夜はきっと笑って許してしまう。
それが余計に苦しい。
知らないふりをすれば、黒夜を裏切る。
それも耐えられない。
迷い続けた末、アズサは決めた。
(謝ろう)
(ちゃんと、謝ろう)
そう決意して黒夜を探した。
だがどこを探しても黒夜が見つからない。
学園内の廊下。
執務室周辺。
訓練場。
食堂。
図書館。
今までなら、ふとした場所で見かけた。
誰かを守るように立っていた。
困ったように笑っていた。
なのに、居ない。
最初は気のせいだと思った。
忙しいだけだと思った。
今日は別の仕事があるのだろうと思った。
だが次の日も見つからない。
次の日も見つからない。
そんな日が何日も続き、アズサは途方に暮れる。
そんな時。
耳に入った噂があった。
「最近、ティーパーティーって三人揃わなくない?」
「誰かがいつも居ないよね?」
「あれって何かあったのかな?」
それを聞いた瞬間、アズサの背筋が冷えた。
(あの三人が、黒夜が居ない事に気付いてないはずがない!)
(なのに……)
(なんで、気にしていない顔をしてるんだ)
いや、違う。
“気にしていない顔”ではない。
“気にしているのに、していない顔”だ。
それが、ものすごく嫌な違和感だった。
何かを隠している。
そう直感した。
そして、その日の夕方。
ティーパーティーの執務室の前に。
それぞれの視点から黒夜の不在に気付いた二人が、偶然にも同じ場所に立っていた。
ミネとアズサ。
廊下の空気は静かだ。
扉の向こうからは、紅茶の香りすら漂ってきそうな落ち着いた気配。
ミネが先に口を開いた。
「アズサさん」
丁寧な呼び方。
だが、その声は普段より硬い。
「あなたも黒夜さんのことで、ティーパーティーにお話を聞きに来たのですか?」
アズサは短く頷く。
「そうだ、蒼森ミネ」
いつもの真面目な口調。
「私は黒夜に、あの事を謝ると決めた」
ミネは一瞬だけ目を細め、すぐに頷いた。
「そうですか。あなたがそう決めたなら、私は何も言いません」
そして淡々と続ける。
「ではお互いの目的は一致していますし、一緒に行きましょうか?」
「そうしてくれると助かる」
二人は扉の前に並び、ミネがノックする。
コン、コン。
中から柔らかな声が返る。
「どうぞ」
扉を開けると、執務室にはナギサとセイアがいた。
二人は優雅に紅茶を飲んでいた。
椅子に座る姿勢は美しく、表情は穏やか。
まるで“何も問題がない”世界の住人のようだった。
ナギサが二人に気付くと、にこやかに微笑む。
「どうかされましたか?」
セイアは軽く目を細め、面白がるように言った。
「珍しい組み合わせだね」
ミネは挨拶を省いた。
単刀直入に切り込む。
「単刀直入にお聞きしますが、黒夜さんが最近トリニティに来ていないことについて、ティーパーティーは把握していますか?」
その質問を受けた瞬間。
ナギサとセイアの目が、ほんの少しだけ細くなった。
笑顔は崩れない。
けれど、空気が変わる。
セイアが先に答える。
「ああ。把握しているよ」
一拍置いて、淡々と続けた。
「というより、私たちが保護している」
ミネとアズサが目を見開く。
ナギサがセイアに続くように言った。
「過労で倒れてしまったので、責任を持って黒夜さんにはしっかり療養してもらっています。
だからお二人も安心してください」
完璧な笑顔だった。
その言葉に、アズサはひとまず安堵した。
(黒夜は無事だった)
それだけで胸の重さが少しだけ軽くなる。
だがミネは違った。
目が鋭い。
「……どうして黒夜さんのことを隠すのですか?」
踏み込んだ質問。
ナギサは即答する。
「政治的な理由です」
さらりと、当然のように。
「今ここで、ティーパーティーの護衛の黒夜さんが倒れたと知られたら、よからぬことを考える方が出てきてしまうかもしれないからです」
ミネはさらに問う。
「黒夜さんと連絡が取れないのはなぜですか?」
ナギサは微笑んだまま答える。
「黒夜さんに、しっかり休んで疲れを取ってほしいからです。他意はありません」
完璧だ。
理由も整っている。
表面上は何ひとつ矛盾がない。
だがミネは、奥歯をギリっと噛みしめた。
完璧すぎる。
そして、もう一つ。
決定的な質問を投げる。
「わかりました。最後にお聞きしたいのですが……このことをゲヘナ側には伝えたのですか?」
ナギサは笑顔で答えた。
「えぇ、もちろんです」
その瞬間、ミネの胸に確信が落ちた。
(嘘だ)
何の根拠もない。
ミネは表情を崩さないまま、深く頭を下げた。
「そうですか。では失礼しました」
そしてアズサに目配せし、退出する。
廊下へ出た瞬間。
ミネの顔から、貼り付けた礼儀の笑みが消えた。
ミネは歩きながら、低い声で言った。
「……マズいことになったかもしれません」
アズサが息を呑む。
「え?」
「おそらくティーパーティーは、ゲヘナにこのことを伝えていない可能性が高いです」
アズサは目を丸くする。
「でも……さっき……」
ミネは首を横に振った。
「あれは恐らく嘘です」
淡々と断言する。
「最後まで笑顔の仮面を貼り付けていました。真実も言っていたでしょうが……全部を正直に話していたわけでもありません」
ミネは立ち止まり、短く息を吐く。
「もしこのことがゲヘナにバレたら、最悪の事態になるかもしれません」
アズサの顔が青ざめる。
「……それって……」
ミネは静かに言った。
「黒夜さんが望まない形で、争いが起きます」
そして、ほんの一瞬だけ視線を落とす。
「悲しむのは……黒夜さんです」
アズサは拳を握り、決意を込めて言った。
「私にできることがあったら協力させてくれ」
ミネは少しだけ頷く。
「そうですね」
視線が鋭くなる。
「もしかしたらサオリさんたちにも頼る事になるかもしれません」
そして結論を出すように言った。
「とりあえずは先生に、このことを伝えるしかないでしょう」
廊下の奥へ向かって歩き出す二人。
静かなトリニティの空気が、彼女等の足音が溶け込んでいく。
そして、ミネの危惧していた事は最悪にも当たっていた。
いや、それどころではない。
ゲヘナ側はすでに、黒夜と連絡が取れない件について水面下で動き始めていた。
ゲヘナ学園
万魔殿の会議室に流れている空気は、重く、張り詰めていた。
円卓の中央に置かれたランプが、淡く揺れる。
その光の中に、四人の姿があった。
マコト。
ヒナ。
カヨコ。
そしてハルナ。
誰も軽口を叩かない。
いつもなら、少なくとも一人は皮肉を飛ばすか、退屈そうに欠伸をしているはずだ。
だが今は違う。
沈黙が、答えの代わりに席に着いていた。
最初に口を開いたのはマコトだった。
「それで?」
低く、重い声。
「黒夜と連絡がつかなくなったというのは、本当のことなのか?」
視線がハルナに向けられる。
ハルナは背筋を伸ばしたまま、涼しい顔で答えた。
「えぇ」
ゆったりとした声音。
「わたくしは黒夜さんからの援軍の報酬として振る舞われるはずの手料理が、怪我のため先延ばしにされておりますので」
わずかに間を置く。
「毎日、怪我の状態を知るためにモモトークをしておりました」
マコトが眉をひそめる。
「毎日?」
「えぇ、毎日ですわ」
ハルナは優雅に頷く。
「ですが、ある日を境に一切の返事が返ってこなくなりました」
静かな宣告。
カヨコが腕を組み、椅子にもたれながらぼそりと口を挟む。
「毎日連絡されてウザがられたんじゃない?」
その言葉に、ハルナはゆっくりと視線を向けた。
そして、鼻で笑う。
「彼がその程度で不義理をするような方だと、本気で思っているんですか?」
空気が冷える。
カヨコは一瞬黙り、やがて小さく肩をすくめた。
「……まぁ、無いか」
視線を落とす。
「あいつがそんなことするわけないし」
ヒナが静かに言う。
「忙しいか、体調を崩したのかもしれないわ」
声音は冷静だが、その奥にははっきりとした心配がある。
マコトは顎に手を当て、考え込む。
「とりあえず、トリニティからは何の連絡もない」
言葉を選びながら続ける。
「もし黒夜に何かあれば、あの三人が我々に知らせないということは考えにくい」
短く、しかしはっきりと。
「黒夜のために我々と一緒にアリウスと戦った奴らだ」
疑いたくはない。
その一言に、重みがある。
カヨコもヒナも、無言で頷いた。
疑う理由はない。
疑いたくもない。
共に嘘を背負った者として
さらに言うなら、あの戦場で見た三人の姿を、覚えているからだ。
黒夜のために動き、
黒夜のために怒り、
黒夜のために戦場を共に駆けた。
あれが演技であるはずがない。
ハルナはカップを持ち上げ、紅茶を一口含んだ。
そして、ゆっくりと口を開く。
「わたくしも疑いたくはありません」
静かな声音。
「ですが」
カップを置く。
「わたくしが信じるのは、仲間と美食だけです」
その視線はまっすぐだった。
「もしティーパーティーの三人が裏切っていた場合」
わずかに微笑む。
「言い方は悪いですが……トリニティは悲惨なことになるでしょうね」
その顔には、かつて“美食”と称して豚の餌が提供された時のような、静かな怒りの気配が漂っていた。
それは冗談でも、誇張でもない。
美食研究会の部長としての格。
そして、仲間を侮辱された時の本気。
会議室の空気がさらに重くなる。
マコトが溜息を吐いた。
「わかった」
決断の声。
「こちらからトリニティに確認しておこう」
視線を三人に巡らせる。
「その返答を聞いてから判断する、ということでいいか?」
カヨコは短く答える。
「それでいいと思う」
ヒナも頷く。
「そうね。私も彼女たちを信じたいわ」
その言葉は、願いに近かった。
ハルナは立ち上がる。
「今は、ティーパーティーの三人を信じている貴方たちを信じましょう」
そして軽く頭を下げる。
「それでは皆様、ごきげんよう」
踵を返し、会議室を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
残された三人は、しばらく言葉を発さなかった。
マコトが椅子に深くもたれ、天井を仰ぐ。
「……頼むぞ」
誰に向けた言葉かは、わからない。
カヨコが小さく呟く。
「黒夜が、自分から連絡を絶つわけがない」
ヒナが目を閉じる。
「きっと理由があるのよ」
そして、ゆっくりと開く。
「彼は、誰かを守るためなら何でもする人だから」
その言葉に、三人は同時に思い至る。
黒夜は、黙って背負う。
黙って耐える。
黙って守る。
だからこそ、怖い。
マコトは拳を軽く握る。
「もし」
一瞬、声が低くなる。
「もし本当に何かあったなら――」
その先は言わなかった。
だが三人とも理解している。
黒夜を傷つけた者がいるなら。
ゲヘナは黙っていない。
それが例え、あの三人であったとしても。
ヒナが静かに言う。
「でも、まずは信じましょう」
カヨコが頷く。
「そうだね」
マコトも目を閉じ、短く息を吐く。
「あいつが守ろうとした場所だ」
それを否定したくない。
ティーパーティーを、否定したくない。
黒夜が守ろうとした関係を、壊したくない。
三人は心の奥で、同じことを祈っていた。
(我々を裏切っていないでくれ)
会議室の外では、夕闇がゆっくりと広がっていく。
トリニティとゲヘナ。
かつて刃を向け合った二校。
今はかろうじて保たれている均衡。
その中心にいるのは、月城黒夜という一人の少年。
彼がいなければ、均衡は崩れる。
彼が傷つけば、均衡は壊れる。
そして今。
その黒夜は、豪奢な部屋の中で“守られている”。
ゲヘナはまだ知らない。
信じている相手が、すでに一線を越えているかもしれないことを。
それでも三人は、最後まで信じたいと願った。
祈るように。
そして——
もしその祈りが裏切られた時。
ゲヘナは静かに、しかし確実に動く。
その時、笑っていられる者は誰もいない。