――ティーパーティー視点――
「黒夜さん」
ナギサは、
書類に視線を落としたまま、
静かにそう呼びかけた。
「今日は、いつにも増してだいぶ忙しかったでしょう?」
唐突な言葉だった。
黒夜は、訝しむような表情をするが、
すぐにいつもの無表情に戻る。
「いえ。通常業務の範囲です」
その返答に、ナギサは小さく息を吐いた。
「……いえ、今日は大変忙しかったですよ
だから、今日はもう上がってもらって大丈夫ですよ」
ミカとセイアが、
同時にナギサを見る。
黒夜は、ほんのわずかに迷った後、
静かに頭を下げた。
「承知しました
私如きに気を使ってくださり、ありがとうございます」
それだけ
黒夜はいつもそうなのだ。
不満も、疑問も、理由を問うこともない。
いつも通りの、完璧な対応。
黒夜は一礼し、会議室を後にした。
扉が閉まる音が、
やけに大きく響く。
――その瞬間
ミカが、耐えきれないように口を開いた。
「……ねえ」
沈黙を破る、
少し硬い声。
「今の、見たよね?」
セイアは、すでに椅子にもたれかかり、
腕を組んでいる。
「見ていたよ」
即答だった。
「いくら病弱な私でも見逃すはず無いじゃないか」
ナギサは、
紅茶に口をつけながら、
何も言わない。
だが、その沈黙が、
何よりも雄弁な答えだった。
「……あの表情は何?」
ミカの声は、
いつもの軽さを失っていた。
「人に信頼される立派な人、
って言いながらさ」
彼女は、
自分の口元を指でなぞる。
「一瞬だけ、すっごい苦しそうな顔、してた」
苦虫を噛み潰したような。
言葉にすれば、
それが一番近い。
「黒夜、絶対気づいてなかったよね」
「気づいてないだろうな」
セイアは、
淡々と断言する。
「だからこそ、余計に質が悪いのさ」
ナギサは、
ようやくカップを置いた。
「……あれは」
一呼吸置いてから、
言葉を選ぶ。
「嘘をついている人間の表情ではないと思います」
ミカが、少し驚いたように目を見開く。
「そうなの?」
「ええ」
ナギサは、きっぱりと言った。
「嘘なら、
もっと綺麗に取り繕う」
――彼は、そういうことができる。
それを、ナギサは誰よりも知っている。
「じゃあさ」
ミカが、声を落とす。
「本音?」
「……少なくとも、感情が漏れていたな」
セイアは、視線を天井に向けたまま言う。
「しかも、本人の自覚なしで」
それは、
つまり。
「……先生の話題が、黒夜にとって、
“ダメ”ってこと?」
ミカの問いに、
誰もすぐには答えなかった。
ナギサは、
ゆっくりと首を振る。
「断定はできないですね」
「でも」
セイアが続ける。
「少なくとも、
好意的な話題じゃない」
「そうだよね」
ミカは、
唇を噛んだ。
「黒夜、ああいう顔、
今まで一回も見せたことなかった」
いつも穏やかで、冷静で、
一線を越えない。
感情を表に出さないのが、
彼の常だった。
「……ねえ、ナギちゃん」
ミカが、
不安そうに声を落とす。
「黒夜、何か抱えてるんじゃない?
それも、私たちの誰にも言えない様な何かを…」
ナギサは、その問いに、
すぐには答えなかった。
答えられなかった。
なぜなら
それは、彼女自身が、
ずっと感じていたことだから。
「このトリニティで……抱えていない方が、不自然じゃないですか……」
静かな声。
「黒夜さんは“自分のこと”を、ほとんど話さない」
セイアが、思いつめた表情で付け加える。
「話さない、じゃなくて」
「話す必要がない、と思っているのだろうね」
ミカは、机に肘をつき、
顔を伏せた。
「……それ、嫌だな」
「ミカさん…」
「黒夜がさ」
声が、
少しだけ震える。
「自分は、道具だって思ってるみたいで」
その言葉に、
ナギサの指が、
ぴくりと動いた。
「……それは、看過できないですね」
ナギサは、
はっきりと言った。
「だからこそ」
視線を上げ、
二人を見る。
「これ以上、彼を傷付けさせない為にトリニティから出さない」
ミカが、
顔を上げる。
「囲うって事?」
「守ると言ってください」
ナギサの声は、
揺るがない。
「傷つく原因が、外部にあるのなら
外に行かない様に私たちで縛り付けるだけです」
セイアは、少し考えてから、
頷いた。
「……合理的だね」
「うーん、そうするしかないか☆」
ミカは、少しだけ笑った。
「黒夜は、私たちの専属なんだから
勝手に外に出ていくなんでダメだよね~!」
その言葉は、
冗談のようでいて、
本気だった。
三人は、
知らない。
その“守る”という選択が、
黒夜にとっては――
拘束に見えていることを。
ただ一つ、
確かなことがある。
あの一瞬の表情は、
偶然ではない。
そして、
見てしまった以上。
もう、
何もなかったことにはできない。
――先生視点――
アビドスの一件が一段落して、
シャーレにはようやく、
束の間の日常と呼べる時間が戻ってきていた。
山のような書類も、緊急対応も、
命がけの判断もない。
今日はただ、
淡々とした業務の日だ。
「……ふぅ」
先生は、椅子に深く腰を下ろし、
軽く伸びをした。
「静かだなぁ」
「そりゃそうでしょ」
向かいの机から、
気だるげな声が返ってくる。
鬼方カヨコ
便利屋68に所属している生徒で、
アビドスの件で知り合い、
今日は当番で、シャーレの業務補助に来てくれていた。
「嵐が去った直後なんだから」
「それもそうか」
二人は並んで書類を整理し、
端末にデータを打ち込み、
時折、どうでもいい会話を挟む。
穏やかで、取り留めのない時間。
――だからこそ、
先生は、
何気ない疑問を口にした。
「そういえばさ」
「なに?先生」
「キヴォトスの学校って、
ほとんど女子生徒ばっかりだよね」
カヨコは、
特に気にする様子もなく、
書類をめくる手を止めない。
「まあ、そうだね」
「男子生徒って、
ほとんど見かけないけど」
先生は、
少し笑いながら言った。
「もしいたらさ、僕と同性だし、
もうちょっと話が合ったのかなーって」
冗談半分。
軽い雑談のつもりだった。
「……いるよ」
カヨコの声は、
あまりにも自然だった。
「え?」
先生は、
思わず顔を上げる。
「男子生徒でしょ?
ちゃんと、いるよ」
その言い方に、
先生は少しだけ違和感を覚えた。
「へえー、居るんだ!」
「珍しいけどね」
カヨコは、
ようやく顔を上げた。
そして、ほんの少しだけ、
口元を緩める。
「……ゲヘナに、一人いるよ」
先生は、興味を引かれた。
「へえ。どういう子なの?」
カヨコは、
少しだけ間を置いてから、
その名前を口にした。
「月城黒夜」
その瞬間。
カヨコの声色が、
明確に変わった。
「ゲヘナ学園、情報部所属」
淡々とした説明のはずなのに。
その言葉の端々に、
隠しきれない温度が滲んでいる。
「ふふ……すごいんだよ、黒夜は」
先生は、
何も言わずに聞いていた。
「頭が良くて、仕事が早くて」
「なのに、全然偉ぶらなくてさ」
カヨコは、少し照れたように、
視線を逸らす。
「私たちが困ってると、
気づく前に手を差し伸べてくれる」
その表情は。
とても分かりやすかった。
――大切な宝物を、
誇らしげに語る顔。
「黒夜がいたから、
助かったこと、
何回もあったし」
「……へえ」
先生は、
素直に感心した。
「いい子だね」
「うん」
カヨコは、
はっきりと頷く。
「自慢だよ、私の自慢の後輩…」
その言葉に、
嘘はなかった。
先生は、ふとした好奇心から、
端末を操作した。
「ちょっと調べてみようかな」
「え?」
カヨコが、声を上げる前に。
先生は、シャーレのデータベースで、
名前を入力していた。
――月城 黒夜――
検索結果が、
すぐに表示される。
先生は、
画面を見て、
小さく首を傾げた。
「……あれ?」
「?」
「所属が、トリニティになってるけど」
その瞬間
カヨコの顔から、
血の気が引いた。
「……は?」
画面を覗き込み、
次の瞬間。
「……な、んで……?」
声が掠れる。
それは、驚きではなかった。
混乱でもない。
――絶望だった。
目を見開き、
唇を震わせ、
言葉を失う。
先生は、その異変に気づき、
慌てて口を開く。
「え、えっと……?」
だが、カヨコは答えない。
ただ
信じられないものを見たような目で、
画面を見つめたまま、
呆然と立ち尽くしていた。
「……そんな、わけ……」
かすれた声。
そして、
絶望の表情。
先生は、まだ何も知らない。