その日は朝から、少しだけ慌ただしかった。
いつもならスケジュールは淡々と進むはずなのに、今日は廊下の足音も、書類を束ねる音も、どこか速い。
ナギサとミカとセイア三人ともが同じ方向を向いて動いているのが、部屋の空気だけでわかった。
「黒夜さん、これ……お願いします」
ナギサが差し出したのは、議題の要点だけがまとめられた資料の束だった。
その表情はいつも通り上品で落ち着いているのに、指先の動きだけがやけに早い。
「承知しました。順番はこちらの案件が先でよろしいですか?」
「はい。あとこちらも。……今日の会議は、想定より長引く可能性がありますので」
長引く可能性という言葉に、黒夜は小さく頷きながらも心の中で首を傾げた。
会議が長引くのは珍しくない。だが、今朝の三人は“会議が長引く”こと自体を怖がっているようにも見える。
その理由は、黒夜にはわからない。
わからないまま、黒夜はただ自分にできることをした。
資料を整え、筆記具の予備を揃え、忘れ物がないかを確認して、三人が出発できる状態に整える。
準備が整い、玄関に向かう直前。
三人がそれぞれ、ほとんど同じタイミングで黒夜に言った。
「今日は長い会議になるかもしれません。黒夜さんは一人で留守番していてください」
ナギサが真っ直ぐな目でそう告げる。
「外は危ないから、今日は外に出ないで休んでてね」
ミカが、明るく言いながらも、その笑顔の奥に“お願い”ではない何かを混ぜる。
「恐らく夕方には戻るよ。何かあれば―いや、何もなくても、無理をしないでくれよ」
セイアはいつもの軽い調子を保ちながら、最後の言葉だけ少しだけ低くした。
黒夜は困ったように笑った。
「はい、わかりました。皆さんもお気をつけて」
三人が出ていく。
扉が閉じる音が響き、足音が遠ざかる。
――家の中が静かになった。
しんとした家の中で、黒夜はしばらく立ち尽くす。
つい先日まで、誰かが必ず視界のどこかにいた。
誰かが淹れた紅茶の匂いがあり、誰かの笑い声があった。
それが、今はない。
(……久しぶりの、一人)
少しだけ寂しい。
けれど同時に、胸の奥がふっと軽くなる。
“寂しさ”の裏に、ほんの少しの解放感が混じっていることに、黒夜は罪悪感を覚えた。
(いや、良くない。心配してくれているんだから)
自分に言い聞かせるように頷き、黒夜はリビングのソファに腰を下ろした。
今日は一人、時間だけはある。
昼過ぎまで、黒夜は読書をした。
窓から差し込む光が、頁の上に淡く落ちる。
ページをめくる音だけが部屋に響く。
穏やかだった。
だが、ふとした瞬間に、先日から胸のどこかに居座っていた“薄い違和感”が顔を出す。
(……外の空気を吸いたいな)
ほんの少しだけ。
ほんの少しでいい。
この家の中は安全で、温かくて、何も不満はない。
それでも、窓の向こうに見える世界が、今日だけは少し眩しく見えた。
黒夜は本を閉じ、膝の上で指を絡める。
(外は危ないから、出ないで……か)
ミカの言葉を思い出す。
ナギサの目を思い出す。
セイアの最後の声を思い出す。
それでも――。
夕方には戻ると言っていた。
それまでに帰ればバレない。
もしバレても、謝ればきっと優しい三人は許してくれる。
(少しだけ、散歩に出ようかな…)
黒夜は悩んだ末、立ち上がった。
まずは、必要最低限の支度をする。
左目の傷を隠すため、医療用の眼帯を付ける。
包帯をほどいて見せた日から、三人は何も言わなかったが、視線だけは何度も左目に寄っているのを感じていた。
なら、なおさら他人には見せない方がいいだろう。
次に、鍵。
黒夜は少し躊躇いながら、ナギサが使っている部屋へ向かった。
以前、ここに“念のための合鍵”があることを、黒夜は偶然知っていた。
使う予定はなかったが今日だけは、借りるしかない。
「……すみません、ナギサ様」
小さく謝りながら合鍵を手に取る。
胸がちくりと痛む。
靴を履き、玄関へ。
ドアノブに手をかける。
回す。
一瞬、引っかかった。
「……?」
黒夜は眉を寄せた。
立て付けが悪いのか、少しだけ抵抗がある。
だが次の瞬間、カチッと小さく鳴って、普通に開いた。
(気のせいか……?)
黒夜は深く考えず、外へ出た。
久々の外気が頬に触れる。
風は冷たくなく、むしろ心地よい。
空は高く、日差しは柔らかい。
変わらぬ日常が、そこにあった。
歩く。
ただ歩く。
目的はない、気分転換。ただそれだけ。
だが黒夜はふと我に返る。
(……トリニティ自治区を、欠席している私がうろつくのはまずい)
目立ってしまうし知り合いに会ったら余計な詮索を呼ぶかもしれない。
それに万が一、誰かがナギサたちに伝えたら。
三人が心配して、迷惑を掛けてしまう。
(なら、D.U.地区の方がいいかな?)
知り合いが少ない。
シャーレのある区域。
先生がいる場所という安心感はあるが、今日は先生に会うつもりもない。
黒夜はゆっくりと進路を変え、D.U.地区へ向かった。
しばらく歩いて、足に軽い疲れを感じた頃。
ちょうど良い公園が見えた。
小さな遊具と、整備された芝生。
ベンチがいくつか並び、子どもたちの声は聞こえない。
平日の昼間は、静かなものだ。
黒夜はベンチに腰掛けた。
座った瞬間、肩から力が抜ける。
胸いっぱいに空気を吸い込む。
(……久々の外は気持ちがいいな)
土の匂い。
木の匂い。
遠くの車の音。
目を閉じると、世界が広く感じる。
黒夜は一人で物思いにふけった。
ティーパーティの護衛になってからのこと。
ゲヘナでのこと。
アリウスでのこと。
自分はどこに立っているのか。
考えすぎだ、と笑いたくなるほど、考えることが増えた。
その時だった。
ベンチの隣が、きしりと僅かに沈む。
誰かが座った。
黒夜は反射的に警戒し、視線を向ける。
D.U.地区とはいえ、油断はできない――そう思ったのに。
そこにいたのは、太陽みたいな笑顔だった。
黒色の髪。
柔らかな雰囲気。
そして、まるで初めて会った人に向けるとは思えないほどの、まっすぐな“興味”。
その人はミレニアムサイエンススクール・ゲーム開発部の天童アリスだった。
黒夜は内心で驚く。
(この制服はミレニアム……?)
彼女は黒夜の顔を見て、嬉しそうに目を輝かせた。
「こんにちは!」
澄んだ声が、公園の静けさを一気に明るくする。
そしてアリスは、まるで当然のように黒夜に話しかけてきた。
「その眼帯……! かっこいいです! もしかして、勇者ですか?」
――こうして、黒夜の穏やかな午後は、思いがけない出会いによって形を変え始めた。
太陽みたいな笑顔でそう言われて、黒夜は一瞬、言葉に詰まった。
眼帯が「かっこいい」と褒められたのも、勇者扱いされたのも、どちらも想定外だ。
だが、挨拶されて話しかけられている以上、黙り込むのは失礼だろう。
黒夜は咳払いをひとつして、なるべく柔らかい声を作った。
「こんにちは、ミレニアムのお嬢さん。……私は勇者ではないですね。どちらかと言うと――護衛ですかね?」
「護衛!」
アリスの目がぱっと輝く。
何かのスイッチが入ったみたいに、背筋までぴんと伸びた。
「ということはタンクですね!? タンクはパーティの要ですよ! 勇者が倒れないのはタンクがいるからです!」
「……タンク、ですか」
黒夜は戸惑いながらも、アリスの勢いに押されて相槌を打つ。
“タンク”という単語の意味はなんとなくわかる。ゲーム用語だ。
ミレニアムの生徒が言うなら、おそらく正しい。
アリスは勝手に納得したように頷き、ベンチの上で小さく拳を握った。
「やはり、重要キャラクター! アリスの読みは当たりました!」
「……読み?」
黒夜が聞き返すと、アリスは胸を張る。
「そうです! この時間帯で無人の公園に一人で、眼帯をして、左腕に包帯を巻いている人物が座ってなにか考え込んでいる。絶対に重要キャラクターで決まりです!」
言い切った。
「ここで何かしらクエストを受けておけば仲間になると、アリスは読みました!」
あまりに堂々としていて、黒夜は思わず自分の姿を客観視してしまう。
眼帯、包帯、人気のない公園、午後の静けさ。
確かに物語の“導入”に出てくる人物みたいではある。
(……重要キャラクター、か)
黒夜は小さく息を吐いて、苦笑を隠した。
「ところで……どうして私に話しかけてきたんですか?」
単純な疑問だった。
ここはD.U.地区、しかも人が少ない公園。
初対面の相手にこれだけ距離を詰めてくるのは、黒夜の感覚では珍しい。
だがアリスは、まるで当然のことのように言う。
「アリスが勇者だからです!」
「……勇者だから?」
「はい。困っている人に話しかけるのは勇者の仕事です! それに……」
アリスは黒夜の顔を覗き込むように見た。
眼帯の奥ではなく、見えている右目の方を真っ直ぐに。
「隻眼の人は、だいたい過去に何かあります。アリスは経験で知っています」
「経験……?」
「ゲームの経験です!」
えへん、と得意げに言われて、黒夜はとうとう笑いそうになるのをこらえた。
いや、笑っていい。こういうのは。
アリスはさらに畳み掛ける。
「なにか困っていることはありますか? 勇者アリスが解決して見せますよ!」
黒夜は一瞬、言葉に詰まった。
困っていること。
ある。誰にも言っていない悩みが…
だが、誰かに言ったところでどうなるものでもない。
ナギサたち三人には言いにくい。ゲヘナの仲間にも言いにくい。先生には――近すぎるから、むしろ言えない。
しかし相手は初対面で、恐らくもう二度と会わないかもしれない。
何より、彼女の目は澄んでいて、嘘が混じる余地がなかった。
(……ぼかせば、いいか)
黒夜はアリスの流儀に乗ることにした。
“クエスト”として語るなら、少なくとも胸の奥に溜めてきたものを、少しは吐き出せる。
黒夜は一度息を吐き、静かに頭を下げた。
「それでは、勇者アリスさん。少し、私の悩みを聞いてください」
「はい!」
アリスは即答し、背筋を伸ばして座り直した。
まるで“会話イベント開始”の姿勢だ。
「私は……故郷である人の命令で、故郷とは敵国の“三人のお姫様”の護衛として働くことになりました」
「三人のお姫様……!」
アリスが小声で復唱し、目をさらに輝かせる。
黒夜は苦笑しつつ続けた。
「最初は、ただの任務だと思っていました。義務感と役目を全うするためだけに護衛をしていたんです」
――ゲヘナのスパイとしてトリニティに潜入していた自分。
“疑われるのは当然”だと思いながら、笑って誤魔化し続けた日々。
「けれどある時、私が敵国出身だとバレてしまって……迫害されました」
脳裏に浮かぶのは、あの時の痛みではない。
痛みの中で見えた、三人の顔だ。
怒りでも嫌悪でもなく焦りと、悔しさと、そして守ろうとする意志。
「ですが、優しい“三人のお姫様”は……私の身の潔白を証明するために、故郷の仲間と協力して、私を救ってくれたんです」
アリスが、ぱちぱちと瞬きをしている。
聞き入っている証拠だ。
「そうして……一緒に過ごしているうちに、私は本当に、その三人のお姫様を心から守りたくなってしまいました」
黒夜はそこで一度言葉を切った。
喉が少し痛んだ。
言葉にするだけで、自分の気持ちが“形”になってしまうから。
守りたい。
守りたいと願うことが、自分を形作る。
それでも、口にせずにはいられなかった。
「でも……故郷の仲間たちのことも同じくらい大事で、大切に思っているんです。だから私は、どちらを選べばいいか……悩んでいます」
黒夜が言い終えた瞬間、アリスは一拍置いてから、はっきりと宣言した。
「どちらも守ればいいのです!」
黒夜は思わず黙った。
あまりにも、まっすぐな答え。
小細工も、条件も、妥協もない。
ただ、最初から“答え”だけがそこにある。
アリスはさらに続ける。熱が上がっていくのがわかる。
「勇者は全部守るものです!」
「全部……?」
「はい! 勇者には、町も仲間も居ます! どちらも大事なら、どちらも守るのです!」
黒夜は、息を呑んだ。
それは、理屈ではない。
現実的にどうか、などという話ではない。
でも心が軽くなるのを感じる。
黒夜は小さく笑って、肩をすくめた。
「……私は勇者じゃないですけどね。ただの護衛…」
するとアリスは、少しも怯まずに言い返した。
「出来ます!」
断言。
「タンクも複数人守るので、絶対に出来ます! そういうものなのです!」
「そういうものなの……?」
「そうです!」
言葉が、すとんと胸に落ちた。
黒夜は気付いてしまう。
自分は“選ばなければいけない”と思い込んでいた。
どちらかを選べば、もう一方を捨てることになる。
だから苦しかった。
だが、捨てる前提が間違っていたのだとしたら?
黒夜の口元に、自然と笑みが浮かんだ。
久しぶりに、自分の中の結び目がほどける感覚がある。
「……そうだね。君の言う通りだと思うよ」
「おっ!」
アリスが身を乗り出す。
「これはクエストクリアーですか!?」
「うん。おかげで、随分ちっぽけなことに悩んでいたって気付いた」
黒夜は笑顔で、心からの言葉を乗せる。
「ありがとう。勇者アリスさん」
「パンパカパーン!」
アリスは両手を広げ、勝手に効果音まで付けた。
「アリスは無事に新しくタンクを仲間にしました!」
「……いや、仲間にされるのか」
「はい!」
即答。
黒夜は思わず、少しふざけた口調になる。
「私を仲間にするには……少しレベルが足りないかな?」
「えーっ!?」
アリスが膨れた。
「アリスはレベル上げ中です! でも、絶対に追いつきます!」
「それは頼もしい」
黒夜が笑うと、アリスも嬉しそうに笑う。
その笑顔は本当に眩しくて、黒夜は一瞬だけ“痛み”を忘れた。
自分が失ったものではなく、今ここにあるものだけを見ていられた。
公園の時計が目に入る。
思ったより時間が過ぎていた。
夕方までに帰るつもりだった。
三人が戻った時に家が空だったら想像するだけで胸が痛い。
「……そろそろ戻らないと」
黒夜が立ち上がると、アリスも慌てて立ち上がった。
「アリスも当番の休憩時間がそろそろ終わってしまいます!」
「そうか。じゃあ、ここでお別れだね」
「はい!」
名残惜しそうに頷きながらも、アリスはすぐに切り替えた。
勇者は忙しいのだろう。
黒夜が背を向け、歩き出そうとしたその時。
背中から声が飛んでくる。
「そういえば名前を聞いていませんでした!」
黒夜は足を止める。
少しだけ考えて――そして、ゲームのキャラクターみたいに大げさに振り返った。
「次に会えた時に名乗らせてもらうよ!」
右手を胸に当て、少し芝居がかった調子で言う。
「それまでは“隻眼のタンク”と呼んでください」
「わかりました!」
アリスは元気よく頷く。
「それでは隻眼のタンク! また会いましょう!」
「ええ。必ずまた会いましょう」
黒夜は目を細める。
「小さな勇者さん」
アリスが、えへへと笑った。
その笑顔を背に、黒夜は帰路につく。
胸の奥が、少しだけ軽かった。
悩みが消えたわけではない。現実が変わったわけでもない。
それでも“答えの形”だけは、手に入った気がした。
(どちらも守ればいい……か)
単純で、無茶で、でも自分が一番聞きたかった言葉。
黒夜は歩きながら、ふと自分の眼帯に指を当てた。
白い布の感触が、指先に残る。
(……いつか、ちゃんと名乗れる日が来るといいな)
そして、足を速める。
夕方までに戻れるなと思いながら歩を進めた。
その頃――トリニティでは、会議を終えた三人が、急ぎ足で戻り始めていた。
会議は予定よりも早く終わった。
正確には予定通り進めば夕方までかかるはずの議題が、思いのほか早くまとまったのだ。
珍しいことだった。
議事の締めを確認したナギサは、静かに立ち上がった。
「本日の議題は以上ですね」
穏やかな声。
いつもと変わらない優雅な立ち振る舞い。
だが、その隣でミカがすぐに言った。
「じゃあもう帰ろっか」
やけに早い。
セイアが一瞬だけ二人を見て、肩をすくめた。
「君たち、同じことを考えている顔だね」
ナギサは微笑む。
「何のことです?」
「別に誤魔化さなくてもいいよ」
セイアは軽く笑った。
「私も同じだからね」
三人とも、頭の中に浮かんでいるのは同じ人物だった。
黒夜
今日は一人で留守番させている。
だが最近の三人は、自分でも気付かないほど黒夜の様子を気にしていた。
倒れてしまったこと。
左目のこと。
そして何より、彼が無理をする性格だということ。
会議が終わると同時に、三人の足は自然と家へ向いていた。
誰も口に出さない。
それでも、歩く速度が少しだけ速い。
玄関の前で、ナギサが鍵を取り出す。
普段なら黒夜が迎えてくれることもあるが、今日は一人で休ませている。
扉を開ける。
いやに静かだった。
「ただいま戻りました」
ナギサが声をかける。
返事はない。
ミカが続けて呼ぶ。
「黒夜ー?」
やはり返事はない。
家の中は、しんとしていた。
セイアの目が細くなる。
「……」
ナギサは靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
部屋は整っている。
読んでいたらしい本がテーブルの上に置かれている。
だが――。
「……居ない…」
ナギサが静かに言った。
ミカがぱちぱちと瞬きをする。
「え?」
セイアは一瞬だけ考え、そしてすぐに結論に辿り着いた。
「……外に出たのか?」
その言葉が落ちた瞬間。
ミカの顔から血の気が引いた。
「え……?」
もう一度、同じ言葉が漏れる。
「え……?」
次の瞬間。
「黒夜!?」
ミカが部屋の奥へ走る。
「黒夜ー!?」
トイレ
客室
お風呂場
どこにもいない。
戻ってきたミカの目が揺れている。
「どこ行ったの……?」
ナギサはその場から動かなかった。
ただ、静かに部屋を見渡す。
ベッド。
テーブル。
窓。
そして、改めて玄関を注意深く見ると靴が無い。
ナギサの指先が、ほんの僅かに震えた。
(どうして?)
頭の中に、いくつもの可能性が浮かぶ。
散歩、気分転換
それだけかもしれない。
だが同時に、別の想像も浮かぶ。
――もう戻ってこない。
――誰かに会う。
――消える。
ナギサはゆっくりと息を吐いた。
「……待ちます」
声は落ち着いていた。
ミカが顔を上げる。
「私は探してくる!」
涙声。
「トリニティ中でもなんでも探す!」
セイアがそれを止める。
「落ち着け」
「でも!」
「黒夜は怪我人だ。遠くには行けない」
理性的な言葉だった。
それでも、セイア自身の声も少し硬い。
ナギサが言う。
「……帰ってきます」
静かな声。
ミカが不安そうに見る。
ナギサは微笑んだ。
「黒夜さんは、必ず帰ってきます」
その言葉は、願いでもあり、断言でもあった。
黒夜が外出していると分かった後。
三人は家で黒夜の帰りを待っていた。
ミカは落ち着かない様子で部屋をうろうろしており。
ナギサは冷静に状況整理して、セイアは外の情報を確認していた。
ただ重苦しい沈黙が部屋を支配していた。
突然ミカが言う。
「ねぇ」
誰も答えない。
「もしさ」
声が震える。
「黒夜がこのまま帰ってこなかったらどうする?」
空気が止まる。
セイアが視線を向ける。
ナギサは何も言わない。
「ゲヘナに戻って」
「もうトリニティに来ないって言ったら…」
ミカの声が崩れる。
「どうすればいい……?」
そのミカの問いに答えられる者はいない。
そしてミカが言ってしまう。
「……私、それ嫌だな…」
涙が出る。
「絶対嫌だ…」
さらに続く。
「だってやっとさ」
「やっと普通に笑うようになったのに」
「また居なくなったら」
ミカはそこで言葉を飲み込む。
そして小さく言う。
「私、耐えられないよ…」
ナギサは静かに口を開く。
「大丈夫です」
ミカが顔を上げる。
「帰ってきます」
「帰って来なければ」
「迎えに行きます」
セイアはそんな二人を見て冷静な口調で諫める。
「まずは二人とも落ち着くんだ」
でも心の中では理解している。
ミカの言っていることが本音だと。
(……そうだな、私も同じだ)
(帰って来なかったら迎えに行くさ…どこへだって…)
その時だった。
玄関のドアが、かすかに開く音がした。
三人が同時に振り向く。
扉が開く。
そこに立っていたのは黒夜だった。
外の空気を纏ったまま、少し驚いた顔で三人を見ている。
「……あ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、ミカが走った。
「黒夜!」
勢いよく抱きつく。
「どこに行ってたの!?」
「え、あ……」
黒夜が戸惑う。
「少し気分転換に散歩を……」
ミカはそれ以上何も言わず、ただ強く抱きついた。
腕が震えている。
セイアがため息をつく。
「……驚かせないでくれ」
ナギサは微笑んだ。
「どうして外に行ったんですか?」
声は穏やかだった。
黒夜は少し気まずそうに頭を掻く。
「すみません。少しだけ気分転換をしたくて散歩に出かけてしまいました」
「外は危ないと言っただろう」
セイアが軽く言う。
「申し訳ありません」
黒夜は素直に頭を下げた。
「とりあえず早く上がってください」
黒夜はその言葉を聞きながら、靴を脱いだ。
そうして今日あった事を思い返していた。
バレずに帰ることは出来なかったが、三人は許してくれたみたいだ。
今日の散歩は思ったよりも良い気分転換になった。
小さな勇者にも会えた。
少しだけ、心が軽くなった気がする。
……帰る場所があるというのは、やっぱり良いものだな。
「心配を掛けましたが、ただいま戻りました」
ナギサが静かに言う。
「おかえりなさい、黒夜さん」