黒夜の左目の事情を知ってしまった日から、先生の脳裏には、ずっとそのことが引っ掛かっていた。
シャーレのオフィス
机の上には書類が積まれ、端末には未処理の通知が並ぶ。
いつも通りの仕事は山ほどあるのに、思考の端だけがどうしても同じ場所に戻ってしまう。
(……失明か)
言葉にすると、胸の奥が重くなる。
黒夜は平然としていた。いや、平然を装っていたのだろうか?
誰にも言わず、誰にも頼らず、そして――笑っていた。
先生はペンを置き、指先で眉間を軽く押さえた。
目の前の書類に集中しようとするほど、逆に思い出してしまう。
黒夜なら大丈夫と、簡単に言ってはいけない気がした。
彼は大丈夫そうに見えるだけで、大丈夫ではない。
それを先生は、もう何度も見てきた。
「先生」
ふいに声がした。
顔を上げると、そこには当番で来ていたアリスがいた。
ミレニアムのゲーム開発部、天童アリス。
今日も元気に、机の端をちょこんと占領している。
書類の整理を手伝ってくれている……というより、楽しそうに“クエスト”扱いで処理している、という方が近い。
アリスはじっと先生を見て、首をかしげた。
「先生、何か難しい顔をしてますが……何か悩み事ですか?」
真っ直ぐな目。
隠し事が苦手な相手に、真正面から刺されると地味に効く。
「いや、なんでもないよ。大丈夫」
先生は笑って誤魔化した。
「ありがとう、アリス」
「む……」
アリスは納得したような、していないような顔をしたが、すぐに姿勢を正した。
「了解です! 先生が大丈夫と言うなら、アリスは信じます!」
その言い方があまりに勇者っぽくて、先生はほんの少しだけ肩の力が抜けた。
アリスはそういう子だ。
難しいことを難しいままにせず、時々、世界を単純にしてくれる。
「では、次の書類クエストに進みましょう!」
「そうだね」
先生は笑顔を浮かべながら、書類の束をひとつ手に取った。
名前。日付。確認印。
それらを一つずつ片付けていく。
平和だ。
少なくとも、この部屋の空気だけは。
――その平和が、唐突に破られた。
オフィスのドアが、ノックもなく開いた。
「失礼します」
入ってきたのは二人。
救護騎士団団長、蒼森ミネ。
そして、トリニティ生の白洲アズサ。
二人とも、表情が真剣だった。
いや、真剣というより切迫している。
「あれ?」
先生は椅子から少し身を乗り出した。
「今日、何か会う約束とかしてたっけ?」
「いいえ」
ミネが即答する。
言葉は丁寧だが、余裕がない。
「先生に、緊急でお伝えしたいことがありまして」
アズサも小さく頷いた。
「……その通りだ。大急ぎで話をしたい」
その空気を察したアリスが、目を輝かせる。
「おぉ~! 何やら重大クエストが始まりそうですね!」
元気な声。
だが、この場に漂った緊張感と噛み合っていない。
ミネとアズサは先生に視線を送った。
“この子は外してほしい”という、言葉にしないお願いだった。
先生は小さく息を吐いて、アリスに向き直る。
「アリス、ずっと作業してて疲れただろう? ここで少し休憩にしようか」
「む?」
アリスは一瞬、名残惜しそうに眉を下げた。
だがすぐにぱっと顔を上げる。
「了解です! 休息も勇者の大事な行動です!」
そして、妙に気合いの入ったポーズを取った。
「気を取り直して……それでは少し外に冒険に行ってきます!」
「うん、行ってらっしゃい」
先生が言うと、アリスは元気よく頷いて、ぱたぱたとオフィスを出ていった。
ドアが閉じる。
賑やかだったアリスが居なくなったことで途端に静かになった。
さっきまでの平和な日常が、ほんの一枚の紙みたいに剥がれていく感覚。
部屋の空気が少し冷える。
先生はミネとアズサに向き直り、立ち上がった。
「ここじゃなんだから、会議室に行こう」
ミネは短く頷いた。
「助かります」
アズサも視線を落とし、小さく息を吐く。
先生は二人を連れて会議室へ向かう。
廊下を歩く間、ミネは一言も余計なことを言わなかった。
アズサも同じだった。
その沈黙が、先生の中の不安を膨らませる。
(……緊急で、伝えたいこと)
それはきっと、軽い話じゃない。
そして先生は、なぜか脳裏に黒夜の顔が浮かんでしまう。
顔に巻かれた白い包帯。
困った時に笑って誤魔化す癖。
「大丈夫です」と言いながら、どこか遠い目をする横顔。
会議室のドアの前で、先生は足を止めた。
「……それで、話って何かな?」
ミネが先生を見る。
アズサも、覚悟を決めたように目を上げる。
ミネの声が、静かに落ちた。
「先生。黒夜さんの事で伝えたいことがあります」
先生の背筋に、嫌な予感が走った。
会議室の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
先生は椅子に腰掛けたまま、ミネとアズサの顔を見ていた。
さっきまでのオフィスの時間が、まるで嘘みたいに遠い。
ミネが、淡々と事実を伝える調子で言った。
「黒夜さんが、トリニティから姿を消しました」
その一言が、先生の中で反響した。
(……消えた?)
咄嗟に意味を理解できず、頭の中が白くなる。
声が出ない。
瞬きの仕方さえ忘れそうになる。
「え……?」
先生がようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど掠れていた。
ミネは少しも表情を変えず、続ける。
「いえ。正確にはティーパーティーの三人に監禁されている可能性がある、と言った方が正しいですね」
「……監禁?」
先生はぎこちなく笑った。
笑いながら、否定する理由を探した。
「え、監禁!? ナギサたちが? 嘘だろ……?」
そんなわけがないと言い切りたかった。
ティーパーティーはトリニティの象徴で、政治の中心で、そして基本的にみんないい子だ。
少なくとも、先生の知る限りは。
だが、ミネとアズサは真剣な表情を崩さなかった。
冗談でも、飛躍した妄想でもない。
それが二人の目から伝わってくる。
先生は笑みを消し、姿勢を正した。
「……どうしてそう思ったのか、詳しく聞かせてくれないかな」
ミネが頷く。
アズサも小さく息を吐き、言葉を補う準備をする。
「ある日を境に、黒夜さんがトリニティに登校しなくなりました」
ミネの声は静かだった。
淡々としているのに、内容は重い。
「それと同時期に、ティーパーティーの三人が揃わなくなった。必ず誰かが欠けるようになりました」
先生の眉が寄る。
「……揃わなくなった?」
「はい。理由を聞いても“外交”“用事”と笑顔で返されます。ですが、それが毎日となれば不自然です」
ミネはそこで一拍置いた。
「そして私は、黒夜さんの定期健診を担当しています。定期健診の日に黒夜さんが現れなかった。連絡も取れなかった」
先生は喉が鳴るのを感じた。
(連絡が取れない……?)
黒夜が。
あの黒夜が。
「それで私は、ティーパーティーの執務室へ赴きました。アズサさんも同席していました」
ミネは続けた。
言葉を選ぶ余裕がないように、要点だけをまっすぐ並べる。
「ナギサ様とセイア様に問いただしたところ、こう言われました。――黒夜さんは過労で倒れた。責任を持って療養させている、と」
先生は思わず言ってしまう。
「……それ、普通に看病してるだけじゃないの?」
言いながら、先生自身も“弱い”反論だとわかっていた。
でも、そうであってほしいと願う願望だったのかもしれない。
アズサが、肩を落として答える。
「もう一週間以上、来てないんだ……」
その声は硬く、悔しさが混じっていた。
アズサの数字は誤魔化しじゃない。彼女は事実を積むタイプだ。
ミネも続ける。
「私の予想通りなら、私だけではなく恐らく黒夜さんの関係者全員が一切の連絡が繋がらないはずです」
その言葉が、先生の背中を冷たく撫でた。
「普段の黒夜さんなら絶対にありえません。嘘だと思うなら、今ここで連絡してみてください」
ミネの視線が先生に刺さる。
言い逃れを許さない視線だ。
先生は、ゆっくりとスマホを取り出した。
(……頼む)
心の中で祈りながら、黒夜の連絡先を開く。
通話。
発信。
呼び出し音。
繋がらない。
もう一度。
繋がらない。
留守番電話にも行かない。
ただ、無機質な音だけが続く。
先生の手のひらに、嫌な汗が滲んだ。
背中を冷たいものが流れる。
(なんだこれ……)
先生は通話を切り、スマホを握り直した。
「……繋がらなかった」
言葉にした瞬間、現実が固定される。
“嫌な予感”が“事実”に変わる。
ミネが小さく頷く。
「そうでしょうね…」
アズサは唇を噛んで、視線を落とした。
「黒夜が、こんなことするわけない……」
先生は深く息を吸った。
感情で動けば壊れる。
今は整理しなければいけない。
「つまり……黒夜を救いたいってことだよね?」
先生の言葉に、ミネは首を横に振った。
「それより前に、やらなければならないことがあります」
先生の胸が嫌な方向に沈む。
「……何?」
ミネははっきり言った。
「ゲヘナに“黒夜さんが監禁されているかもしれない”という事実を、正しく伝えることです」
先生は一瞬息を止めた。
(ゲヘナ……)
あの結束。
あの速度。
仲間が傷ついたと知った瞬間、迷いなく動くあの空気。
しかも黒夜は、ゲヘナにとって“ただの生徒”ではない。
皆の信頼の中心にいる生徒だ。
ミネがさらに言う。
「ナギサ様は“伝えた”と言っていました。ですが、私はあの言葉を嘘だと思っています」
アズサも顔を青ざめさせ、震える声で続けた。
「もし、このことをゲヘナに伝えずに……ゲヘナ側が先に気付いたら」
先生はその続きを、聞く前から理解してしまった。
確認では済まない。
話し合いだけで終わらない。
最悪のケースは衝突だ。
アズサが先生を見た。
「先生も……あの時のこと、覚えてるだろう?」
先生は答えられなかった。
答えなくても伝わる。
“仲間が死にかけた”という一言で、ゲヘナは集まる。
そして、一度敵と認定されたら滅ぼすまで彼女たちは止まらない。
先生は震える声で言った。
「……わかった」
喉が乾いていた。
「二人が危惧していることは分かった。とりあえず、ゲヘナ側に連絡を入れよう」
先生はスマホの画面を操作しようとした。
その瞬間だった。
会議室の扉が、ノックもなく開いた。
「先生ー! 勇者アリスが冒険から帰還しました!」
元気な声。
アリスだった。
さっきまでの空気を切り裂くように、明るさが入り込む。
先生の指が止まる。
ミネとアズサの視線が一瞬だけ動く。
アリスは三人の顔を見回し、ぱちぱちと瞬きをした。
「……あれ? なんだか、みんな難しい顔してますね」
そして、少しだけ首を傾げた。
「もしかして……クエスト、失敗しましたか?」
会議室の空気を切り裂くような、心配そうな声だった。
扉の前に立っているアリスは、三人の重たい空気に気付いたらしく、少し眉を下げてこちらを見ている。
だが、その純粋な表情はこの場の緊張感とはあまりにも対照的だった。
先生は一瞬だけミネとアズサの方を見た。
二人とも、アリスの存在をどう扱うか判断しかねている顔だった。
そして先生は、すぐにいつもの柔らかい笑顔を作った。
「いや、大丈夫だよアリス」
なるべく軽い声を出す。
「そういえば随分ご機嫌だったけど、冒険中に何か良いことでもあったのかい?」
話題を変える。
完全に誤魔化しだった。
だがアリスは、その言葉を待っていたかのように目を輝かせた。
「はい!」
ぱっと顔が明るくなる。
「新しい仲間を勧誘していました!」
会議室の空気がほんの少しだけ緩んだ。
先生は笑顔でアリスの話を聞く。
「へぇ、勧誘?」
「はい! ただアリスのレベルが足りず、最終的には断られてしまいましたが……」
しかし次の瞬間、アリスはまた元気に胸を張った。
「でも! また会う約束をしました!」
まるで本当にゲームのイベントでも起きたかのような口ぶりだ。
先生は少し興味を持った。
「へぇ。どんな人だったんだい?」
その質問に、アリスは少しだけ考えるように視線を上に向けた。
「えーと……名前はまだわかりません」
「うん」
「でも“彼は隻眼のタンク”と呼んでくれと言っていました!」
その瞬間だった。
会議室の空気が、凍りついた。
先生の指がぴたりと止まる。
ミネの瞳が鋭く細まり、アズサが目を見開いた。
――隻眼
その単語が、三人の頭の中で同時に結びついた。
先生がゆっくりと聞く。
「……アリス。その人、どういう見た目だった?」
声が少し低くなっている。
アリスは特に気にする様子もなく、元気に答えた。
「えーとですね」
指を折りながら説明する。
「左目に眼帯を付けていて」
先生の背筋がぞくりとした。
「左腕にも包帯を巻いていました!」
その瞬間。
ミネとアズサが同時に動いた。
「その人はどこにいましたか!?」
ミネの声は、普段の落ち着いたものとは違っていた。
アリスは驚いたように瞬きをする。
「え? ちょっと行ったところの公園のベンチに座っていましたよ?」
先生の頭の中で、点と点が繋がった。
(……黒夜だ)
間違いない。
隻眼。
左腕の包帯。
そして、左目の眼帯。
それは黒夜以外に考えられない。
だが先生は慌てている二人を手で制した。
「落ち着いて」
そしてアリスに向き直る。
「その人と、どんな話をしたんだい?」
アリスは待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。
「はい! 実はですね!」
嬉しそうだ。
「何か悩んでいる様子だったので、勇者のアリスはさっそく悩みを解決するべく話を聞いてみました!」
アリスは胸を張る。
まるで誇らしいクエスト報告だ。
「そうすると“隻眼のタンク”が語ったのは敵国の三人のお姫様と、故郷の仲間たちの話でした!」
先生の胸が小さく鳴る。
ミネもアズサも、黙って聞いている。
「彼は、そのどちらも同じくらい大事な存在なんだそうです」
アリスは真剣な顔になった。
「だから、どちらを選べばいいのか凄く悩んでいました」
その言葉を聞いた瞬間。
先生は目を閉じた。
話に出てきた人物の顔が浮かぶ。
桐藤ナギサ。
聖園ミカ。
百合園セイア。
そして――ゲヘナの仲間達。
アリスは続ける。
「だからアリスが言いました!」
指を立てる。
「どちらも守ればいいのです!」
会議室の空気が、静かに止まる。
「勇者は全部守るものですから!」
アリスは満足そうに頷いた。
「すると彼も、悩みが解決したようで笑っていました!」
そして誇らしげに言った。
「こうして無事に悩みを解決して、クエストクリアーしたのです!」
話が終わる。
会議室は静まり返っていた。
先生も、ミネも、アズサも。
誰もすぐには言葉を出せなかった。
黒夜は一人で悩んでいた。
どちらを選ぶか。
トリニティか。
ゲヘナか。
だが、彼はどちらも大事だと言った。
そして、その悩みを、こんな場所で、こんな形で吐き出していた。
先生はゆっくりと息を吐いた。
(……そういうことか)
黒夜は、どちらも捨てるつもりはない。
だから黙っていた。
だから悩んでいた。
ミネが小さく目を伏せた。
「……なるほど」
アズサも拳を握る。
「やっぱり……」
三人は同じ理解に辿り着いていた。
黒夜は、誰かを捨てる気などない。
ただ全部背負おうとしているだけだ。
先生はアリスに微笑んだ。
「ありがとうアリス。すごく助かったよ」
「本当ですか!」
「うん」
先生は自然な声で言う。
「ごめん、先に書類をまとめておいてくれると嬉しいな」
アリスは嬉しそうに敬礼した。
「了解です! サポートクエストですね!」
そして元気よく会議室を出ていった。
ミネが最初に口を開いた。
「先生」
真剣な声だった。
「ゲヘナの人をシャーレに呼べますか?」
先生は頷く。
「呼べると思うよ」
「彼の心境と今回の事は、直接会って説明した方が賢明だと思います」
ミネの声は冷静だった。
「スケジュールは先方に合わせます。日付が決まったら教えてください」
そう言ってミネは立ち上がった。
「私は準備を進めておきます」
そして会議室を出ていった。
アズサも続く。
扉の前で振り返る。
「私にも決まったら教えてくれ」
真っ直ぐな目だった。
「その時はサオリたちも呼ぶ。……全員で行くから」
「わかった」
先生が頷くと、アズサも静かに出ていった。
会議室に一人残る。
先生はしばらく天井を見上げていた。
深く息を吐く。
(……黒夜)
ポケットからスマホを取り出す。
画面を開きモモトークを起動する。
送り先は――羽沼マコト。
先生は短いメッセージを打った。
至急相談がある。シャーレに来てほしい。
都合がいい日を教えてくれない?
送信。
数秒後、既読がついた。
それを確認した先生は立ち上がった。
オフィスへ戻ると、アリスが机の上で書類を一生懸命まとめている。
「先生! 書類クエスト順調です!」
「ありがとう」
先生は席に座ると、すぐに書類を手に取った。
急ぐ。
とにかく急ぐ。
机の上の書類が、次々と処理されていく。
シャーレの静かな部屋の中で、紙の音だけが響いていた。