黒夜が、黙って散歩に出かけた日から。
ナギサは、彼の変化を過敏に感じていた。
ほんの少しの声色。
ほんの少しのゆるやかな態度。
ほんの少しの微笑み。
わかってしまうのだ。
黒夜の肩から、力が抜けている。
あの“役目”で固めた姿勢ではない。
護衛として、主に向ける丁寧すぎる笑顔でもない。
もっと自然で、もっと年相応で、もっと……柔らかい。
それは良いことのはずだった。
黒夜が、少しでも楽になれるなら。
少しでも、苦しみを手放せるなら。
それがナギサたちの望みだったはずだ。
――なのに。
ナギサの胸の奥は、安堵ではなく、刺すような焦りで満たされていた。
(……あの日、何があったのですか?)
散歩から戻ってきた彼の目は、少し澄んでいた。
雲が晴れたような表情をしていた。
それは、ナギサがこの部屋で、時間をかけて少しずつ与えていくはずだった“癒し”の形に似ていた。
だからナギサは、なるべく自然な声で尋ねた。
「黒夜さん、何か……良いことでもありましたか?」
紅茶の香りがするリビング。
柔らかい日差し。
穏やかな時間。
黒夜は少し考えた後、晴れやかに笑って言った。
「小さな勇者が助けてくれたんですよ」
その言葉が、ナギサの心臓をひやりと冷やした。
小さな勇者。
誰の事を言っているの?
(誰が、あなたを“癒した”の?)
ナギサは微笑んだ。
完璧に、いつものように。
「……小さな勇者、ですか。素敵ですね」
声も震えなかった。
顔色も変えなかった。
ティーパーティーのナギサとしては、合格点の対応だった。
だがその瞬間、胸の内では別の声が渦を巻いていた。
(知らない方が、私の黒夜さんに勝手に触らないで欲しい…)
(彼は……私が癒す予定だったのに…)
それは醜い願望だった。
認めたくない感情だった。
嫉妬。
“彼の為”と言っているくせに、結局は自分の縄張りを守りたいだけの、子どもじみた独占欲。
ナギサは自分で自分が嫌になった。
(私は……なんて浅ましいの)
それでも、感情は止まらない。
理性の手をすり抜けて、胸の奥を締め付けてくる。
ナギサは何度か質問を変えてみた。
「その方は、どちらの学校の方ですか?」
「散歩の途中で、偶然会ったので…」
「お名前は?」
「今度会った時に改めて名乗り合う予定ですからそれまではちょっと…」
「特徴は……?」
「ええと……とても元気で、眩しい子でした」
黒夜は笑いながら、そこで言葉を止める。
それ以上は、教えてくれない。
柔らかい笑顔。
曖昧な言い方。
“ごまかし”ではない。
でも“線引き”だ。
ナギサの胸がざわつく。
(どうして教えてくれないの?)
(私と、あなたの信頼は……なくなってしまったの?)
(……そんなはずはないですよね?)
思考が同じ場所を回り始める。
堂々巡り。
結論は出ない。
代わりに、心だけが摩耗していく。
そしてナギサを追い打ちしているのは――黒夜のスマホだった。
今、黒夜のスマホはナギサが預かっている。
“壊れて修理に出した”という言い訳のまま。
彼は疑っていない。
疑おうとしていない。
そのことが、余計に痛い。
ナギサは夜、誰もいない時間にスマホを確認してしまう。
見ないと決めても、指が勝手に動く。
画面が光るたび、胸の奥がきしむ。
着信履歴。
モモトークのメッセージ。
知らない番号もあれば、知っている名前もある。
ゲヘナ
トリニティ
アリウススクワッド
便利屋
美食研究会
ミネ団長
……先生。
最近連絡取れないけど、返事して、心配だよ
今どこに居るんだ?
大丈夫?
文章は短くても、伝わってくる。
黒夜が、どれだけ多くの人に見つけられているか。
どれだけ多くの人に、必要とされているか。
そして、その中心にいる黒夜を自分たちが、閉じ込めている。
ナギサは息苦しさを感じていた。
(私は……何をしているの)
罪悪感が、薄い刃のように胸を削る。
それでも、やめられない。
“正しさ”を言い訳にして、続けてしまう。
(看病のため)
(過労で倒れたから)
(これ以上傷つけさせないため)
(政治的判断)
(外に知られたら危険だから)
(護衛が倒れたと知られたら、良からぬ者が動く)
(だから……)
(だから……)
どれも、嘘ではない。
少なくとも“嘘だけ”ではない。
けれどナギサは知っている。
それらの言葉の奥に、もっと醜い本音が潜んでいることを。
――黒夜さんは、怪我が治ったらゲヘナに帰ってしまう。
祝勝会の、あの光景。
ゲヘナの輪の中で見せていた、無防備な笑顔。
あれはナギサが知らない顔だった。
(あの笑顔を、私は知らない)
(私は……護衛としての彼しか知らない)
(主として扱われる距離感の中の彼しか……)
そして、ゲヘナの者たちは彼を手放す気がない。
トリニティがどう言おうと、黒夜を“仲間”として扱う。
迷いなく引き寄せる。
――もし、黒夜が「帰る」と言ったら?
その想像だけで、視界が暗くなる。
息が浅くなる。
紅茶の香りさえ気持ち悪くなる。
(もう二度と会えない?)
(……そんなの)
恐怖が、ナギサを包み込む。
自分の手が震えているのが分かる。
ティーカップを持っていなくてよかったと、心のどこかで思ってしまう。
ナギサは、ゆっくりと自分に言い聞かせる。
(違う)
(これは、私情じゃない)
(政治的判断なんです)
(専属護衛が、勝手にいなくなったら困る)
(それだけ)
(私情なんかじゃない)
何度も何度も、同じ言葉を心の中で繰り返す。
けれど、繰り返すほどに薄くなっていく。
紙みたいな理屈。
貼り付けた仮面。
乾いた言い訳。
その下から、黒い感情が滲み出してくる。
(……お願い)
(行かないで)
(私の前から消えないで)
ナギサは、自分の頬が濡れていることに気付いて、慌てて指で拭った。
涙が出たことにすら気付かなかった。
こんな姿を誰にも見せられない。
ティーパーティーの桐藤ナギサは、泣かない。
揺れない、崩れない。
それなのに。
心はもう、限界の縁に立っている。
夜。
部屋の灯りを落としたまま、ナギサは黒夜のスマホを握っていた。
画面は暗い。
それでも手の中の重さだけが、やけに現実的だった。
この小さな機械が、黒夜と世界を繋いでいる。
そして今、その繋がりを断っているのは自分だ。
ナギサは目を閉じる。
(私は、正しい)
(私は、黒夜さんを守っている)
(私は……)
次の言葉が続かない。
代わりに、胸の奥で別の言葉が囁く。
(私は、怖いだけだ)
認めた瞬間、喉が詰まった。
ナギサはスマホを胸に抱きしめるようにして、静かに息を吐いた。
――そして、思ってしまう。
(もし、このまま外に出さなければ)
(もし、このまま繋がりを断てば)
(黒夜さんは……ここにいるしかない)
(私の手の届く場所にいる)
その考えが浮かんだ瞬間。
ナギサは吐き気に近い嫌悪を覚えた。
(……最低)
(私は……最低だ)
それでも、手は離れない。
恐怖が、勝ってしまう。
夜の静けさの中で、ナギサの心だけが騒がしい。
自分の鼓動がうるさい。
呼吸がうまくできない。
彼がいなくなる未来が怖い。
彼を縛っている現実が怖い。
どちらを選んでも、ナギサは傷つく。
そしてそれが、黒夜をもっと傷つけると分かっているのに。
それでも――
(……どうしたらいいの?)
答えは出ない。
ただ、限界だけが近づいていく。
深く静まり返っていた。
窓の外から差し込む街灯の淡い光だけが、床と机をぼんやり照らしていた。
その暗闇の中で、ナギサは一人、椅子に座っていた。
手には黒夜のスマートフォン。
握りしめたまま、いつの間にか動かなくなっていた。
どれくらいそうしていたのか、もう分からない。
その時だった。
ぱちり、と。
突然、部屋の明かりがついた。
ナギサははっとして顔を上げた。
慌てて扉の方を見る。
そこに立っていたのはミカとセイアだった。
二人とも、いつもの余裕ある雰囲気はどこにもなかった。
顔色は悪く、目の下にははっきりと影が落ちている。
セイアが、ゆっくりと口を開いた。
「ナギサ……なんてひどい顔をしているんだい?」
その声は、いつもよりずっと静かだった。
ナギサは反射的に微笑もうとした。
だが、うまくいかない。
「……こんな夜更けに、どうしました?」
なんとか取り繕う。
「何か用事ですか?」
しかし、その言葉は自分でも驚くほど弱かった。
ミカがゆっくりと近づいてくる。
足取りが、重い。
「……無理しないで」
小さく、そう言った。
そしてナギサの隣に腰を下ろす。
セイアも反対側に座った。
三人が並ぶ形になる。
誰も、すぐには言葉を続けなかった。
沈黙が、重たい。
やがてミカが、力なく笑った。
「ナギちゃんも……もう限界なんでしょ?」
ナギサは思わずミカを見る。
ミカの目は赤く腫れていた。
涙を拭いた跡が、はっきり残っている。
「……私たちもなんだ」
その言葉に、ナギサの胸が痛んだ。
セイアも俯いたまま言う。
「……黒夜の心は、もうトリニティには無いのかもしれないね」
残酷な言葉だった。
だが、その声音は責めるものではない。
ただ、事実を噛み締めるような響きだった。
ナギサはすぐに反発した。
「そんなこと……!」
思わず声が強くなる。
「そんな事を言わないでください! 黒夜さんが、私たちを見捨てるはずがありません!」
言葉が続く。
「ないはずです……」
だが、最後の言葉は弱かった。
自分でも気付いている。
“はず”という言葉の頼りなさを。
セイアはゆっくりとナギサを見る。
その目は、ひどく疲れていた。
「……ナギサ」
静かな声。
「君も気付いているんだろう?」
ナギサの胸が、どくりと鳴る。
「冷静になって、よく考えてみたまえ。どうして、私たちが彼の繋がりを遮断しているのかを」
ナギサは答えられなかった。
答えを知っているから。
言葉にしてしまえば、もう逃げられなくなるから。
その沈黙を、ミカが引き継いだ。
「……私たち自身がさ」
ミカは膝の上で手を握りしめていた。
「黒夜のこと、信じてあげられてないんだよ」
ナギサの呼吸が止まる。
ミカは続ける。
「自由にしたら……ゲヘナに……」
一度言葉が止まる。
そして小さく首を振った。
「……いや、違うね」
その声は震えていた。
「私たちから、離れていっちゃうのを……私たちは感じてるんだよ」
ミカの瞳から、涙が落ちた。
「だから……私たちは、閉じ込めちゃったんだよ」
その言葉は、あまりにも正確だった。
「……そうでしょ?」
ミカはナギサを見た。
「ナギちゃん」
ナギサは言葉を失った。
胸の奥に押し込めていた恐怖を、
正確に言葉にされてしまったから。
セイアがナギサの肩に手を置いた。
その手は、驚くほど弱々しかった。
「……私たちの願いと、黒夜の願いは一致していない」
静かな声だった。
「私たちは、彼とずっと一緒に居たい」
セイアの視線が遠くなる。
「でも彼は……故郷に帰りたがっている」
ナギサの胸が締め付けられる。
分かっていた。
ずっと。
最初から。
そしてセイアは続けた。
「それに……そろそろ、この生活も限界だ」
苦笑に近い吐息が漏れる。
「黒夜の怪我は、もうほとんど治っている」
「ここに閉じ込めておく理由が作れない」
「そして……」
セイアは少しだけ言葉を詰まらせた。
「……私たちの精神も、限界に達しようとしている」
部屋の空気が重くなる。
ミカがぽつりと呟く。
「最初はさ」
涙を拭きながら。
「楽しかったんだよ」
ナギサも、セイアも黙って聞く。
「黒夜と一緒にご飯食べて」
「遊んで」
「お喋りして」
ミカは弱く笑った。
「……すごい幸せだった」
だがその笑顔はすぐ崩れる。
「でもさ」
ミカは俯いた。
「日が経つにつれて……周りの信頼を裏切ってるのに耐えられなくなってきたんだ…」
ミカの肩が震える。
「ミネ団長や、アズサちゃんや、先生」
「ゲヘナの人たちも」
そして、ミカは絞り出すように言った。
「……何より」
「黒夜を裏切ってるのが、一番きつかったかな」
その言葉は、部屋に深く沈んだ。
ナギサの視界がぼやける。
涙が溢れていた。
「……でも」
ナギサは震える声で言った。
「でも!」
涙を拭うこともせず、叫ぶ。
「私は……黒夜さんと離れたくありません!」
その言葉は、もう理屈ではなかった。
「その為なら……なんだってします!」
声が震える。
子どもみたいな願い。
それでも止まらなかった。
セイアは、悲しそうに目を閉じた。
「……もう無理なんだよ、ナギサ」
ナギサの胸が裂けそうになる。
「私だって、この生活を手放したくない」
セイアの声も震えていた。
「でも、一生ここに黒夜を閉じ込める訳にはいかないだろう?」
それは、残酷なほど正しい言葉だった。
ミカが泣き崩れる。
「……ナギちゃん」
その声を聞いた瞬間、ナギサも崩れた。
本当は、分かっていた。
最初から。
どうにもならないことを。
黒夜を縛り続ける未来が、存在しないことを。
それでも。
分かっていても。
涙は止まらなかった。
誰も言葉を続けられないまま。
罪と、願いと、現実の間で。
静かな夜の中で、ティーパーティーの三人は、初めて真正面から自分たちの罪と向き合っていた。
長い沈黙のあと。
ミカが、ゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた頬のまま、無理に笑顔を作る。
その笑顔は、今までナギサが何度も見てきたものと同じで
けれど、どこか壊れそうだった。
「……だから」
ミカは静かに言った。
「黒夜の怪我が完全に治ったらさ」
一度息を吸う。
「快く送り出してあげようよ。それが、私たちが黒夜に出来る……最後の罪滅ぼしだと思うからさ」
ナギサの呼吸が止まる。
ミカの表情は笑顔のままだった。
でも、その両目からは涙が静かに流れていた。
ぽろぽろと、止めようともせずに。
セイアも顔を上げた。
彼女も泣いていた。
普段なら絶対に人前では見せない表情だった。
「……そうだね。それが、ティーパーティーとして……」
少し言葉を詰まらせる。
「私たちが黒夜に出来る、最後の仕事になるだろうね」
“仕事”
その言葉を、セイアはわざと使ったのかもしれない。
感情のままでは崩れてしまうから。
せめて最後くらい、ティーパーティーとして。
ナギサは声を出せなかった。
喉が詰まっていた。
ただ、涙が止まらない。
胸の奥が痛い。
息が苦しい。
それでも、分かっていた。
これが正しい。
これしかない。
ナギサは、泣き声を押し殺しながら――
小さく頷いた。
「……はい」
それだけだった。
それ以上は、もう言えなかった。
しばらく三人はそのまま座っていた。
誰も立たない。
誰も動かない。
ただ、泣いていた。
長い時間だったのか、短い時間だったのか。
感覚が曖昧になるほど、静かな時間だった。
やがて、ミカが立ち上がった。
涙は拭いていたが、目の赤さは消えない。
「……そろそろ戻るね」
セイアも立ち上がる。
「夜も遅いからね」
ナギサは椅子に座ったまま、小さく頷いた。
二人は扉の前まで歩く。
そして、扉を開く前に振り返った。
ミカが、少し照れたように笑う。
「……短い間だったけどさ」
一度、言葉を探すように視線を落とす。
そしてナギサを見る。
「この生活、本当に幸せだったよ」
涙がまた滲んでいた。
「ありがとうね、ナギちゃん」
セイアも続いた。
「うん」
静かな声だった。
「それは嘘偽りなく、私もそう思っている」
ほんの少しだけ微笑む。
「素敵な思い出を感謝するよ、ナギサ」
ナギサの胸がまた締め付けられる。
二人は、もう一度ナギサを見た。
その視線には、覚悟があった。
そしてミカが言った。
「だからさ」
少しだけ真剣な声になる。
「一人で罪を背負うなんて、馬鹿な事はしないでね」
セイアも頷く。
「そうだ、これは、私たちの罪なんだから」
二人の言葉は、優しくて、重かった。
ナギサの喉が震える。
返事をしようとしたが、声が出ない。
代わりに、深く頷いた。
それで十分だった。
ミカとセイアは、それを確認すると扉を開けた。
廊下の灯りが部屋に流れ込む。
「……おやすみ」
セイアが言った。
「おやすみ、ナギちゃん」
ミカが続く。
そして扉が閉まった。
――部屋は再び静かになった。
ナギサはしばらく動けなかった。
涙はもう流れていない。
ただ、胸の奥が空っぽになったような感覚だけが残っている。
机の上に置かれた黒夜のスマートフォン。
ナギサはそれをそっと見つめた。
ゆっくりと手を伸ばす。
画面を撫でる。
そこには、何も映っていない。
それでもナギサは、まるでそこに黒夜がいるかのように、静かに呟いた。
「……黒夜さん」
声は小さかった。
それでも、はっきりしていた。
「残り少ない時間になりますが……」
言葉を飲み込む。
涙がまた滲んだ。
「最後まで……」
目を閉じる。
「あなたの隣に、居させてください」
それは願いだった。
そして、覚悟だった。
ナギサは静かにスマートフォンを机に置いた。
深く息を吸う。
そして心の中で、誓う。
――残り少ない黒夜との時間を、大切に過ごす。
――そして、その時が来たら。
――ちゃんと、送り出す。
ナギサはゆっくりと立ち上がった。
窓の外には、まだ夜が広がっている。
けれど。
その夜の向こうに、必ず朝が来るように。
幸せな時間もいつか終わるという事をナギサは、もう知っていた。