黒夜はベッドの縁に腰掛けながら、ゆっくりと左腕を動かしていた。拳を握り、指を開き、肘を曲げて肩を回す。骨折していたはずの腕はもうほとんど痛みを感じない。わずかに残る違和感も、怪我をしていたことを思い出させる程度のものだ。
しばらく確かめるように動かしてから、黒夜は小さく頷いた。
――問題なさそうだ。
これなら日常動作に支障はないだろう。あとはミネ団長に診てもらい、「問題なし」と言われれば正式に完治だ。そう考えると、胸の奥に少しだけ安堵のようなものが広がった。
「……長かったようで、短かったですね」
独り言のように呟きながらふと横を見ると。そこには、もう役目を終えた三角巾が置かれていた。骨折してからずっと世話になったそれも、今日でいよいよお役御免だろう。黒夜はそれを軽く畳み、机の上に放った。ぱさりと軽い音が静かな部屋に落ちる。
その音を聞きながら、この数週間を思い返した。
本来なら療養のための時間だった。だが振り返ってみれば、それは思いがけず穏やかな日々でもあった。ナギサ、ミカ、セイア。三人と過ごした静かな時間は、忙しい日常の中ではなかなか味わえないものだった気がする。
黒夜はゆっくり立ち上がると、リビングへ向かった。
扉を開けると、すでに三人は起きていた。窓際で大きく伸びをしているミカ、ソファに腰掛け新聞に目を通しているセイア、そしてテーブルの前で紅茶の準備をしているナギサ。それぞれがそれぞれの朝を過ごしている光景は、どこか落ち着いた日常の風景だった。
黒夜は自然と笑みを浮かべながら声を掛ける。
「おはようございます。今日は皆さん随分と早起きですね」
三人が顔を上げる。その瞬間、ほんのわずかに間があった。ほんの一瞬。意識していなければ見逃してしまうほどの短い空白だった。
だがすぐに、いつもの調子で挨拶が返ってくる。
ナギサが穏やかに微笑み
「おはようございます、黒夜さん」
ミカはいつもの調子で
「おはよー黒夜」
挨拶を返しながら手を振り
セイアも新聞を畳みながら
「おはよう」
そう言いながら軽く頷いた。
その時、ナギサの視線が黒夜の腕に向いた。包帯が外れていることに気付いたのだろう。
「その腕……もう治ったのですか?」
静かに尋ねる。
黒夜は嬉しそうに左腕を軽く動かして見せる。
「ええ、お陰様で。動かしても痛みはありませんし、ほぼ完治と言っていいでしょう」
その言葉を聞いた三人は、互いに視線を交わした。ほんの一瞬だけ、言葉にならない何かがそこを通り過ぎる。
それからナギサが小さく頷き
「そうですか。本当に無事に治ってよかったです」
ナギサは柔らかな笑みを浮かべた。
「ほんとだよ、めちゃくちゃ心配したんだからね」
ミカは明るく言い。
セイアも「良かった」と短く言葉を添える。
三人は笑っていた。
だがその笑顔には、どこか影のようなものが差していた。ほんのわずか、言葉にすれば消えてしまいそうな程度の影。それでも確かに、そこにあった。
しかし黒夜はそれに気付かない。
「そうですね。本当に皆さんのお陰です」
そう言って軽く頭を下げると、黒夜はキッチンへ向かった。
「それでは、左腕も復帰しましたし、久しぶりに紅茶でも入れましょうか」
その言葉にミカがぱっと顔を上げる。
「ほんと? 黒夜の紅茶久しぶりだね」と嬉しそうに言い、
セイアも「確かに、それは楽しみだ」と新聞を畳みながら笑う。
ナギサも「ぜひお願いします」と穏やかに頷いた。
黒夜は小さく笑いながらキッチンへ入る。ポットに水を入れ、火をつけ、茶葉を用意する。久しぶりの作業だったが、身体は自然と手順を覚えていた。
湯が沸き、茶葉が開き、やがて柔らかな香りが広がる。
その香りは、この家で何度も漂った匂いだった。
黒夜はカップを四つ並べ、丁寧に紅茶を注ぐ。湯気がゆっくりと立ち上り、空気の中に溶けていく。それをトレイに乗せ、リビングへ戻った。
カップを一人ずつの前に置き、最後に自分の分をテーブルに置く。
「やっぱり黒夜の紅茶はいいね」
ミカがすぐにカップを手に取り、香りを楽しんでいる様だった。
セイアも「落ち着く香りだ」と静かに頷いた。
ナギサは何も言わずカップを持ち上げ、一口ゆっくりと口に含む。その仕草は、まるで味を確かめるようでもあり、どこかその時間を大切に噛みしめているようでもあった。
黒夜も自分のカップを持ち上げて一口飲み、「……うん」と小さく頷く。
「いつも通りの味ですね」
それから四人は、いつものように会話をしながら朝の時間を過ごした。特別な話題があるわけでもない。軽い冗談や他愛のない話が続く、穏やかな時間だった。
昼食を食べ終え、リビングでゆったりとした空気が流れている時だった。
ナギサがふと思い出したように声を掛ける。
「そういえば黒夜さん」
小さな箱を手に取り、差し出した。
「スマートフォン、修理が終わりまして今朝届いたんです」
黒夜は驚きながら受け取る。
「ありがとうございます」
礼を言い画面を開くと、そこには大量の通知が並んでいた。
モモトークの未読、通話履歴、メッセージ。ハルナ、カヨコ、ヒナ、マコト、カスミ、ミネ、アズサ……見慣れた名前がずらりと並んでいる。
黒夜は苦笑した。これは……全部返すのは骨が折れますねと少し考え、
「まあ一旦見なかったことにしましょう」とスマートフォンをポケットにしまった。
ミカがくすっと微笑みながら、「黒夜らしいね」と笑い、セイアも「合理的な判断だね」と肩をすくめる。ナギサも静かに微笑んだ。
黒夜はソファに座りながら、ふと感じていた。今日は三人がいつもより少し静かな気がする。だが、深くは考えなかった。
(まあ、こういう日もありますね)
静かな時間も悪くない。そう思っていたその時だった。
インターホンの音が、家の中に鳴り響いた。
ここに来てから初めての来客だった。
黒夜が少し驚いていると、ナギサがすぐに立ち上がり「私が出ますね」とモニターを確認する。
そして数秒後、振り返った彼女はいつもの穏やかな笑顔でこう言った。
「黒夜さん。先生が来てくれましたよ」
黒夜は目を丸くする。
「先生が?」
ナギサは頷きながら続ける。
「ええ。それとミネ団長とアズサさんも一緒です」
それを聞いた黒夜は少し驚きながらも笑った。
「珍しい組み合わせですね」
そう言って三人と一緒に玄関へ向かう。
扉を開けると、そこには先生とミネ、そしてアズサの姿があった。
黒夜は嬉しそうに声を上げる。
「先生! ミネ団長! アズサさんも来てくれたんですね」
三人は黒夜の姿を見て、わずかに驚いたような表情を浮かべていた。
黒夜が普通に玄関まで出てきたことに、少しだけ面食らったのだろう。
先生たちはちらりとナギサたちに視線を送る。
だがナギサ、ミカ、セイアの三人は、何事もないかのように穏やかな笑顔で立っていた。
まるで本当にただの来客を迎えているだけのように。
黒夜は、久しぶりに顔を合わせた先生たちを前に、素直にうれしそうな表情を浮かべていた。
玄関先に立つ先生、ミネ、アズサ。見慣れた顔ぶれを一度に見たことで、黒夜の胸の内にあった小さな緊張は、むしろふっとほどけていく。思えば、この家に来てから外の知人とこうして顔を合わせるのは初めてだった。
だからこそ、その再会が余計にうれしく感じられたのかもしれない。
黒夜はまずミネへ向き直ると、深く頭を下げた。
「ミネ団長、すみません。過労で倒れてしまって、定期健診にも伺えず、その後もすぐに連絡が出来なくて……本当に申し訳ありませんでした」
その謝罪は、黒夜らしいほど真っ直ぐだった。自分の事情より、心配をかけた相手への礼を優先する声色。ミネはその姿を見て、一瞬だけ返す言葉を失ったように目を瞬かせる。
それから、どこか戸惑いを滲ませながらも、努めて落ち着いた声で「えぇ……大丈夫ですよ」と答えた。
だが、その返答の後には僅かな間があった。ミネは黒夜の表情、立ち方、視線の動き、その全てを医療者の目で観察していた。無理をして明るく振る舞っているのか、それとも本当に落ち着いているのか。その見極めをしようとしているようだった。
「それよりも、黒夜さん。ご自身の体調は本当に大丈夫なんですか?」
黒夜は穏やかに笑った。
「はい。ナギサ様たちのおかげで、しっかりと休ませてもらいましたから。今は左腕も、動かしても痛くないくらいまで回復しています」
そう言って、軽く左腕を持ち上げて見せる。その仕草には無理がなかった。ミネはそれを見て小さく頷いたが、安堵よりも先に別の感情が胸をよぎった。
――自由だ。少なくとも黒夜は、今この場では自由に振る舞っているように見える。
(……どういうことですか)
心の中でそう呟きながら、ミネは表情だけは崩さず
「そうですか……それはよかったです」と返した。
黒夜は次にアズサへと視線を移す。
「アズサさんも来てくれたんですね。急に姿を見せなくなってしまって、心配をかけてすみません」
アズサもまた、黒夜の様子にわずかに戸惑っていた。もっと痩せているかもしれない、もっと暗い顔をしているかもしれない、そんな想像をして来たのだろう。だが今の黒夜は、少なくとも見た目の上では穏やかだった。
「あぁ……急にトリニティに来なくなったから、心配したぞ」
アズサはそこで一度言葉を切り、改めて黒夜の顔を見た。
「本当に大丈夫なんだよな?」
その問いには、ただの確認以上の意味が込められていた。お前は本当に無理をしていないのか、誰かに脅されてはいないのか、そういう含みを含んだ視線だった。
だが黒夜は、それに気付かずに笑う。
「大丈夫ですよ。久しぶりにしっかり休めましたし、心身ともにかなり回復しました。穏やかで、楽しい時間でした」
その言葉を聞いた瞬間、アズサは黒夜の後ろに立つ三人を見た。
ナギサ。ミカ。セイア。
三人は何も言わず、ただ静かに微笑んでいた。
それは表面だけを見れば実に穏やかな光景だった。療養を終えた黒夜と、それを支えた三人。
そして迎えに来た知人たち。どこにも“監禁”らしき荒々しさはない。だが、だからこそアズサには分からなくなった。
(どういう事だ……?)
(監禁されていたんじゃないのか……?)
思考が一瞬揺れる。
先生もまた、似たような違和感を抱いていた。玄関先に立つ黒夜は、少なくとも自分たちが想像していた“閉じ込められた被害者”の姿ではない。暗い影を落としているわけでもなく、怯えているわけでもない。むしろ自然体で、久しぶりの再会を普通に喜んでいる。
だから先生は、自分でも内心の戸惑いを押し隠しながら、いつもの調子で口を開いた。
「黒夜、急に連絡がつかなくなったから、みんな本当に心配してたんだよ」
黒夜は少し困ったように笑って、ポケットに視線を落とした。
「あぁ、スマホが今日まで壊れていたんですよね。ついさっき返ってきたんですけど、通知を見たらすごいことになっていて……少し落ち着いたら順番に返していこうと思ってました」
先生はその返答を聞きながら、ますます自分の足場が曖昧になるのを感じていた。
(……あれ?思っていた状況と違う)
もっと強い拒絶があると思っていた。もっと露骨な不自由さがあると思っていた。だが実際には、黒夜は平穏に過ごしていたとしか思えない言葉を口にしている。
もちろん、それで全てが覆るわけではない。だが少なくとも、単純な“救出劇”の構図ではないということだけは、先生にも分かった。
そんな先生たちの戸惑いを見抜いたかのように、不意にナギサが口を開いた。
「先生」
その声音は穏やかで、よく通るものだった。
「今日は黒夜さんを迎えに来てくださったのでしょう?」
その一言は、玄関先の空気をわずかに揺らした。
先生たちは即座に反応できなかった。監禁していたはずの側から、まるで暗に「黒夜さんを連れて行ってください」と告げるような言葉が出てきたからだ。
ナギサの表情は変わらない。柔らかな笑みを浮かべたまま、ただ事実を述べるように先生たちを見ている。
その隣でミカも、小さく息を吸ってから明るい声を作った。
「左腕も治ったし、療養生活もこれで終わりだね~☆」
明るく言っているはずなのに、声の端にはうっすらと掠れが混じっている。セイアも肩を竦めるようにして続けた。
「壊れていたスマホも戻ってきたし。これで、ここに留まる意味も無くなったな」
その言い方は淡々としていたが、逆にそれが痛々しかった。まるで自分に言い聞かせているようだったからだ。
黒夜は「迎えに来た」という言葉の意味がすぐには飲み込めず、少し首を傾げて先生に尋ねた。
「……先生、何かあったんですか?」
先生は一瞬迷った。だが、ここで誤魔化すのは違うと思った。
「実は、ゲヘナで少し騒ぎになってるんだ」
黒夜の表情が変わる。
「騒ぎ?」
「うん。黒夜に連絡がつかなくなったことで、美食研究会と温泉開発部がしびれを切らしてね。今、かなり大暴れしてるらしい」
その説明を聞き終えるより早く、黒夜の顔色が変わった。
「えっ」
次の瞬間には、はっきりとした焦りが浮かぶ。
「今すぐ行きます」
先生が止める間もなく、黒夜はそう言い切っていた。
「事情を説明してこないと……!」
先生は思わず問い返す。
「大丈夫なのかい?」
すると黒夜は、まるで皆の心配を本気で不思議がるように笑った。
「皆さん心配しすぎですよ。私はもう元気ですから」
その笑顔に、先生は何も言えなくなる。
黒夜は本当にそう思っているのだ。体も、気持ちも、もう動けると。だから今は一刻も早くゲヘナへ向かわなければならないと考えている。
黒夜は先生たちの方から、今度は後ろにいる三人へと視線を移した。
「それじゃあ、行ってきます」
何の疑いもなく、いつものように。
ナギサは微笑んだまま
「いってらっしゃい、黒夜さん」
その声は優しく、柔らかく、ほんの少しだけ震えていた。
ミカも笑っていた。
「いってらっしゃい……元気でね」
返した声の最後が、かすかに掠れる。
セイアは一番静かだったが、それでもはっきりと
「いってこい、黒夜。……楽しかったよ」
その言葉に、黒夜は一瞬だけ目を丸くした。だがすぐに、どこか照れたように笑う。
「……私も楽しかったです」
それだけ言って、玄関を出る。
黒夜は先生たちと共に歩き出した。後ろで扉が閉まる音がする。その音を聞きながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じる。
送り出してくれる声。
無理に引き止めない優しさ。
最後まで穏やかに接してくれた三人の態度。
黒夜は思う。
自分は、本当に恵まれていたのだと。
あれほどの怪我をしても、見捨てられるどころか休ませてもらって、支えてもらって、こうして笑って送り出してもらえる。
そんなことが、どれだけありがたいことか。
胸の内でそっと、噛みしめるように思った。
――あの人たちは、どこまでも情が深い。
だからこそ黒夜は、何一つ疑わないまま、先生たちとともにゲヘナへ向かうのだった。