ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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扉が閉まったあと

 

 黒夜が出ていき、玄関の扉が静かに閉まる。

 

 たったそれだけの音だった。重くも鋭くもない、ごくありふれた生活音。だがその一音が、先ほどまでこの家の中を満たしていた穏やかな空気を、まるで薄い硝子のように粉々に砕いてしまった。

 

 ついさっきまでそこにあったはずの平和な時間が、嘘のように消えていた。

 

 ナギサも、ミカも、セイアも、誰ひとり言葉を発しなかった。ただ、黒夜が出ていった玄関の方角を見つめていた。彼の背中が視界から消え、足音が聞こえなくなり、それでもなお三人は、まるでその場に自分たちの時間まで置き去りにされたかのように立ち尽くしていた。

 

 笑顔で送り出した。

 いつものように、何でもない風を装って。

 また会えるような、そんな軽やかな別れに見えるように。

 

 それが自分たちで決めた最後の優しさだったはずなのに、扉が閉まった瞬間、その優しさはどこかへ消えてしまった。

 

 残ったのは、空白だった。

 

 先に動いたのはナギサだった。静かに踵を返し、何も言わずにリビングへ戻っていく。足取りは乱れていなかったが、背中からはもう、いつもの気丈さはほとんど感じられなかった。ミカとセイアも、引き寄せられるようにその後へ続く。

 

 リビングへ入る。

 

 そこには、つい先ほどまで四人で過ごしていた朝の名残がそのまま残されていた。テーブルの位置も、椅子の角度も、床に落ちる陽の形も変わっていない。変わったのはただ一つ、この空間にもう黒夜がいないという事実だけだった。

 

 そして、リビングのテーブルの上には、黒夜が使っていた紅茶のカップが置かれていた。

 

 ナギサの視線がそこに止まる。

 

 誰も手をつけていない。片付ける余裕もなかったというより、片付けてしまえば本当に終わってしまう気がして、三人とも見て見ぬふりをしていたのかもしれない。

 

 ミカが、ふらりとそのテーブルへ近づく。

 

 恐る恐る指先を伸ばし、カップの側面に触れる。

 

「……あったかい」

 

 その声は独り言のように小さかった。

 

 まだ少しだけ温かい。

 

 もう飲み手のいない紅茶の残り熱が、かえって残酷だった。ついさっきまでここに黒夜が座っていたことを、彼がこの部屋の空気を吸い、笑い、紅茶を口にしていたことを、その温度が何より雄弁に物語っている。

 

 まるで、彼のぬくもりがまだそこに残っているようで。

 

 それを見てしまった時、ミカの中で辛うじて張り詰めていたものが、音を立てて切れた。

 

「……やだ」

 

 最初は、呟くようなか細い声だった。

 

 自分でも聞き取れたかどうか分からないほど小さな拒絶。それなのに次の瞬間、その一言は止めどなく溢れ出す感情の堤防を壊していた。

 

「やっぱり……いやだよぉ……!」

 

 堰を切ったように涙が溢れ出す。ミカはその場で膝をつき、両手をカップから離したまま、子どものように声を上げて泣き崩れた。何とか笑って送り出したはずなのに、玄関の向こうへ消えていった黒夜の背中を思い出した瞬間、胸の奥に押し込めていた本音が一斉に噴き出してしまったのだ。

 

「なんで行っちゃうの……。やだ、やだよぉ……!」

 

 その泣き声が、静まり返った部屋の中で痛いほど響く。

 

 セイアもまた、壁際に立ったまま目を閉じていた。理性で繋ぎ止めていた感情が、ミカの声によって一気に揺さぶられていく。頬を伝うものに気付いて片手で拭うが、間に合わない。次から次へと涙が溢れてくる。

 

 そして、そんな自分をどこか他人事のように感じながら、乾いた笑いを漏らした。

 

「はは……なんだこれは……?」

 

 泣き笑いに近い声だった。喉の奥が震え、うまく呼吸ができない。

 

「ちゃんと覚悟してたのに……。送り出すって、決めてたのに……。どうして……」

 

 そこまで言って、セイアは力なく壁に背を預け、そのままずるずるとへたり込んだ。膝を抱えるように座り込んで、片手で口元を覆う。涙は止まらない。普段なら絶対に見せない無防備な姿だった。

 

 ナギサは、そんな二人の姿を見ていた。

 

 見ていた、というより、見せつけられていたのかもしれない。自分だけは最後まで崩れないつもりでいた。せめて最後くらい、ティーパーティーとして。二人の前でだけでも、取り乱さずにいたいと思っていた。

 

 だが、もう無理だった。

 

 ナギサはゆっくりとその場に座り込む。膝から力が抜けるという表現が、これほど正確に自分の状態を表すとは思わなかった。視界が滲み、胸の奥がひどく苦しい。

 

「……黒夜さん……」

 

 名前を呼んだ、その瞬間だった。

 

 彼がもうこの家の中にいないという現実が、遅れて胸の奥へと押し寄せてきた。

 

 もうこの時間に、あの穏やかな声は聞こえない。

 もうこの部屋で、彼が紅茶を淹れてくれることもない。

 もう自分たちの隣で、困ったように笑うこともない。

 

 それを理解した途端、ナギサの中に残っていた最後の理性が砕け散った。

 

 嗚咽が漏れる。

 

 涙が、どうしても止まらない。

 

「……っ、こく……」

 

 言葉にならない。呼吸がうまく続かない。それでもどうにか名前を口にしようとするたびに、喉の奥が熱く詰まって、代わりに涙だけが溢れてくる。

 

 ミカは泣きながら懇願するように言った。

 

「お願い……。黒夜、やっぱり帰ってきて……。帰ってきてよぉ……」

 

 それは祈りだった。願望ですらない、叶わないと知りながら口にしてしまう種類の、どうしようもなく幼い願いだった。

 

 その言葉に、ナギサは泣きながら首を振った。

 

「……来ません」

 

 かろうじて絞り出した声は、あまりにも弱く、あまりにも確信に満ちていた。

 

「私が……ゲヘナ側なら、もう絶対に…手放さないでしょう……」

 

 震える声でそう言いながら、ナギサは自分の両手をきつく握りしめた。

 

 黒夜は、ゲヘナにとっても失えない人間だ。彼の優しさも、彼の強さも、彼の不器用さも、全部知っている者たちがあちらにはいる。そして何より、黒夜自身が彼らを大切に想っている。

 

 ならば。

 

 ようやく戻ってきた彼を、簡単にこちらへ返すはずがない。

 そしてそれは、責められることでもない。むしろ自分たちだって同じことをした。だからこそ分かってしまう。

 

「もう……私たちは……」

 

 ナギサは息を吸った。だが、感情が先に溢れてしまう。

 

「もう私たちは、黒夜さんと一緒に歩めないんですよ!!」

 

 後半は、ほとんど泣き叫ぶような声になっていた。

 

 それは誰かを責める言葉ではなかった。自分自身への断罪に近かった。自分たちがやったこと、自分たちが壊してしまったもの、自分たちが手放さなければならない未来。その全部を、ようやく言葉にしてしまっただけだった。

 

 ミカも、セイアも、返事はしなかった。

 

 返せなかったのだ。

 

 理解していたから。

 

 頭では、ずっと前から分かっていた。こうなるしかないことも、黒夜が戻ってこないであろうことも、最後には手放さなければならないことも、全部分かっていた。

 

 それでも、理解したくなかった。

 

 理解してしまえば、この幸せだった時間が本当に終わってしまうから。

 

 ミカの泣き声が大きくなる。セイアは顔を伏せたまま肩を震わせている。ナギサは両手で口元を押さえながら、それでも抑えきれずに嗚咽を漏らしていた。

 

 誰もいない家だった。

 

 つい先ほどまで四人でいたはずの場所が、今はひどく広く感じる。黒夜のいない空間は、ただ静かで、ただ虚しくて、そして残酷なほど現実的だった。

 

 テーブルの上には、まだ少しだけ温かいカップが残っている。

 片付ける者もいない。

 触れればまた泣いてしまうと分かっているから、誰も手を伸ばせない。

 

 三人の泣き声だけが、空っぽになった家の中にいつまでも響いていた。

 

 それは、自分たちの罪を認めた者たちの泣き声だった。

 愛してしまったことを後悔しながら、それでも愛していた時間を捨てられない者たちの泣き声だった。

 そして、もう戻らない幸せを知ってしまった者たちの、どうしようもなく遅すぎた慟哭だった。

 

 

 どれほど泣いていたのか、三人にはもう分からなかった。

 

 最初は誰かの嗚咽が部屋に響いていたはずなのに、いつしかそれすら途切れ、今はただ重たい沈黙だけが家の中を満たしている。涙はまだ止まりきっていなかったが、あれほど感情をぶつけるように泣き叫んでいた声は、もうどこにもなかった。泣き疲れて、息を整えることすら面倒になって、ようやく訪れた静けさだった。

 

 先ほどまでまだ温もりを残していた黒夜のカップも、今ではすっかり冷えきっていた。

 

 それが、妙に残酷だった。

 

 人の体温が抜けていくように。誰かがそこにいたという痕跡が、時間に押し流されていくように。少しずつ、けれど確実に、黒夜のいた現実が過去になっていく気がして、三人はそのカップから目を逸らせなかった。

 

 窓の外では、相変わらず街が動いているのだろう。遠くから車の走る音が聞こえる。鳥の声も、かすかに混じっている。なのに、この家だけは世界から切り離されてしまったように静かだった。

 

 ミカが、膝を抱えたままぽつりと呟いた。

 

「……もっと、一緒に居たかった」

 

 その声は擦り切れていた。泣きすぎたせいで喉が枯れて、子どもみたいに頼りない音になっている。

 

「これからも……ずっと一緒に過ごしていきたかった……」

 

 誰に向けるでもない、独白だった。

 

 けれどその言葉は、部屋の中にいる二人の胸にも、そのまま落ちていく。

 

 ミカは顔を伏せたまま続けた。

 

「もっと私に……笑いかけて欲しかった……。もっと、私を求めて欲しかった……」

 

 最後の方はもう言葉になっていなかった。願いというより、欲望の告白に近かった。黒夜と過ごした時間の中で、ミカは何度も満たされて、何度も飢えていたのだろう。自分の方を見てほしい。自分の隣にいてほしい。自分を必要としてほしい。そんな当たり前のようでいて、決して口には出せなかった感情を、今になってようやく吐き出していた。

 

 セイアは壁にもたれたまま、長く息を吐いた。

 涙はようやく落ち着いたが、目元は赤く、声にもまだ湿り気が残っていた。

 

「……ここに閉じ込めると決めた時点で」

 

 静かな声だった。

 

「そんな幸せな未来は、もう終わっていたんだよ」

 

 その言葉には、自嘲も諦めも混じっていた。

 

 黒夜を守りたいと思った。失いたくないと思った。そうして選んだ手段が、彼の自由を奪うことだった。その時点で、自分たちは決定的に道を間違えたのだと、今なら分かる。

 

 けれど、その“今”が、あまりに遅かった。

 

「そのことに……最後になるまで気付かなかったんだ」

 

 セイアは目を閉じる。

 

「私たちは…」

 

 理屈では分かっていたはずだった。自分たちのやっていることが正しくないことも、この時間がいつか必ず終わることも、全部。けれど分かっているつもりでいただけで、本当は理解したくなかった。理解してしまえば、自分たちの幸せが罪の上に成り立っていることを認めることになるから。

 

 ナギサはそんな二人の言葉を黙って聞いていた。

 

 胸の奥に残っている痛みは、まだ少しも薄れていない。黒夜がもうここにいないという現実は、時間が経つほどに輪郭を増していくばかりだった。けれど、それでも。自分の中にある感情を、全部否定したいとは思えなかった。

 

 ナギサは静かに口を開いた。

 

「……反省はしています」

 

 声は小さかったが、揺らぎはなかった。

 

「自分たちがしたことが、決して許されるものではないと分かっています。皆さんを裏切って、黒夜さんを裏切って、それでも自分たちの願いを優先してしまったのですから」

 

 そこまで言って、ナギサは一度テーブルの上のカップへ視線を落とした。

 

「でも……」

 

 唇が、少しだけ震える。

 

「それでも、幸せでした」

 

 その言葉は、懺悔の続きを裏切るようでもあった。けれど、それこそがナギサの本心だった。

 たとえ始まりが歪んでいても。たとえ結末が、こんな形の別れだとしても。

 あの時間だけは本物だった。

 

 紅茶を飲んで、食事をして、他愛のない話をして、少しだけ肩の力を抜いた黒夜がそこにいて。三人でそれを見守りながら、時に笑って、時に冗談を言って。そんな何気ない一日一日が、自分にとって何ものにも代えがたいものだったのだと、ナギサはどうしても認めずにはいられなかった。

 

「ここで過ごした時間が、嘘だったとは思いません」

 

 言い切った後、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。

 

 今ここでようやく、三人はそれぞれ胸の内に押し込めていたものを吐き出せたのだろう。失いたくなかったもの、欲しかったもの、間違えてしまったもの、そしてそれでも大切だった時間のことを。

 

 けれど、吐き出したからといって何かが解決するわけではない。

 

 彼女たちを癒やせるものがあるとすれば、それはきっと時間だけだった。

 

 どれほど泣き、どれほど悔やみ、どれほどあの時間を思い返しても、今日この瞬間に心が救われることはない。ただ、いずれ痛みの輪郭が鈍くなり、いつか笑って思い出せる日が来るのだとしたら、それは時間が運んでくれる救いなのだろう。

 

 どれくらい経ったのか。誰も時計を見ていなかったが、涙も嗚咽もようやく落ち着き、三人は少しずつ冷静さを取り戻し始めていた。

 

 最初に動いたのはナギサだった。

 

 彼女はテーブルの上に置かれた黒夜のカップを見つめる。冷えきってしまった紅茶の色が、そこに残された時間の終わりを告げているようだった。名残惜しそうに目を細め、それからそっと手を伸ばす。

 

 その瞬間だった。

 

 横から、ミカとセイアの手も同時に伸びてきた。

 

 三人の指先が、カップの取っ手の近くで重なる。

 

 一瞬だけ、誰も何も言わなかった。

 

 それからミカが、かすれた声で笑った。

 

「……この黒夜のカップだけは、三人で片付けようよ」

 

 その提案は、子どものようでいて、どこか儀式めいていた。

 

 ナギサとセイアは、ほとんど同時に頷いた。

 

 そうして三人は、カップを慎重に持ち上げる。まるで壊れやすい何かを扱うように、丁寧に。キッチンまで運び、水を流し、スポンジに洗剤をつける。いつもなら何でもない家事の一つにすぎない行為が、今日は妙に特別なものに思えた。

 

 カップの縁に残っていた紅茶の跡が水に溶け、流れていく。

 

 その様子を見つめながら、ナギサは静かに言った。

 

「……黒夜さんなら、私たちがいなくても大丈夫です」

 

 言葉にすると、胸が痛んだ。

 

 それでも続ける。

 

「彼は、私たちと違って強いですから……」

 

 ミカが小さく「うん……」と答える。セイアも「そうだね」と頷いた。

 

 認めたくはなかった。けれど本当は、三人とも知っていたのだ。黒夜は優しすぎるくせに、自分のことだけは驚くほど強く後回しにできる人間だということを。壊れそうで、危うくて、それでも前に進いてしまう人間だということを。

 

 だからこそ、手放せなかった。

 そしてだからこそ、最後には送り出さなければならなかった。

 

 カップを洗い終え、三人は静かに元の場所へ戻す。それで一区切りついたように、部屋の空気がほんの少しだけ動いた。

 

 その後、三人もこの家を出て日常に戻る準備を始めた。

 立ち上がり、玄関へ向かおうとする。

 その途中で、自然と視線が向かってしまったのは――黒夜が使っていた部屋だった。

 

 つい自然と足が止まる。

 そして、ナギサがそっと扉を開けた。

 中は静かだった。

 

 きれいに整えられたベッド。机の上には畳まれた三角巾。窓から差し込む光が床の一部を明るく照らしている。その光景は、まるで今朝まで人が使っていた部屋とは思えないほど整然としていて、逆にそこに誰もいないという事実だけが、ひどく際立って見えた。

 

 空になった部屋が、ぽつんとそこに存在している。

 黒夜の気配だけが、うっすらと残っているようで。けれど姿はどこにもない。

 

 三人は、何も言わなかった。

 この部屋をどうするか、口に出して相談する必要もなかった。

 

 ――このままにしておこう。

 

 誰もそう言わなかったのに、三人とも同じ結論にたどり着いていた。ベッドも、机も、三角巾も、全部そのままでいい。少なくとも今は、触れたくなかった。

 扉を静かに閉める。

 

 それから三人は玄関へ向かい、家の外へ出た。

 最後にナギサが振り返る。

 

 閉じられた家の中は、静かだった。

 だがそこには、確かに四人で過ごした時間が残っていた。

 紅茶の香りも、笑い声も、ささやかな会話も、全部もう過去のものなのに。それでも、この場所だけはまだ、それらを完全には失っていないように見えた。

 だからナギサは、小さく心の中でだけ呟く。

 

(今までありがとうございました、黒夜さん)

 

 言葉にはならなかった。

 ただ、その家に向けてほんの少しだけ頭を下げる。

 

 そして三人は歩き出した。

 

 もう戻れない日々を胸に抱えたまま、現実の中へ戻っていくために。

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