ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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二つの居場所

 黒夜がトリニティを去ってから、もう一ヶ月の時が経っていた。

 

 たった一ヶ月。されど一ヶ月だった。

 

 時間というものは不思議なもので、短いようでいて、確実に人の内側を変えていく。

 喪失の痛みを和らげることもあれば、逆に「もう戻らないのだ」という現実を、日ごとに深く染み込ませていくこともある。

 

 少なくとも、ティーパーティーの三人にとって、この一ヶ月は後者だった。

 

 ナギサは以前と変わらず厳粛で、優雅で、完璧だった。

 

 背筋を伸ばし、言葉を選び、紅茶を嗜み、会議では冷静に全体を見渡し、必要な決断をためらいなく下す。外から見れば、トリニティを統べる者として何一つ不足はない。むしろ以前よりも隙がなくなったようにさえ見えた。

 

 けれど、そこからは確かに温かさが消えていた。

 

 黒夜がいた頃のナギサには、業務中でも少しだけ人間らしい柔らかさがあった。困ったように笑う黒夜を見るたびに浮かぶ微笑み。彼の淹れた紅茶を飲んだ時の、わずかに緩んだ口元。仕事の合間に交わされる、ささやかで意味のない会話の中に滲む安堵。

 

 そうしたものが、今はどこにもない。

 

 ナギサはただ、その日の業務をこなしていた。

 

 まるで機械のように。

 目の前に積まれていく書類を処理し、会議をこなし、決裁を下し、必要な指示を出す。そこに感情の揺らぎはほとんど見えない。完璧であることだけが、彼女を支えているようだった。

 

 どれほど周囲が「働きすぎです」と止めても、ナギサは必ず同じような笑顔を浮かべた。形の整った、痛々しいほど綺麗な笑顔を。

 

「大丈夫です。今は業務に集中していたいのです」

 

 その言葉には反論の余地がなかった。けれど、だからこそ余計に見ている者の胸を刺した。集中していたいのではない。そうしていなければ、空いた心に何かが流れ込んできてしまうのだと、誰の目にも分かったからだ。

 

 ミカは、さらに露骨だった。

 

 黒夜がいた頃のミカは、明るかった。うるさいと言われるほどによく喋り、よく怒り、よく笑っていた。その感情の全部がまっすぐで、だからこそティーパーティーの重たい空気を和らげる役割も担っていた。

 

 だが今の彼女には、その無邪気な輝きが見えない。

 

 笑わないわけではない。必要な場面では微笑みもするし、社交の場ではそれなりに明るく振る舞うこともできる。けれど、その笑顔はどれも薄かった。表情だけが形を作っているだけで、その瞳の奥には何も映っていないように見える。

 

 虚無。

 

 その言葉が一番近かった。

 

 誰かに話しかけられれば応じる。業務を振られればこなす。必要があれば会議にも出る。けれど、それ以上のものは何一つ湧いてこない。まるで感情の大半をどこかへ置いてきてしまったように、ミカはただ目の前の仕事を淡々とこなしていた。

 

 たまに笑っても、その笑顔の中に、あの屈託のなさはもうない。

 

 セイアは、一見すると最も変化が少なく見えた。

 

 もともと彼女は感情を表に出すタイプではない。静かで、達観していて、他人を少し引いた場所から見ているようなところがある。だから、ぱっと見ただけでは以前と今の違いに気付かない者も多かった。

 

 だが、近くで見れば明らかだった。

 

 口数が減っている。

 

 以前なら皮肉や軽口の一つでも飛ばした場面で、今のセイアは必要最低限しか話さない。聞かれたことにだけ答え、会議で必要な発言だけをして、それ以外はただ黙っている。

 

 その沈黙には、どこか諦めがあった。

 

 話そうが、話すまいが、この気持ちが晴れる事はない。

 どうせ目の前の業務はなくならない。

 ならば、余計な言葉を使う意味はない。

 

 そんな乾いた思考が透けて見えるようだった。

 

 感情を抑えているというより、最初からそこに何も期待していないような態度。その冷たさは、静かな分だけナギサやミカよりも余計に痛々しかった。

 

 そして――

 

 この三人の変化が、そのままティーパーティー全体の空気を変えていた。

 

 以前のティーパーティーは、清廉で厳かでありながら、不思議と温かさのある場所だった。

 高貴さの中に、人が居る気配があった。けれど今は違う。

 

 清純で、厳粛で、隙がない。

 けれど、寂しい。

 

 冷たい、と言い換えてもいい。

 

 完璧であることは変わらない。むしろ以前よりも完成された印象すらある。だがその完成度が、かえって人を寄せつけない硬さになってしまっていた。

 

 ティーパーティーに関わる生徒たちは、無意識のうちにその変化を察していた。言葉にする者は少ない。だが誰もがどこかで感じている。

 

 温かさが失われた。

 

 その「温かさ」が何なのか、明確に理解している者は少ない。だが、その原因が月城黒夜という一人の少年であることを、知らず知らずのうちに悟っている者は少なくなかった。

 

 そして、ティーパーティーの空気がそうであるなら、当然トリニティ全体にも影響は及ぶ。

 

 学園のあちこちに漂う静けさ。

 生徒たちの声量がどこか控えめになり、廊下に流れる空気が重くなる。以前ならもっと活気に満ちていたはずの場所でさえ、今はどこか気を遣うような静けさが支配している。

 

 誰も口には出さない。

 けれど全体が、沈んでいた。

 

 それは小さな異変だった。明確な事件ではない。何かが壊れたわけでも、誰かが倒れたわけでもない。だが、そうした“目に見えない冷たさ”ほど、組織全体をじわじわと蝕むものはない。

 

 だからこそ――それを打開しようとする動きが出るのは、ある意味で当然だったのかもしれない。

 

 フィリウス分派。

 パテル分派。

 サンクトゥス分派。

 

 トリニティを構成する三大派閥から、ある声が上がり始めた。

 

 ティーパーティーの専属護衛を、新しく着任させるべきではないか。

 

 表向きの理由はもっともらしかった。ティーパーティーの護衛が長く不在であることは体制上の不備だ、今後の安全保障のためにも新任は必要だ、組織運営として空席を放置するのは好ましくない――そういった、いかにも正論らしい言葉が並べられていく。

 

 だが、ナギサたち三人は内心で冷ややかに理解していた。

 

(黒夜さんの後釜が務まるわけがない)

 

 ナギサはそう思った。

 

(ふざけるな…)

 

 ミカの胸中には、もっと露骨な言葉が浮かんでいた。

 

(どうせ、ティーパーティーに近付いて甘い蜜を吸いたいだけだろう…)

 

 セイアも同じようなことを、ずっと冷めた目で考えていた。

 

 誰もが“正しさ”を口にする。

 だがその実、ティーパーティーの専属護衛という立場に惹かれているだけだ。黒夜がいたからこそ成立していた信頼も、空気も、あの距離感も何一つ知らないまま、その席だけを欲しがっている。

 

 けれど――

 

 三人は、それに対して強く反発する気力すら、もう持っていなかった。

 

 怒ることも、拒むことも、説得することも。

 どれもこれも、今の三人にはひどく遠い行為に思えた。

 

 もう、どうでもいい。

 そんな投げやりな諦めが、三人の心のどこかに根を張ってしまっていた。

 だから三人は、特に何もせず、それを受け入れた。

 

 止める気になれなかったと言った方が近いかもしれない。抗えば面倒な交渉が増える。説明が必要になる。そんなことに使う力があるなら、ただ黙って流されていた方がまだ楽だった。

 

 そうして、ティーパーティー専属護衛の新任面接が行われることが、半ば既定路線のように決まっていった。

 

 誰もそれを望んではいなかった。

 けれど、三人の望みなどもう、この一ヶ月のどこかで置き去りにされてしまっていたのかもしれない。

 

 それでもナギサは、淡々と書類に目を通す。

 ミカは、そこに書かれた候補者の名前を見ても何も感じないような目でページをめくる。

 セイアは、面接の日程が記された予定表を見て、小さくため息を吐いた。

 

 明日――専属護衛面接日

 

 その文字だけが、やけに冷たく見えた。

 

 次の日の朝。

 ナギサはいつもより早く目を覚ました。

 

 本来なら、そのままトリニティ総合学園へ向かうはずだった。ティーパーティーの仕事は朝から始まる。しかも今日は、あまり考えたくもない予定が組まれている。専属護衛の後任候補たちとの面接。自分たちが何一つ望んでいないまま、周囲の都合と理屈だけで決まってしまった、嫌悪と諦めの入り混じる一日だ。

 

 だからこそ、なのかもしれなかった。

 ナギサの足は、学園とは違う方向へ向かっていた。

 意識して決めたというより、気付けばそうしていたに近い。行くべき場所ではなく、行きたい場所に体が動いてしまっていた。

 辿り着いた先は、トリニティの校舎でも、ティーパーティーの執務室でもない。

 

 ――かつて、黒夜と過ごしていた家だった。

 

 扉の前で、ナギサはほんの一瞬だけ立ち止まる。玄関の鍵を取り出す指先に、わずかな躊躇いが混じった。ここへ来るのは、あの日以来だった。三人で泣き崩れ、残された時間の温度だけを抱きしめるようにして去っていった、あの時以来。

 

 それでも、ナギサは静かに鍵を差し込んだ。

 

 扉を開ける。

 

 家の中には、朝の冷えた空気が溜まっていた。人の気配がない静けさ。けれど、何もかもが以前のまま残されているせいで、まるで今も誰かが「おはようございます」と声を掛けてきそうな錯覚だけが薄く残っている。

 

 玄関に視線を落としたナギサは、そこで小さく目を見開いた。

 

 靴が二足あった。

 

 自分以外の誰かが、すでにここに来ている。

 

 ナギサは少しだけ息を吐き、靴を揃えてから中へ進んだ。

 

 リビングへ向かうと、そこにはすでに二人の姿があった。

 

 ミカはソファにだらりともたれるように座り、セイアは椅子に腰掛けて窓の外を眺めている。どちらも黒夜がいた頃に比べればずっと静かで、ずっと影を落としている。けれど、この家の中にいるせいか、いつものティーパーティーの執務室で見るよりも少しだけ人間らしい顔に見えた。

 

 ナギサが入ってきたことに気付くと、ミカが顔を上げた。

 

「やっぱりナギちゃんも、ここに来たんだね」

 

 その言い方は、驚きではなく確認に近かった。来るだろうと思っていた者を、実際に見つけた時の声音だ。

 

 ナギサはリビングの入口に立ったまま、二人を見つめた。

 

「……どうしてミカさんとセイアさんも、ここへ来たんですか?」

 

 問いかけながらも、半分以上は答えを分かっていた。けれどあえて口にするのは、自分だけが弱いわけではないと確認したかったからかもしれない。

 

 セイアが窓の外から視線を外し、ナギサの方を見た。

 

「君と同じ理由だと思うよ」

 

 淡々とした言葉だった。

 だが、その端に滲んだ疲れと寂しさは隠しきれていない。

 三人とも、分かっていた。

 

 今日の専属護衛面接で、黒夜の後釜が決まってしまうかもしれないことを。

 

 もちろん、それは制度や体裁の上では自然な流れなのだろう。ティーパーティーの専属護衛が不在のままでは問題がある。護衛体制を整えるべきだ。そういう理屈を並べられれば、表面上は否定しづらい。

 

 けれど、理屈はあくまで理屈だ。

 

 自分たちにとってそれは単なる人事の話ではなかった。

 黒夜と共にあった時間が、また一つ現実の中から上書きされていくということだった。

 彼が座っていた場所に、別の誰かが座るかもしれない。

 彼の名で呼ばれていた役目を、別の誰かが引き継ぐかもしれない。

 

 そんなもの、耐えられるはずがなかった。

 だから三人は、不安を拭うように、逃げ込むように、この家を目指したのだろう。

 

 ナギサも椅子に腰掛ける。

 それからしばらく、誰も何も言わなかった。

 

 ただ、家の中の静けさの中で、それぞれがそれぞれの思い出に浸っていた。どれほど惨めで、どれほど虚しい行為だとしても、そうしなければ今日という日を耐えられなかった。

 

 黒夜が使っていたカップ。

 黒夜がよく立っていたキッチン。

 何でもないような顔でこちらを見ていた視線。

 その全部が、この家には残っている。

 

 見えないはずなのに、ここにいると確かに感じてしまうのだ。彼の不器用な気遣いも、困ったような笑顔も、静かな声も。

 

 ミカが、ぽつりと呟いた。

 

「……もう一ヶ月、経ったんだね」

 

 ナギサとセイアは短く頷く。

 

「ええ」

 

「そうだね」

 

 たったそれだけのやり取りなのに、その一言の中には一ヶ月分の空白が詰まっていた。

 そこから、自然と話題は黒夜のいた頃の思い出に移っていった。

 ミカがソファの背に頭を預けながら、少しだけ笑う。

 

「黒夜が専属護衛になって初めて淹れた紅茶、ひどかったよね」

 

 その一言に、セイアも肩を震わせた。

 

「確かに、あれは酷かったな。温度も蒸らしもめちゃくちゃだった。よくあの状態で“どうぞ”なんて平然と出してきたものだよ」

 

 二人の言葉を聞いて、ナギサの脳裏にも鮮明にあの日の記憶が蘇る。

 

 あの頃の黒夜は、今思えば必要以上に肩に力が入っていた。礼儀正しく、完璧であろうとして、そのくせ慣れない紅茶の作法にまで手を出して、結果として酷い一杯を淹れてきた。

 

 見た目こそそれらしく整えていたが、飲んだ瞬間に分かる。茶葉は死んでいて、湯の温度も足りず、蒸らしも不十分。香りも味もあったものではなかった。

 あまりの出来に、ナギサは一口飲んだ後、珍しく感情を隠しきれなかったのだ。

 

 ――黒夜さん、これは紅茶ではありません。

 

 あの時、自分は確かに少し怒っていた。

 

 いや、少しどころではなかったのかもしれない。今思い返せば、黒夜はかなりしょんぼりしていた気がする。だが、あの場ではそれでも構わないと思っていた。ティーパーティーの護衛たる者、最低限の紅茶の知識は必要だという、随分もっともらしい理由をつけて。

 

 その後、結局は細かく淹れ方を教えたのだから、自分も大概だったのだろう。

 

 ナギサが当時のことを思い出して黙り込んでいると、ミカが楽しそうに笑った。

 

「ナギちゃん、あの時ちょっとキレてたよね」

 

 その瞬間、ナギサは反射的に顔を上げた。

 

「ミカさん!」

 

 珍しく少しだけ声が強くなる。

 

「その話は、いいじゃないですか!」

 

 恥ずかしさから、ほとんど遮るように言うと、ミカが余計に面白そうに肩を揺らした。セイアもそのやり取りを見ながら、久しぶりに本来の彼女らしい乾いた笑い声を零す。

 

「ふふ……いや、でも事実だ。君、あの時は本当に機嫌が悪かったからね」

 

「セイアさんまで……!」

 

 ナギサは思わず眉を寄せる。

 

 けれど、そのやり取りそのものが、どこか懐かしかった。

 こうして三人で、黒夜のことを話しながら少しだけ笑える。

 その一瞬だけは、喪失の痛みが薄れて、本来の自分たちが戻ってきたような気がした。

 

 だが、穏やかだった空気は、次の話題で急に冷えた。

 

 専属護衛の後任の話に移った瞬間、三人とも露骨に嫌な顔をした。

 

 ナギサが息を吐く。

 

「……仕方がないこととはいえ、嫌ですね」

 

 声に滲むのは、諦めと嫌悪だった。

 

 ミカはソファの背に頭を預けたまま、心底うんざりした顔で言う。

 

「どうせ役に立たないんだから、今日の面接で全員落とせばいいんじゃない?」

 

 かなり本気だった。

 

 セイアは視線を落としたまま、冷めた口調で言う。

 

「私は、専属護衛自体なくしてしまえばいいと思っているのだが……どうせ後任は私たちを守るわけじゃない。私たちの権力を守るだけだろう?」

 

 その言葉には、派閥に対する嫌悪がそのまま乗っていた。

 

 黒夜は違った。彼は立場や利益のために側にいたわけではない。最初こそ別の目的があったにせよ、最後には本当に自分たちを守ろうとしていた。だからこそ、今さら形だけ同じ役目の者を据えられても、何の意味も感じられないのだ。

 

 話しているうちに、気付けば時間がかなり経っていた。

 外の光の角度が変わっている。壁掛け時計に視線を向けたナギサは、はっとして椅子から身を起こした。

 

「……まずいですね」

 

 ミカとセイアもつられて時計を見る。

 いつもなら、すでに学園へ着いている時間だった。

 

「え、もうこんな時間?」

 

「……流石に話過ぎたな」

 

 ナギサは立ち上がる。

 

「急ぎましょう。流石に今日は、これ以上遅れるわけにはいきません」

 

 その言葉に二人も慌てて立ち上がる。

 現実逃避の時間は、もう終わりだ。

 三人は名残惜しさを押し込めるようにして家を出た。扉を閉める時、誰も振り返らなかった。振り返ってしまえば、また足が止まってしまう気がしたからだ。

 そうして三人は、慌ただしく学園へ向かうのだった。

 

 学園に着いた頃には、三人ともすっかり無口になっていた。

 

 先ほどまであの家で交わしていた会話も、玄関を出た瞬間から少しずつ色を失っていった。思い出を語っている間だけは、確かに心が温まっていたはずなのに、トリニティの校舎が見えてくるにつれて、そのぬくもりはまた日常の冷たい輪郭に押し戻されていく。

 

 結局、現実は何も変わっていない。

 

 黒夜はもういない。

 今日もまた、灰色の日々が始まる。

 そしてその先には、望みもしない専属護衛の面接が待っている。

 

 ナギサは黙って前を歩きながら、胸の奥でそう言い聞かせていた。期待はしない。何も望まない。ただ今日という日をやり過ごせばいい。そうやって一日一日を積み重ねていけば、いずれ痛みも少しは薄れていくのかもしれない。

 

 ミカはそんなナギサの横顔をちらりと見たが、何も言わなかった。セイアもまた、必要以上の言葉を挟まない。ただ三人とも、それぞれに重たいものを抱えたまま、いつも通りティーパーティーの執務室へと向かっていた。

 

 そして、扉の前に立つ。

 

 ここを開ければ、今日もまた変わらない現実が始まる。色の失われた執務室。必要最低限の会話。淡々と処理されていく業務。そういう一日が、また静かに流れていくのだろう。

 

 ナギサは小さく息を整えた。

 それから、扉を開ける。

 中は、いつもの執務室だった。

 整えられた机。差し込む朝の光。窓際に並ぶ調度品。何一つ変わっていない、はずの光景。

 だが、そこに一つだけ異物があった。

 

 窓際に、一人の生徒が立っていた。

 

 こちらに背を向け、外を見ている。朝の逆光のせいで輪郭が白く滲み、顔まではよく見えない。だが、少なくとも今日の面接予定者にしては妙に落ち着き払っている。勝手に執務室へ入り込み、こちらに背を向けたまま立っているなど、本来ならあり得ない。

 

 ナギサの足が、扉をくぐったところで止まる。

 その様子を不審に思ったのだろう。後ろから入ってきたミカとセイアも足を止めた。そして二人もまた、窓際の生徒に気付く。

 最初に口を開いたのはミカだった。

 不機嫌さを隠そうともせず、棘のある声で言う。

 

「ねぇ君さ、なんで勝手に入ってるの? ここがティーパーティーの執務室って分かってる?」

 

 その声に、窓際の生徒がようやくこちらを振り返った。

 逆光の中から、聞き覚えのある声が届く。

 

「あれ? 今日は三人揃って遅刻ですか? 珍しいこともあるもんですね」

 

 その声を聞いた瞬間だった。

 ナギサの呼吸が止まる。

 ミカの口がわずかに開く。

 セイアの目が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。

 反応できなかった。

 あまりにも聞き慣れたその声を、頭がすぐには現実として受け止めきれなかったからだ。

 

「……え?」

 

 ようやく、ナギサの口からかすれた音が漏れる。

 

 ミカも「あ……え……?」と、言葉にならない音をこぼしていた。セイアは声すら失っていた。

 

 窓際の生徒は不思議そうに首を傾げる。

 そして、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

 朝の光から抜け出したその姿が、はっきりと見えた。

 

 黒夜だった。

 

 黒髪。落ち着いた眼差し。左目に白い眼帯。見慣れたはずの姿が、信じられないくらい遠いところから急に現実へ滑り込んできたように見えた。

 黒夜は三人の前まで来ると、心底不思議そうに言った。

 

「皆さん、すごい顔してますよ? 大丈夫ですか?」

 

 大丈夫なわけがなかった。

 ナギサたちは、どうしてここに黒夜がいるのか理解できなかった。いや、理解する以前に、目の前の光景を認識するだけで精一杯だった。

 

 一ヶ月。

 

 たった一ヶ月かもしれない。けれど、三人にとってその一ヶ月は、黒夜がいない現実を必死に飲み込もうとしてきた時間だった。その間に、埋めることのできない喪失を受け入れようとしてきた。その黒夜が、何の前触れもなく、当たり前みたいな顔でここに立っている。

 

 そんなこと、あまりにも反則だった。

 三人が揃って固まっているのを見て、黒夜は少し困ったように眉を下げる。

 

「あれ? もしかして先生やゲヘナ側から通達されていませんでしたか?」

 

 ナギサたちは顔を見合わせる余裕もないまま、ほとんど反射的に首を振った。

 

「……何も聞かされていません」

「知らない」

「……初耳だ」

 

 三者三様に答えると、黒夜は盛大にため息を吐いた。

 

「今、全部分かりました」

 

 わずかに肩を落としながら、どこか呆れたように呟く。

 

「バカマコト様と先生が、やたらニヤニヤしていた意味がはっきりと……」

 

 そう独り言を言いながら、懐から一つの封筒を取り出した。そしてそれを、まだ状況を掴みきれていないナギサへ差し出す。

 

「これをどうぞ、ナギサ様」

 

 ナギサは無意識にそれを受け取った。封筒の感触が妙に現実的で、だからこそ余計に手が震える。

 

 中を開く。

 

 入っていたのは、連邦生徒会の正式書類だった。

 書式も印も、見慣れた公的文書のもの。だが、その内容を読んだ瞬間、ナギサの指先がぴたりと止まる。

 

 ――月城黒夜は、ゲヘナ学園及びトリニティ総合学園の両学園に、同時期に在籍することを許可する。ただし、両学園の長が認めた場合に限る。

 

 そこまで読んだところで、呼吸が浅くなる。

 

 視線を下へ落とす。

 

 連邦生徒会長代行、七神リン

 ゲヘナ学園万魔殿議長、羽沼マコト

 

 そして。

 

 トリニティ総合学園の欄だけが、空白になっていた。

 

 ナギサの喉が震える。

 

 これはつまり。

 この空欄に、自分たちがサインをすれば。

 黒夜が――正式にトリニティ総合学園の生徒になる事を意味する。

 

 黒夜はそんな三人の様子には気付かないまま、少し肩を竦めて言った。

 

「いやー、この書類を用意するまでが本当に大変でして。結局、一ヶ月も掛かってしまいました」

 

 どこか苦笑混じりの口調だった。

 

「その間にナギサ様たちへ連絡しようとしたんですが、マコト様に『我々には二週間も音信不通だったのだから、あいつ等にも我々の気持ちを思い知らせてやれ』とか言われてしまいまして」

 

 黒夜は小さく頭を下げる。

 

「連絡が出来ませんでした。すみません」

 

 その言葉は、三人にはほとんど流れていった。

 

 今の彼女たちにとって重要なのは、黒夜が何故連絡できなかったかではない。

 この書類が意味するもの。

 そして、その空欄に自分たちの名前を書けば、黒夜がここに帰ってくるという事実。

 それだけだった。

 

 ナギサが、何よりも早く動いた。

 机の上に置かれていたペンを掴む。

 手が震えていた。けれど、その震えごと意志に変えて、迷いなく署名欄へ自分の名を書く。

 

 桐藤ナギサ。

 

 その字は少しだけ乱れていた。

 

 続いてミカが、ほとんど奪うようにペンを取る。

 

 聖園ミカ。

 

 最後にセイアが、息を整えることすら忘れたまま名前を書き記した。

 

 百合園セイア。

 

 書類は完成した。

 黒夜はそれを確認すると、ようやく安堵したように小さく笑った。

 

「ありがとうございます」

 

 そして一歩下がり、三人に向かって優雅に一礼する。

 

 その仕草は以前と変わらない。

 けれど今だけは、その一挙手一投足の全てが三人の胸に刺さった。

 

 黒夜は顔を上げる。

 右目に、穏やかで真っ直ぐな光が宿っている。

 

「それでは改めまして」

 

 静かに、けれどはっきりと。

 

「ゲヘナ学園情報部所属“兼”トリニティ総合学園ティーパーティー専属護衛を務めさせて頂いております、月城黒夜です」

 

 一呼吸置く。

 

 その言葉には、一ヶ月前にアリスからもらった答えがそのまま宿っているようだった。

 

「これからも、皆さんの側に仕える事を許してくれますか?」

 

 問われた三人の答えは、最初から決まっていた。

 ミカの目から、真っ先に涙が零れた。

 

「……よろこんで」

 

 笑いながら泣いている。言葉の途中で声が揺れて、それでもどうにか笑おうとしている顔は、黒夜のいた頃のミカそのものだった。

 セイアも目元を押さえながら、小さく笑う。

 

「こちらこそ……改めて、よろしく頼むよ」

 

 その言葉の最後には、久しぶりに彼女らしい柔らかな響きが戻っていた。

 ナギサは、しばらく何も言えなかった。

 書類を持つ手が震えている。視界が滲んで、黒夜の姿が少しぼやける。それでも、泣いていることを隠そうとは思わなかった。

 

 一ヶ月前、彼を送り出した時に覚えた喪失。

 灰色に沈んでいった日々。

 この執務室から消えてしまった温もり。

 

 その全部が、今この瞬間にひっくり返されていく。

 ナギサはようやく微笑んだ。

 

「……もちろんです」

 

 涙を零しながら、それでも確かに笑っている。

 

「改めて……これからも、よろしくお願いします」

 

 黒夜もまた、穏やかに笑った。

 その笑顔を見た瞬間、ナギサはようやく理解する。

 

 この一ヶ月、自分たちは失ったと思い込んでいただけだったのだと。

 黒夜は去ったのではなく、帰ってくるための道を作っていたのだと。

 自分たちが勝手に喪失の中で凍えている間も、彼は彼なりに、二つの居場所を守る方法を探し続けていたのだと。

 

 そうして、ナギサたちの灰色の日々は唐突に終わりを迎えるのだった。

 

 窓の外から差し込む光は、一ヶ月前と同じはずなのに、今はひどく明るく見えた。

 

 喪失は消えない。

 過ちも消えない。

 それでも――

 

 この瞬間だけは、三人とも同じことを思っていた。

 

 もう一度、歩いていける。

 

 彼と共に。

 

 今度こそ、失わないように。

 今度こそ、間違えないように。

 そうしてようやく、月城黒夜の物語は幸せな結末へと辿り着けたのだった。

 

 ~fin~




これにて【ティーパーティーに潜む、忠実な駒】本編は完結でございます。
皆さん長らくお付き合いくださり本当にありがとうございました。
ここまで書き続けられたのもひとえに読んでくださった、皆様のおかげだと思っております。
高評価や感想などに本当に助けられました。重ねて御礼申し上げます。



これで物語としては完結なのですが。
この後も不定期にはなるとは思いますが後日談などを投稿出来たらいいなと個人的には思っていますので、後日談も引き続き読んでいただけると幸いです。

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