ヒフミがふらりと崩れ落ちたその瞬間、黒夜の身体はほとんど反射で動いていた。
床に倒れるよりも早く、その細い身体を受け止める。
「ヒフミさん!?」
思わず声が強くなる。
腕の中でぐったりと力を失っているヒフミの体温が、妙に現実感を伴って伝わってくる。
「ヒフミさん、しっかりしてください!」
何度も名前を呼ぶ。
反応は――ない。
呼吸はしている。
顔色も極端に悪いわけではない。
だが、目は閉じたままだった。
黒夜は一度だけ大きく息を吸い、落ち着きを取り戻す。
「……」
慎重に、ゆっくりとヒフミを床に寝かせる。
その間にも、周囲が一気に騒がしくなっていた。
「ヒフミ! 大丈夫なのか!?」
アズサが駆け寄る。
その後ろからハナコとコハルも慌てて集まってくる。
「大丈夫ですか!? ヒフミちゃん!?」
「起きなさいよヒフミ!!」
三人とも、明らかに動揺していた。
ハナコは顔を覗き込み、コハルは肩に手をかけ、アズサは呼びかけ続ける。
だが。
「……反応がない」
アズサの低い声。
その一言が、空気を少しだけ重くした。
黒夜は冷静に状況を整理する。
(突然の意識喪失……原因も不明……)
外傷はない。
呼吸も安定している。
だが、このまま教室で様子を見るのは不適切だと判断した。
(ここでは対応出来ない…)
「……このままでは埒が明きません」
そう言って、ヒフミの身体をそっとお姫様抱っこで抱き上げる。。
軽い…想像していた以上に。
「私が今から救護騎士団の所に運びます!」
短く告げるとアズサがすぐに頷いた。
「頼む…!」
ハナコとコハルも道を開ける。
「お願いします!」
「早く連れて行って!私たちも後で行くから!」
黒夜は一礼だけして、そのまま教室を出た。
廊下を駆ける。
その間も、腕の中のヒフミは動かない。
(どうして突然……)
考えながらも足は止めない。
途中、何人もの生徒とすれ違う。
その視線が、一斉にこちらへ向く。
「え……?」
「あれってティーパーティーの護衛の……?」
「運ばれてるのは…誰あれ……?」
ざわめきが広がる。
当然の事だった。
トリニティの廊下を、誰かを抱えて走っているのだ。
しかも自分は男で抱えられているのは女性だ、目立たないはずがない。
だが今は気にしている余裕はなかった。
(あと少しで……)
救護騎士団の診察室へと飛び込む。
扉を開ける。
「失礼します!」
中にはちょうど、ミネがいた。
「……どうしました?」
すぐに状況を察したように立ち上がる。
黒夜は簡潔に説明する。
「ミネ団長!ちょうどいい所に!
ヒフミさんが突然気を失いました原因は不明です」
ミネは即座に頷く。
「こちらへ運んでください」
ベッドを指し示す。
黒夜は慎重にヒフミを横たえる。
「お願いします」
一歩下がる。
ミネはすぐに状態を確認し始めた。
呼吸、脈拍、瞳孔反応。
無駄のない動きだった。
数分ほど待っただろうか?
それほど長くはない時間だったが、やけに長く感じた。
やがてミネが顔を上げる。
「……大丈夫です」
その一言に、遅れて到着した補習授業部の全員がわずかに安堵した。
「ただの気絶です」
落ち着いた声で言う。
「少し休めばすぐに目を覚ますでしょう」
黒夜は小さく息を吐いた。
「……そうですか」
肩の力が少し抜ける。
だが同時に、疑問は残る。
(なんで突然気絶したんだ……?)
ミネも同じことを考えていたようだった。
「それでどうしてこうなったのですか?」
視線がこちらへ向く。
黒夜たちは顔を見合わせた。
まず口を開いたのはアズサだった。
「黒夜が来る前までは普通に雑談をしていただけだ」
ハナコが続く。
「ええ、特に変わったことはありませんでした」
コハルも頷く。
「黒夜とサクラコ様が来てから急に倒れたのよ…」
三人の証言は一致していた。
ミネは次に黒夜を見る。
黒夜は少し考えてから答えた。
「私とサクラコ様が教室に入り、ヒフミさんに話しかけようとしたところ…」
一瞬、言葉を選ぶ。
「その直後に突然気を失ってしまいました」
その説明を聞いて。
ミネの視線が、すっとサクラコへ向いた。
「……」
じっと見つめて…そして。
「あなたが何かしたのでは?」
直球だった。
サクラコは一瞬だけきょとんとした顔をして。
そして、にこりと微笑んだ。
「まさか…私は何もしていませんよ?」
柔らかな声で答えながら軽く首を傾げる。
「私は黒夜さんに頼まれて、ヒフミさんと二人で話せる場所を提供する為についてきただけです」
その態度は自然だった。
だがミネは簡単には引かない。
視線を外さず、じっと観察する。
黒夜はその間に口を挟む。
「それに関してはサクラコ様の言う通りです。私が頼みました」
落ち着いた声で言う。
「そして、ヒフミさんと出会った時も彼女に不審な行動はありませんでした」
ミネはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……わかりました」
ひとまず納得したらしい。
「原因は、本人が目を覚まさないと分かりませんね」
黒夜も頷く。
「そうみたいですね…」
そのまま静かな時間が流れる――
はずだった。
バンッ!!
突然、診察室のドアが勢いよく開いた。
「黒夜!!」
大きな声と共に飛び込んできたのは――
「誰をお姫様抱っこしたの!?」
黒夜がお姫様抱っこで誰かを運んでいたという騒ぎを聞きつけたミカだった。
興奮した勢いのまま、ずかずかと中に入ってくる。
「私もされたいんだけど!!」
目を輝かせている。
「ダメかな!?」
黒夜は一瞬、理解が追いつかなかった。
「……え?」
その後ろから、ゆっくりとナギサとセイアの二人が入ってくる。
ナギサは落ち着いた表情を保っているが、どこか圧がある。
セイアは静かだが、目が笑っていない。
そして三人は同時に黒夜を見た。
「黒夜!」
ミカが詰め寄る。
「誰を抱っこしたの!?」
「なんで!?」
「私もされたいんだけど!!」
ナギサが続く。
「黒夜さん、貴方はティーパーティー専属護衛ですよね?」
「私たち以外をお姫様抱っこするなとは言いませんが…優先順位というものがあるのでは?」
黒夜はナギサの言っている事の意味が分からなかった。
そして混乱している所にセイアがさらに続ける。
「ナギサ、ミカ」
一応止めに入る。
「少し落ち着きたまえ」
だがその視線は黒夜へ。
「ただ……今回の行動は、些か大胆だったね」
少し目を細める、まるで何かを咎める様に。
「私たちを後回しにしてまで行う必要があったのかな?」
明らかに不機嫌だった。
黒夜は――
頭を押さえたくなった。
(……この方々は何を言っているんだ?)
ヒフミが気絶しているというのに。
話題は完全に“お姫様抱っこ”に移っている。
しかもなぜか、自分たちもされたいという方向で。
(偶にこの方々の考えている事がわからない時がある……)
頭が痛くなる。
だが同時に、暴走している時によく見る光景でもあった。
黒夜は小さく息を吐く。
(まずは状況を整理しなければ)
そう思いながらも。
目の前の三人をどう説得するかで、さらに頭を悩ませるのだった。
黒夜は、わずかに目を伏せて息を整えた。
先ほどまで診察室の空気を支配していたのは、ティーパーティー三人の自由奔放な主張…いや、ほとんど要求に近い言葉の応酬だった。
話題は完全に逸れ“お姫様抱っこ”という本来どうでもいいはずの一点に集中している。
だが。
(今、優先すべきはそこではない)
意識を切り替える。
黒夜は一歩踏み出し、三人の言葉の流れに静かに割り込んだ。
「ミカ様、ナギサ様、セイア様」
その声は決して大きくはない。
だが確実に、三人の注意を引く強さがあった。
三つの視線が同時に向く。
黒夜は続ける。
「申し訳ありませんが、その件は一旦後にしていただけますか」
わずかな沈黙。
ナギサの眉がわずかに動き、セイアの目が細められ、ミカが不満そうに口を尖らせる。
だが黒夜は構わず、核心を告げた。
「ヒフミさんが、原因不明のまま突然意識を失いました」
言葉を切る。
「現在、回復を待っている状態です」
その一言で。
空気が、すっと冷える。
先ほどまでの熱が嘘のように引いた。
「……そういうことなら」
ナギサが静かに言う。
「優先順位は明白ですね」
ミカも腕を組み直す。
「……うん、まあそれなら仕方ないか」
セイアは小さく息を吐いた。
「状況を理解したよ」
だが次の瞬間、三人とも同時に黒夜を見る。
「ただし」
ナギサの声が落ちる。
「後で必ず説明していただきます」
ミカが指を突きつける。
「絶対だよ?」
セイアが静かに補足する。
「逃げ場はないと思っておいた方がいい」
三方向からの圧。
黒夜は一瞬だけ目を閉じた。
(……これは後が大変だ…)
だが今はそれどころではない。
「承知しました」
短く答えた、その時だった。
ベッドの上のヒフミの指先が、わずかに動いた。
「……ん」
微かな声。
全員の意識が一斉にそこへ集中する。
「うーん……」
ゆっくりと瞼が開く。
焦点の合わない視線が、天井を捉え、そして徐々に周囲へ移る。
「……あれ?」
掠れた声。
「私は……どうして……?」
状況を理解できていない。
黒夜は一歩引き、アズサたちに視線で合図を送る。
三人がすぐにヒフミの側へ寄った。
「ヒフミ!」
「大丈夫ですか?」
「急に倒れるからびっくりしたわよ!」
声が重なる。
ヒフミは一瞬きょとんとした後、三人の顔を見て、ほっとしたように息を吐いた。
「みんな……」
その安堵は、あまりにも無防備だった。
「ごめんなさい……」
小さく頭を下げる。
「ちょっと、緊張しちゃって……」
その言葉に、黒夜の視線がわずかに動く。
(緊張……?)
「それで、気付いたら意識が途切れて……」
ヒフミは照れたように笑った。
その笑顔は、普段と何も変わらない。
だが、アズサが首を傾げる。
「緊張? どうしてだ?」
真っ直ぐに問いかける。
「黒夜のことは知っているだろう?」
ヒフミはまだ、完全には現状を把握していない。
視線がぼんやりと揺れてまだ軽い混乱状態だとすぐにわかった。
それに補習授業部の仲間の顔を見て少し気が抜けたのもあったのだろう、だからこそ思考の整理よりも先に言葉が出てしまった。
「あはは……それは……」
軽く笑いながらそして――
「私がファウストだって黒夜さんにバレたらどんな目にあうか想像しちゃって……」
黒夜の心臓が、一拍遅れて強く鳴る。
そのまま続いてしまう。
「それで気付いたら、気を失っちゃいました」
言い切る。
何の疑いもなく。
何の警戒もなく。
――室内に静寂が訪れた。
音が消える。
空気が止まる。
誰も、動かない。
黒夜の思考が、数瞬遅れて現実に追いつく。
(……今のは聞き間違いではないですよね…)
ゆっくりと理解が確定する。
ヒフミが自らファウストであると名乗った。
アズサの声が震える。
「……ヒフミが……ファウストなのか?」
ヒフミは自然に頷く。
「そうですけど……?」
その無邪気な肯定が、逆に現実味を増幅させる。
事情を知らないミネとサクラコの二人は首をかしげているが
コハルが声を荒げる。
「嘘よね!?」
ハナコも食い下がる。
「冗談ですよね?」
ヒフミは不思議そうに首を傾げた。
「いえ……? 私がファウストですけど……」
確定。
完全な、確定。
黒夜は額に手を当てた。
(……まさかこんな形で発覚するなんて…)
ヒフミがゆっくり体を起こす。
その視界に、ようやく全員が入る。
黒夜とそしてティーパーティーのナギサ、ミカ、セイアの三人の姿。
その瞬間。
ヒフミの表情が凍りついた。
そしてすべてを理解する。
自分が、何を言ったのか。
誰の前で、言ったのかを。
(……あ)
血の気が引く。
「あはは……」
乾いた笑い。
「えーと……」
続かない。
言葉が、出ない。
その沈黙を破ったのはミカだった。
「まぁいっか!」
勢いよく踏み出す。
「これでファウスト確保して終わり!」
その瞬間に黒夜が間に入る。
「ミカ様、待ってください!」
腕で制止する。
ミカが不満そうに顔をしかめる。
「なんで!?」
黒夜は視線を逸らさない。
「一つ聞いていなかった事を確認させてください」
静かに言う。
「ファウストの正体が判明した今、ヒフミさんの処分はどのようなものになりますか?」
ミカは即答した。
「退学に決まってるじゃん!」
迷いがない。
「ブラックマーケットの銀行を襲った犯人グループのリーダーがトリニティに居るってバレたら外交で不利だもん」
肩をすくめながら重い罰を言い放つ。
だがそれは正論でもあった。
あまりにも、非の打ち所の無い。
ナギサもセイアも、否定しないのが結論だった。
ヒフミの表情が、完全に崩れる。
黒夜はその顔を見た。
そして意を決して前に出る。
「ミカ様!」
声を強める。
「ナギサ様、セイア様も」
三人を正面から捉える。
「このままヒフミさんを退学にすれば」
一切の迷いなく言い切る。
「最終的にトリニティが政治的に損をする可能性があります!」
その言葉で空気が、張り詰める。
セイアの目が鋭く黒夜に向けられる。
「……君がそこまで言うからには理由があるんだろうね?
もし、庇う為の時間稼ぎなら諦めた方が賢明だと思うが?」
黒夜は頷く。
「まずは私が調べてきた報告を聞いてください」
振り返り改めてヒフミを見る。
その視線は、優しかった。
だが同時に。
逃がさない強さもあった。
「ヒフミさん」
静かに言う。
「ここから先は、重要な話になります」
一歩、近づく。
「嘘はつかないでください」
ヒフミは、ただ頷くことしかできなかった。
その瞬間この場にいた全員が理解する。
――ヒフミの進退は、黒夜の報告次第だという事を…