ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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補習授業部編 ~7~

 トリニティの朝は、いつもどこか静かだった。

 正門へ続く石畳の道には、早朝の空気がまだ残っている。澄んだ光が校舎の壁を淡く照らし、庭園の手入れをする生徒たちの動きも、どこかゆっくりとして見えた。

 黒夜はその道を歩いていた。今日はトリニティで過ごす日だ、ゲヘナでの業務と違い、この学園に来る日は少しだけ時間に余裕がある。だからこそ、いつもよりも早い時間に到着していた。

 靴音が石畳に軽く響く、そのまま正門をくぐろうとしたとき、ふと視界の端に動くものがあった。

 

 門の横に立つ人影。

 

 黒夜は歩みを止める。

 

 見覚えのある制服。

 そして、見慣れた顔。

 

 阿慈谷ヒフミだった。

 

 ヒフミもすぐに黒夜に気づいたらしい。目が合うと、小さく手を振り、こちらへ来てほしいというように軽く招く。

 黒夜は少し首を傾げながら近づいた。

 

「おはようございます、ヒフミさん」

 

 声を掛けると、ヒフミの表情がぱっと明るくなる。

 

「おはようございます、黒夜さん!」

 

 少しだけ弾んだ声だった。

 

「今日は朝早いですね。何か私に用事でもあるんですか?」

 

 黒夜がそう尋ねると、ヒフミは少しだけ姿勢を正す。

 

「そうなんです。少しお話ししたいことがあって……ここで待ってました」

 

 その言い方に、どこか躊躇いの色が混じっていた。

 

「少しお時間、ありますか?」

 

 黒夜は腕時計をちらりと見る。

 まだ業務開始まで余裕がある時間だった。

 ほんの少し考えた後、黒夜は頷く。

 

「ええ、問題ありませんよ」

 

 軽く微笑む。

 

「まだ仕事を始めるには早いですし、少しなら大丈夫です」

 

 その返事を聞いた瞬間、ヒフミの肩がわずかに下がった。

 安堵したようにも見える。

 

「よかったです」

 

 そう言って、ヒフミはくるりと踵を返した。

 

「じゃあ、こっちに来てください」

 

 黒夜はその後ろを歩く。

 案内された場所は、校舎の一角――普段、補習授業部が使っている空き教室だった。

 まだ朝早い時間ということもあり、周囲にはほとんど人の気配がない。廊下には窓からの光が差し込み、静かな空気が流れている。

 

 ヒフミは教室の扉を開け、中へ入り黒夜も続いた。

 机が整然と並ぶ室内は、まだ誰も使っていない状態だった。朝の光が黒板に反射し、埃一つない床に淡く広がっている。

 ヒフミはその中央あたりで立ち止まった。

 黒夜も自然と歩みを止める。

 

「それで? 私に話があるとのことでしたが……」

 

 黒夜が穏やかに問いかける。

 ヒフミはすぐには答えなかった。

 少しだけ視線を下げる。

 指先が制服の袖を軽くつまんでいる。

 言葉を探しているようだった。

 

「……あの」

 

 小さく声を出す。

 それから一度、深呼吸をした。

 

「どうしても、聞きたいことがありまして」

 

 黒夜は黙って待つ。

 急かさない。

 その沈黙が、逆にヒフミを後押ししたらしい。

 ヒフミは顔を上げる。

 そして、真っ直ぐ黒夜を見る。

 

「どうしてあの時、私のことを庇ってくれたんですか?」

 

 単刀直入な問いだった。

 黒夜はその言葉を聞いて、少しだけ考える。

 

 “あの時”

 

 つまりヒフミが、自分がファウストだと意図せず口にしてしまった、あの場面だろう。

 黒夜は腕を軽く組み、少しだけ首を傾げた。

 

「どうして……ですか」

 

 小さく呟く。

 

「うーん」

 

 考える。だが、それほど難しい問いでもない。

 黒夜はすぐに答えた。

 

「特に個人的な理由はありません」

 

 ヒフミの目がわずかに大きくなる。

 黒夜は肩をすくめた。

 

「ただ、ヒフミさんが誤解で重い処分を受けるのが我慢ならなかっただけです」

 

 その言い方は、あまりにも自然だった。

 作った言葉ではない。

 本当に、そう思っている人の声色だった。

 

 ヒフミの表情が、一瞬だけ揺れる。

 胸の奥に何かが込み上げてくる。

 だが、それは言葉になる前に黒夜の次の言葉で上書きされる。

 黒夜は軽く笑った。

 

「それに貴方のような善良な人が、銀行強盗のリーダーなんて話」

 

 少しだけ肩をすくめる。

 

「そもそもおかしいんですよ。犯人グループがアビドスの生徒たちだと分かった時点で、何か事情があるんだろうとは思っていました」

 

 その言葉は、完全に信じ切っている響きだった。

 疑いの気配がまったくない。

 ヒフミの胸が、じわりと痛む。

 それでも黒夜気にせずに続ける。

 

「それに――」

 

 少しだけ顔を近づける。

 

「ブラックマーケットのような危険な場所に行くのは初めてでしょう?」

 

 穏やかな声。

 

「怖くありませんでしたか?」

 

 その瞳は澄んでいた。

 疑う色は一切ない。

 本気で心配している目だった。

 

 ヒフミは、その視線を真正面から受けてしまう。

 

 心臓が、妙に早くなる。

 

(……言えない)

 

 とてもじゃないが言えない。

 “常連です”とは。

 ブラックマーケットに何度も訪れてペロロ様グッズ漁りをしていた、とは。

 

 口が裂けても言えるはずがない。

 

 空気が、完全にそういう方向ではなくなっている。

 ヒフミは一瞬だけ苦しそうな表情を浮かべる。

 

 そして目を泳がせながら。

 

「す、すごい怖かったですぅ~」

 

 少しだけ棒読み気味の声でそう答えるしかなかった。

 自分でも分かるくらい、ぎこちない。

 だが黒夜はまったく気づかない。

 むしろ納得したように頷く。

 

「そうでしょうね…」

 

 真面目な顔で言う。

 

「普通の生徒なら、あの空気はかなり堪えると思います」

 

 ヒフミの胸が、さらに痛くなる。

 

(ああああぁぁぁ……)

 

 内心で頭を抱える。

 

(違うんです黒夜さん……)

 

(私、普通に歩いてました……)

 

(むしろ裏路地とか知ってます……)

 

 だが口には出せない。

 出せるはずがない。

 黒夜はそんなヒフミの内心など知るはずもなく、穏やかに話を続けている。

 ヒフミはただ、笑うしかなかった。

 乾いた笑顔のまま。

 

 そして思う。

 

(この人……私のこと、信じすぎです……)

 

 その信頼が、嬉しいのか苦しいのか。

 自分でもよく分からなくなっていた。

 教室の窓から朝の光が差し込む。

 静かな空気の中で、ヒフミはただ一人、妙に落ち着かない気持ちを抱えたまま立っていた。

 黒夜は、目の前の少女が抱えている葛藤など露ほども知らないまま、いつもの調子で言葉を重ねていた。朝の光が差し込む教室の中、その声音は変わらず穏やかで、どこまでも真っ直ぐだった。

 

「それに貴方は、コハルさんやハナコさんや……何よりアズサさんの大事な友達ですしね」

 

 ほんのわずか、言葉を選ぶような間を置いてから続ける。

 

「見捨てられるわけないですよ」

 

 その言葉は、あまりにも迷いがなかった。

 まるで当然のことを述べているだけのような、そんな響き。

 ヒフミは、その言葉を真正面から受け止めてしまう。

 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような感覚。

 

(……やめてくださいぃぃ……)

 

(そんな真っ直ぐな瞳で言わないでくださいぃぃ……)

 

 感動的なはずの言葉が、なぜか“逃げ場のないもの”として迫ってくる。嬉しいはずなのに、素直に受け取れない。その理由が、自分の中にあることを、ヒフミは分かっていた。

 

 だからこそ――

 

 ほんの少しだけ、この空気を崩したくなった。

 

「あはは……」

 

 笑ってみせる。ほんの少しだけ、軽い調子を作る。

 

「黒夜さんが私のことをすごく大事にしてくれるのは分かりました」

 

 視線を少しだけ逸らしてから、戻す。

 

「もしかしたら私のことが好きなのかと、誤解してしまうほどに……」

 

 からかい半分の言葉だった。

 空気を軽くするための、ほんの小さな抵抗。

 

――そのはずだった。

 

 だが黒夜は一瞬も迷わなかった。

 すっと一歩、ヒフミに近づく。

 その距離が一気に詰まる。

 ヒフミが何かを言う前に、壁際まで追い込まれるような形になり、背中が軽く壁に触れる。

 

「……え?」

 

 理解が追いつかない。

 

 次の瞬間。

 

 黒夜の手が壁についた。

 視界が遮られる。

 いわゆる――壁ドン、というやつだった。

 

「勿論好きですよ」

 

 低く、しかしはっきりとした声。

 一瞬、時間が止まる。

 ヒフミの思考が、完全にフリーズする。

 

(え?)

 

(え?)

 

(え????)

 

 心臓が一気に跳ね上がる。

 

 顔に熱が集まる。

 

 視界が妙に近い。

 

 距離が、近い。

 

 近すぎる。

 

 数瞬の後。

 

 その言葉の意味が理解される頃には、ヒフミの顔は真っ赤に染まっていた。

 だがそのまま終わらなかった。

 

 黒夜は少しだけ身を寄せ、ヒフミの耳元に顔を近づける。

 息がかかるほどの距離。

 そして、囁くように。

 

「良き友人として、ですけどね」

 

 その一言を残して、すっと距離を取る。

 拘束が解かれる。

 ヒフミの思考が、ようやく現実に戻る。

 

「も、もう黒夜さん!!」

 

 声が裏返る。

 恥ずかしさを誤魔化すように、ぽこぽこと黒夜の肩を叩く。

 

「一瞬、本気なのかと思ったじゃないですか!」

 

 顔はまだ真っ赤なままだった。

 黒夜はそれを見て、少しだけ肩をすくめる。

 

「いやー、すみません」

 

 軽く笑う。

 

「よくミカ様にこういう感じで揶揄われているので、すぐに分かりましたよ」

 

 その言葉に、ヒフミの手が一瞬止まる。

 

(ああ……この人、完全に“慣れてる”……)

 

 妙な納得と、別の意味での敗北感が混ざる。

 そんなやり取りをしている、その時だった。

 

――ガラッ

 

 突然、教室の扉が開いた。

 二人の視線が同時に向く。

 そこに立っていたのは、アズサだった。

 

 一瞬、沈黙したまま。

 

 そしてアズサは、状況を一目見て――

 少しだけ頷いた。

 納得したように。

 

「おめでとう、二人とも」

 

 淡々とした声で言う。

「私から見ても、いいカップルだと思うぞ」

 

「「……え?」」

 

 完全に同時だった。

 頭の上に、見えない疑問符が浮かぶ。

 数秒の遅延の後。

 先ほどのやり取りが頭の中で再生される。

 

 壁ドン。

 

「好きですよ」という言葉。

 

 近すぎる距離。

 

 耳元での囁き。

 

 二人は正確に今の状況を理解した。 

 

「ち、違います!!」

 

 ヒフミが慌てて否定する。

 

「今のはそういうのじゃなくてですね……!」

 

 黒夜も続く。

 

「誤解です、アズサさん。少し冗談を――」

 

 必死の説明。

 アズサはそれを静かに聞き、少しだけ目を細めた。

 

 そして。

 

「ああ、なるほどそういうことか」

 

 理解したらしい。

 二人がほっと息をついた、その直後。

 アズサが、何気なく言う。

 

「じゃあ、そこの“三人”にも説明しなきゃいけないな…」

 

「……え?」

 

 嫌な予感が走る。

 ヒフミと黒夜は、ほぼ同時に扉の方へ視線を向ける。

 

 ゆっくりと恐る恐る扉から顔を出して廊下を見ると。

 

 そこには、ナギサ、ミカ、セイアの三人が、床に崩れ落ちるようにして倒れていた。

 しかもただ倒れているのではない。

 それぞれが、それぞれの方向を見ながら、何かを呟いている。

 

「嘘です……よりによってヒフミさんに盗られるなんて……ネトラレじゃないですか……

私の脳を破壊しないでください……うわぁぁぁぁぁぁぁ……」

 

 ナギサが、虚ろな目で床を見つめながら震えている。

 

「あははははは!こんな事あるわけないじゃんね!夢だよ!

早く起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ……!」

 

 ミカが、笑っているのか壊れているのか分からない状態でぶつぶつと繰り返している。

 

「やはり……退学に……しておくべきだった……ファウスト……

恨んでやるうぅぅぅぅぅぅぅ……!」

 

 セイアが、静かに、しかし確実に物騒なことを呟いている。

 先ほどまでの平和な空気が、一瞬でカオスに変わった。

 黒夜は、その光景を見下ろしながら、ほんの一瞬だけ思う。

 

(……同一人物、ですよね?)

 

 数日前、自分から華麗な手腕で情報を抜き取っていった、あの三人と。

 だが現実は待ってくれない。

 すぐに気を取り戻して三人に駆け寄る。

 

「三人とも大丈夫ですか!?」

 

 ヒフミも慌ててついていく。

 アズサも当然のように参加する。

 必死の説明が始まる。

 誤解を解くための、必死の言葉。

 

 時間がかかる。

 

 かなり、かかる。

 

 その日の朝は、穏やかさとは無縁のまま過ぎていった。

 

 

 

 

 そんな事があった日から数日後。

 ブラックマーケット。

 雑多な音と匂いが混ざり合うその場所で、ヒフミはひとり、フードを深く被りながら歩いていた。

 

 トリニティの制服ではない。

 

 自分の持っている私服で、さらに顔もできるだけ隠している。

 できうる限りの完全な変装だった。

 

(……こうするしかありません……)

 

 心の中で、静かに決意する。

 黒夜から向けられた、あの信頼。

 あの言葉を軽々しく裏切ることはできない。

 

 だが――

 

(でも……)

 

 視線の先にあるもの。

 非売品のペロログッズ。

 

(欲しいものは欲しいんです……!)

 

 小さな葛藤。

 そしてヒフミが出した答えが――

 

“バレなければいい”。

 

 その結論に至るまで、さほど時間はかからなかった。

 ヒフミはそっと商品を手に取る。

 

 目が輝く。

 

「ごめんなさい、黒夜さん……」

 

 誰にも聞こえないほどの小さな声で呟く。

 

「ペロロ様の為なんです……これで許してください……」

 

 罪悪感と幸福が同時に押し寄せる。

 その時だった。

 

「ん、ヒフミだ!」

 

 不意に声がかかる。

 ヒフミの体がびくりと跳ねる。

 

「ひゃあ!?」

 

 思わず声が漏れる。

 恐る恐る振り向くと、そこにいたのは砂狼シロコだった。

 

「わ、私はヒフミではありません!」

 

 慌てて否定する。

 

「通りすがりのペロロ様愛好家です!」

 

 必死の言い訳。

 しかし説得力は皆無だった。

 相手は不思議そうな顔でじっと見ている。

 ヒフミの額に冷や汗が浮かぶ。

 

「さ、さよなら!」

 

 逃げるしかない。

 ヒフミはくるりと踵を返し、人混みの中へと紛れ込む。

 背後から何か声が聞こえるが、もう振り返らない。

 

 ただ走る。

 

 フードを押さえながら、必死に。

 

(今度こそバレるわけにはいかないんです……!)

 

 心の中で叫ぶ。

 それでも止まるわけにはいかなかった。

 

 黒夜の信頼と、ペロロ様への愛。

 その両立という、無謀な目標のために。

 前途多難なヒフミの戦いは、まだ始まったばかりだった。

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