苦手な方は読み飛ばして下さい。
朝のトリニティは、音が少ない。
まだ多くの生徒が動き出す前の時間帯。石畳を踏む靴音も、遠くの鐘の余韻も、すべてがどこか薄く、柔らかく広がっている。風が庭の木々を撫でる音だけが、規則正しく繰り返されていた。
黒夜はその静けさの中を歩いていた。
この時間に来ることは、もう習慣のようなものだった。誰もいない執務室に先に入り、軽く机の上を整え、今日の予定を頭の中で組み立てる。その一連の流れが、自然と体に馴染んでいる。
執務室の扉を開ける、いつもと同じ光景が広がるはずだった。
だが――
黒夜は一歩、足を踏み入れたところでわずかに動きを止めた。
自分の机、その上に、見慣れないものが置かれている。
小さな、黒い小包だった。
布でも紙でもない、どこか艶のある素材で包まれているそれは、周囲の整然とした机の上で妙に浮いて見えた。まるで、そこだけ別の空気をまとっているかのように。
黒夜はゆっくりと近づく。
足音が、やけに響く気がした。
机の前に立ち、小包を見下ろす。
「……なんだこれ」
小さく呟く声は抑えているのに、妙に大きく聞こえた。
「誰かの忘れ物か?」
そう言いながら、手を伸ばす。
触れてみると思ったよりも軽い。
だが中身が空というわけではない。わずかな重みが指先に伝わる。
持ち上げて裏返してみるが差出人の表記はどこにも書いていなかった。
ただ、黒いそれだけだった。
黒夜は眉をわずかに寄せる。
(ここに置かれていた、ということは……)
ここはティーパーティーの執務室だ。外部の人間が自由に出入りできる場所ではない。だが、完全に不可能というわけでもない。
誰かが、意図的にここへ置いたと、そう考えるのが自然だった。
(……嫌な感じですね)
小さく息を吐いて中身を検めるようかと思っていると。
その時、背後から扉の開く音が聞こえる。
振り返って確認するとナギサ、ミカ、セイアの三人が入ってくる。
朝の光を背にしたその姿は、いつもと変わらないはずなのに、なぜか少しだけ現実味が薄く感じられた。
ナギサが真っ先に黒夜に気づく。
「今日も早いですね」
いつもの穏やかな声音。
黒夜は小包を手に持ったまま軽く頭を下げる。
「おはようございます」
そのまま答える。
セイアも続けて視線を向けてくる。
「君は相変わらず仕事熱心だが……」
少しだけ目を細める。
「ちゃんと適度に休んでいるのかい?」
その言葉には、軽い冗談のようでいて、どこか本気の響きが混ざっていた。
「大丈夫ですよ」
黒夜は小さく笑いながら短く答える。
「そこまで無理はしていません」
そう言いながらも、手に持った小包のことを完全に忘れているわけではなかった。
その動きに気づいたのはミカだった。
いつの間にかすぐ近くまで来ている。
「あれ?」
視線が黒夜の手元へ向く。
「なにこれ?誰かからの贈り物?」
興味を隠さない声。
黒夜は首を横に振る。
「いえ」
小包を軽く持ち上げて見せる。
「今日来た時に、私の机の上に置かれていたんですよ」
ナギサとセイアもその言葉に反応し、自然と視線が集まる。
「差出人も書いてないし、中身も不明でして……」
言いながら、もう一度表面をなぞる。
やはり何もない。
ミカは興味津々といった様子で覗き込む。
「じゃあさ、とりあえず開けてみたら?」
その言葉はあまりにも軽かった。
だが、その軽さが逆に、この場の微妙な緊張を少しだけ緩める。
黒夜は一瞬だけ考える。
(危険物、という可能性も……)
だが、ここに置かれていた時点で、その可能性は低い。
完全に安全とは言い切れないが、少なくとも“即座に危険”という類ではないだろう。
黒夜は小さく頷いた。
「そうですね」
机の上に小包を置く。
慎重に、しかし過度に構えすぎないように。
包みを解く。
ガサガサ、と乾いた音が室内に広がる。
黒い外装を剥がすと、中から丁寧にラッピングされた箱が現れる。
妙に整っている。
誰かが意図的に“見せる”ために用意したような、そんな印象。
その包装も外す。
中身が露わになる。
三人の視線が自然と集まる。
黒夜はそれを手に取って三人にも見える様にする。
「……これは」
一見すると、何の変哲もない手鏡だった。
アンティーク調の装飾が施された、古風なデザイン。
持ち手は細く、縁には繊細な模様が刻まれている。
だが、それだけだ。
ぱっと見ただけでは特別な力を感じるわけでもない。
ただの“物”にしか見えない。
黒夜はそれを軽く回してみる。
「手鏡……ですね」
小さく呟く。
「私が使うようなものではありませんし……」
机の上に戻す。
「やはり、私宛のものではない気がします」
ナギサとセイアも近づき、確認する。
ナギサは少しだけ眉を寄せる。
「……心当たりはありません」
セイアも同様に首を横に振る。
「私もだ」
短い否定。
ミカは手鏡を覗き込むようにしながら言う。
「うーん、でもわざわざここに置いてあるってことはさ」
指先で縁を軽くなぞる。
「完全に誰かの“意図”だよね」
その言葉に、空気がわずかに沈む。
黒夜はもう一度小包の残骸に目を落とす。
そこで気づいた。
黒い便箋が、折りたたまれた状態で残っている。
「……これは」
それを取り上げる。
紙の質感が妙にしっとりしている。
普通の便箋とは違う。
ナギサとセイアもそれに気づき、自然と近づく。
黒夜はゆっくりとそれを開いた。
中に書かれていたのは――
御伽噺の様な文章。
まるで違う世界の物語のような。
「……御伽噺、ですかね?」
誰に向けたとも分からない、黒夜の呟きが落ちる。
四人は自然とその内容を追う。
【むかしむかし、温かく平和な楽園に、三人の天使がいました。天使たちは楽園の中で幸せに暮らしていました。
一人は楽園に外敵がいないかを監視することにしました。自分の目は遠くまで見ることができて、他の仲間には見えないものを見ることができたからです。
一人は自分の力を使って、悪いことをした楽園の仲間に罰を与えることにしました。
一人は楽園の平和のために、楽園に入ってくるものに罪の重さを測ることにしました。自分の天秤はいつも正しく罪の重さを測ることができたからです。
そんなある日、楽園に悪魔が一人入り込んでしまいました。最初は追い出そうとした三人でしたが悪魔は狡猾に取り入り三人から信頼をされるようになりました。
そしてそれを見ていた楽園の仲間達は悪魔の事が恐ろしくて三人の天使に楽園から悪魔を追い出すように訴えるが三人は悪魔を庇ってしまうのでした。
その事に怒りを覚えた楽園の仲間達により悪魔が退治された瞬間、楽園に暗闇が訪れました。】
静かな部屋の中で、その文字だけが、妙に生々しく浮かび上がる。
温かく平和な楽園。
三人の天使。
それぞれの役割。
監視。
裁き。
天秤。
悪魔。
言葉は淡々としている。
だが、その配置が、あまりにも露骨だった。
黒夜は途中で読むのを止めなかった。
最後まで目を通す。
「……」
読み終えたあと、誰もすぐには口を開かなかった。
視線が、自然と手鏡へと向く。
それが、ただの装飾品ではないように見えてくる。
ナギサの指先が、机の上でわずかに動く。
セイアは何も言わず、ただ文章を見つめている。
ミカも、いつもの軽さを失っていた。
黒夜は便箋を静かに折りたたむ。
(……これは)
ただの悪戯ではない。
そう断言できる何かがあった。
書かれている内容。
この場所に置かれたこと。
タイミング。
すべてが、意図的すぎる。
そして何より――
(三人の天使……)
視線が、無意識に三人へ向く。
ナギサ
ミカ
セイア
ティーパーティーの三人を指している事は明白だったが誰も、それを指摘しない。
できない。その沈黙が、何よりも雄弁だった。
室内の空気が、ゆっくりと重くなっていく。
朝の光は変わらず差し込んでいるはずなのに、その明るさがどこか遠く感じられた。
黒夜は手鏡に視線を落とす。
鏡の向こうに――
何かが潜んでいるような、そんな錯覚。
誰も、まだ動かない。
ただ、静かに。
この“物語”の意味を、それぞれが測り始めていた。
重苦しい空気が、部屋の隅々にまで沈殿していた。
誰かが言葉を発することをためらっているのではない。
むしろ何を言っても、この空気に負ける気がして、口を開くこと自体が不自然に思える。そんな、奇妙な静寂だった。
黒夜は、机の上に置かれた手鏡を注意深く観察することにした。
先ほどまでただの装飾品にしか見えなかったそれが、今はまるで別の意味を持っているように感じられた。
黒い便箋。御伽噺。三人の天使。そして悪魔。
どれもが曖昧で、しかしどこか現実と結びついている。
黒夜はゆっくりと手を伸ばし、手鏡を持ち上げた。
ひんやりとした冷たさが、指先に伝わる。
無意識に、鏡面を覗き込む。
そこに映るのは、見慣れた光景だった。
自分の顔。
その背後に立つナギサ、ミカ、セイア三人の姿。
その表情は、いつもと違っていた。
誰もが、ほんのわずかに硬い。
言葉にしない何かを、押し込めているような顔。
黒夜はその違和感を言葉にする前に、鏡の中の“それ”が変わった。
視界が、歪む。
まるで水面に石を落としたように、映像が波打ち――
次の瞬間。
そこに映っていたのは、トリニティの校舎だった。
だが、それは見慣れたものではない。
光が、足りない。
空は曇天。
いや、それ以上に、色が死んでいる。
建物は同じはずなのに、そこにある空気がまるで違う。
生徒の気配が感じられない。
静かすぎる。
黒夜の指が、わずかに強く手鏡を握る。
背後で、ミカが小さく息を呑む音がした。
「……なに、これ…?」
誰に向けたとも分からない言葉が、落ちる。
だが、鏡はそれに答えない。
ただ、次の光景へと移り変わる。
場面が切り替わる。
映し出されたのは、見覚えのある場所だった。
ティーパーティーの三人が、よく茶会を開いているテラス席。
だがそこに座っている三人は、“違った”。
黒を基調とした制服。
形は同じだが、色が違う。
そして何より三人は、目を閉じていた。
まるで、何かを待っているかのように。
「……」
誰も、すぐには言葉を発しない。
その中でミカが、ぽつりと呟く。
「……ナギちゃんと私の羽……」
その声は、いつもよりずっと低かった。
「黒くなってる……」
黒夜は改めて鏡の中を見た。
確かにミカとナギサの背にある羽が、白ではなく黒へと変わっている。
塗り替えられた、というより――
“最初からそうだった”かのように自然な黒。
その異質さに、言葉が出ない。
ナギサが、わずかに眉を寄せる。
「……どうして……」
その呟きは、ほとんど自分に向けたものだった。
だが、その瞬間。
鏡の中のナギサが目は閉じたまま、ゆっくりと口を開いた。
『これは力を得た代償と、私たちの罰の象徴ですよ』
静かな声だった。
だが、その響きはあまりにも明確で。
こちらへ、届いていた。
黒夜たちの呼吸が、一瞬止まる。
反射的に、ミカが口元を押さえる。
声を出さないように。
だが、もう遅かった。
鏡の中の三人が目を開けて――ゆっくりと、こちらへ向く。
確かに、“見られている”と分かる。
その圧に、背筋が冷たくなる。
『あはは』
軽い笑い声。
鏡の中のミカが立ち上がる。
『そんなに羽が黒いのが珍しい?』
くるりと回る。
そして、背を向ける。
『ほら、よく見えるようにしてあげるよ』
そのまま、羽を広げる。
完全な黒。
光を吸い込むような色。
それが、風もないのに揺れる。
現実感が、薄れていく。
その時、今まで沈黙していたセイアが、ぽつりと呟いた。
『無事に黒夜が生きている世界に、手鏡が届いてよかったよ』
その言葉に黒夜たちの中で、別の疑問が生まれる。
“生きている世界”
言葉の意味が、引っかかる。
セイアが、ゆっくりとこちらを見る。
『その手鏡は、ただの鏡じゃない』
淡々とした声音。
『違う世界を映し出し、こうして会話することができる代物なのだよ』
その説明は、あまりにも突飛だった。
だが、誰も否定できなかった。
今、目の前で起きていることが、それを証明している。
黒夜は言葉を発しかけて、止める。
信じがたい。
だが、否定もできない。
そのまま、黙るしかなかった。
沈黙を破ったのは、こちらのセイアだった。
一歩、前に出て視線を、鏡の中の自分へと向ける。
「……この手鏡に同封されていた、あの便箋の意図はなんだい?」
声は落ち着いている。
だが、その奥にある緊張は隠しきれていない。
鏡の中のセイアは、わずかに口元を歪めた。
『ああ、あれは――』
『こっちの世界のキヴォトスの末路さ』
軽く笑う、楽しんでいるような。
その言い方が、余計に不気味だった。
『気になるなら、聞かせてあげよう』
その言葉を合図に三人が、語り始める。
『最初は平和だったのですよ』
穏やかで、しかしどこか遠い。
『黒夜さんがいて、ミカさんがいて、セイアさんもいて……平和で、幸せな日々でした』
その光景が、脳裏に浮かぶ。
だが、それが“過去形”で語られていることに、違和感が残る。
『だけどある時』
ミカが続ける。
『黒夜がゲヘナのスパイだって情報が流されてね』
軽い口調だが、内容は重い。
『私たちもびっくりしたよ。でも――』
少しだけ声が低くなる。
『黒夜のことを守ることにしたんだ』
黒夜の指先が、わずかに震える。
セイアの声が重なる。
『だが事態はそう単純ではなくてね』
『黒夜は、壮絶ないじめの標的になってしまったんだよ』
空気が、凍る。
『そして黒夜は、そのことを私たちに隠して耐えることを選択してしまった……』
その言葉に黒夜は何も言えない。
自分も同じ選択をするだろうと思っていまい何も、言えない。
『そうして時が流れてしまい』
ナギサの声がわずかに揺れる。
『気が付いた時には――』
『黒夜さんはいじめに耐えかねて、自殺してしまいました』
――言葉が、落ちた。
その瞬間。
こちらの三人の反応は、ばらばらだった。
「嘘……」
ナギサの声が、かすれる。
「え?」
ミカは、状況を理解できていないように目を見開く。
「……」
セイアは何も言わない。
ただ、視線だけが鋭くなる。
黒夜は動けなかった。
自分の“死”を、聞かされた。
それが現実ではないとしても。
あまりにも、具体的すぎる。
呼吸の仕方が分からなくなる程に動揺していた。
『そのことを嬉々として報告された時に』
ミカの声が、淡々と続く。
『私たちの中で、何かが“反転”したんだよ』
ゆっくりと、羽に手を触れる。
『その時に、羽も黒くなったんだ』
『そして――』
セイアが続ける。
その声音には、感情がほとんど乗っていない。
『手始めに、トリニティを滅ぼした』
『次に黒夜さんが自殺したことに気が付いて攻めてきたゲヘナを滅ぼしました』
『その次は黒夜がスパイだって情報を流したアリウスを滅ぼした』
そして――
三人が、同時に。
『『『そして、この世界を滅ぼした』』』
静かに。
『こうして私たちは――』
『人々から“終末”と恐れられる存在になった』
言葉が、そこで途切れる。
鏡の中の三人は、何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
黒夜たちも、何も言えなかった。
あまりにも、重い。
あまりにも、現実離れしている。
だがそれでも嘘だと、言い切れない。
その“可能性”が、そこにあった。
静寂が、再び部屋を満たす。
誰も動かないただ、それぞれが。
今聞いた“結末”を、受け止めきれずに立ち尽くしていた。