手鏡の光が消えたあとも、そこに残されたものは“ただの静けさ”ではなかった。
音が無いのではない。むしろ、何かが過剰に削ぎ落とされた結果として生まれた、張り詰めた空白。
誰もすぐには動かなかった。
机の上に置かれた手鏡は、先ほどまでの異様な存在感を嘘のように失い、ただのアンティークとしてそこにある。だが、その“ただの鏡”が、今や誰よりも現実味のある脅威へと変わっていることを、四人とも理解していた。
黒夜は、無意識のうちに自分の呼吸を整えようとしていることに気づく。
呼吸が浅い。心拍が、ほんのわずかに速い。
(……落ち着け)
そう自分に言い聞かせるが、意識すればするほど、逆に体が強張る。
その横で、ナギサがわずかに目を伏せる。
指先が、机の上をなぞる、整えられた所作だが、その動きにわずかな乱れがあった。
ミカは、先ほどまで手鏡を叩きつけていた手を握り込んだまま、じっと床を見つめている。
歯を食いしばる音が、かすかに響く。
セイアだけが、静かに状況を見渡していた。
だが、その瞳の奥にあるものは、いつもの冷静な分析だけではない。
わずかな焦燥と、そして確かな予感がしていた。
(……彼女達は来る)
まだ先のことかもしれない。
だが、避けられない。
それを、誰よりも早く理解していた。
セイアは、ゆっくりと黒夜へ視線を向ける。
言葉はないただ、ほんの一瞬の目配せ。
それだけで、黒夜は理解した。
わずかに頷き、次の瞬間には、もう動いていた。
椅子を引く音が、静寂を破る。
そのまま踵を返し、執務室の扉へ向かう。
「少々失礼します」
短く言い残し、扉を開ける。
廊下へ出た瞬間、外の空気が一気に流れ込んできた。
そのまま、足早に去っていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
残された三人は、その背を見送る。
ミカが、ようやく顔を上げる。
「……黒夜、どこに行ったの?」
その声は、少しだけ掠れていた。
ナギサも視線をセイアへ向ける。
セイアは一拍置いてから、淡々と答える。
「今日の予定をすべてキャンセルするためだよ」
簡潔な説明だが、それで十分だった。
「……ああ」
ナギサが、静かに息を吐く。
「確かに……」
今日一日の予定。
いや、今日だけでは済まない可能性。
この問題は、数時間で片付くものではない。
むしろ長期的な対応が必要になる。
ミカが椅子に腰を下ろし、頭を抱える。
「……はぁ…なんなの、これ……」
短い吐息。
誰に向けた言葉でもない。
だが、その一言にすべてが詰まっていた。
“世界を滅ぼした自分たち”
“その存在がこちらに来る”
“しかも目的は黒夜”
現実として受け止めるには、あまりにも重すぎる。
ナギサは、視線を手鏡へと向ける。
そこに映るのは、ただの自分たち。
だが、先ほどまでそこに“別の自分たち”がいた事実は消えない。
(……あれが、私たち)
想像する。もし、あの状況に自分が置かれたら。
同じ選択をしないと、言い切れるか。
その思考は、途中で切り捨てる。
今はそこではない。
「……仕方ありませんね」
ナギサが、静かに呟く。
「当分は、この件に掛かりきりになるでしょう」
ミカが小さく頷く。
「うん……それしかないよね」
セイアは何も言わない。
ただ、視線を扉へ向けたまま。
それからしばらくして。
再び扉が開かれ黒夜が戻ってきた。
呼吸は乱れていない。
足取りも変わらない。
だが、ほんのわずかに、急いでいた痕跡が残っている。
「……ただいま戻りました」
そのまま、元の位置へ戻る。
ナギサが軽く頷く。
「手配はどうなりましたか?」
「はい。すべての予定をキャンセルしました。関係各所には“緊急案件”として通達済みです」
「ありがとうございます」
短いやり取り。
だが、それで十分だった。
全員が、同じ認識に立つ。
ここからは――
“対処”の時間。
椅子がわずかに軋む音がする。
セイアが、ゆっくりと口を開いた。
一度、全員を見渡す。淡々とした前提確認。
「さて、彼女たちの話が本当だとして。こちらに来るのも避けられない事実として仮定した場合――」
わずかに間を置く。
「どうするべきだと思う?」
その問いは、投げかけでありながら、同時に試されている。
ミカとナギサは、すぐには答えなかった。
考えていないわけではない。
だが、簡単に出せる答えではない。
その沈黙を破ったのは、黒夜だった。
「……私は」
一度言葉を切る。
「出来ることなら、彼女たちとは争いたくありません」
その言葉に、三人の視線が集まる。
黒夜は続ける。
「別世界とはいえ、彼女たちもナギサ様、ミカ様、セイア様であることに変わりはないはずです」
ゆっくりと、しかしはっきりと。
「対話による戦闘の回避は、十分可能だと考えています。それに……問題がなければ何もしない、と言っていましたし…」
最後の言葉は、少しだけ弱かった。
完全に信じているわけではない。
だが、それでも可能性として、捨てたくはない。
ナギサは、その言葉を受けてしばらく考え込む。
視線が、わずかに下がる。
指先が、静かに重なる。
そして顔を上げ黒夜を見る。
「……確かに黒夜さんの言う通り、対話による回避は理論上可能でしょう」
一度肯定する。
だが、そのまま続ける。
「しかし」
言葉の温度が変わる。
「もしそこで、黒夜さん、あなたの身柄を要求されたら、どうしますか?」
空気が、止まる。
黒夜の視線が、わずかに揺れる。
ナギサは続ける。
「キヴォトスか、一個人か」
その問いは、単純で。
そして、残酷だった。
「そんな選択を迫られた場合――」
静かに言い切る。
「少なくとも、トリニティとゲヘナは真っ向から反対するでしょう」
ミカが、小さく息を呑む。
「……うん、そうだろうね」
ナギサはさらに続ける。
「そうなれば」
視線をわずかに逸らす。
「彼女たちが手を下すまでもなくトリニティとゲヘナ対、他学園という構図が出来上がります」
その光景が、脳裏に浮かぶ。
内部から崩れる均衡。
黒夜は、何も言えなかった。
言葉が出ないのではない。
出せば、何かが決定的に変わってしまう気がした。
ただ、唇を結ぶしかない。
その沈黙を見て、セイアがミカへ視線を向ける。
「ミカ」
静かに呼ぶ。
「君の感覚でいい、彼女たちの強さは、どの程度に感じた?私やナギサでは弱すぎて強いという事しか分からないからね」
ナギサと黒夜が、同時にミカを見る。
ミカは、少しだけ考える。
視線が宙を彷徨う。
そして、小さく息を吐いてからゆっくりと口を開く。
「……私もさ大概は、私より弱いから分かりにくいんだけど」
ほんの一瞬、言葉を選ぶ。
「……あれは、違う…私よりも強いと思う」
セイアが確認する。
「ミカ*テラーが、かい?」
ミカは首を振る。
「違うよ、全員がだよ」
はっきりと言い切る。
「私より格上だと思う」
その言葉が落ちた瞬間。
空気が、さらに重くなる。
セイアが小さく頷く。
「……そうか」
それだけで、十分だった。
三人の中で、評価が確定する。
(……勝てない)
少なくとも、正面からでは。
黒夜が、再び口を開く。
「……やはり」
わずかに声が低くなる。
「戦闘は放棄して、対話を優先するべきでは――」
その言葉に、セイアが静かに首を振る。
「いいかい、黒夜」
落ち着いた声色でゆっくりと説明する。
「対話というものはね同じ戦力を保有しているからこそ成立するんだ」
黒夜の視線が、わずかに動く。
「相手が一方的に強い場合、相手が対話に応じるメリットがない」
「なぜなら力で従わせればいいからね」
その言葉は、理屈として正しい。
そして、否定できない。
「三大校と呼ばれる私たち――」
視線を巡らせる。
「トリニティ総合学園、ゲヘナ学園、ミレニアムサイエンススクールもその均衡が成り立っているのは、力が拮抗しているからだ」
黒夜は、何も言えない。
理解はできる。
だが、受け入れたくはない。
「……じゃあやっぱり、対話は無理なんでしょうか?」
平和を願うちっぽけな問いかけ。
その問いに、セイアはすぐには答えなかった。
ほんのわずかに、考える間。
そして。
「――いや」
静かに否定する。
「彼女たちが、私たちと“同一人物”である以上」
黒夜を見る。
「黒夜を傷付けたくないと武力行使を思いとどまる可能性は高い、それに彼女たちは一度黒夜を失っている。二度も同じ思いはしたくないはず…」
それは、希望でもあり、警告でもあった。
同じであるがゆえに予測できる。
だが同時に――
同じであるがゆえに。
逃げ道も攻め方も同じという事の証左。
その後も、議論は続いた。
可能性を挙げ、否定し、また別の案を出す。
だが、決定的な答えは出ない。
時間だけが、静かに過ぎていく。
やがて窓の外の光が、少しだけ高くなる。
時計の針が、昼を指す。
セイアが、ふっと息を吐く。
「……一度、休みを入れよう」
その言葉に、誰も反対しなかった。
結論が出ないまま。
だが、それでも。
一度、立ち止まるしかなかった。
それぞれが席を立つ。
だが、その足取りは軽くない。
休憩という名の“猶予”。
本当の意味での解決には、まだ遠い。
昼の光は、いつの間にか角度を変えていた。
窓から差し込むそれは柔らかいはずなのに、執務室の中に溜まった空気は重く、どこか色を失っているように感じられた。
昼食を終え、再び机を囲んだ四人は、ほとんど同じ姿勢のまま時間を過ごしていた。
言葉は、出ている。
だが、それは前に進むためのものではない。
可能性を挙げ、否定し、別の案を出し、また行き詰まる。
それを何度も繰り返していた。
黒夜は、手元の資料に目を落としたまま、視線を動かさない。
ナギサは組んだ指先を崩さず、静かに考え続けている。
ミカは椅子に深く腰掛けたまま、どこか一点を見つめている。
セイアは全体を俯瞰するように座りながらも、言葉を挟む回数が減っていた。
そして、気付けば。
結論だけが、そこに残った。
――向こうの言うことを聞くしかない。
それは、選択ではない。
ただ、他に道がないというだけの“帰結”だった。
誰も、それを口に出さなかった。
けれど誰もが同じ考えに辿り着いていることは、分かっていた。
(……これが、限界か)
黒夜は、わずかに目を閉じる。
自分が無力だとは思わない。
だが、今回に関しては、力の次元が違う。
ナギサたちの沈黙も、それを裏付けていた。
こんなにも時間をかけて、辿り着いた答えがこれ。
疲労は、肉体ではなく思考に溜まっていた。
何かを言う気力すら、湧いてこない。
その時だった。
――コン、コン
軽いノックの音が、静寂に落ちる。
四人の視線が、同時に扉へ向く。
予定はすべてキャンセルしたはずだった。
誰が来た?
ナギサの眉が、わずかに寄る。
(……緊急の案件?)
ミカが顔を上げる。
セイアの視線が、わずかに鋭くなる。
その一瞬の空白の中で、黒夜はすでに動いていた。
椅子を引き、立ち上がる。
足音を抑えたまま扉へ向かい、ノブに手をかける。
扉が開かれてそこに立っていたのは――
「……先生?」
黒夜の声が、わずかに柔らぐ。
廊下に立っていたのは、見慣れた人物だった。
先生は、少しだけ困ったように笑う。
「たまたま様子を見にトリニティに立ち寄ったんだけどね」
肩をすくめる。
「忙しそうだったから、僕はいいって言ったんだけど……なんかごめんね」
その言葉は、軽い。
だが、そこにある気遣いは本物だった。
黒夜は一瞬だけ言葉を失うが、すぐに体を引く。
「いえ、とんでもありません。どうぞお入りください」
その声に、ナギサたちも立ち上がる。
驚きはあった。
だが、それ以上に、自然と動いていた。
先生をもてなすための準備。
紅茶の用意。椅子の配置。空間の整え。
それは、日常の延長のように行われる。
だが、その奥には、わずかな期待もあった。
“外から来た存在”それが、この閉じた空気に変化をもたらしてくれるのではないかと言う淡い期待。
やがて、簡素な茶会が整う。
カップが置かれ、湯気が立ち上る。
先生が椅子に座り、四人もそれぞれ席に着く。
一見すれば、いつも通りの光景。
だが、先生はすぐに、それが“いつも通りではない”ことに気づいた。
視線が、一人一人をなぞる。
黒夜のわずかな硬さ。
ナギサの沈黙。
ミカの落ち着かない指先。
セイアの過剰な静けさ。
そして、静かに言う。
「……なんか」
少しだけ首を傾げる。
「四人とも、いつもと様子が違うね」
その一言で、空気がわずかに揺れる。
責める声ではない。
探る声でもない。
ただ、気づいたことをそのまま口にしただけの声音。
「何か悩みがあるなら僕が力になれるかもしれない」
ゆっくりと語りかけながら視線が、優しく向けられる。
「話してみてくれないかな?」
その言葉は、押し付けではない。
選択肢として、そこに差し出される。
だが、その温度は――
あまりにも、温かかった。
黒夜は、視線を落とす。
ナギサとミカ、セイアも互いに一瞬だけ視線を交わす。
迷いはあった。
だが、隠す意味は、余りない。
ナギサが、静かに口を開く。
「……わかりました」
一度、呼吸を整える。
そして先生にこれまでの事情と経緯を話し始めた
手鏡のこと。
別世界のティーパーティー。
彼女たちの言葉。
そして“こちらに来る”という事実。
すべてを、順を追って話した。
途中で言葉を選び、何度か言い淀む場面もあったが、それでも止まらなかった。
話し終えたとき、室内は再び静かになった。
ナギサが最後に言葉を添える。
「……ということです別世界の事など、荒唐無稽に思われるかもしれませんが」
視線をまっすぐ向ける。
「すべて事実です」
先生は、すぐには答えなかった。
ただ、静かに頷く。
「……そうか…そんなことがあったんだ」
その反応は、驚きでも否定でもなかった。
ただ、受け止める。
それだけだった。
そして、自然な流れで言う。
「ちょっと、その手鏡を貸してくれるかい?」
黒夜は迷わず手鏡を差し出す。
先生はそれを受け取り、持っていたタブレットで調べ始める。
指先が、画面を滑る。
何かを照合しているようだった。
しばらくの沈黙。
やがて、先生が小さく息を吐く。
「……うん」
わずかに眉を上げながら。
「確かに、この手鏡は普通じゃないっぽいね。それで、この手鏡は別世界のナギサたちが、ゲマトリアを壊滅させたときに手に入れたんだよね?」
黒夜が頷く。
「彼女たちは、そう言っていました」
「そっか」
先生は、少しだけ考える仕草を見せる。
そして。
「じゃあさ、あまり使いたい案じゃないんだけど、こっちの世界のゲマトリアに聞いてみるって言うのはどうかな?」
一瞬、空気が止まる。
「……え?」
ナギサの声が漏れる。
先生は続ける。
「こういうのに詳しい“黒服”って人物がいるんだけど」
さらりと言う。
「彼に話を聞ければ、何かわかるかも知れない…」
その名前に、黒夜が反応する。
「黒服……」
わずかに思い出す。
「確か、向こうのミカ様が言っていた人物かもしれません」
先生が目を瞬かせる。
「え?黒服のことも言ってたの?」
「はい」
黒夜は続ける。
「“テラー化”と呼ばれる現象を教えてくれた、と」
先生が小さく頷く。
「なるほどね」
一度、タブレットに目を落とす。
「じゃあ、そのテラー化についても話を聞いてみようか」
「……じゃあ僕は、さっそく準備して行ってくるよ」
自然な流れで言う。
「しばらく手鏡を貸してといてもらえる?」
その言葉は、穏やかだった。
だが、その意図は明確だった。
一人で行くつもりだ。
それを理解した瞬間。
四人の中で、同じ感覚が走る。
一瞬だけ、視線が交わる。
言葉はないが、結論は同じだった。
ナギサが、ゆっくりと口を開く。
「……いえ」
静かに、しかしはっきりと。
「私たちも、一緒に連れて行ってください」
そのナギサの発言に先生が、わずかに驚く。
「え?ゲマトリアだよ?ベアトリーチェが所属していた組織なんだよ?
危ないから、僕に任せて、みんなは待っていた方が安全だと思うよ?」
その言葉は、純粋な心配だった。
だが、ナギサは首を振る。
「覚悟の上です」
迷いはない。
「それに私たちが巻き込んでしまったようなものですから」
視線をまっすぐ向ける。
「尽力してくださる先生に、礼を尽くすべきだと思ったまでです」
その言葉に、嘘はなかった。
責任と、そして意志。
先生は、しばらく何も言わなかった。
だがやがて、小さく笑う。
「……そっか」
一度頷く。
「わかったよ」
軽く息を吐く。
「じゃあ、後日準備してシャーレに来てもらえるかな?」
ナギサが頷く。
「わかりました」
その一言で、話はまとまる。
方向が、定まる。
執務室の空気が、わずかに変わる。
先ほどまでの停滞ではない。
まだ重いが、進むべき先がある。
黒夜は、静かに手鏡を見つめる。
その向こうにいる存在。
そして、これから向かう場所。
どちらも、未知で。
どちらも、危険だ。
だがそれでも。
(……進むしかない)
その選択だけは、もう揺らがなかった。
そして――
“彼女たち”が来るまでの時間も、確実に減っていた。