あれから数日が経っていた。
時間だけを見れば短い。だが、その間に重ねられた準備と、何度も繰り返した想定と検討の密度は、日数以上の重さを持っていた。
そしてその準備が整ったと、先生から連絡が入った。
場所はシャーレ。
指定された時間、黒夜、ナギサ、ミカ、セイアの四人は会議室に集まっていた。
シャーレの会議室は、トリニティのそれとはまた違う空気を持っている。整然としているのは同じだが、どこか“外部”との接続を前提とした機能性が前に出ている。
壁面のモニター、整えられた資料棚、無駄のない配置。
そこに四人が並ぶと、妙に静けさが際立った。
誰も無駄口を叩かない。
ただ、時間を待つ。
ナギサはいつも通りに背筋を伸ばし、トリニティの代表としての態度を崩していない。
ミカは椅子に浅く腰掛け、足先をわずかに揺らしているが、その視線は真っ直ぐ前を見ていた。
セイアは目を閉じたまま、何かを整理しているように見える。
黒夜はほんのわずかに、呼吸を意識していた。
(……大丈夫だ)
自分に言い聞かせる。
ただの“交渉”ではない。
相手は、ゲマトリアの一員。
事前に聞かされていた情報は断片的だが、それでも十分すぎるほど危険な存在だと理解できる。
緊張しない方が無理だ。
その時扉が開く。
軽い音とともに、先生が姿を見せる。
「ごめん」
少しだけ手を上げる。
「少し待たせちゃったね」
その口調は、いつもと変わらない。
だが、その奥にある緊張を、四人は見逃さなかった。
「黒服と会う場所が決まったから、行こう」
その一言で、場の空気が切り替わる。
ナギサが静かに立ち上がる。
ミカもそれに続き、セイアも目を開いて席を離れる。
黒夜も一歩遅れて立ち上がる。
「……はい、わかりました」
短く答え、先生の後ろに付く。
廊下を歩く足音が、やけに響く。
誰も無駄な会話をしない。
シャーレの外へ出ると、いつもの街の風景が広がっている。
生徒たちの行き交い、車の音、遠くのざわめき。
よくある日常風景が広がっていた。
だが、これから向かう場所は、その延長ではない。
移動の間、黒夜は無意識に周囲を観察していた。
先生の背中。
ナギサたちの歩幅。
街の気配。
すべてがいつも通りに見えるのに、自分の中だけが少しずれているような感覚。
やがて、目的地へと辿り着く。
そこはどこにでもありそうな、ファーストフード店だった。
看板は見慣れたもの。
外観も、特に変わったところはない。
一瞬、足が止まる。
黒夜は思わず口を開いた。
「先生……約束の場所は、本当にここですか?」
その問いは、疑問というより確認に近かった。
先生が、少しだけ困ったように笑う。
「うん……黒服の指定した場所が、ここなんだ」
言い訳のような、説明のような。
「とりあえず入ってみよう」
そう言って、扉に手をかける。
黒夜はわずかに息を吸い、ナギサたちと視線を交わす。
誰も反対しない。
そのまま、店内へ入る。
店内は外の世界の切り離したかのように静かだった。
異様なほどに…通常なら、注文の声や調理の音、客の話し声が混ざるはずの空間。
だが、今は何もない。
照明は点いている。
設備も整っている。
だが、“人の気配”がない。
黒夜の視線が店内を滑る。
カウンターは無人。
厨房も動いていない。
そして、そんな店内のテーブル席に――それはいた。
黒いスーツ整っているはずの輪郭が、どこか曖昧で、光を吸い込むような質感。
身体は影のように黒く、輪郭が不自然に揺らぐ。
右目の位置に、白く発光する一点。
そこから、顔全体に亀裂のような光が走っている。
それは“顔”と呼ぶには、あまりにも異質だった。
一目で分かる、人ではない。
だが“存在”としてそこにある。
先生が、わずかに声を落とす。
「……黒服」
その名前を聞いた瞬間、ナギサとミカ、セイアの視線が一斉に鋭くなる。
観察。
評価。
距離。
それぞれが瞬時に測っている。
先生は躊躇なく歩み寄る。
そのままテーブルの対面に腰を下ろす。
黒服が、ゆっくりと顔を上げる。
「クックっク……」
低く、乾いた笑い。
「まさか、先生の貴方から連絡があるとは思いませんでしたよ……」
先生は、肩の力を抜いたまま答える。
「僕も、するつもりはなかったよ」
「でも、生徒たちが困っているなら、話は別さ」
黒服が、わずかに首を傾ける。
「相変わらず……」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「その在り方は、お変わりないご様子で安心しましたよ」
軽い応酬。
だが、その裏にあるものは軽くない。
黒夜はそのやり取りを見ながら、二人の関係性を測る。
敵対ではない。
だが、友好でもない。
一定の距離を保ったまま、互いを理解している関係。
(……厄介そうだな)
黒夜は心の中で呟く。
このまま立っているのも不自然だと判断し、ナギサたちと共に隣のテーブルへ移動して椅子に座る。
だが、完全に背を預けることはしない。
いつでも動ける姿勢。
黒服の視線が、こちらへと滑る。
白い発光が、一瞬だけ強くなるように見えた。
「今回の連絡も……」
ゆっくりとこちらの反応を楽しむかのように。
「この生徒たちのため、ですか?先生」
先生は即答する。
「そうだ。お前に聞きたいことがあって、連絡させてもらった」
黒服が、わずかに指先を動かす。
「ふむ……」
考える仕草。
「それで?私をわざわざ呼び出してまで、聞きたいこととは何ですか?」
先生は、ポケットから手鏡を取り出す。
それをテーブルの上に置く。
「まず、これだ」
黒服の視線が、鏡に落ちる。
「これは?」
手を伸ばし、ゆっくりと持ち上げる。
角度を変え、光を反射させる。
「……ほう」
興味深そうな声。
「どうやら、ただの鏡ではなさそうですが……」
一瞬の沈黙。
「私には、これが何なのか分かりませんね」
その答えは、あまりにもあっさりしていた。
先生が、じっと黒服を見る。
「……本当に知らないんだな?」
念押しするが、黒服は肩をすくめるような仕草をする。
「嘘ではありませんよ」
淡々と答える。
黒夜は、わずかに息を吐く。
期待していた答えではない。
だが、完全な無駄でもない。
“知らない”という情報もまた、意味を持つ。
(……なら、もう一つ)
黒夜が思考を切り替えるより先に、先生が口を開く。
「わかった」
短く言う。
「鏡については、もういい」
黒服が、わずかに視線を上げる。
先生は続ける。
「次に――」
ほんの一瞬、間を置く。
「“テラー化”という言葉に、聞き覚えはあるか?」
その言葉が落ちた瞬間。
黒服の空気が、変わる。
わずかにしかし確実に。
その変化を、黒夜たちは見逃さなかった。
黒服は、ゆっくりと視線を動かす。
先生から、黒夜たちへ。
一人一人をなぞるように。
その視線は、先ほどまでのものとは違っていた。
観察ではない。
“未知への観察”
そして――
「……ククク」
わずかに笑い、愉悦を含んだ声。
「なるほど、これは……興味深い話になってきましたね」
その一言でこの場の空気が変わったのを感じた。
黒服の白い発光が、わずかに強く揺らいだ。
先ほどまでの“興味”とは違う。
問いを投げ返す側に回った者の、確信に近い光。
「先生は――」
低く、しかしはっきりとした声が店内に落ちる。
「どこでその言葉を知ったのですか?いつ?誰から?」
畳みかける様に聞いてくる。
「詳しく聞かせてください」
その問いは、単なる確認ではない。
“主導権”を奪い返すためのものだった。
先生の指先が、わずかに動く。
「……っ」
ほんの一瞬、言葉に詰まる。
だが、すぐに視線を上げる。
「いや、先にテラー化について話せ」
短く、鋭く返す。
そのやり取りは、すでに交渉の形を取っていた。
黒服は、ゆっくりと背もたれに体を預ける。
「ふむ……」
わずかに首を傾ける。
「このままでは、平行線ですね」
そしてほんのわずかに口元を歪めた。
「では、お話しする前に“教えることに対する報酬”を請求しましょうか」
軽く指を組み、発したその言葉に、先生に緊張が走る。
黒服は、そのまま視線を黒夜に滑らせる。
先生から、ナギサ、ミカ、セイアへ。
そして――
黒夜で止まる。
その時黒夜の背筋に、冷たいものが走る。
「私が求めるのは」
淡々と当たり前のように。
「月城黒夜さんの身柄です」
その宣言は、あまりにも静かだった。
だが、その意味は、あまりにも重い。
黒夜は、一瞬理解が追いつかなかった。
自分の名前。
“身柄”
それが意味するものを理解した瞬間、思考が遅れる。
(……なぜ、私が)
黒夜には分からないが、何か理由があることだけは、直感的に分かる。
先生の視線が、鋭く黒服へ向く。
ナギサ、ミカ、セイアの三人も同時に動く。
言葉よりも先に殺気が空気に滲む。
温度が露骨に下がる。
黒服の前に、見えない刃が並ぶ。
その中心で、先生が言い切る。
「断る!」
一切の迷いのない声。
「黒夜は、大事な僕の生徒だ」
視線を逸らさない。
「お前如きに渡すわけない!」
一歩も引かない。
そして、続ける。
「それにお前が黒夜の身柄を求める理由が分からない…嫌がらせか?」
黒服は、その視線を真正面から受け止める。
「ククク……そんなわけ無いでしょう?」
小さく笑いながら肩をすくめるような仕草。
「もちろん理由なら、ありますよ」
黒夜へと視線を向ける。
「彼はヘイロー破壊爆弾を使われて生存した、珍しい被検体です」
その言葉が落ちた瞬間。
空気が凍る。
黒夜の呼吸が、一瞬止まる。
「正直言って――」
黒服の声は、どこか楽しげだった。
「興味が尽きません」
次の瞬間。
――銃口が向けられていた。
三つの殺気と共に黒服の頭部へ。
ナギサの手に握られた銃が、わずかに揺れる。
ミカの指が、引き金にかかる。
セイアの視線が、完全に冷え切る。
ナギサの声は、静かだった。
だが、その奥にあるものは隠されていない。
「黒夜さんを実験動物だとでも思っているんですか?不愉快です!」
ミカが、低く吐き捨てる。
「死にたいなら、そう言いなよ……」
セイアが、わずかに首を傾ける。
「次の発言には、気を付けるべきだと思うがね」
その三方向からの圧。
普通の相手なら、それだけで沈黙する。
だが黒服は、まったく動じなかった。
むしろ――
「おぉ怖い怖い」
わざとらしく両手を上げる。
「そこまで強く拒否されるなら報酬を変更するべきですね……」
そして、あっさりと条件を下げる。
「ではもう一度お聞きします…」
指を一本立てる。
「“テラー化”という単語を、いつ、どこで、誰から聞いたのか、それで手を打ちましょう」
その態度に、黒夜は理解する。
(……最初から、ここに落とすつもりだった振る舞いだ)
無理な要求を提示し、拒否させる。
その上で、本命を提示する。
交渉としては、あまりにも露骨だ。
だがそれでも、成立してしまう。
先生は、短く答える。
「……わかった」
余計な言葉はない。
そのまま、黒夜たちから聞いた経緯を語り始める。
手鏡のこと。
別世界のティーパーティー。
そして、彼女たちが語った内容。
黒夜は、自分たちの話が“外部の存在”に渡っていくのを、どこか遠くで聞いているような感覚で受け止めていた。
先生が言葉に詰まる場面もあった。
“世界を滅ぼした”という事実を、そのまま言葉にすることへの躊躇。
黒服は、その話を聞きながら――
肩を震わせていた。
笑っている。
感情が、隠しきれていない。
明確な歓喜な態度をさらけ出していた。
「……そうですか」
低く呟く。
「まさか、別の世界ではそんなことがあったなんて……」
「私の実験もアプローチを変えるべきかもしれませんね……」
ブツブツと、独り言のように続ける。
その様子に、黒夜の背筋が冷える。
(……マダムとは別方向で危険人物だ)
直感的に理解する。
この存在は、好奇心で動いている。
それがどれほど厄介か。
先生が、低く声を落とす。
「おい」
短く呼ぶ。
「こちらは話せることは話したぞ」
視線を外さない。
「次は、お前が話す番じゃないのか?」
黒服は、わずかに動きを止める。
「すいません」
軽く頭を下げるような仕草。
「望外な話に、少し興奮してしまいました」
その謝罪は、表面だけのものだとすぐに分かる。
だが、それでも話は進む。
「テラー化について、ですね?」
ゆっくりと、姿勢を正す。
「お話ししましょう」
「まず、前提知識として――」
黒夜たちへ視線を向ける。
「キヴォトスの住人には、大なり小なり“神秘”と呼ばれる力が備わっています」
「神秘……?」
黒夜が、思わず呟く。
黒服が頷く。
「そうです」
指先で軽く机を叩きながら続ける。
「神秘が宿っているからこそ」
一つ一つ言葉を重ねる。
「銃で撃たれても、爆発に巻き込まれても死なない。
多少の擦り傷程度で済んでしまう」
それは、当たり前だと思っていた現象の名前。
だが、それを言語化されると、違和感が浮かぶ。
「テラー化とは――」
黒服の声が、わずかに低くなる。
「その“神秘”が反転し“恐怖”になることを言うのですよ」
その一言で、すべてが繋がる。
黒夜の中で、像が結ばれる。
(……反転)
神秘が、恐怖へ。
「私も」
黒服が続ける。
「どうにか人為的にテラー化を引き起こそうと研究していましたが――」
わずかに笑う。
「まさか、痛みや恐怖を与えるのではなく“深い絶望”でよかったとは、盲点でしたね」
その言葉にナギサ、ミカ、セイアの視線が、わずかに動く。
そして、黒夜も理解する。
(……あの三人は)
黒夜が死んだ。
その事実、それが引き金となり――
“絶望”が、神秘を反転させた。
黒夜は、喉の奥が乾くのを感じる。
それでも、問いを投げる。
「……その、テラー化してしまった者を、元に戻すことはできないのですか?」
わずかな希望。
だが、それでも聞かずにはいられない。
黒服は、一瞬だけ沈黙する。
「……恐らくですが一度テラーになってしまったら、もう戻れないと考えてください」
その言葉は、あまりにもあっさりしていた。
黒夜の中で、何かが静かに沈む。
黒服は続ける。
「さらに言うなら――」
わずかに肩をすくめる。
「テラーは一人でも脅威なのです」
視線が、ナギサたちへ向く。
「それが三人…私が言うのも変ですが、テラー化した貴方たちの条件を飲んだ方が身のためだと思いますよ?」
それは忠告だった。
だが、同時に“宣告”でもある。
沈黙が落ちる。
これ以上、聞けることはない。
それ以上に大人の出した結論を聞きたくもなかった。
やがて、席を立つ。
先生が軽く礼を言い、黒服はそれに応じるでもなく、ただこちらを見送る。
店を出ると外の空気が、やけに軽く感じられる。
だが、胸の中は重いまま。
黒夜たちは、言葉を交わさず歩き出す。
途中で先生とも別れトリニティへ向かう帰路の中。
それぞれが、同じ結論に辿り着いていた。
――避けられない。
――止められない。
その現実だけが、静かに胸の内に残っていた。
トリニティ自治区に入り、周りの空気の質がわずかに変わる。
見慣れた街路、整えられた石畳、朝から続いていた曇り空が、夕刻に向けてゆっくりと色を深めていく。
日常と呼べるものが、確かにここにはあるはずだった。
ナギサたちとも別れた後、黒夜は一人で歩いていた。足取りはいつもと変わらない。
だが、その内側では、ナギサ*テラー達の出来事が何度も反芻されていた。
別世界の自分。
それを守ろうとして、結果として失った三人。
そして、その果てに至った“終末”
歩きながら、自然と視線が落ちる。石畳の継ぎ目が、やけに規則正しく並んでいるのが目に入る。
その単調さが、かえって思考を深く潜らせる。
もし、自分だったら。
そんな問いが、何度も浮かぶ。
ナギサ。ミカ。セイア。
マコト。ヒナ。カヨコ。
他にも、自分に関わってきた人達の顔が、順に脳裏に浮かび上がる。
その誰かが、理不尽な悪意に晒される。
その結果守れずに最終的に死んでしまったら。
そこまで想像した瞬間、思考が一度止まる。呼吸がわずかに浅くなる。胸の奥に、鈍い熱が広がる。
……無理だ。
その結論に至るのに、時間はかからなかった。
同じ状況で自分は世界を呪わずにいられるか?
そんな問い自体が、意味を持たない。
怒りで我を忘れる。
絶望で足が止まる。
そのどちらも、あり得る未来として、あまりにも容易に想像できてしまう。
歩みは止めないまま、黒夜は目を閉じかけて、すぐに開く。思考に沈みすぎるのは危険だと、どこかで理解している。
あの三人は、自分では耐えられない壮絶な経験をした。
結果として、一つの世界を終わらせた。
そこまで考えて、ふと、別の角度からの見方が浮かぶ。
――私たちは、怯えすぎていたのではないか。
絶対的な力。
世界を滅ぼしたという事実。
それに対して、必要以上に恐怖を抱いていたのではないか。
別世界とはいえ、彼女たちはナギサであり、ミカであり、セイアだ。
それは、変わらない…であれば。
話し合いが成立しないはずがない。
そう結論づけようとした、その時だった。
背後から、唐突に何かが触れた。
柔らかい感触が、背中に当たる。
同時に、腕が回される。
抱きしめられている、と理解するまでに、わずかな時間がかかった。
「……っ!?」
思考が一瞬で切り替わる。身体がわずかに強張る。反射的に振りほどこうとしかけて――止まる。
耳元に、聞き慣れた声が落ちたからだった。
『も~、考えながら歩いてたら危ないよ~?』
軽い調子。どこか楽しげな響き。
続けて、もう一つの声。
『黒夜さん、貴方はもう少し自分の重要性を理解してください』
落ち着いた声音。だが、わずかに含まれる厳しさ。
そして、三つ目。
『まぁ君はいつだって私たちを想い、自分のことは後回しだからしょうがないさ……』
柔らかく、しかしどこか達観したような口調。
その三つを聞いた瞬間、緊張が一度だけ緩む。
聞き慣れた声だった。
何度も、すぐそばで聞いてきた声。
だからこそ。
黒夜は振り返りながら、言葉を返そうとした。
「さっき別れたばかりだというのに三人共どうしたのですか――」
そこまで言いかけて、言葉が止まる。
視界に入ってきたのは“色”だった。
見慣れた白ではない。
黒
ゆっくりと広げられたそれが、夕暮れの光を吸い込むように存在している。
思考が、追いつかない。
そして、視線を上げ自分を抱きしめている人物の顔を確認する。
黒い衣装。
黒い羽。
そして――
見慣れた顔。
ミカだった。
だが、違う。
ミカであって、ミカではない。
ミカ*テラー。
喉の奥で、小さく音が鳴る。
乾いた音だった。
左右に視線を動かす。
そこに立っていたのは、同じく黒を纏った二人。
ナギサ*テラーと、セイア*テラー。
二人とも、口元にわずかな笑みを浮かべている。
その笑みは、どこか柔らかい。
だが同時に、底が見えない。
黒夜は、言葉を失ったまま動けなかった。
想定よりも随分早い、その認識だけが遅れて浮かぶ。
“いつか来る”と聞かされていた存在が、すでに目の前にいる。
三人は、楽しそうに笑った。
『サプライズ大成功だね!』
ミカ*テラーが、腕をほどきながら言う。距離が少し開く。だが、その視線は外れない。
『私たちが居ることに驚きましたか?』
ナギサ*テラーが、首をわずかに傾ける。その仕草は、いつものナギサと変わらないようでいて、どこか違う。
『ふふふ、君のそんな顔を見れるなんて嬉しい誤算だね』
セイア*テラーが、小さく笑う。
その一連のやり取りは、あまりにも自然だった。
自然すぎて、現実感が希薄になる。
黒夜は、ゆっくりと呼吸を整える。無理にでも思考を戻す。
目の前にいるのは、敵か?
その問いに、即答はできない。
だが少なくとも、今この瞬間において。
攻撃の意思は感じられない。
むしろどこか、穏やかですらある。
その事実が、逆に違和感を生む。
黒夜は、言葉を探す。
だが、すぐには出てこない。
沈黙が、わずかに落ちる。
その間も、三人は黒夜を見ている。
観察するように。
確かめるように。
そして、どこか――
懐かしむように。
その視線の意味を読み取ろうとして、黒夜は一瞬だけ視線を逸らし、すぐに戻す。
逃げるべきではないと、本能が告げていた。
「……」
口を開くが、言葉はまだ形にならない。
それでも胸の奥で、別の感情がゆっくりと立ち上がる。
恐怖ではない。
戸惑いでもない。
――それは希望。
あまりにも楽観的なものだと、自分でも分かっている。
だが目の前の三人は、“話せる相手”に見えた。
世界を滅ぼした存在。
その事実は、変わらない。
それでも今この瞬間の彼女たちは、刃を向けてはいない。
であればまだ、道は残っている。
黒夜は、ようやく言葉を絞り出す。
「……随分と、早い到着ですね」
その一言に、三人が同時に反応する。
わずかに目を細める者。
楽しげに笑う者。
静かに頷く者。
『待ちきれなかったんだよね~』
ミカ*テラーが、軽く肩をすくめる。
『ええ、少し予定を前倒ししました』
ナギサ*テラーが、さらりと言う。
『何、いつかは来ていた。時間の問題だっただけさ』
セイア*テラーが、穏やかに付け加える。
黒夜は、その言葉を受け止めながら、ほんのわずかに息を吐く。
逃げ場はないがまだ、終わってもいない。
夕暮れの光が、四人の影を長く伸ばす。
重なりそうで、重ならない距離。
その中で、黒夜は静かに立っていた。
これから何が起こるのか。
その答えは、まだ見えない。
ただ一つだけ確かなのは実際に相対して最初に感じたのは、自分は彼女達を二度と悲しませたくないと思った事だった。