場所が変われば朝の光も変わる物のようだ。
トリニティの柔らかく拡散するような陽光でもなく、ゲヘナのどこか荒々しさを含んだ眩しさでもない。
ミレニアムのそれは、ガラスと金属に反射し、幾重にも屈折した末に整えられた、無機質で均一な明るさだった。
黒夜はその光を背に受けながら、自室の窓辺に立っていた。
昨日与えられたばかりのこの部屋は、あまりにも整いすぎている。必要なものはすべて揃っているのに、生活の痕跡が一切ない。
まるで誰かの“理想の生活”をそのまま切り取って配置したかのような空間だった。
「……」
静かに目を閉じて昨日のことを思い返す。
ゲームセンターでの一幕、アリスとの再会、ヒマリの案内、そして帰宅後に待っていた三人。
思い出すだけで、わずかに肩が重くなる。
「……今日から本格的に、ですね」
小さく呟くと、黒夜は身支度を整え始めた。
いつも通りの執事服に袖を通し、黒い手袋をはめる。白い眼帯の位置を微調整し、鏡の中の自分を確認する。
その姿は昨日と何も変わらないはずなのに、どこか“外の人間”のような違和感がまだ残っていた。
だが、それもすぐに消えるだろう。そういうものだ、と黒夜は理解している。
「さて…」
軽く息を吐き、玄関へ向かう。
扉を開ける前に、一度だけ振り返る。
リビングには、すでに三人の姿があった。
ナギサ*テラー、ミカ*テラー、セイア*テラーの三人がそれぞれ好き勝手な位置に座り、まるで最初からそこにいたかのような自然さで黒夜を見ている。
「……やはり、ついてくる気は無いんですね」
半ば確認のように言うと、三人はほぼ同時に頷いた。
『ええ、ありませんね』
ナギサ*テラーが即答する。
『私たちはあくまで“黒夜さんについてきただけ”ですので』
その声音には一切の迷いがない。
ミカ*テラーがソファに寝転がりながら手をひらひらさせる。
『今さら学校とかめんどくさいし~☆黒夜が行ってきてよ』
セイア*テラーは頬杖をつきながら、楽しそうに目を細めた。
『それに、私たちが出歩くと色々と面倒だろう?君の為にも大人しくしておくさ』
その言葉は、ある意味では正しい。
彼女たちの存在は、あまりにも“目立ちすぎる”。
黒夜は小さく頷いた。
「……わかりました」
無理に連れて行く理由もない。
むしろ、この方が安全だ。
「それでは、行ってきますね」
軽く一礼すると三人はそれぞれの調子で応じた。
『いってらっしゃい黒夜さん』
『いてら~』
『気を付けて行ってきたまえよ』
そのやり取りは、どこにでもある日常の一幕のようだった。
だが、その実態が“世界を滅ぼした存在”であることを思えば、やはりどこか歪だ。
黒夜はそれ以上何も言わず、扉を開けた。
外に出る。
ミレニアムの朝はすでに動き出していた。
通学する生徒たちの姿、無人搬送機の移動、遠くで稼働する設備音。すべてが効率的に、無駄なく流れている。
黒夜はその流れに自然と溶け込みながら、歩き出した。
しばらく歩いていると、近代的な校舎が見えてくる。
巨大な建造物。直線的で、機能美を追求したような構造。
その入口付近で、一人の少女がきょろきょろと辺りを見回していた。
アリスだった。
誰かを探している様子だった。
黒夜は少しだけ歩幅を速め、彼女に近付く。
すると、アリスがこちらに気付いた様で、ぱっと顔が明るくなりそのまま駆け寄ってくる。
「おはようございます黒夜!」
その声は、朝の空気を一気に柔らかくするような明るさを持っていた。
「おはようございますアリスさん」
黒夜は穏やかに返す。
「朝から元気ですね」
「元気なのはアリスの取り柄なので!」
胸を張るように言うその姿に、思わず小さく笑みがこぼれる。
「それは良いことですね」
少し間を置いてから、黒夜は尋ねる。
「それで、誰かを探しているようでしたが……一体どなたを?」
アリスは迷いなく、黒夜を指さした。
「黒夜です!」
「……私ですか?」
「そうです!」
「今日は黒夜をゲーム開発部に案内してあげようと思って、ここで待ってました!」
「なるほど……いきなりお邪魔しても大丈夫なんでしょうか?」
アリスはあっさりと言った。
「モモイもミドリもユズも、そんなこと気にしません!」
「それに、黒夜はゲームが好きなんですよね?」
その問いに、黒夜は少しだけ苦笑する。
「ええ……まあそうですね」
「なら大丈夫です!」
即断だった。
「……では、お邪魔させていただきます」
「パンパカパーン!」
嬉しそうに効果音を口にしながら、アリスが両手を広げる。
「黒夜がようやく仲間になりました!」
「……ああ」
黒夜は少しだけ視線を逸らす。
「一度お断りしたこと、気にされていたんですね」
「はい!」
その素直さに、少しだけ申し訳なさが増す。
だが、それ以上引きずることでもない。
二人は並んで歩き出した。
やがて、ゲーム開発部の部室前に到着する。
すると扉の向こうから、賑やかな声が聞こえてきた。
「ミドリ!それってハメ技じゃん!!」
「勝てれば何でもいいんだよ!お姉ちゃん!」
元気な声の応酬。
どこか懐かしいような、そんな空気。
黒夜はそのやり取りを聞きながら、ほんの少しだけ目を細めた。
(……ゲヘナやトリニティでは余り見られない微笑ましい場面ですね)
そう思った瞬間、アリスが扉に手をかけた。
迷いなく開ける。
「ただいま戻りました~」
中の空気が一気にこちらへ流れてくる。
「お!アリスおかえり~!」
モモイが振り向く。
「探してた人とは会えたの?」
「はい!」
アリスが一歩前に出る。
「それで、そのまま連れてきました!」
ミドリが少し身を乗り出す。
「アリスちゃん、もしかして後ろにいる男の人?」
「そうです!」
自信満々に言う。
「前に教えた隻眼のタンクこと、月城黒夜です!」
そして続ける。
「ようやく仲間になってくれました!」
その紹介に合わせて、黒夜は一歩前に出た。
背筋を伸ばし、優雅に一礼する。
「突然お邪魔してしまい申し訳ありません」
落ち着いた声音で名乗る。
「紹介にあずかりました、月城黒夜と申します。皆さん、よろしくお願いします」
その所作は、自然で、無駄がない。
一瞬、部屋の空気が止まる。
モモイとミドリが、同時にごくりと唾を飲み込んだ。
そして――
無言でアリスの腕を掴み、部室の隅へと引っ張っていく。
「アリス!聞いてた話と全然違うじゃん!?」
モモイは小声に抑えたようだが、しっかり聞こえる音量だった。
そんなモモイを気にせずミドリが続ける。
「そうだよ!アリスちゃんが言ってたのは、眼帯で左腕に包帯巻いた中二病みたいな人って……」
「こんな一流の執事みたいな人なんて聞いてないよ~!」
「?」
アリスは首を傾げる。
どうやら何が問題なのか理解していない様子だった。
黒夜はその会話を“聞こえていないふり”をしていた。
だが――
(中二病……)
心の中で、ほんの少しだけ引っかかる。
(……確かにあの時は、左腕も折れていて包帯だらけでしたが)
仕方のない誤解だ。
そう頭では理解している。
だが、言葉の響きが妙に残る。
わずかに肩が落ちた。
それを見たのか、モモイとミドリが慌てて戻ってくる。
「い、いや!今のは違くて!」
「そうです!予想と違うものが来て驚いただけですから!」
どこかぎこちないフォロー。
黒夜は小さく笑った。
「お気遣いありがとうございます」
その一言で、二人は少しだけ安堵したような表情を浮かべる。
そうしてようやく、部室の中へと正式に迎え入れられた。
気付けば、自然な流れで席に着いている。
そしてそのままモモイからコントローラーが手渡される。
「せっかくだしさ!みんなでパーティーゲームやろうよ!」
その提案に、誰も異論はなかった。
黒夜もまた、軽く頷く。
「では……お手柔らかに」
そう言いながら、コントローラーを握る。
ミレニアムでの初めての“普通の時間”は予想以上に、穏やかで、賑やかなものになった。
部室の中は、いつの間にか熱を帯びていた。
最初はぎこちなかった空気も、コントローラーを握り、同じ画面を見て、同じ瞬間に声を上げるうちに、自然と打ち解けていく。
勝った時の歓声も、負けた時の悔しさも、誰かと共有すればそれだけで楽しいものに変わる。
気が付けば、時間はあっという間に過ぎ去っていた。
パーティーゲームから始まり、対戦ゲームへと移り、さらには協力型のステージへと進む。
普段あまり触れないジャンルに手を出しては、試行錯誤しながら笑い合う。その繰り返しの中で、黒夜もまた自然とその輪の中に溶け込んでいた。
「ちょっと待って!そこ敵来てる!」
「うわ!?なんでそっちから来るの!?」
「落ち着いてください、順番に対処すれば――」
「黒夜冷静すぎるでしょ!?」
画面の中では混乱が広がっているのに、現実の空気はどこか穏やかで、心地よかった。
やがて、一区切りがついたところで、全員が同時に息を吐く。
その瞬間だった。
――グゥゥゥゥ……
やけに大きく、はっきりとした音が部室に響いた。
一瞬の静寂、そしてすぐに、モモイが頭をかく。
「……流石にお腹空いてきたね~」
その言葉に、ミドリが即座に反応する。
「お姉ちゃん!はしたないよ!今日は黒夜さんもいるんだよ!?」
「えぇ~いいじゃん別に~!」
アリスはそんな二人を見ながら、どこか納得したように頷いた。
「モモイのお腹が鳴ったという事は、そろそろお昼ですね?」
理屈としては正しいが、少しずれている。
そのやり取りを見ながら、黒夜はわずかに目を細めた。
(……いつも通り、というやつですね)
この空気が日常なのだろう。
だからこそ、黒夜は何も言わず、一度腕時計に視線を落とす。
そして、ほんの少し遅れて気付いたように口を開く。
「……もうこんな時間ですね」
自然な声音。
「そろそろ昼食にしましょうか?」
あくまで“今気付いた”という体で。
その配慮に、誰も気付くことはない。
モモイがすぐに反応する。
「じゃあさ!次の勝負で負けた人の奢りにしようよ!」
楽しそうな提案だが、その直後に黒夜がすぐに遮る。
「いえ」
穏やかに、しかしはっきりと。
「今回は私がお邪魔させていただいている立場ですので」
「食事代くらいは出させてください」
その言葉に、三人の動きが止まる。
「え、いいの?」
「そんな……悪いですよ」
「いいんですか!?」
それぞれの反応。
黒夜は首を横に振る。
「お気になさらず。皆さん、何かご希望はありますか?」
「うーん……いつも食べてるハンバーガーセットでいい?」
「私もそれで大丈夫です……すいません黒夜さん」
「アリスも文句はありません」
「ハンバーガーセットですね」
黒夜は一つ一つ確認するように頷いた。
「承知しました」
その時だったモモイがふと思いついたように言う。
「あのさ!私たちの事、黒夜の“ご主人様”って設定で接してみてくれない?」
ミドリがすぐに反応する。
「もうお姉ちゃん!」
慌てた声だったが、チラチラと黒夜の事を見ていて完全に否定しているわけでもない様子だった。
アリスは期待で目を輝かせて黒夜の事を見つめていた。
「面白そうですね!」
黒夜は一瞬だけ考えてから、すぐに微笑んだ。
「ええ、構いませんよ」
姿勢を正す。
そして、胸に手を当て、優雅に一礼する。
「それではお嬢様方」
声音がわずかに変わる。
柔らかく、それでいて品のある響き。
「直ちに昼食をお持ちしますので、もうしばらくお待ちください」
完璧だった。
自然すぎる所作。
作り物ではない“本物”のそれ。
三人の反応はそれぞれだった。
アリスは純粋に感心している。
「おぉ~……」
モモイはどこか遠い目をしていた。
(これがお嬢様の日常……?)
想像が膨らんでいる。
ミドリは小さく呟く。
「……良い……」
何が“良い”のかは本人にもよく分かっていない。
黒夜はそれ以上何も言わず、静かに部室を後にした。
扉が閉まる。
「……なんかさ」
モモイがぽつりと言う。
「すごくなかった?」
「……すごかった…」
「黒夜はやっぱり只者じゃないですね」
アリスが胸を張る。
どこか誇らしげだった。
それから、およそ十分ほど。
部室の扉が再び開いた。
黒夜の手には紙袋を携えていた。
香ばしい匂いが、部屋の中に広がる。
「お待たせいたしました」
「どうぞ」
そうして部室のテーブルの上に丁寧に置く、その動きもまた無駄がない。
そうして紙袋を置いた後、黒夜はわずかに表情を曇らせた。
「皆様、申し訳ありません」
少しだけ視線を落とす。
「少し用事が入ってしまいまして……」
その言葉に、モモイがすぐに反応する。
「えぇー!?これから後半戦なのにー!」
ミドリは少し残念そうにする。
「そうなんですね……また時間がある時に、気軽に遊びに来てくださいね?」
アリスは明るく言う。
「また今度ゲームしましょう!」
黒夜は柔らかく頷いた。
「その時は、ぜひお願いします。それでは皆さん、本日はありがとうございました」
そのまま、静かにゲーム開発部を後にした。
扉が閉まる音が、やけに小さく響いた。
そうして黒夜が去ったのを確認した後、部室のロッカーが、ゆっくりと開いた。
中から、ひょこっと顔を出す少女。
ユズだった。
「「「あっ」」」
三人の声が重なる。
その瞬間。
同時に気付く。
「……あ~」
「……え~っと」
「……むむ?」
モモイが顔を引きつらせる。
「……ユズの分……頼んでない」
アリスがぽつりと言う。
「……忘れていました」
三人同時に頭を下げた。
「ごめんユズ!」
「ごめんユズちゃん!」
「すっかり忘れていました!」
ユズは慌てて手を振る。
「ううん!大丈夫だよ」
少しだけ俯く。
「私が人見知りで、ロッカーから出なかったのが悪いんだから……気にしないで……」
その言葉に、モモイが即座に返す。
「三人分あるんだし、四人で分ければいいじゃん!」
「そうだね……」
ミドリも頷く。
「それなら問題ありません」
アリスが紙袋を開ける。
その瞬間。
「あれ?」
中を覗き込む。
「ハンバーガーが……四人分入っていますよ?」
「「「え?」」」
遅れて三人が同時に覗き込む。
確かに、セットがきっちりと四人分。
そして、その中に一枚のメモ用紙が入っていた。
気付いたミドリがそれを取り出し読み上げ始める。
「……“恥ずかしがり屋のお嬢様へ”」
ユズの肩がぴくりと動く。
「“今日は突然訪問してしまい申し訳ありませんでした”」
「“いつかその可愛らしいお顔を拝見できることを願っています”」
「“勝手ながら皆さんと同じセットにしておきました。四人で昼食を楽しんでいただけたら幸いです”」
ミドリが読み終えるとユズの顔が、じわじわと赤くなっていく。
モモイが口を開く。
「……ユズに気付いてたの!?」
驚きの声。
ミドリは静かに息を吐く。
「……すごい……」
その一言に、全てが詰まっていた。
アリスは満足そうに頷く。
「流石黒夜です!」
胸を張る。
「執事なだけはありますね」
誇らしげだった。
ユズは言葉を発せずにいた。
ただ、顔が赤くなっている。
恥ずかしさと嬉しさと様々な感情が混ざり合っている。
「……食べよっか」
モモイが少しだけ優しく言う。
「うん」
「そうですね」
「はい」
四人で席に着き包みを開けると部屋一杯に美味しそうな香りが広がる。
一口齧り付くと自然と笑みがこぼれる。
その日、ゲーム開発部の昼食はいつもより、少しだけ温かかった。