その日の朝もいい天気でいつもの日常が始まるのだと思っていた。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が、部屋の中をゆっくりと満たしていく。
規則正しい生活習慣を崩さない黒夜は、いつも通りの時間に目を覚まし、静かに起き上がった。
寝癖を整え、顔を洗い、身だしなみを整える。
鏡の前に立ち、いつものように執事服へと袖を通すその動作は、もはや身体に染み付いた習慣だった。
「……今日も、いい天気ですね」
窓の外に広がるミレニアムの朝は、どこか機械的でありながらも美しかった。
高層ビルの隙間から覗く朝日が、ガラスに反射して複雑な光を生み出している。
トリニティとも、ゲヘナとも違う。
この都市は、どこまでも“合理的”で、“効率的”な空気に満ちていた。
そんな景色にも慣れつつ、最後に白い眼帯の位置を整える。
「よし……」
小さく頷き、部屋を出ようとしたその瞬間だった。
『黒夜!今日はミレニアムに行かないで欠席するんだ』
背後から、静かな声がかかる。
黒夜はぴたりと動きを止めた。
振り返るとそこにはいつの間にか、セイア*テラーが立っていた。
気配も音も感じさせずに、まるで最初からそこにいたかのように、自然に佇んでいた。
「……え?」
一瞬、思考が止まる。
「いきなりなんですか?」
当然の疑問だった。
だが、セイア*テラーは表情を変えない。
『いいから私の言う事を聞きたまえ』
短く、断定的に言う。
その声音には、いつもの軽やかさがほとんど含まれていなかった。
その違和感に気付く前に、さらに横から声が重なる。
『黒夜~?セイアちゃんがこう言ってる時は言う事聞いときな~』
ミカ*テラーもソファにだらしなく座りながら、軽い調子で言う。
だが、黒夜を捕らえているその瞳は笑っていなかった。
『黒夜さん、わがままはいけませんよ?』
続いてナギサ*テラー。
いつも通りの優雅な口調だったが、その視線はわずかに鋭い。
三人が、同じ意見を口にしている。
「……」
黒夜は一瞬、黙り込み、そしてゆっくりと口を開く。
「黒セイア様、理由を教えてください」
丁寧だが、真っ直ぐに問いかける。
セイア*テラーは、ほんのわずかに視線を外した。
『今日は少し不穏な空気がミレニアムを覆っている』
『こういう時は家でジッとしているに限るのさ』
曖昧な説明…具体性はなにも無いのだが――
「……」
黒夜は、その言葉の“重さ”を感じ取っていた。
セイア*テラーの表情、その瞳がまっすぐ黒夜の事を見つめていた。
そして三人が一致して止めているという事実。
(……これは)
ただの気まぐれではないとそう理解する。
「……はぁー」
「そこまで言うならわかりました……今日は家で過ごす事にします」
『そうか、それはよかったよ』
黒夜がそう答えたその瞬間。セイア*テラーの表情が、明確に緩んだ。
ほんの僅かだが安堵が見えた。
(……やっぱり)
黒夜はそれを見逃さなかった。
だが、それ以上は踏み込まない。
理由を問い詰めても、彼女は答えないだろう。
(この三人がここまで言うなら)
従う価値はあると思える。
そう判断する事にした。
そして気持ちを切り替えるように切り出した。
「……ではせっかく家に籠るんですから、みんなでゲームでもしませんか?」
空気を変えるように提案する。
すると――
『いいね~やろうやろう!』
ミカ*テラーが即座に反応する。
『私はあまりゲームをやった事が無いのですが……楽しめるのでしょうか?』
ナギサ*テラーが少し不安げに言う。
「私が教えますし、簡単なパーティーゲームですから、多分黒ナギサ様も楽しめるかと思います」
『そうですか?ではお願いします』
場の空気が、徐々に日常に戻っていく。
その中で――
「………」
セイア*テラーだけは、動かなかった。
窓の方を見ている。
その視線の先には――ミレニアムの校舎。
遠くに見える、白い巨大な建造物。
そこに何があるのか。
何を“見ている”のか。
黒夜には分からない。
『ほらセイアちゃんもやるよ~!』
ミカ*テラーに呼ばれ、ようやく動く。
『……ああ、そうだね』
小さく応じる。そのまま三人と一緒にゲームへと加わった。
――だが
その瞳の奥だけは、ずっと冷たいままだった。
◆
数時間後。
「うわっ、また負けました……!」
『あはは!黒夜よっわ~!』
『私も少しずつ上達していますよ、黒夜さん』
『ふむ、悪くない判断だったね』
部屋の中には、穏やかな笑い声が響いていた。
先ほどまでの張り詰めた空気は消え、完全に日常の空気に戻っている。
黒夜も自然と笑みを浮かべていた。
――その時。
……ぐぅ~~~
盛大な音が響く。
『……ミカさん?』
『いや今のはナギちゃんでしょ!?』
『違いますよ!?』
『ナギサ、人に押し付けるのは見苦しいよ?』
『セイアさんまで!?』
三人が言い合いを始める。
黒夜は苦笑しながら立ち上がった。
「そろそろご飯でも作りましょうか」
そう言ってキッチンへ向かう。
その背中が見えなくなる。
その瞬間空気が変わった。
『……それでセイアさん』
ナギサ*テラーが静かに口を開く。
『一体何が見えたんですか?』
ミカ*テラーも興味深そうに視線を向ける。
セイア*テラーは、わずかに肩をすくめた。
『いやなにミレニアムの愚か者共が、厄介な物を持ち込んだだけさ』
『ふ~ん…じゃあ今日黒夜がミレニアムに行ってたらその厄介事に巻き込まれてたって事?』
『そういう事だ』
あっさりと肯定する。
『じゃあ別にいいかな?』
ミカ*テラーはあっけらかんと言う。
『私たちは黒夜が無事なら他がどうなろうがどうでもいいしね~』
『ミカさんの言う通りですね』
ナギサ*テラーも迷いなく同意する。
そこに、ためらいは一切ない。
セイア*テラーは、くすりと笑う。
『ふふ……私たちが黒夜に頼まれたのは』
『私たちがこの世界を滅ぼさない事と、ゲヘナとトリニティに危害を加えない事だけだからね』
『ミレニアムがどうなろうが、私たちの知った事ではないさ』
その言葉は、あまりにも自然だった。
『あっはは、セイアちゃんそれ詭弁って言うんじゃないの?』
『ふふふ……セイアさんも人が悪いですね』
『楽しそうに笑っている君たちには言われたくないな』
三人は笑う、軽やかで楽しそうに。
まるで、本当にどうでもいい事のように。
それが、彼女たちの本質だった。
黒夜以外は、どうでもいい。
世界すら、例外ではない。
その事実に気付いている者は、ほとんどいない。
そして――
その中心にいる黒夜自身も、まだ気付いていない。
キッチンからは、軽快な調理音が聞こえてくる。
平和な日常。
穏やかな時間。
だがその裏でミレニアムでは、確実に“何か”が動き始めていた。
この日黒夜は三人に止められてミレニアムに行かなかった。
――その結果
黒夜がミレニアムで何が起きたのかを知るのは、ある一本の電話だった。
◆
息が切れる。それでも黒夜は足を止めなかった。
ミレニアムの整然とした通路を、ただ一直線に駆け抜ける。
普段なら周囲の状況を冷静に把握しながら歩く彼が、今はただ“急ぐ”という一点に意識を集中していた。
頭の中で何度も反芻されるのは、ミドリからの一本の電話。
泣き出しそうな必死に不安を押し殺していたであろう震えた声で語られた内容は。
「お姉ちゃんが…怪我で倒れて意識が戻ってないの…。それにアリスちゃんも…部室から出てこなくなっちゃった…黒夜さん…助けて…」
(一体何が起きたんだ……!?とにかく手遅れにならないでくれ!)
ただそれだけを願いながら走る。
その後ろには、三つの気配が続いていた。
『珍しく余裕ないね、黒夜』
『まぁあの様子じゃ無理もないですけどね』
『……嫌な予感は当たったようだね』
だが今の黒夜には、その声に返す余裕すらなかった。
やがて、見慣れた扉が視界に入る。
ゲーム開発部の部室。
その前には、すでに数人の姿があった。
「……っ」
足を止めることなく、最後の数歩を踏み込む。
「あっ!黒夜さん来てくれたんですね!」
ミドリが顔を上げる。
その目は赤く腫れていた。
「うぅ……」
隣ではユズが不安そうに震えている。
「黒夜、それに君たちも来てくれたんだね」
先生が静かに声を掛けてくる。
黒夜は一度だけ呼吸を整え、すぐに問いかけた。
「何があったんですか?」
短く、だが強い声だった。
ミドリが唇を噛みながら話し始める。
「この前……アリスちゃんが突然変になっちゃって……それでお姉ちゃんが……」
言葉が途切れる。
思い出すのも辛いのだろう。
黒夜はすぐに一歩近づき、静かに言った。
「わかりました。ミドリさん……すいません、辛い事を思い出させてしまいましたね」
それ以上は聞かない。
ただ、受け止める。
ミドリは小さく首を振った。
「……ううん、大丈夫です……」
だが、その声は明らかに強がりだった。
黒夜はすぐに先生へ視線を移す。
「先生……モモイさんの容態は大丈夫なんですか?」
その問いに、先生はわずかに目を伏せた。
「モモイは……もう二日間も目を覚ましてないんだ……」
静かな声。
だが、その中にある重さは計り知れない。
「……っ!」
黒夜は驚きで言葉を失ってしまった。
何か言うべきだ!励ますべきだ!
そう思うのに、適切な言葉が見つからない。
その沈黙が、状況の深刻さを何よりも物語っていた。
「それに……」
ユズが震えながら続ける。
「アリスちゃんも部室から出て来なくて……」
その言葉に、黒夜は小さく頷いた。
「ユズさん……わかりました」
そして一歩、扉へと向かう。
「アリスさんに声を掛けてみようと思います」
「僕も行くよ」
先生も並んで二人で扉の前に立つ。
「アリスさん、黒夜です。少しお話出来ませんか?」
返事は返って来なかった。
今度は先生が呼びかけてみる。
「アリス、僕だよ」
沈黙が返ってきた。
黒夜は仕方なくゆっくりとドアノブに手を掛け回すと
――開いた…どうやら鍵は掛かっていなかったようだった。
「アリス?入るね」
先生が先に入り黒夜も後を続く。
部室の中は、暗かった。
カーテンが閉められ、光がほとんど入っていない。
空気もどこか重い。
その奥に――
小さく丸まった影があった。
それは膝を抱えて座り込む、アリスだった。
「アリスさん……」
黒夜が静かに呼ぶ。
「……………」
反応はない。
だが――
「せ、先生……黒夜……」
かすかな声が返る。
「アリス、ご飯も食べないでずっと籠ってるって聞いたよ」
先生が優しく言う。
「皆さん心配してますよ」
黒夜も続ける。
「そうだね。外に行こうアリス……?」
「……でません」
アリスは小さく首を振った。
「アリスのせいで……モモイが怪我をしました……」
その声は震えていた。
「全部……アリスがやった事です……」
握りしめた手が、わずかに震える。
「……アリスの体が、反応しました。あの時、アリスが何をしたのか……何も思い出せませんが……」
「それでもひとつ、確かなのは……アリスが……アリスが……」
呼吸が乱れる。
「アリスが、モモイを……!」
「落ち着いて!」
「落ち着いてください!」
先生と黒夜が同時に声を掛ける。
だが、アリスの混乱は止まらない。
「先生、黒夜……アリスは……アリスは一体どうすれば……!」
縋るような目。
助けを求める声。
だが――先生は、言葉を失っていた。
その時黒夜が一歩前に出る。
静かに、片膝をつき、アリスと同じ目線になる。
「アリスさん…」
「落ち着いて聞いてください」
なるべく落ち着いた声でゆっくりと、丁寧に言葉を紡ぐ。
「先生や、ミドリさん、ユズさん、私も含め……全員があなたの事を心配して集まったのですよ」
優しく諭すように。
「誰もあなたの事を責めていないし、恨んでもいません」
断言する。
アリスの瞳が、わずかに揺れる。
「それにモモイさんの事も安心してください」
「私の知り合いのトリニティの救護騎士団の方や、ゲヘナの救急医学部の方にも診てもらえるように頼んでみます」
現実的な手段を提示する。
「だから今は……ここから出て、心配をかけた人達に元気な顔を見せに行きませんか……?」
最後に、手を差し伸べる。
その言葉は、強制ではない。
選択を委ねるものだった。
「……」
アリスの瞳に、わずかな光が戻る。
まだ不安で瞳は揺れ動いている。
しかし、ほんの少しの“希望”も同時に灯っていた。
その瞬間だった。
「甘いわね、黒夜」
冷たい声が、空気を切り裂いた。
全員が振り返る。
そこに立っていたのは――
調月リオ。
冷静だがその瞳は鋭い。
「彼女が怪我をさせた。それは逃れられない真実」
淡々と現実を言う、一切の容赦なく。
アリスの肩がびくりと震えた。
「リオさん……!」
黒夜が声を上げる。
だがリオは気にしない。
一歩、部屋の中へ入る。
「どれだけ優しい言葉で包んでも、事実は変わらないわ」
視線はアリスに向けられている。
「原因は彼女。そして結果は意識不明の重体」
冷酷なまでに正確な言葉。
「……やめてください」
黒夜が立ち上がる。
その声には、明確な拒絶があった。
「今はアリスさんを責める時ではありません」
「違うわ」
即座に否定される。
「今だからこそ、事実と向き合わせるべきなのよ」
リオは一切揺らがない。
「自分が何をしたのか。それを理解しないままでは、同じことを繰り返す」
残酷な正論だ。
「それは……」
黒夜は言葉に詰まる。
理解できる。
確かにリオの言う事は正しい。
だが――
「それでも今は……」
必死に言葉を絞り出していると――
「黒夜、優しさだけでは誰も救えないという現実に気づきなさい!」
リオが遮る。
その言葉に、空気が凍る。
「……!!」
黒夜はリオの言葉に何も言い返せない。
「貴方の考えや優しさは尊ばれる物よ。だけど現実はそんなに甘くないのよ」
「そんな理想論だけでは誰も守れないのよ……」
そのリオの言葉の奥には、どこか確信めいたものがあった。
「誰も……守れない……?」
黒夜の呟きが部室に響いた瞬間。
昨日までの楽しい日常は終わりを告げ――
新たな選択の物語が、始まったのだった。