扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
その音を最後に、部室の中から大事な何かがごっそり抜け落ちたような錯覚が残る。さっきまで確かにそこにあったはずの空気が、温度も、色も、全部持っていかれたように消えていた。
誰も、すぐには動けなかった。
ミドリは俯いたまま拳を握りしめ、ユズは部屋の端で小さく体を縮めている。先生もまた、扉の方を見つめたまま言葉を失っていた。誰もが“今起きたこと”を理解しきれていないまま、ただ現実だけが置き去りにされている。
そして黒夜だけが、その中心に立ち尽くしていた。
追わなければならない。
それは分かっている。頭では理解している。今すぐにでもリオを止めて、アリスを連れ戻さなければならないということも。
だが、足が動かなかった。
ほんの一歩が、どうしても踏み出せない。
(……私が、行って……何が出来る)
脳裏に浮かぶのは、先ほどの光景だった。首を締め上げられてもなお言葉を紡ぎ続けたリオの姿と、その言葉に何も返せなかった自分。そして、震えながら全てを受け入れてしまったアリスの瞳。
自分では、届かなかった。
守ろうとしたはずなのに、何一つ守れなかった。
(……私は……)
思考が、そこで止まる。
その先に続くはずの言葉が、どうしても形にならない。
そんな停滞を、無遠慮に引き裂く音が響いた。
バン、と勢いよく扉が開く。
「クソ!行き違いになったか?」
低く、短い声が空気を叩き割る。
振り向く間もなく、ずかずかと部室の中に踏み込んできたのはネルだった。場の空気など一切気にする様子もなく、まっすぐに黒夜の前まで歩み寄ると、その顔を覗き込む。
「オイ……なんだそのしけた顔は」
言葉は荒いが、声音にはわずかに引っかかるものがあった。
黒夜は一瞬だけ目を逸らし、それでも取り繕うように口を開く。
「……いえ、私は――」
「誤魔化すな」
即座に遮られた。
逃げ道を塞ぐように、ネルの視線が突き刺さる。
「ここで何が起きたか知らねぇけどな、大体分かる。何も出来なかったんだろ?」
図星だった。
反論の言葉が浮かばない。否定したいはずなのに、そのための材料が一つも見つからない。
沈黙が、それを肯定していた。
ネルは小さく舌打ちすると、そのまま黒夜の腕を掴んだ。
「来い」
「……え?」
「その顔のまま突っ立ってても何も変わんねぇだろ」
強引に腕を引かれる。
抵抗しようと思えば出来たはずなのに、黒夜の体は不思議なほど素直にそれに従っていた。自分の意思で動いているのか、それともただ流されているだけなのか、その区別すら曖昧だった。
気付けば、部室の外に連れ出されている。
後ろでミドリが何かを言いかけた気配があったが、ネルは振り返りもしなかった。
そのまま歩く。目的地など説明もされないまま、ただ引かれるままに進む。廊下を抜け、階段を下り、人気の少ない通路を通り抜けて――辿り着いたのは、訓練場だった。
ネルがようやく足を止める。
そして振り返ると、短く言い放った。
「構えろ」
「……え?」
「いいから」
有無を言わせない声音だった。
黒夜は一瞬戸惑いながらも、ゆっくりと姿勢を整える。身体が覚えている動作が、思考を置き去りにして勝手に形を作っていく。
次の瞬間、銃声が響いた。
ネルが先に動いた。
躊躇のない一撃。牽制などではない、本気の射撃。
反射的に黒夜はシールドを構え、防御に入る。衝撃が腕を通して伝わるが、それでも崩れない。防ぐこと自体は、出来ている。
だが――
(……攻撃を……)
返すべきか、一瞬迷う。
そのわずかな遅れを、ネルは見逃さない。
間髪入れずに踏み込み、角度を変えて撃ち込んでくる。守ることに集中している黒夜は、それをいなすだけで精一杯になる。
攻める余裕がない。
いや、違う。
(……攻める気がない…)
そう考えた瞬間、視界が揺れた。
防御の死角を突かれる。
衝撃が身体を打ち、体勢が崩れる。踏みとどまろうとするが、追撃が来る。連続した圧力に押され、ついにバランスを崩し、床に膝をついた。
そこでようやく、銃声が止まる。
静寂が戻る。
荒い呼吸だけが、やけに大きく響いていた。
「……なんで反撃して来ねぇ!!」
ネルの声が落ちる。
責めるでもなく、ただ事実を確認するような声音。
黒夜は息を整えながら、かすかに視線を上げる。
「私は……守るために――」
「それで守れてねぇだろ」
言い切られた。
間を挟む余地もなく、切り捨てられる。
言葉が詰まる。
否定したいのに、否定できない。
「守るってのはな」
ネルが一歩近づく。
「殴られるの待つことじゃねぇ」
そのまま、さらに距離を詰める。
「倒せば終わるなら、倒した方が確実だろ」
まっすぐな言葉だった。
余計な装飾も、理屈もない。ただ“結果”だけを見据えた言葉。
黒夜の中で、何かが揺れる。
理解は出来る。言っていることは正しいと分かる。だが――
「それでも……私は……」
言葉が続かない。
“それでも”の先にあるはずの答えが、見つからない。
ネルはそれを見て、ほんの一瞬だけ表情を緩めた。
だがすぐに、元の無愛想な顔に戻る。
「お前のそれは守りじゃねぇよ」
静かに告げる。
「ただ逃げてるだけだ」
その言葉が、深く突き刺さる。
何も言い返せない。
守れなかったという事実が、全てを押し潰していた。
沈黙が落ちる。
ネルは小さく息を吐くと、少しだけ視線を逸らした。
「……そのままだと、そのうち全部背負って潰れるぞ」
ぽつりと零れた言葉は、先ほどまでとは少しだけ違う響きを持っていた。
黒夜は顔を上げる。
理解も、納得も、出来ていない。ただ、何かが間違っていることだけは分かっている。それでも、それが何なのかはまだ見えない。
ネルはそれ以上何も言わなかった。
「今は難しいこと考えずにかかって来い」
ぶっきらぼうに言い捨てる。
「そうすりゃ答えが出るかもな!」
そう宣言して、構え直した。
黒夜はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
足を踏み出せばいい、それだけのはずなのに、その一歩がどうしても重い。
守れなかった現実と、突きつけられた言葉が、頭の中で何度も反響している。
答えは、まだ出ない。
だが――
何も変えなければ、何も守れない。
その感覚だけが、確かに胸の奥に残っていた。
◆
訓練場の空気は、すでに夕暮れの色を帯び始めていた。
長時間にわたる鍛錬の熱気がまだ残る中、床には乾ききらない汗の跡が点々と続き、その中心に黒夜は膝をついたまま動けずにいた。
呼吸は荒く、視界は揺れ、腕は鉛のように重い。それでも立ち上がろうとした形跡だけが、床に残された擦り跡として無惨に刻まれている。
だが、身体よりも深刻だったのは、その内側――心の方だった。
リオの言葉が、まだ頭の奥で反響している。
――優しさだけでは誰も救えない。
――現実はそんなに甘くない。
否定したいはずの言葉だった。けれど、目の前で起きた光景が、それを許さなかった。ミカ*テラーを止められなかった事実。アリスを救えなかった現実。そのすべてが、今までの考えを押し潰すように積み重なっている。
守るために選んできた道が、本当に正しかったのか。
それすら、もう分からない。
「……っ……」
息を整えようとしても、うまくいかない。
ただ、何かを握りしめるように拳を強く閉じることしかできなかった。
その時だった。
「あらあら……随分と絞られました様ですね」
背後から、どこか軽やかな声音が差し込む。
黒夜は振り返る余裕もなく、ただその声を聞くだけだった。
「……」
「返事をする気力もありませんか?」
「……御覧の通り、ですよ……」
ようやく絞り出した声は、かすれていて、自分でも驚くほど頼りなかった。
ヒマリはその様子を一瞥し、小さく肩をすくめる。
「まったく……ネルもリオも直情的すぎて困ってしまいますね」
軽口のようでいて、その言葉は状況を正確に捉えていた。
黒夜の視線が、わずかに揺れる。
「……何が、言いたいんですか……」
問いかけるというより、ようやく零れた言葉だった。
ヒマリはすぐには答えない。ほんの一瞬、呼吸を置いてから、静かに口を開く。
「貴方は今、“自分のやり方では守れなかった”という事実に、足を止めているのでしょう?」
「――っ!」
胸の奥を抉られるような感覚。
言葉にされた瞬間、それは誤魔化しの効かない“事実”として突きつけられる。
「リオにそれを突きつけられ、ネルに身体で理解させられた……それでもなお、まだ迷っている」
責める声音ではない。ただ淡々と、状況を整理しているだけ。
それが余計に逃げ場を奪ってくる。
「……本当に、手の掛かる人ですね」
呆れたように言いながらも、その声にはどこか柔らかさが残っていた。
そして、ヒマリの表情がわずかに変わる。
「いいですか」
その一言で、空気が静かに引き締まった。
「このまま立ち止まってしまえば……一番後悔するのは、貴方自身ですよ」
その言葉に、黒夜の指先がわずかに震える。
「誰も貴方を責めていないのに……貴方だけが、自分を責め続けている」
ぐっと、視線が落ちる。
――その通りだった。
誰も責めていない。先生も、アリスも、ミドリもユズも。
それなのに、自分だけが勝手に責任を背負い込んで、勝手に潰れかけている。
「……貴方が守りを重視する理由も、理解できます」
ヒマリの声が少しだけ和らぐ。
「その選択自体を否定するつもりもありません」
その一言に、黒夜の呼吸がわずかに戻る。
「ですが、それで足を止める理由にはなりません」
静かな言葉だった。だが、確実に逃げ道を塞ぐ強さがあった。
黒夜の胸の奥に、重く沈んでいた何かが、わずかに動く。
「貴方の事を信じている人がいるのなら」
ヒマリの視線が、まっすぐに黒夜を捉える。
「今度は、貴方がその人達を信じる番ではないですか?」
「…………」
答えは出ない。
出せるはずもない。
けれど、その沈黙は、先ほどまでの“完全な停止”とは違っていた。
何かが、わずかに動き始めている。
思考が、まだ形にならないまま、揺れている。
ヒマリはそれを確認すると、小さく息を吐いた。
「……今すぐ答えを出す必要はありません」
「ですが」
最後に、静かに言葉を置く。
「今の言葉だけは……忘れないでくださいね」
それだけ言い残して、ヒマリはその場を後にした。
足音が遠ざかる。
静寂が戻る。
黒夜は、しばらくその場から動かなかった。
ただ、ヒマリの言葉が、ゆっくりと胸の奥に沈んでいくのを感じていた。
(……信じる……)
その言葉が、引っかかる。
自分はずっと、守る側だった。
守るために動き、守るために考え、守るために犠牲を背負う覚悟もしてきた。
だが――
(私は……誰かを信じていたのか……?)
問いが浮かぶ。
信じていなかったわけではない。
だが、どこかで“自分が何とかしなければならない”と決めつけていた。
それは、信じていたのではなく――
(……任せていなかった……?)
そこまで思考が届いた瞬間、胸の奥に小さな違和感が灯る。
まだ答えではない。
けれど、確かに“何か”が変わり始めていた。
黒夜はゆっくりと拳を開く。
震えはまだ残っている。
迷いも、恐れも消えてはいない。
それでも――
「……まだ……終わってない……」
かすかな声が、静かに零れた。
その言葉は、誰に向けたものでもない。
だが確かに、止まりかけていた何かを、もう一度動かそうとする意志だった。
完全な答えは出ていない。
それでも、立ち止まり続ける理由にはならない。
黒夜は、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳にはまだ迷いが残っている。だが、その奥には――
確かに、小さな“再起の兆し”が灯っていた。
◆
部屋の中は、静かだった。
ミレニアムの高層区画に用意されたその一室は、外の喧騒とは切り離されたように静まり返っている。
整然と並んだ家具も、壁に埋め込まれた機器も、すべてが無機質で――そして今は、その無機質さがやけに空虚さを強調していた。
その中心で、三人は動かずにいた。
いや、正確には一人だけが壊れていた。
『嫌われた嫌われた嫌われた嫌われた嫌われた嫌われた嫌われた……』
ミカ*テラーが、床に膝を抱えて座り込みながら、ぶつぶつと同じ言葉を繰り返している。普段の明るさは影も形もなく、その声には焦りと恐怖がべったりと張り付いていた。
『はぁ……ミカさん、少し黙ってくれません?』
ナギサ*テラーが額を押さえながら、ため息混じりに言う。だがその声音にも、普段の余裕はない。どこか上滑りした、落ち着かない響きが混じっていた。
『そうだね……これからどうするか、考えなければならないからね』
セイア*テラーが静かに続ける。冷静を装ってはいるが、その視線はわずかに揺れていた。
だが――
『黒夜……嫌いにならないで……お願いお願いお願いお願い……』
ミカ*テラーは止まらない。耳に入っていないのか、それとも入っていても止められないのか。言葉は次第に早くなり、呼吸と混ざって崩れていく。
『……はぁ』
『……やれやれだね』
ナギサとセイアが同時にため息を吐く。だが、その裏にあるのは呆れではない。どう扱えばいいのか分からないという、明確な困惑だった。
少しの沈黙の後、セイアが口を開く。
『……ミカは一旦置いておこう。それで、これからどうするかだ』
その言葉に、ナギサの表情がわずかに強張る。
『どうするも何も……どうしようもありませんよ』
静かに、しかし確実に沈んだ声だった。
『黒夜さんが……部室から連れ出されていく時の、あの視線……セイアさんも見たでしょう?』
その言葉に、セイアはゆっくりと目を閉じる。
『……ああ』
短く、肯定する。
『理解できないものを見る目だったね……』
そして、わずかに苦笑する。
『前の世界で、散々向けられたから……間違いないよ』
その一言で、空気が重く沈む。
あの視線を、三人は知っている。
“敵を見る目”でも、“恐れる目”でもない。
もっと冷たい――“理解できない存在を見る目”。
それは、かつて彼女たちが世界から向けられていたものだった。
『……どうして……?』
ナギサがぽつりと呟く。
『黒夜さんは……いきなりあのような視線を……?』
問いかけるようでいて、誰にも向けられていない言葉。
『ミカさんは……黒夜さんを守っただけですのに……』
その言葉に、セイアがゆっくりと視線を落とす。
『……ふむ』
短く思案するように息を吐き、そして静かに結論を口にする。
『もしかしたら……ミカの行動が“ただの暴力”に見えてしまったのかもしれないね』
『……え?』
ナギサが目を見開く。
『どうしてです?敵は……滅ぼすべきでしょう?』
それは当然の理屈だった。彼女たちにとっては、それが“正しい”。
だが。
『……黒夜にとって、リオは“敵”では無かったのかもしれない』
セイアの言葉が、静かに落ちる。
『それを……私たちが、早とちりしてしまった可能性がある』
その瞬間、ナギサの呼吸が止まる。
『そんな……』
言葉が、うまく続かない。
『じゃあ……私たちは……』
その先を、言いたくなかった。だが、言葉は止まらない。
『……黒夜さんに……見限られる……?』
ぽたり、と。
涙が落ちた。
『あ……あぁ……』
ナギサの瞳から、次々と涙が溢れてくる。自分でも止められない。理解が追いつかないまま、ただ感情だけが崩れていく。
『……私たちも……これで終わりか……』
セイアが静かに呟く。その声は、どこか諦めを含んでいた。
『短かったな……』
自嘲するように、小さく笑う。だがその目からも、確かに涙が流れていた。
『いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ……』
ミカ*テラーの声が、再び大きくなる。
現実を拒絶するように、頭を抱え、体を揺らしながら繰り返す。
『いやだ……嫌われたくない……黒夜に嫌われたくない……』
それは、叫びにも似ていた。
世界を滅ぼした存在が。
数えきれない命を奪ってきた存在が。
たった一人に嫌われることを、これほどまでに恐れている。
その事実が、この場にいる誰よりも彼女たち自身を、深く傷つけていた。
部屋の中に、静かな嗚咽が広がる。
誰も、もう笑っていなかった。
誰も、もう余裕などなかった。
ただ一つ、確かなのは――
彼女たちにとっての“世界”は、すでに一度終わっているということ。
そして今、その残された唯一の“世界”すら、失いかけているということだった。