ミカ*テラーの声は止まらなかった。
『嫌われたくない……黒夜に嫌われたくない……』
同じ言葉を繰り返しながら、床に爪を立てる。力の加減も分からないまま擦り続け、やがて鈍い音が床に刻まれていく。それでも止めない。止めれば、本当に壊れてしまうと分かっているかのように。
ナギサ*テラーはその様子を見つめたまま、何も言えずにいた。
止める言葉が見つからない。
否定する材料も、慰める理由も、どこにもない。
ただ一つ、確かなのは――
“もう戻れない”ということだけだった。
『……ミカさん』
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
『それ以上……自分を追い詰めても……』
言葉が続かない。
続けようとすればするほど、現実を認めることになる。
だから、止まる。
その沈黙を埋めるように、セイア*テラーが静かに口を開いた。
『……ナギサ』
呼ばれた名前に、ナギサ*テラーがわずかに顔を上げる。
『現実から目を逸らしても、状況は変わらない』
淡々とした声音だった。
だが、それは優しさでも慰めでもない。
ただの“事実の提示”だった。
『私たちは……黒夜にとって、受け入れられない存在になってしまった』
その言葉が、静かに落ちる。
ナギサ*テラーの肩が震える。
『……やめてください……』
小さく、拒絶するように呟く。
『それ以上……言わないでください……』
分かっている。
理解している。
それでも、言葉にされると胸が締め付けられる。
セイア*テラーは一瞬だけ目を伏せる。
だが、止まらない。
『なら聞くが…』
わずかに声のトーンを落とす。
『このまま、どうする?』
問いかけだった。
逃げ道のない問い。
『このまま黒夜の前に立てるのか?』
ナギサ*テラーの呼吸が詰まる。
『……それは……』
『あの視線を向けられたままでも?』
追い打ちのように重ねる。
ナギサ*テラーは何も言えなかった。
答えなど、出ている。
だが、それを認めることができないだけだ。
沈黙が落ちる。
その間も、ミカ*テラーの声は揺れ続ける。
『嫌われたくない……でも……嫌われた……でも……嫌われたくない……』
言葉が崩れ、意味が混ざり合い、やがて嗚咽に変わっていく。
ナギサ*テラーの胸が締め付けられる。
『……こんなの……』
思わず漏れる。
『こんなの……あんまりです……』
声が震える。
『私たちは……ただ……』
守りたかっただけだ。
それだけなのに。
どうしてこんな結末になるのか。
その答えは、もう分かっている。
――“やり方”が間違っていた。
(それでも……)
否定できない。
あの時の選択を。
ミカの行動を。
自分たちの在り方を。
だからこそ――
『……どうすればいいんですか……?』
問いは、もはや誰にも向けられていなかった。
セイア*テラーは、ゆっくりと息を吐く。
『簡単な話だよ』
静かに言う。
『“私たちが居なくなればいい”』
ナギサ*テラーの瞳が揺れる。
『……え?』
『私たちが存在するから、問題になる』
淡々と続ける。
『黒夜を怯えさせる原因が、私たちなら――』
そこで、言葉を区切る。
『消えればいい』
あまりにも静かな結論だった。
だが、その重さは計り知れない。
ナギサ*テラーの呼吸が止まる。
『……消える……?』
『ああ』
セイア*テラーは迷いなく頷く。
『この世界から、完全に』
指先を軽く持ち上げる。
『私たちの残した痕跡も、記憶も、すべて消し去る』
その説明は簡潔だった。
まるで、日常の延長のように。
だが、それが意味するのは――
“存在の否定”。
ナギサ*テラーの体が震える。
『そんな事……どうやって……?』
セイア*テラーは、静かに懐へ手を伸ばす。
取り出したのは、一枚のカード。
この世界のものではない。
滅びた世界で手に入れた、異質な“力”。
『これがある』
それを見た瞬間、ナギサ*テラーは理解する。
『……それ……は……』
『私たちの先生の形見だ…』
その一言で、空気がさらに重くなる。
ミカ*テラーの声が、一瞬だけ止まる。
『……黒夜に……忘れられるの……?』
ぽつりと、呟く。
セイア*テラーはその問いに、即座に答えた。
『ああ』
『私たちが最初から存在しなければ…』
『黒夜は何も失わない…傷付きもしない…』
その言葉は、あまりにも残酷で、あまりにも優しかった。
ナギサ*テラーの視界が歪む。
それは正しい事なのかもしれない。
だからこそ、否定できない。
『……忘れられるのは……』
ぽつりと、言葉が零れる。
『……嫌です……』
自分でも驚くほど小さな声だった。
だが、それは確かな本音だった。
『黒夜さんに……忘れられるのは……嫌です……』
その言葉に、セイア*テラーの視線がわずかに揺れる。
ナギサ*テラーは続ける。
『でも……』
言葉が詰まる。
『嫌われた私たちが……このまま存在していていい理由も……どこにもない……』
矛盾している。
だが、それが今の心だった。
残りたい。
でも、残る資格がない。
『……なら……別の世界の黒夜さんを……』
一瞬だけ、希望のような言葉が浮かぶ。
だがすぐに、崩れる。
『……無理だ……』
セイア*テラーが首を振る。
『もう……そんな気力は……残ってない……』
世界を渡り、探し続けるだけの意志も、力も、もうどこにもない。
ミカ*テラーが、かすれた声で続ける。
『……じゃあ……全部……壊せば……いい……?』
その言葉に、ナギサ*テラーがはっと顔を上げる。
『この……世界を……壊せば……』
ミカ*テラーの瞳は濁っていた。
壊れかけた思考の中で、それでも“選択肢”を探している。
だが――
『……それは、ダメだ』
セイア*テラーが即座に否定する。
『黒夜に迷惑がかかる』
その一言で、ミカ*テラーの動きが止まる。
『……そっか……』
悲しそうにポツリと呟く。
『黒夜が……困るのは……ダメだよね…』
それだけで、その選択肢は完全に消える。
沈黙。
すべての道が、閉ざされる。
残されたのは――
『………』
誰も口を開かなかったが、セイア*テラーが、静かに口を開く。
『私たちが、消えるしかない』
『黒夜に迷惑をかけない』
『黒夜に嫌われたまま残らない』
『黒夜に余計な負担を背負わせない』
淡々と、条件を並べる。
『その全てを満たす方法は――これしかない』
ナギサ*テラーの視界が揺れる。
それは“正しい”。
だからこそ、残酷だった。
『……でも……』
最後の抵抗のように、言葉が漏れる。
『……忘れられてしまいます……』
それが、一番の恐怖だった。
消えることよりも。
存在しなかったことにされることよりも。
“黒夜の中から消えること”が、何よりも怖い。
セイア*テラーは、一瞬だけ沈黙する。
そして――
『……それでも』
『嫌われたまま残るよりは、幾分かマシだろう?』
その言葉で、全てが崩れた。
ナギサ*テラーは、何も言えなくなる。
ミカ*テラーは、ただ震える。
それが答えだった。
セイア*テラーが二人に届くようにカードを差し出す。
それは、この世界のものではない。
滅びた世界で手に入れた、“奇跡”の残骸。
『これで……終わりにしよう』
その言葉に、二人の視線が向く。
ナギサ*テラーは涙を拭う。
震えながらも、頷く。
『わかりました……』
ミカ*テラーも、ゆっくりと手を伸ばす。
『……黒夜が……困らないなら……いいや……』
それが、最後の決断だった。
三人の指が、カードに触れる。
その瞬間。
空気が、わずかに歪んだ。
自分たちの輪郭が、ほんの少しだけ曖昧になる。
それでも、誰も手を離さない。
残る理由が、もう無いから。
ただ静かに――
この世界から、自分たちを消し去るために。
扉の外で、わずかな違和感があった。
黒夜はカードキーを差し込む寸前、手を止める。いつもなら気配など感じないはずの部屋の内側から、どこか“薄くなった”ような感覚が滲み出ていた。
空気の密度が違う。音が吸い込まれているような、奇妙な静けさ。胸の奥に、嫌な予感が落ちる。
「……まさか」
鍵を開ける。扉を押し開けた瞬間、室内の景色がわずかに歪んだ。
夕暮れの光が差し込むはずのリビングは、色を失ったように淡く、遠くに引き延ばされて見える。床も、壁も、家具も――どこか輪郭が曖昧で、現実から切り離されかけている。
そして、その中心に三人がいた。
「……黒ミカ様、黒ナギサ様、黒セイア様……?」
呼びかけた声が、やけに遠くに響く。三人の身体は、ほんのわずかだが透けていた。肌の向こうに、後ろの景色が滲んで見える。存在が、薄れている。
黒夜の心臓が強く打った。
「――何をしているんですか!?」
足が勝手に動く。数歩で距離を詰めると、三人の足元で淡く揺れる光が目に入った。手に重ねられたカード。見覚えのない、それでいて“危険”だと直感で分かる異質な代物。
理解が追いつくよりも早く、結論だけが胸に突き刺さる。
「早く手を離してください!!」
その一言で、空気が揺れた。
三人の指が、ほんの僅かに震える。
ミカ*テラーが、ゆっくりと顔を上げた。涙で滲んだ瞳が、黒夜を捉える。その瞬間、壊れかけていた表情が一度だけ安らいだ。
『……黒夜……』
声が、かすれる。けれど確かに、嬉しさが混じっていた。
『……よかった……最後に……会えた……』
その言葉が、刃のように胸に刺さる。
「最後……?何を言ってるんですか!?」
黒夜の喉が乾く。問い返す声が、自分でも分かるほど弱い。
ナギサ*テラーが、静かに一歩前に出る。だがその足取りは不安定で、輪郭はさらに薄くなっていく。
『……申し訳ありません、黒夜さん』
深く頭を下げる。その仕草は、あまりにも丁寧で、いつもと同じで――だからこそ、異様だった。
『私たちは……最後まで、貴方に迷惑をかけてしまいました』
「何を言って――」
遮るように、ナギサ*テラーが言葉を続ける。
『いいえ、最後まで聞いてください』
顔を上げる。涙で濡れた瞳は、それでも真っ直ぐだった。
『私たちは……貴方を守りたかっただけでした』
『ただ、それだけだったのです』
声が震える。けれど、言葉は止まらない。
『ですが、その“守り方”で……貴方を傷つけてしまった』
あの瞬間の視線が、脳裏に蘇る。
黒夜の中にあった、ほんの僅かな恐れ。
それを、彼女たちは見逃さなかった。
『……あの目を、見てしまいましたから』
ナギサ*テラーの唇が震える。
『ああ、終わったのだと……理解してしまったのです』
言葉にするたびに、存在が薄れていく。
それでも、止めない。
ミカ*テラーが、ぎこちなく笑う。
『ねぇ黒夜……』
涙をこぼしながら、それでも笑おうとする。
『最後くらい……さ……』
『嫌いになってないって……言ってくれない?』
その言葉は、願いだった。
救いを求める、最後の一言。
黒夜の心臓が強く跳ねる。
「……っ」
言葉が出ない。
それを見て、ミカ*テラーの笑顔が崩れる。
『……そっか』
小さく呟く。
『……やっぱり、ダメだよね』
手が震える。カードの光が、わずかに強くなる。
セイア*テラーが静かに口を開いた。
『黒夜』
その声は、いつも通り落ち着いていた。だが、その奥にあるものは隠しきれていない。
『私たちは、君の選択を尊重する』
視線が、まっすぐ向けられる。
『だから、私たちの選択も受け入れてほしい』
それは理屈だった。だが同時に、逃げ道を塞ぐ言葉でもあった。
『君にとって不要な存在なら――』
ほんの一瞬、言葉が詰まる。
それでも、言い切る。
『消えるのが、最も合理的だ』
その言葉で、全てが繋がる。
黒夜は、ようやく理解する。
――この三人は、“自分のために”消えようとしている。
迷惑をかけないために。
嫌われたまま残らないために。
そして何より――
自分を、守るために。
「消えるなんて……私の前から居なくならないでください!!」
今度は、はっきりと言った。
声に、力が戻る。
三人の動きが止まる。
カードの光が、わずかに揺らめく。
黒夜は一歩踏み出した。歪んだ空間の中で、その一歩だけが妙に鮮明に響く。
「……すみませんでした」
その言葉に、三人の思考が止まる。
ミカ*テラーの瞳が見開かれる。
ナギサ*テラーの呼吸が止まる。
セイア*テラーの瞳がわずかに動く。
黒夜は続ける。
「私は……あなた達を“怖い”と思ったんじゃない」
言葉を選びながら、ゆっくりと紡ぐ。
「理解できなかったんです」
胸の奥に溜まっていたものを、吐き出すように。
「どうしてそこまで私を守ろうとするのか」
視線が、三人をまっすぐ捉える。
「……だから、目を逸らしてしまった」
その一言で、空気が変わる。
ミカ*テラーの手が、わずかに震える。
ナギサ*テラーの涙が止まる。
セイア*テラーの瞳が細くなる。
「でも今は分かります」
黒夜は一歩、さらに近づく。
歪んだ空間の中で、三人との距離を詰める。
「あなた達は……私と同じだったんですね」
その言葉に、三人の瞳が揺れる。
「失うのが怖くて……大事な物を傷つけられるのが我慢出来なかっただけだったんですね……」
静かに、確かに告げる。
それは否定ではない。
理解だった。
受け入れだった。
そして――
救いだった。
ミカ*テラーの唇が震える。
『……黒夜……?』
ナギサ*テラーの瞳に、光が戻る。
『……黒夜、さん……?』
セイア*テラーが、ほんの僅かに息を吐く。
黒夜は頷く。
「だから、貴方たちも私の事を信じて任せてください」
声に、迷いはない。
「私も貴方たちの事を信じる事にしたので!」
その言葉が、空間に響いた瞬間。
歪みが、止まる。カードの光が、揺らぐ。
彼女達の身体の透過が、わずかに戻る。
三人の手から、力が抜ける。
カードが、カラン、と床に落ちた。
音が、やけに大きく響く。
『……うそ……』
ミカ*テラーの声が、震える。
『……嫌われて……ない……?』
黒夜は、はっきりと頷く。
「嫌っていません」
即答だった。
迷いのない、断言。
その一言で、ミカ*テラーの膝が崩れる。
『……よかった……』
ぽろぽろと涙が溢れる。
『……よかったぁ……』
声にならない嗚咽が漏れる。
ナギサ*テラーも、堪えきれずに涙を流す。
『……本当に……?』
「はい」
『……本当に……信じて、いいのですか……?』
「はい」
その繰り返しで、ようやく実感が追いつく。
セイア*テラーが、静かに目を閉じる。
『……なるほど』
小さく呟く。
『私たちは……まだ、終わっていなかったらしいね』
その声には、わずかな安堵が混じっていた。
黒夜は三人の前に立つ。
今度は、逃げない。
視線を逸らさない。
そして、はっきりと告げる。
「もう一度やり直しましょう」
それは提案ではない。
決意だった。
「私も、貴方たちを信じます」
「だから――」
一拍置く。
静かに、しかし確実に言い切る。
「今度は一緒に、間違えないように進みましょう」
三人は、何も言えなかった。
ただ、涙を流しながら頷く。
消えかけていた存在が、ゆっくりと現実へと戻っていく。
それは完全な回復ではない。
だが――
確かに、“繋ぎ止められた”。
崩壊寸前だった関係が、かろうじて踏みとどまる。
その中心にいるのは、たった一つの選択。
――信じるという選択だった。