ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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流されてきた代償

 黒夜は、ずっと悩んでいた。

 

 百合園セイアの暗殺――マダムから直接下されたその命令は、最初から最後まで現実感を伴わないまま、しかし確実に自分の喉元に刃を突きつけ続けていた。

 

 本心を言えば、そんなことはやりたくない。

 やれるはずがない。

 

 セイア様は、自分にとって殺す対象などではなく、守るべき存在だった。

 けれど同時に、自分がゲヘナから送り込まれたスパイであることが露見するわけにもいかなかった。

 

 もし任務を拒めば、何が起きるかは分かり切っている。

 マダムは約束を守らない。

 脅しを冗談で済ませるような相手でもない。

 

『セイア様を殺したくない!

 けれど正体を知られるわけにもいかない』

 

 その二つの思いは、互いに噛み合うことなく、黒夜の中で回り続けた。

 どちらかを選べば、もう一方が必ず壊れる。

 

 そんな選択肢しか存在しない迷路の中を、出口も見えないまま彷徨い続ける日々だった。

 

 考えても考えても答えは出ない。

 それでも考えることをやめられず、気づけば時間だけが無情に過ぎていく。

 

 朝が来て、仕事をして、夜が来て、また眠れないまま次の日を迎える。

 その繰り返し。

 

 そんな曖昧な猶予すら、長くは続かなかった。

 

 マダムからの連絡が入った時、黒夜は理解してしまったのだ。

 もう「いつかやる」段階ではない。

 暗殺任務は、確実に現実のものとして動き始めている、と。

 

 最初の指示は、白洲アズサの経歴の改竄だった。

 

 アリウス出身である事実を巧妙に伏せ、過去を削り、穴を埋め、トリニティに受け入れられる形に整える。

 それは黒夜にとって慣れた作業だった。

 

 情報部で学んだ技術を使えば、経歴の偽装など造作もない。

 問題は、それを「誰のために」行っているのか、という点だった。

 

 アズサは、百合園セイア暗殺のための駒だ。

 その事実が、黒夜の指先を重くした。

 

 それでも作業は完璧にこなした。

 転校生としての手続きは滞りなく進み、アズサは何の疑問も持たれずトリニティに溶け込んでいった。

 

 その様子を確認した時、胸の奥がぎゅっと締め付けられる感覚がした。

 逃げ道が、一つ塞がれた気がしたのだ。

 

 日を追うごとに、追い詰められていく感覚は強くなっていった。

 

 マダムからの連絡は短く、冷たく、しかし確実に黒夜を急かしてくる。

 

「進捗は」

 

「まだか」

 

「いつまで待たせる」

 

 その言葉一つ一つが、背中に杭を打ち込まれるようだった。

 

 そんな中で、自分はつい、セイア様を見てしまう。

 

 廊下ですれ違う時。

 会議室で向かい合う時。

 ティーカップを手に、穏やかに微笑むその横顔を。

 

 そのたびに、胸の内で同じ問いが繰り返される。

 

 ――本当に、私がこの方を殺すのか。

 

 セイア様と目が合う瞬間が、怖かった。

 柔らかく、優しく、それでいてどこまでも透き通っているその瞳に、自分の胸の内をすべて見透かされてしまいそうな気がしたからだ。

 

 罪悪感も、迷いも、醜い自己保身も。

 

 全部。

 

 だから黒夜は、逃げるように行動した。

 

 考える暇を与えないために、セイア様のサポートに付いた。

 

 仕事として。

 

 従者として。

 

 秘書として。

 

 完璧であろうとした。

 

「セイア様、本日の予定ですが――」

 

 声は自然に出た。

 いつもと同じ調子で、淡々と報告する。

 

「少し歩く距離が長くなります。途中で休憩を挟みましょうか?」

 

 体調を気遣う言葉を口にするたび、胸が痛んだ。

 それでもやめられなかった。

 

 「このお茶は、今日は少し温めにしてあります」

 「昼食は、胃に負担の少ないものを手配しました」

 

 気づけば、ほぼ一日中付きっ切りだった。

 

 セイア様の傍にいる時間が増えるほど、安心する自分がいる。

 一方で、その安心がすべて「期限付き」であることも、理解していた。

 

 今だけだ。

 これは、最後まで役目を果たすための準備に過ぎない。

 

 それでも、セイア様が「ありがとう」と微笑むたび、胸の奥で何かが軋む音がした。

 

 そんなある日。

 ついにマダムから、直接的な催促が届いた。

 

 婉曲表現すらない、命令だった。

 

 ――早くしろ。

 

 その短い一文が、黒夜の中の猶予をすべて切り落とした。

 逃げ続ける時間は終わりだ。

 

 選ばなかった選択肢が、強制的に選ばされる段階に入ったのだ。

 

 黒夜は、静かに息を整えた。

 

 そして、セイアの予定を確認するために、彼女の元を訪ねた。

 

 「今度、お時間の空いている日があれば

  ……二人きりで、お会いできないでしょうか?」

 

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが確かに崩れ落ちていくのを、黒夜自身はまだ理解していなかった。

 

 夜は、思っていたよりも静かだった。

 

 セイア様の自宅に足を踏み入れた瞬間、黒夜は無意識に周囲を確認していた。

 

 物音。

 

 気配。

 

 異常。

 

 何もない。

 あまりにも、いつも通りの空間だった。

 

「……どうぞ、今日は来てくれて、うれしいよ」

 

 セイア様の声は柔らかく、温度があった。

 それだけで胸の奥がひくりと痛む。

 

「お邪魔します、セイア様」

 

 言葉は問題なく出た。

 声も震えていない。

 

 この時点で、黒夜は理解していた。

 自分は、もう“演じること”には慣れきっている。

 

 夕食の支度をする。

 包丁を握る手は、落ち着いていた。

 

 火を使い、湯気が立ち上る。

 食材の匂いが広がる。

 

 こんな光景を、かつて想像したことがあっただろうか。

 セイア様と、ただ食卓を囲むだけの夜。

 

「すごく、美味しいよ」

 

 セイアのその一言に、胸の奥で何かが小さく崩れる。

 それでも、黒夜は表情を変えなかった。

 

「それは良かったです」

 

 会話は穏やかだった。

 

 他愛のない話。

 

 今日の出来事。

 

 何もかもが、あまりにも普通で。

 だからこそ、現実味がなかった。

 

 時間が進むにつれ、夜は深くなっていく。

 窓の外は暗く、室内の灯りだけが世界を切り取っていた。

 

 その時だった。

 

 ――微かな音。

 

 黒夜は、瞬時にその音が何を意味するのか認識した。

 足音。

 重い、無機質な気配。

 

 アズサだ。

 

「……侵入者、のようだね」

 

 セイア様も侵入者に気付いた様子。

 だが、その声にはまだ不安はない。

 

「黒夜。手間だと思うが、無粋な侵入者を追っ払ってくれないか?」

 

 頼るような視線。

 当然のように、こちらを見てくる。

 

 その瞬間、黒夜の中で何かが軋んだ。

 

「黒夜、誰かが……」

 

「……っ」

 

 何か言おうとしたが何も言えない。

 

 体が、うまく動かない。

 

 いや、違う。

 動かないのではない。

 

 ――動かないことを、選んでいる。

 

 前方に気配が迫る。 

 ガスマスクをつけたアズサ。

 

 それを視界の端で捉えながら、黒夜は立ち尽くしていた。

 

「……黒夜?」

 

 セイアの声が、わずかに揺れた。

 

 その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが確かに決壊する。

 

 逃げ続けてきた問いが、ついに形を持った。

 

 ――私は、何を恐れている?

 

 ――正体がばれることか?

 

 ――セイア様を殺してしまう事か?

 

 ――違う。

 

 本当は。

 セイア様が向けてくる、この無条件の信頼に、応えられない自分自身から目を逸らしたかっただけだ。

 自分は、選ばされた被害者だと思いたかった。

 

 命令だから仕方ない。 

 立場上、従うしかない。

 従わないと自分がスパイとバレてしまうから。

 そう言い訳を重ねてきた。

 

 だが、違う。

 

 自分は、選んでいた。

 

 楽な方を。

 

 自分が傷つかない方を。

 

 セイア様を守る選択よりも、自分が壊れないで済む選択を。

 

 その事実に気が付いた。

 喉を締め付けられる。

 

 こんな自分の事しか考えていない奴が完璧?

 笑わせるな、お前は道具だ!自分では何も決められない。

 

 黒夜は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 もう、誤魔化せない。

 もう、逃げられない。

 

 誰かのためではない。

 

 ただ、自分の醜さを引き受けるための決断。

 

 黒夜は、拳を握りしめた。

 爪が掌に食い込み、痛みが走る。

 

 その痛みだけが、今の自分を現実に繋ぎ止めていた。

 

 ゆっくりと。

 本当に、ゆっくりと。

 

 黒夜は、セイアの方へ振り向いた。

 

「……こく、や……?」

 

 セイアの不安そうな声が黒夜の耳に入る。

 そんなセイアの瞳に映った自分を見て。

 

 あぁ…酷い顔だな……と思ってしまった。

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