黒夜が目を覚ました時、最初に目に入ったのは見慣れた天井だった。
ミレニアムで貸し与えられていた拠点の寝室の天井。
意識が浮かび上がってくるまでに数秒かかったが、その数秒のおかげで、自分が最後に倒れた事実だけは妙にあっさりと受け入れられた。
身体を起こそうとすると、全身に鈍い重さが残っている。鋭い痛みではないが、腕も脚も骨の芯にまで疲労が染み込んでいるようで、勢いよく起き上がろうとした動きは半ばで止まり、黒夜は小さく息を吐きながらゆっくりと上体を起こした。
左目の辺りが妙に軽いことに気付き、そういえば戦闘の最中に眼帯の紐が切れたのだったと遅れて思い出す。
記憶はそこまでは鮮明なのに、その後どうやってここまで運ばれたのかが曖昧で、意識が落ちる寸前の感覚だけが水の中で拾った音のようにぼんやり残っていた。
ベッドの縁に腰掛けたまま少しの間だけ呼吸を整え、それから立ち上がる。足元はまだ頼りないが、壁に手をつくほどではない。
眠っていた時間が長かったのか、喉の奥は少し乾いていて、戦闘の熱気が抜けた後の身体だけが、妙に現実感を伴ってそこにあった。
寝室の扉を開けてリビングに向かうと、そこにはいつものように、そしていつも通りとは言い難い三人の姿があった。
ミカ*テラーはソファの背もたれにだらしなく身体を預け、両足を放り出したまま何かの雑誌を適当にめくっている。だが、ページはろくに進んでおらず、視線も文章を追っているようには見えない。
ナギサ*テラーはテーブルに置かれたカップに手を添えていたが、紅茶を飲むというよりは、温度を確かめるように指先で持ち手を撫でているだけだった。
セイア*テラーは窓際に寄せた椅子に浅く腰掛け、外を眺めている。
三人とも表面上は落ち着いて見えるのに、その沈黙には微妙にぎこちないものが混ざっていて、黒夜が部屋に入った気配に気付くと、揃ってこちらを向くその間に、ほんの僅かな“確認”のような時間があった。
「おはようございます。私が倒れてからどのぐらい経ちました?」
黒夜がそう尋ねると、彼女たちはようやく普段に近い調子を取り戻したように、それぞれに応じた。
『次の日のお昼過ぎですね』
ナギサ*テラーが壁掛けの時計を見ながら答える。
『お寝坊さんだね!』
ミカ*テラーが雑誌を閉じて、いつもの調子を取り戻したように笑う。
『まあ、しょうがないさ。昨日は限界まで体力を消耗していたみたいだったしね』
セイア*テラーの声音は穏やかだったが、その視線にはわずかな安堵が残っていた。
「いやぁ、すいません……自分でも思っていた以上に鈍っていたみたいです」
苦笑しながらそう言うと、ミカ*テラーが眉を上げる。
『鈍ってたってレベルじゃなかったと思うけど?』
ナギサ*テラーも、呆れたように言葉を重ねた。
『最後は本当に綺麗に倒れましたからね』
その言い方に責める色はほとんどない。むしろ、無事に目を覚ました相手に対してようやく言える軽口の範囲だった。
セイア*テラーが椅子から立ち上がりながら、何気ないようでいて、どこか探るように口を開く。
『今日は休んだらどうだい?』
黒夜はその視線を正面から受け止めた上で、首を横に振った。
「いえ、昨日の事件の顛末が知りたいので、ミレニアムには行こうと思います。皆さんはどうされますか?」
その問いに、三人は今度こそすぐには答えなかった。視線がわずかに泳ぎ、それからナギサ*テラーが先に口を開く。
『私は疲れていますし、ここで休んでいます』
『私もパス!』
『私も遠慮しておこう』
妙にきれいに揃いすぎた返答だったが、黒夜はあえて深くは突っ込まなかった。
昨日、ギリギリのところで関係を繋ぎ直したばかりなのだ。まだ距離の測り方を探っているようなこの空気の中で、無理に踏み込んでも、たぶん良いことにはならない。
「わかりました。では私が詳しく聞いてきますね。それと、ここまで運んでくださってありがとうございます」
礼を言われた三人は、反応もまた三者三様だった。
『気にしないでください』
『まあ、黒夜をそこらへんに放置するわけにもいかないしね』
『礼を言われるほどのことでもないさ』
その反応を見て、黒夜はようやく“本当に戻ってきた”のだと少し遅れて実感する。
準備を整え、予備の眼帯を左目に付け直して部屋を出ると、ミレニアムの空気は昨日までと同じように日常の中にあった。
とりあえず事件の顛末を知る為に知り合いを探そうと決めて、黒夜はミレニアムの中を歩き回った。
ゲーム開発部の部室に向かってみるが、扉は閉まっていて中に人の気配はない。
訓練場に行ってもネルの姿は見えず、特異現象捜査部にもヒマリは居なかった。
普段なら誰か一人くらいは引っかかりそうなものなのに、今日は不思議なほどに空振りが続く。
「誰か一人ぐらいは会えると思ったんですけどね……」
独り言のように呟いてから、黒夜はふと時計を見る。
時間は少し遅めの昼食時だった。もしかすると皆、食堂に集まっているのではないか。
そう思い立つと、今までの空振りを無駄にしたくない気持ちもあって、そのまま足を向けた。
食堂は思ったより空いていた。昼時のピークを少し過ぎているせいか、ざわめきも普段より穏やかで、空いたテーブルが目立つ。
その中で、ひときわ奥まった隅のテーブルに、見覚えのある顔ぶれが固まって座っているのを見つけた時、黒夜は小さく安堵した。
先生、ゲーム開発部の面々、ネル、リオ、ヒマリ――ぱっと見ただけでも、昨日の事件の中心にいた者たちばかりだ。
遠目には何を話しているのかまでは分からないが、あの顔ぶれでこの時間に集まっているなら、まず間違いなく昨日の件についてだろう。黒夜はそう当たりをつけて足を速めた。
だが、近づくにつれて聞こえてくる断片的な言葉が、想像していたものとは少し違っていた。
「――私がもっと周りに相談していれば……」
「私が行かせてしまったのが原因です……」
「いや、僕が判断を誤ったから……」
「あたしがもっと早く気が付いてれば……」
どれも、自分を責める声だった。
ひとつの方向にまとまった会話というより、それぞれが別々の地点から同じ結論に向かって沈んでいるような、不穏で重たい空気。
黒夜は少しだけ眉を寄せる。昨日の事件がまだ尾を引いているのか、それとも自分の知らないところで何か別の問題が起きたのか。
どちらにせよ、穏やかな話し合いの雰囲気ではない。
テーブルのすぐ横まで行き、なるべくいつも通りの調子で声をかけた。
「何やら表情がすぐれませんが、何か問題が起きましたか?」
その瞬間、時間が止まった。
全員が顔を伏せたまま肩を落としていたのが、逆に不自然だった。まるで、自分の声が聞こえなかったかのように反応が遅れる。
そして最初に重い口を開いたのは、リオだった。
「黒夜が……死んでしまったのよ」
「え?」
黒夜の口から、間の抜けた声が漏れる。
その隙を埋めるように、ヒマリが続ける。
「私が黒夜さんに頼まなければこんな事にはならなかったのに!」
珍しく取り乱したような声だった。
ネルも悔しそうにテーブルを叩きながら吐き捨てる。
「あたしが付いてりゃ死ななかった!!」
アリスも今にも泣き出しそうな顔で俯いた。
「アリスが悪いんです……」
先生はそんなみんなに掛ける言葉を見つけられないのか、額に手を当てて肩を落としている。
黒夜は立ったまま、しばらく本気で理解できなかった。
(何を言っているのだろう、この人たちは…?)
いや、聞こえてはいる。意味も分かる。だが、内容と現実が繋がらない。繋がるはずがない。少なくとも自分の認識では、死んでいないのだから。
「あの~……? 私はこの通りピンピンしてますが……?」
その一言で、ようやく全員が顔を上げた。
視線が一斉に黒夜へ向く。驚愕、混乱、理解停止、そのどれもが入り混じったような顔。ポカンと口を開けたまま固まる者までいて、その表情の揃い方があまりにも見事だったせいで、黒夜は思わず少しだけ笑ってしまう。
だが、その空気を真っ先に引き裂いたのはネルだった。
「お前! 無事なら無事って早く言えよ!!」
立ち上がる勢いで怒鳴られ、黒夜は慌てて両手を軽く上げた。
「すいません、先ほどまで眠っていたので連絡出来ませんでした」
その返答を聞いたリオが、椅子を引く音も構わず立ち上がる。
今までの沈み切った雰囲気を引きずったまま、しかしその目だけが信じきれないものを見るように揺れていた。
ゆっくりと黒夜の前まで来て、恐る恐る肩に手を伸ばす。
「本当に……黒夜……?」
指先が肩に触れる。その感触を確かめるように、ほんの少しだけ力が入る。
「生きてるのよね……?」
「ええ、疲れはまだありますが元気ですよ」
黒夜がそう答えると、リオの肩から目に見えて力が抜けた。
「本当によかった……」
ほとんど息と一緒に零れたその言葉は、安堵にしてはあまりにも深かった。
そして次の瞬間、彼女はそのまま黒夜に抱きついた。
黒夜は完全に不意を突かれて一瞬固まる。だがそれを待つ者は他にいなかった。アリスが勢いよく声を上げる。
「黒夜!」
そのまま飛びつくように抱きつき、モモイとミドリとユズも半ば雪崩れ込むように続いてくる。
先生まで苦笑しながらその様子を見ていて手を貸してくれなかったせいで、黒夜は支えきれず、そのまま背中から押し倒される羽目になった。
「ちょ、ちょっと待っ……!」
言い終わる前に、視界の上が人影で埋まる。
アリスは本気でほっとした顔をしており、モモイは「よかったぁぁ……!」と遠慮なく叫び、ミドリは涙目で「本当に、死んじゃったかと思ったんですからね……!」と怒っているのか泣いているのか分からない顔をしていた。ユズは端の方で、どうにか触れられる位置を探してあたふたしている。
その横で、ヒマリだけは座ったまま腕を組み、あからさまに呆れた視線を向けてきていた。
「超天才清楚系病弱美少女ハッカーの私に心配をかけるにも程がありますよ、黒夜さん」
いつもの調子でそう言う。だが、その目元に心底安堵した色が混じっているのは隠しきれていない。
「とはいえ、本当に無事でよかったです」
一応の労いは口にするものの、助け起こす気配は一切ない。
黒夜は床に押し倒されたまま、視界の端でそんなヒマリの様子を見て、思わず苦笑した。
息苦しいし、重いし、正直かなり動きづらい。けれど、それでもこの騒がしさが妙に心地よかった。
ついさっきまで自分の死を本気で悔やんでいたらしい面々が、こうして遠慮なく体重をかけてくるのだから、これ以上分かりやすい表現もないのだろう。
そしてようやく解放された後の賑やかな喧騒の中心で、リオだけがまだ黒夜の袖を掴んだまま離していなかった。
彼女は何も言わない。ただ、その指先に残る力だけが、先ほどまでの理解者を失ってしまったかもしれないという絶望の深さを静かに物語っていた。
騒がしかった食堂の一角は、時間とともに少しずつ落ち着きを取り戻していった。
先生が簡単に場をまとめ、リオが中心となって今回の顛末を説明する。
エリドゥのシステムが暴走し、アリスの中にあった“それ”が起動しかけたこと、自分の判断がその引き金の一端になっていたこと、そして最終的にはアリス自身と周囲の働きかけによって最悪の事態を回避できたこと。
その説明は決して長くはなかったが、内容は重かった。だが、黒夜は黙ってそれを聞きながら、要点を一つ一つ自分の中で整理していく。
途中、アリスの様子を気にして視線を向けると、彼女は少し俯きながらも、もう先ほどのように完全に沈み込んでいるわけではなかった。
隣にいるモモイやミドリ、ユズの存在がしっかりと彼女を支えているのが分かる。
説明が終わった後、しばらくの沈黙があった。
誰もが、自分なりに今回の出来事を噛み砕こうとしている時間だった。
「……なるほど」
黒夜が静かに口を開く。
「最悪の事態は回避できた、という認識でよろしいですね?」
その問いに、リオは一瞬だけ視線を伏せ、それから小さく頷いた。
「ええ……結果だけを見れば、そうなるわ」
その“結果だけを見れば”という前置きに、まだ割り切れていないものが残っているのは明らかだったが、黒夜はそれ以上深く踏み込まなかった。
「それなら、何よりです」
そう言って、ほんの少しだけ息を吐く。その様子に、周囲の何人かがようやく肩の力を抜いたようだった。
ネルが椅子にもたれながら、軽く鼻を鳴らす。
「ま、なんだかんだで丸く収まったってことだな」
「随分簡単な言葉で纏めましたね……」
ヒマリが呆れたように返すが、その声音もどこか柔らかい。
アリスが小さく手を握りしめながら、黒夜の方を見た。
「黒夜……あの時、戦ってくれていたんですよね」
「ええ、まあ……時間稼ぎ程度ですが」
軽く肩を竦めて答えると、アリスは首を横に振る。
「それでも、アリスは助けられました」
その言葉に、黒夜は一瞬だけ目を細め、それからわずかに笑みを浮かべた。
「それなら、やった甲斐がありましたね」
それ以上は何も言わない。その言葉の裏にあるものを、あえて掘り下げる必要はなかった。
やがて話は一区切りつき、各々が席を立ち始める。緊張が解けた後の疲労は思っていた以上に重く、誰もが長居をする気にはならなかった。
ゲーム開発部の面々はアリスを囲むようにして帰っていき、ネルは大きく伸びをしながら「今日はもう寝る」と言い残して去っていく。
先生も一度事後処理のために動く必要があると言って席を立った。
気が付けば、食堂の一角にはリオとヒマリだけが残っていた。
人の気配が薄くなった空間の中で、先ほどまでの賑やかさが嘘のように静けさが戻る。
リオはしばらく無言のままテーブルに視線を落としていたが、やがてゆっくりと息を吐いた。
「……信じられないわね」
ぽつりと零れた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ヒマリがその横顔を横目で見ながら、小さく肩を竦める。
「あらあら……何がですか?」
「全部よ」
リオは短く答える。
「アリスのことも……あの子たちのことも……そして――」
言葉が一瞬だけ途切れる。
ヒマリはその続きを急かさない。ただ、静かに待つ。
「……黒夜のことも」
ようやく出てきたその名前に、ヒマリはわずかに口元を緩めた。
「なるほど」
軽く頷いてから、わざとらしく少しだけ声音を変える。
「もしかして黒夜さんの事、手放したくなくなったのではないですか?」
その言い方には、わずかなからかいと、はっきりとした確信が混じっていた。
リオはすぐには答えなかった。視線を逸らすこともせず、ただ正面を見たまま数秒だけ沈黙する。
そして――小さく息を吐いた。
「……そうね」
否定はしなかった。
ヒマリの目が細くなる。
「否定はしないわ」
リオは続ける。
「合理性だけで見れば、彼の存在は不確定要素の塊よ。制御もできない、行動も読めない……距離を置くべき対象」
そこまで言って、一度言葉を区切る。
「でも」
ほんの僅かに、声の温度が変わる。
「それでも……あの場で、彼は私を信じてくれた…」
ヒマリは何も言わずにそれを聞く。
「……だから、手放したくないと思うのは、理屈に合わないわけではないわよね?」
その結論に、ヒマリは小さく笑った。
「ずいぶんと素直じゃない言い方ですね」
「貴女に言われたくないわ」
リオが即座に返す。
そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が軽くなる。
ヒマリは腕を組みながら、今度は少しだけ真面目な声で言った。
「ですが、それは私も同じですよ」
リオの視線がこちらに向く。
「黒夜さんは……放しておくには少し惜しい人ですからね」
その言い方はあくまで理知的で、感情を抑えたものだったが、その奥にある本音は隠しきれていない。
リオはそれを見て、わずかに目を細める。
「……やはり、ヒマリもそうなのね」
「ええ」
ヒマリはあっさりと頷いた。
「ですが、問題が一つあります」
「短期留学の期間ね」
リオが先に言う。
ヒマリは満足げに微笑んだ。
「話が早くて助かります」
テーブルの上に置かれた端末に、ヒマリが指先を滑らせる。画面が淡く光り、連邦生徒会のデータベースへとアクセスするための仮想ウィンドウがいくつも開いていく。
「このままでは、期間終了と同時に黒夜さんはミレニアムから離れて、もう戻ってくる事はないかもしれません」
「それは避けたいわね」
リオも椅子から少し身を乗り出し、ヒマリの端末を覗き込む。
「方法は?」
ヒマリはわざとらしく一拍置いてから、さらりと言った。
「簡単です」
その声音には一切の躊躇がない。
「書き換えればいいんですよ」
リオの眉がわずかに動く。
「……彼の所属を?」
「ええ」
ヒマリの指が軽やかに動く。データベースの階層が次々と開かれ、黒夜の個人情報が表示される。そこには“短期留学”という項目が、明確に記載されていた。
「これを――」
カーソルがその部分に重なる。
「“ミレニアム所属”に変更するだけです」
あまりにもあっさりとした言い方だった。
だが、その意味するところは決して軽くない。
リオは数秒だけ考え、それから小さく息を吐いた。
「……やってちょうだい」
その一言で、結論は出た。
「バレなければ問題はないわ」
「でしょう?」
ヒマリが楽しげに笑う。
次の瞬間、指先が動き、データが静かに書き換えられる。警告も、エラーも出ない。ただ、何事もなかったかのように、新しい情報がそこに定着する。
それはあまりにもあっけない作業だった。
だが、その結果は大きい。
ヒマリが端末を閉じる。
「これで、黒夜さんは」
わずかに肩を竦める。
「ゲヘナ、トリニティ、そしてミレニアム――三大校に所属する、非常に珍しい生徒になりましたね」
リオはその言葉を聞き、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「本人が知ったら、どんな顔をするかしらね」
「想像するだけで面白いですね」
二人の間に、ようやく余裕のある空気が戻る。
その裏で起きたことを、当の本人はまだ何も知らない。
その日、連邦生徒会のデータベースは静かに書き換えられた。
誰にも気付かれることなく。
そして――
黒夜だけが、何も知らないまま、いつもの日常へと戻っていくのだった。
その後、ミレニアムでの時間は、あっという間に過ぎていった。
あれほど濃密な出来事があったにも関わらず、その後の日々は驚くほど穏やかで、どこか拍子抜けするほどに“日常”が戻ってきていた。
ゲーム開発部では相変わらず騒がしくゲームに興じ、ネルとは時折訓練場で顔を合わせ、ヒマリには何かと観察対象にされ、リオとは色々な話や工学系のやり取りを交わす――そんな生活が、いつの間にか当たり前のように続いていた。
そして、その“当たり前”にも終わりは来る。
留学最終日。
黒夜はミレニアムの正門前に立っていた。いつもと変わらない景色のはずなのに、今日は少しだけ色が違って見える。理由は分かっている。ここを離れる日だからだ。
「黒夜ー! ちゃんと忘れ物ないー!?」
遠くから手を振りながらモモイが叫ぶ。その隣でミドリが呆れたように肩をすくめる。
「お姉ちゃん……黒夜さんがそんなドジするわけないでしょ」
「いやーでもさー、なんか最後ってバタバタするじゃん?」
そんなやり取りに、ユズが小さく笑いながら黒夜の方を見上げる。
「……また、来てくれますか?」
控えめなその問いに、黒夜は迷うことなく頷いた。
「ええ、もちろんです。その時はまた、皆さんとゲームをご一緒させてください」
アリスがぱっと顔を明るくする。
「はい! 次も勝ちます!」
「こちらも負けてばかりいられませんね!」
軽く微笑みながら返すと、ネルが後ろから腕を組んだまま鼻を鳴らした。
「次来る時は、もっとマシな動きできるようにしとけよ」
「精進しておきます」
少し離れた場所でそれを見ていたリオとヒマリは、特に何も言わず、ただ静かにその光景を見ていた。
視線が合うことはなかったが、ほんの一瞬だけ、互いに同じことを考えているような気配があった。
やがて、黒夜が時計を確認して。
「それじゃあ、そろそろ時間ですね」
その一言で、空気がわずかに引き締まる。
黒夜は改めて全員を見渡した。
「短い間でしたが、本当にお世話になりました」
深く一礼する。
「皆さんと過ごした時間は、私にとって非常に有意義なものでした」
顔を上げると、それぞれが違う表情でこちらを見ていた。
寂しそうな顔、名残惜しそうな顔、いつも通りの顔――だが、そのどれもに共通しているのは、確かな繋がりだった。
「ではまた、必ず」
それだけ言い残して、黒夜は踵を返す。
背中にいくつもの声が飛んでくるが、振り返らなかった。
振り返れば、きっと少しだけ足が止まってしまう気がしたからだ。
ミレニアムの駅へと向かい、そのまま列車に乗る。
窓の外に流れていく景色を眺めながら、黒夜は静かに息を吐いた。
終わった、という実感が胸の中に残っている。
だが、それを整理する時間は黒夜が思っていたよりも短かった。
トリニティの駅に到着し、改札を抜けたその先で、黒夜は足を止めた。
そこにいたのは、見慣れた三人の姿。
ティーパーティーのナギサ、ミカ、セイアの三人が待っていてくれていた。
だが、いつもと雰囲気が違う気がした。
三人とも笑っている。
だがその笑顔は、どこか温度が感じられない。
柔らかいはずの表情の奥に、はっきりとした圧が滲んでいる。
(……?)
黒夜は一瞬だけ違和感を覚えたが、すぐにいつも通り歩み寄る。
「ただいま戻りました――」
言い終わる前に、ナギサが一歩前に出た。
その手には、一枚の書類が握られていた。
「黒夜さん」
いつも通りの丁寧な口調。
だが、その声音はわずかに低い。
「これは……なんですか?」
差し出された書類を受け取り、黒夜は目を落とす。
そこに記載されていたのは、自分の個人情報。
そして――所属欄。
ゲヘナ学園。
トリニティ総合学園。
そして、ミレニアムサイエンススクール。
「……!?」
一瞬、意味が理解できなかった。
視線を何度か行き来させる。
書類に間違いはない。
だが、内容が明らかにおかしい。
「え?、これは……?」
口を開きかけた、その時だった。
「――私たちも、その話には興味があるな」
背後から、低い声が落ちてくる。
黒夜の背筋に、じわりと冷たいものが走った。
ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは――
マコト
ヒナ
カヨコ
三人とも、明らかに機嫌がいいとは言えない表情をしている。
いや“機嫌が悪い”というよりも、もっと直接的な感情――疑念と圧がそのまま視線になっている。
そして、その手にも――同じ書類。
(……あ、これはマズいですね)
直感だった。
状況の説明が追いつく前に、本能が危険を告げている。
ナギサが静かに口を開く。
「黒夜さん?」
背後からマコト達の視線が突き刺さる。
「説明してもらおうか」
ヒナは腕を組み、鋭い視線を向けてくる。
カヨコは何も言わない。ただ、逃がさないと言わんばかりに逃げ道を塞いでいる。
完全に挟まれた。
前にも後ろにも、逃げ場はない。
黒夜の額に、じわりと冷や汗が滲む。
「い、いえ……あの……これは……」
視線が泳ぐ。
書類とみんなの間を行き来する。
だが、どこにも答えは書いていない。
「本当に知らないんです」
絞り出した言葉は、あまりにも正直だった。
だが、その正直さが通じる状況かどうかは、また別の話である。
沈黙が落ちる。
次の瞬間、前方と後方から同時に圧が強まった。
黒夜はその場で、人生で数えるほどしかない“本気でまずい状況”に立たされていることを、ようやく自覚するのだった。
「大丈夫ですよ、黒夜さん…時間はたっぷりありますから」
「そうだぞ? じっくり時間を掛けて言い訳を聞いてやろう」
「……ワカリマシタ」
その日、黒夜はトリニティとゲヘナを同時に怒らせるとどうなるかを身をもって体験するのだった。