午後の陽射しが、砂に反射して白く滲んでいた。校庭の中央に立つ黒夜は、盾の縁をわずかに持ち上げながら、呼吸を整える。乾いた風が頬を撫でるたび、砂粒が靴底で微かに軋んだ。
対面にいるのは 小鳥遊ホシノ。だらりとした立ち姿は変わらないが、先ほどまでの“軽さ”に、ほんの少しだけ芯が通っているのを黒夜は感じ取っていた。
「じゃ、もう一回いくよ〜」
気の抜けた声。しかし合図の直後、踏み込みは正確だった。
――来る。
黒夜は一歩前へ。盾を前に出し、角度を調整する。衝撃は受けるのではなく、流す。教わった通りに、力を逃がす意識を持つ。
最初の一撃は、ほとんど音もなく弾けた。腕に残る重さは最小限。姿勢も崩れない。
「そこ、もう一歩前だよ!」
ホシノの声が飛ぶ。
「腕が下がってるよ〜」
黒夜は踏みとどまる。意識して前へ。だが次の瞬間、別方向からの打撃。盾で受ける。流す。しかし、やはり半歩遅れる。
――ズレている。
防いではいる。だが、常に“後”だ。
呼吸を一つ挟み、黒夜は間合いを詰め直す。前へ。逃がすだけでは足りない。押し返す意識を持つ。
ホシノはその様子を眺めながら、小さく息を吐いた。
「うーん……」
気の抜けた声だが、その視線はしっかりと黒夜の動きを追っている。
「黒夜君さ〜」
「はい」
「ここからは、ちょっとやり方変えよっか」
軽く手を振り、視線を横に流す。
「ここからは実際に“守ってみようか”」
その言葉に、少し離れた場所で見ていた面々が反応した。
「守るって……誰をですか?」
アヤネが問いかけると、ホシノは顎で示す。
「誰でもいいよ~」
曖昧な指示に、一瞬の間。
だがすぐに、前に出たのはシロコだった。
「……私がやる」
短く言い切る。
そのまま黒夜の近くへと歩み寄り、位置を取る。躊躇はない。
「大丈夫?」
ホシノが一応確認するように聞く。
「ん、問題ない」
頷きは一度だけ。
黒夜はそのやり取りを見て、静かに息を整えた。
「……了解しました」
守る対象が明確になった瞬間、意識が切り替わる。先ほどまでの“技術の確認”とは違う。これは実戦に近い。
黒夜は半歩前に出て、シロコを背に庇う位置へと移動した。盾を構え、視線をホシノへ固定する。
「条件は簡単」
ホシノが指を一本立てる。
「一定時間、シロコちゃんに一発も通さなければ黒夜君の勝ち」
軽い口調で言いながらも、その内容は単純かつ明確だった。
「わかりました」
黒夜は短く応じる。
「じゃ、いくよ〜」
その一言と同時に、空気が動いた。
最初の一撃は、先ほどと同じ。正面からの踏み込み。黒夜は落ち着いて盾を合わせ、角度を作る。衝撃はそのまま逃がされ、身体への負担はほとんどない。
続く二撃、三撃。方向を変えながらの攻撃も、黒夜はすべて捌いていく。足を止めず、わずかに前へ出ながら、位置を維持する。
「お、いいね」
ホシノが軽く笑う。
「ちゃんと守る意識になってる」
その言葉通り、黒夜の動きは先ほどとは違っていた。単に受けるのではなく、“位置を保つ”ことを優先している。
遠くで見ていた 十六夜ノノミ が声を上げる。
「すごいです!動きが良くなってますね!」
「ええ、後退が減っています」
アヤネも静かに分析する。
「ただ……」
そこで言葉を切る。
セリカが小さく呟く。
「なんか、まだ噛み合ってないわよね」
黒夜は防いでいる。だが、完全ではない。
ホシノの攻撃がわずかに軌道を変える。黒夜はそれに対応するが、ほんの僅かに遅れる。その遅れを取り戻すために、一歩だけ余計に動く。
――ズレる。
その繰り返し。
黒夜は気付いている。だが、修正しきれない。
(なにが足りない……?)
盾の角度、足の運び、視線の置き方。すべてを意識しているのに、ほんの一歩が遅れる。
その様子を見ていたホシノの目が、わずかに細くなった。
「へぇ〜……」
小さく漏れる声。
そして――ほんの少しだけ、空気が変わる。
黒夜の背筋に、はっきりとした感覚が走った。
――来る!
踏み込みが消える。
視界の中で、ホシノの位置が“ズレた”ように見えた。
反射で盾を出す。角度は完璧。衝撃も逃がした。
だが、その直後。
視線を切り替えた瞬間には、もう遅れている。
ホシノの軌道が、シロコへと伸びる。
「……っ!」
黒夜は踏み込む。盾を滑り込ませながら間に入る。
――だが。
わずかに、届かない。
乾いた音が、小さく響いた。
シロコの肩口に、軽く触れる程度の一撃。
「……当たった」
静かな声。
それだけで、結果は確定する。
黒夜の動きが止まった。盾は上がったまま。だが、意味はない。
数秒の沈黙。
ホシノがゆっくりと息を吐いた。
「ほらね〜」
軽く言いながら、銃口を下ろす。
黒夜の盾に視線を落とす。
「でもさ〜、防ぎ方はかなり良くなってるよ」
一拍置いて、続ける。
「だからこそ惜しいんだよね〜」
黒夜は何も言わない。言えない。
「守る事って耐える事じゃないからね〜」
その言葉が、静かに落ちる。
乾いた風が、間を埋める。
「それだとさ〜」
ホシノが肩をすくめる。
「いつか間に合わなくなるよ」
黒夜の胸の奥で、何かが重なる。
あの時の言葉と、今の現実が、繋がる。
――優しさでは、守れない。
盾を持つ手が、わずかに下がる。
遠くでノノミが息を呑み、アヤネが静かに目を伏せる。セリカは腕を組んだまま、小さく舌打ちした。
シロコは、触れられた肩を一度だけ見下ろし、そして黒夜を見る。
責めるでもなく、慰めるでもなく。ただ結果を受け止める視線。
黒夜はゆっくりと顔を上げた。
答えはまだ出ない。
だが、“このままでは守れない”という確信だけは、確かにそこにあった。
◆
夜のアビドスは、昼間とはまるで別の顔を見せていた。熱を帯びていた空気はすっかり冷え、乾いた風が校舎の縁をなぞるように吹き抜けていく。屋上のフェンス越しに広がるのは、果ての見えない砂の海と、その上に広がる静かな夜空だった。
黒夜はその端に立ち、何をするでもなく空を見上げていた。
星はよく見える。余計な灯りがない分、ひとつひとつがやけに鮮明に映る。だが、その光景を前にしても、心はどこか落ち着かないままだった。
――耐えれてはいた。
それは間違いない。技術としては成立していた。実際、攻撃はほとんど捌けていたはずだ。
それでも守れなかった。
理由は理解している。後手に回っているからだ。すべて“受けてから”動いている。だから、ほんの一瞬が間に合わない。
理屈としては、分かる。
だが、それをどう改善すればいいのかが、分からない。
視線を少し落とす。無意識に、手が盾へと伸びかける。触れる直前で、指が止まった。
あの時の言葉が、頭の奥で静かに響く。
――優しさでは守れない。
そして今日、突きつけられた現実が、それを否定できなくしていた。
小さく息を吐く。答えが出ない…自分だけでは出せない。
そんな状態のまま、ただ夜空を見上げて立ち尽くしていると――
「こんなとこで何してんの〜?」
後ろから、気の抜けた声がかかった。
振り向くと、そこにはホシノがいた。片手にマグカップを二つ持ち、いつものようにゆるい足取りで近づいてくる。
「随分探しちゃったよ〜」
そう言いながら、黒夜の隣に並び、一つを差し出す。
「はい、ホットコーヒー」
「……ありがとうございます」
受け取ると、じんわりとした熱が掌に伝わってくる。夜風に冷えた身体には、思っていた以上にありがたかった。
ホシノはそのままフェンスに軽くもたれかかる。
「黒夜君は真面目だね〜」
空を見上げながら、ぽつりと呟く。
「おじさん、そういうの苦手なんだよね〜」
その言い方に、黒夜はわずかに視線を伏せた。
「……守れているつもりでした」
言葉は自然と出ていた。
一拍置いて、続ける。
「ですが、実際には守れていない」
自嘲も、言い訳もない。ただ事実だけを並べたような声音だった。
ホシノはそれを否定しない。
「うん、そうだね〜」
軽く頷くだけ。
だが、それで終わりにはしない。
少しだけ間を置いてから、続ける。
「昔さ〜」
何気ない調子で言い出す。
「似たようなこと言ってた人いたんだよね」
黒夜はそちらを見ないまま、静かに耳を傾ける。
「この学校の全部を守ろうとしてたんだ」
短い一言。
それ以上の説明はない。
だが、それだけで十分だった。
「……その方は…?」
自然と口をついて出る。
ホシノは少しだけ視線を遠くに向けた。
「帰って来なかったよ…」
淡々とした声だった。
重くも、軽くもない。ただ事実を述べるだけの響き。
黒夜の中で、何かが静かに沈む。
言葉が出ない。
否定もできないし、肯定もできない。
ただ、その意味だけが、ゆっくりと染みていく。
風が一度、強く吹き抜けた。
ホシノはマグカップを軽く揺らしながら、続ける。
「でもさ〜」
少しだけ、声の調子が変わる。
「守るって、全部を耐える事じゃないんだよ」
昼間と同じ言葉。
だが、夜の静けさの中では、その響きが少しだけ違って聞こえた。
黒夜は何も言わない。
分かっている。だが、理解しきれていない。
その状態が、どうしようもなく歯痒い。
「だからこうしろ〜とは言わないけどさ」
ホシノが肩をすくめる。
「そのままだと、多分同じ事の繰り返しになるよ?」
静かな一言。
責めるでもなく、諭すでもなく。ただ可能性を示すだけ。
黒夜の指先が、わずかに動く。再び盾に触れかけて、今度は完全に止まる。
視線が、ほんの少しだけ逸れた。
ホシノはそれを横目で見ながら、小さく息を吐く。
「ま、頑張りなよ後輩くん」
軽く言い残して、立ち上がる。
そのまま背を向け、屋上の出入口へと歩いていく。
足音が遠ざかる。
やがて、完全に消える。
再び静寂が戻る。
黒夜はその場に立ったまま、夜空を見上げた。
答えはまだ出ない。
屋上に残された静けさの中で、黒夜はしばらく動けずにいた。去っていった足音の余韻が消えてもなお、胸の奥に残る言葉だけが、はっきりと輪郭を持ち続けている。
似ている。
ふと、別の声が浮かび上がる。
“守るってのはな、殴られるの待つことじゃねぇ”
あのぶっきらぼうな言い方。乱暴で、だが妙に的を射た言葉。
ネルの声が、今になってやけに鮮明に思い出される。
黒夜は小さく息を吐いた。
あの時は、感覚的なものだと思っていた。力でねじ伏せる側の理屈だと、どこかで距離を置いていた。
だが今日、別の形で同じことを言われた。
守るのは耐えることじゃない。
言葉は違う。だが、指しているものは同じだ。
視線を落とし、足元に置いた盾を見る。使い込まれた縁に指をかけ、ゆっくりと持ち上げる。構えは自然に形になった。身体に染みついた動き。
だが、その形のままでは――
黒夜は一歩踏み出す。
盾を前に出し、迎え撃つ構え。
そこにあるのは、昼間までの自分の姿そのものだった。
攻撃を待ち、来た瞬間に受ける。
確かに、防げる。だが、それは常に“後手”だ。
黒夜はそのまま数秒静止し、やがてゆっくりと盾を下ろした。
――これでは、間に合わない。
ならば、どうする。
迎え撃つのではなく――
相手の動き出しを、抑える。
頭の中で、組み立てが始まる。
先に動く。だが、盾を構えたままでは一瞬遅れる。あの重さが、どうしても初動の足を鈍らせる。
速さが足りない。
ほんの一瞬。
その間が、致命的になる。
黒夜はその場でわずかに足を動かし、踏み込みの感覚を確かめる。軽く、速く。しかし盾を持つだけで、確実に動き出しに遅れが生じる。
――無理だ。
正面からでは、間に合わない。
その時、右手がわずかに動いた。
ホルスターに触れる。
指先に伝わる、硬質な感触。
自分の愛銃。
無意識だった。だが、その感触が、思考の流れを変える。
動き出しを、抑える。
その方法は、“速くなること”だけではない。
相手の動きを、止めればいい。
黒夜はゆっくりと銃を抜き、手の中で重さを確かめる。
牽制。
動き出しの瞬間に、一発。
当てる必要はない。
動きを止める。
その一瞬。
その隙があれば――
盾を持って、踏み込める。
距離を詰める。
自分の間合いに入る。
そこから先は――
黒夜はわずかに目を細めた。
体が覚えている。考えるまでもない領域。
奪う。
崩す。
制圧する。
その流れは、もう染み付いている。
盾だけでは足りない。
だが、盾と銃なら。
受けるだけではなく、止めて、奪って、押し返す。
黒夜は小さく息を吐いた。
答えではない。
だが――
道筋は、見えた気がした。
ゆっくりと銃をホルスターに戻し、盾を握り直す。
視線を上げると、夜空は変わらずそこにあった。
星の位置も、風の音も、何一つ変わらない。
それでも。
黒夜の中で、ほんのわずかに、何かが変わっていた。