――セイア視点――
床に背中を打ちつけた瞬間、肺の空気が押し出され、短い息が喉から漏れた。
視界の端で、長い金髪が揺れる。
次の瞬間、影が覆いかぶさり、冷えた指が――私の首に、掛けられた。
「……っ」
反射的に手が上がる。
だが、その指は思ったよりも震えていて、力の入り切らないものだった。
――黒夜。
その名前を呼ぼうとして、声が出ないことに気づく。
首を締められているからではない。
目の前にある表情が、あまりにも想像と違っていたからだ。
彼は、泣いていた。
歯を食いしばり、眉を歪め、必死に何かを押し殺すように。
それでも堪えきれず、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちて、私の頬に落ちる。
「……っ、う……」
指に、力がこもろうとして――止まる。
また力を入れようとして――震えて、抜ける。
まるで、自分自身と戦っているようだった。
「……見ないで……頂けますか…」
掠れた声。
消え入りそうで、それでも必死に絞り出された言葉。
「……そんな……信頼するような目で……見ないでください……」
指先が、微かに喉を圧迫する。
苦しい。だが、それ以上に――胸が、痛かった。
「私は……ただの……道具……なんですから……」
その瞬間。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
――ああ
私は、ようやく理解してしまったのだ。
完璧で。
優しくて。
誰よりも強く、誰よりも冷静で。
自分より他人を優先し、どんな苦境でも弱音を吐かず、
まるで聖人のように振る舞う――そう思い込んでいた人。
けれど、違った。
この人もまた、私と同じだった。
苦しみ。
耐え。
悩み。
傷つき。
もがきながら、それでも立っていただけだった。
そして――
その重りの一部に、私自身がなってしまっていた。
「……っ、く……」
喉が締まり、息が途切れる。
それでも、もう抵抗する気にはなれなかった。
私は、ゆっくりと手を上げて、
片手で――黒夜の頭に、そっと触れた。
驚いたように、彼の指が一瞬だけ緩む。
「……すまなかったね……」
声は、自然と静かになった。
首を絞められているからではなく、
今は、抵抗する理由がどこにもなかったからだ。
「こんなに……追い詰められるまで……気付いてやれなくて……」
指が、再び喉に掛かる。
苦しい。視界が、わずかに滲む。
それでも、言葉を続ける。
「……黒夜も……随分、苦しんだんだね……」
彼の肩が、小さく震えた。
「……私は……君のやさしさに……頼りきりだった……」
もう一方の手を伸ばし、
彼の頬を伝う涙を、拭ってやる。
指先に、温かい雫が残る。
「……っ、なぜかは……わからないが……」
息が、短くなる。
一言一言が、途切れ途切れになる。
「……私や……ナギサ……ミカが……」
「……君の……苦しみの……原因に……なってしまった……ようだね……?」
喉が焼けるように痛む。
それでも、言葉を止めなかった。
「……本当に……申し訳ないと……思うよ……」
黒夜の目が、大きく揺れた。
「……っ……」
指に、力が戻りかける。
だが、それはすぐに迷いに変わる。
「……せっかく……君が……決めたんだ……」
「……わ……たしは……」
視界が、暗くなる。
それでも、最後まで伝えたかった。
「……君の……決断を……尊重するよ……」
喉が締まり、声がほとんど出ない。
「……だから……」
「……私を……殺すと……いい……」
「……それで……君が……救われるなら……」
「……安い……物だよ……」
「……黒夜……」
沈黙が落ちた。
数秒か。
それとも、もっと長かったのか。
次の瞬間――
首に掛かっていた力が、完全に抜けた。
「……っ、は……」
空気が、肺に流れ込む。
咳き込みながら視線を上げると、
黒夜はその場に崩れ落ちるように座り込み、
片手で顔を覆って、声を殺して泣いていた。
「……どうして……」
震える声。
「……どうしてなんですか……」
「……セイア様を……殺そうとした……」
「……私なんかに……」
嗚咽混じりに、言葉が零れる。
「……ここまで……してくれるんですか……」
「……私に…そこまでする…価値など無いのに……」
私は、ゆっくりと体を起こし、
彼と同じ高さまで視線を下げる。
「それはだね……黒夜」
まだ喉は痛む。
それでも、今度ははっきりと言えた。
「君は……道具なんかじゃない」
「……一人の……人間なんだ……」
彼の頬に、手を添える。
「そして……」
目を見て、告げる。
「私を……救ってくれた……人なんだよ……」
黒夜の瞳が、揺れた。
「……それを……」
静かに、優しく。
「……忘れないでくれたまえ……」
その言葉と同時に、
黒夜は、声を上げて泣き崩れた。
私は、ただ黙って、
彼が泣き止むまで、一緒に居たいと思った。
黒夜が泣き止むまで、私は何も言わなかった。
言葉は、時に残酷だ。
今の彼に必要なのは、説明でも叱責でもなく、
ただ――壊れきった心が、静まる時間だった。
嗚咽は次第に小さくなり、
肩の震えが、微かな痙攣に変わる。
「……セイア様……」
ようやく絞り出された声は、酷く掠れていた。
「……私は……」
言葉が続かない。
それでも、彼は必死に口を開いた。
「……取り返しの……つかない事を……しました……」
伏せられた顔。
自分を断罪することしか、もう許されていないと信じ切った瞳。
「……だから……」
「……どうか……」
「……私を……許さないで……ください……」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥に、はっきりとした怒りが湧いた。
――違う。
それだけは、決して違う。
私は、彼の顎に手を添え、
無理矢理にでも視線を上げさせた。
「……それは……認められないな……」
黒夜の瞳が、怯えたように揺れる。
「黒夜」
静かに、しかしはっきりと告げる。
「許さないでくれ、などと……」
「そんな自己満足の逃げ道を……私は許さない」
彼が息を呑む。
「君がした事は……確かに、重い」
「だがね……」
指先に、力を込める。
「だからといって……君が自分を……罰し続ける権利が……」
「君自身にあると……誰が決めた?」
涙が、再び溢れ出す。
「……私は……」
言葉を遮るように、私は続けた。
「私は……君を赦す」
きっぱりと。
「赦すよ、黒夜」
「それは……君のためでも……私のためでもない」
「“そうすると決めた”からだ」
黒夜は、声を失ったように私を見つめていた。
「君が……生きて、苦しんで、悩み続けることこそが……」
「君が背負うべき責任だ」
「楽になるために……罰を選ぶな」
「赦されながら……生きるんだ」
それは、祝福ではない。
呪いに近い言葉だったかもしれない。
それでも――
彼の瞳に、ほんの僅かな光が戻ったのを、私は見逃さなかった。
その時
忘れていた空気が、僅かに張り詰めた。
部屋の入口に立っていたのは、
銃を下げたままの、ガスマスクを被った少女だった。
白洲アズサ。
彼女は、沈黙のまま、
私と黒夜を交互に見つめていた。
その瞳にあったのは、敵意ではない。
困惑と――
理解しきれない何かを前にした、戸惑い。
「……お前たちは……」
ぽつりと、アズサが口を開く。
「……不思議な関係だな……」
私は、何も言わなかった。
黒夜は、俯いたまま動かない。
「……羨ましい……」
その一言に、黒夜の肩が跳ねた。
「……殺そうとして……」
「それでも……手を伸ばして……」
アズサの指が、僅かに震える。
「……そんな風に……」
銃を構えていたはずの手が、
完全に下ろされる。
「私は……」
しばらく、沈黙。
そして――
はっきりとした声で、彼女は言った。
「……百合園セイアを……殺さない」
空気が変わる。
「命令ではない……」
「誰かに言われたからでもない……」
アズサは、胸に手を当てる。
「……私が……そうしたくない……」
「それだけだ」
視線が、私と黒夜に向けられる。
「……お前たちの間に……割って入る資格は……」
「……私には……ないと思う……」
それは、宣言だった。
誰かに救われたわけでも、
洗脳が解けたわけでもない。
ただ――
「羨ましい」と思ってしまった自分の心を、
彼女は否定しなかった。
それだけで、十分だった。
アズサは、静かに背を向け、
何も言わずに去っていった。
扉が閉まった後、
長い沈黙が残る。
「……セイア様……」
黒夜が、震える声で言った。
「……私は……」
「……もうこれ以上……」
言葉に詰まりながらも、必死に続ける。
「……あなたの側に……立つ資格は……」
私は、ため息を一つ吐いた。
「……まったく……」
そして、少しだけ苦笑する。
「君は……本当に……」
「自分に厳しいな……」
黒夜の前に立ち、はっきりと告げる。
「いいかい、黒夜」
「君が……どれだけ許されまいと……」
「私は……許す」
「君が……許されることを……拒んでも……」
「私は……許す」
逃げ場を与えないように。
「君は……私に……生かされるんだ」
「それに君が守ってくれないと、私はすぐにやられてしまうよ?」
その言葉に、
黒夜は、笑みを浮かべながら泣いた。
今度は、
壊れるような泣き方ではなかった。
痛みと、後悔と、
それでも前に進まねばならない現実を前にした――
生きている者の、泣き方だった。
私は、ゆっくりと背を向ける。
黒夜に、覚悟を見せるために。
そして――
振り返る。
彼の方へ。
逃げずに。
誤魔化さずに。
これからも、共に苦しむと決めた者として。