ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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同じ道は、簡単に辿れる ~3~

 会議室に落ちていた重い沈黙は、ゲヘナ三人のテラーについて語り終えられた後も、しばらく消えなかった。

 

 マコトは腕を組んだまま椅子に深く沈み、普段ならすぐに場を引っ掻き回すような大仰な言葉を投げるはずの口を閉ざしていた。

 ヒナもまた、静かな表情を保ってはいるが、その目の奥には先ほどまでとは違う硬さが残っている。

 カヨコは視線を落とし、何かを考えるように指先を机の端へ触れさせていた。

 

 別世界の話。そう割り切れば、それで済むはずだった。

 

 だが、語られた内容はあまりにも具体的で、あまりにも“自分たちらしい”ものだった。

 喪失によって壊れ、欠けたものを埋めるために貪り、絶望を抱えて追い続け、頼られた記憶に縋って憎悪へ変える。

 そんな未来を、ただの他人事として聞き流せる者はこの場にいなかった。

 

 その空気の中で、リオは静かに指を組み直した。

 

 ゲヘナの三人が受けた衝撃は理解できる。だが、理解した上でなお、彼女の思考は別の場所へ向かっていた。

 テラー化という現象。別世界における変質。黒夜を失った者たちがそれぞれ違う形で壊れたという事実。そして、今この場にいる者たちの中で、まだ語られていない者がいる。

 

 隣ではヒマリも、同じようなことを考えていたのだろう。普段なら自分の美貌と知性を盛るための前置きに数十秒は使いそうな彼女が、今は妙に静かだった。

 

 互いに視線を交わしたわけではない。

 

 だが、問いの方向は同じだった。

 

「少し質問なんだけど、私たちのテラーは存在したかしら?」

 

 リオが口を開いたのと、ほとんど同時だった。

 

「私もそこには大変興味がありますね。ミレニアムの清楚な高嶺の花であり、皆さんの憧れである『全知』の学位を持つ眉目秀麗な乙女の私のテラー……もし存在したなら、さぞ恐ろしい存在だったことでしょう」

 

 ヒマリがいつもの調子で続ける。

 

 内容だけを聞けば冗談めいている。だが、その目は笑っていなかった。むしろ、興味と警戒が同時に滲んでいる。

 自分がテラー化した可能性。それを知りたいという知的好奇心は確かにある。だが、知ったところで平然としていられるかどうかは別の話だった。

 

 その問いに、会議室の視線が再びテラー達へと集まる。

 

 ナギサ*テラーは静かに目を伏せ、ミカ*テラーは面白そうに口元を緩める。セイア*テラーは少しだけ考えるように顎へ指を添え、それからゆるやかに首を傾げた。

 

『うーん、私の記憶が確かなら、君たちのテラーはいなかったよ』

 

 その言葉は、軽く落とされた。

 だが、受け取った側にとっては、決して軽いものではなかった。

 セイア*テラーの視線が、リオへ向く。次にヒマリ、最後にアツコへと向けられる。まるで一人ずつ確認するような、静かで正確な視線だった。

 

 リオは、その答えをすぐには表情に出さなかった。

 存在しなかった。

 それはつまり、少なくともあちらの世界において、自分はテラー化に至らなかったということだ。破滅の道を辿らなかった。

 黒夜を失った世界で、今のように彼と深く関わることがなかったのか、それとも何らかの理由で別の結末を迎えたのかは分からない。だが、少なくとも“自分のテラー”という存在は、彼女達の記憶には存在しない。

 

 リオは短く息を吸い、なるべく感情を出さないようにしながら答えた。

 

「……そう」

 

 ただそれだけ。

 

 だが、胸の奥では確かに何かが緩んでいた。

 

 安堵。

 

 そう呼ぶには少し屈辱的で、けれど否定しきれない感情だった。自分はそうならなかった。

 少なくとも、別世界の自分はその形の破滅を迎えなかった。その事実は、合理では説明しきれないほど彼女の奥底を静かに撫でた。

 

 対してヒマリは、露骨に少しだけ残念そうな顔をしていた。

 

「おや……存在しませんでしたか」

 

 手を顎へ当て、目を細める。

 

「それは少々惜しいですね。私ほどの頭脳と美貌を兼ね備えた存在がテラー化した場合、どのような恐るべき完成度に至るのか、知的探究心としては大変興味深かったのですが」

 

「ヒマリさん……そこは安心するところでは?」

 

 ナギサが思わず口を挟むと、ヒマリは涼しい顔で微笑んだ。

 

「もちろん安心もしていますよ? ですが、未知の可能性が存在しなかったというのは、それはそれで学術的損失です」

 

「……貴方は本当にブレないわね」

 

 リオが呆れ混じりに呟く。

 

 その横で、アツコもまた少しだけ残念そうな表情を浮かべていた。

 

「私もいなかったんだ」

 

 ぽつりと漏らす。

 

「ちょっと聞いてみたかったな…」

 

 その声音は本気とも冗談ともつかない。だが、彼女の場合はヒマリのような知的興味とは少し違っていた。

 自分がどこまで壊れるのか。どこまで黒夜に執着し得るのか。その可能性を、どこか他人事のように覗いてみたいという危うさが滲んでいる。

 

 マコトが半眼でアツコを見る。

 

「お前も妙なところで肝が据わっているな」

 

「そう?」

 

「自覚してないのか?」

 

 短いやり取りに、少しだけ場の空気が緩む。

 

 ゲヘナ三人のテラーの話で沈み込んでいた会議室に、ほんの一瞬だけ、人らしい温度が戻りかけた。

 リオが小さく息を吐き、ヒマリが車椅子の肘掛けに指を置き、アツコが肩の力を抜く。

 トリニティの三人も、ミレニアム組の反応にわずかな苦笑を浮かべ、ヒナやカヨコも完全ではないにしろ、先ほどより少しだけ表情を戻していた。

 

 だが――

 

 その空気を、セイア*テラーの声が切り裂いた。

 

『ただ……今の君たちの方が、よほど危ういように見えるね』

 

 静かな声だった。

 だからこそ、はっきりと届いた。

 会議室の空気が、もう一度冷える。

 リオの指先が止まる。ヒマリの瞳が細くなる。アツコは一瞬だけ瞬きを忘れたように、セイア*テラーを見た。

 

 ミカ*テラーが、ぱっと楽しそうにお腹を抱えて笑った。

 

『あっはは! セイアちゃん、それ言っちゃうの? せっかくいい雰囲気だったのに~☆』

 

 ナギサ*テラーは小さく息を吐き、少し困ったようにセイアテラーを見る。

 

『セイアさん、そこまで言ってしまうのですか?』

 

『おや? 黙っていた方がよかったかい?』

 

 セイア*テラーは悪びれた様子もなく首を傾げる。

 

『君たちも気付いているだろう?』

 

『態々水を差すこともないのではないかと思っただけです』

 

 ナギサ*テラーの声は穏やかだが、そこにはわずかな非難が含まれていた。

 

 セイア*テラーは微笑む。

 

『相変わらずナギサは優しいね。だが、優しさが常に事態を好転させるとは限らないんだよ?』

 

『セイアちゃんが空気読めてないだけじゃないの?』

 

 ミカ*テラーが横から茶々を入れる。

 その瞬間、セイア*テラーの目が細くなった。

 

『黙れゴリラ』

 

『は?』

 

 ミカ*テラーの笑顔がぴたりと止まる。

 

 その場にいた何人かが、反射的に嫌な予感を覚えた。

 その様子にミカは「うわぁ……」と小さく呟き、ナギサは額に手を当てる。セイアは目を伏せたまま、諦めたように小さく息を吐いた。

 

 ナギサ*テラーが間に入るように、ほんの少し声を強める。

 

『お二人とも、今はそういう場ではありませんよ』

 

『だってセイアちゃんがさ~』

 

『ミカさん』

 

『……はーい』

 

 ミカ*テラーは不満そうに頬を膨らませるが、それ以上は暴れなかった。

 セイア*テラーもまた、何事もなかったかのように視線をリオ達へ戻す。

 そのやり取り自体は、どこか呑気で、いつもの彼女達らしさすらあった。

 

 だが、その外側にいた三人――リオ、ヒマリ、アツコの表情は、先ほどとは明らかに違っていた。

 

 リオの背筋に、嫌な汗が滲む。表情は崩さない。崩さないが、胸の内側だけが妙に冷えていく。

 ヒマリもまた、口元にはいつもの余裕を残しながら、指先がほんのわずかに固まっていた。

 アツコは椅子の上で姿勢を正し、静かにテラー達を見つめている。

 

 彼女達の背筋に、同時に冷たいものが走っていた。

 

 セイア*テラーの言葉が落ちてから、会議室の空気は明らかに変わっていた。

 

 先ほどまでの重さとは違う。ゲヘナ三人のテラーについて語られた時の空気は、あくまで“過去にあったかもしれない可能性”に触れたものだった。

 痛みはある。恐怖もある。だが、それは別世界の出来事として、まだどこかで距離を取ることができた。

 

 けれど今、投げ込まれた言葉は違う。

 

 ――今の君たちの方が、よほど危うい。

 

 それは過去ではない。別世界の誰かでもない。今ここに座っているリオ、ヒマリ、アツコの三人に向けられた言葉だった。

 リオは静かに目を細める。表情を乱さないよう努めているが、頭の中ではすでに無数の仮説が走り始めていた。

 

 自分たちのテラーは、テラー達のいた世界には存在しなかった。

 にもかかわらず、今の自分たちの方が危ういと言われた。

 

 ならば差異は何か。

 

 世界線そのものの違い。所属環境の差。ミレニアムの事件の有無。アリスとの関わり方。先生の介入。

 そこまで思考が進んだところで、リオは一瞬だけある項目から意識を逸らした。

 

 違う。

 

 そうであってほしくない。

 その感情が、合理的な分析よりわずかに早く働いた。

 

 ヒマリもまた、いつものように余裕ある表情を保っていたが、その指先は肘掛けの上で微かに止まっていた。

 彼女にとって未知は興味の対象だ。理解できない事象は、解き明かすべき謎であり、恐れるものではない。

 だが今回だけは、答えに近づくほど、胸の奥に嫌なものが沈んでいく感覚があった。

 

 今の自分たちと、テラー達の世界にいた自分たちとの差異。

 それを冷静に並べれば、答えはひとつに収束しつつある。

 だが、その答えを口にすることは、どうにも躊躇われた。

 

 そんな二人の横で、アツコだけが少し違う顔をしていた。

 彼女はリオやヒマリほど論理的に条件を並べていたわけではない。だが、感覚として、既に何かを掴んでいた。

 自分の中で薄く形になってしまった答えを、言ってしまっていいのか迷っているように、唇を小さく動かす。

 

 そして、恐る恐るといった様子で口を開いた。

 

「もしかしたら、なんだけど……」

 

 その声は小さかった。

 だが、今の会議室では十分すぎるほど響いた。

 リオとヒマリが同時にアツコを見る。

 アツコは少しだけ視線を伏せ、それからゆっくりと言葉を続けた。

 

「今の私たちの方が、別の世界よりテラー化してしまいそうな原因ってさ……」

 

 そこで一度、息を吸う。

 

「黒夜と深く関わったから?」

 

 その瞬間、リオの思考が止まった。

 ヒマリもまた、わずかに目を見開く。

 見落としていたわけではない。

 

 いや、正確には気付きかけていた。そこに答えがあると、理屈では分かりかけていた。

 だが、それを認めたくなかったから、無意識のうちに思考から除外していた。

 

 黒夜と深く関わったから。

 

 その一文は、あまりにも単純だった。

 そして、あまりにも正しく見えた。

 リオ、ヒマリ、アツコの三人は、ほぼ同時にテラー達へ視線を向ける。

 

 そこには、三つの笑みがあった。

 

 ナギサ*テラーは、静かで美しい微笑みを浮かべている。慈愛にも似ているが、その奥にあるものは決して優しさだけではない。

 

 ミカ*テラーは、楽しそうに笑っていた。子どもが秘密を暴かれる瞬間を楽しむような、無邪気で残酷な笑み。

 

 セイア*テラーは、すべて分かっていたと言わんばかりに、蠱惑的な笑みを浮かべている。

 

 その三人の表情を見た瞬間、会議室にいる全員が理解した。

 アツコの答えは、外れていない。

 それどころか、核心に近い。

 

 誰もが言葉を失った。

 

 ティーパーティーの三人は、自分たちのなれの果てである存在が目の前にいるという現実を、改めて突きつけられていた。

 ナギサは自分と同じ顔をしたテラーの笑みを見つめながら、手元のカップに触れた指をわずかに強張らせる。

 ミカはいつもの明るさを失い、口元を引き結んだ。

 セイアは静かに目を伏せていたが、その沈黙は単なる諦観ではなく、強い思考の表れだった。

 

 ゲヘナの三人もまた、言葉を失っていた。

 

 マコトは椅子に背を預けたまま、普段のような大仰な反応を返せないでいる。先ほど聞かされた自分のテラーの姿が頭の奥に残っていた。

 黒夜を失い、飢え続けた別世界の自分。その道が、今の自分にも繋がり得るのだとしたら、軽口で流せるはずがない。

 

 ヒナは表情こそ変えていないが、その眼差しは冷えていた。自分が、黒夜を失った時にどうなるのか。

 ミカ*テラーが語った“ヒナのテラー”の叫びが、まだ耳に残っている。

 

 カヨコは指先を組み直し、静かに息を吐いた。黒夜と便利屋の仲間を失い、自分だけが残った別世界の自分。

 その絶望を想像できてしまうからこそ、今の状況がどれほど危ういものなのか理解してしまう。

 

 そして、ミレニアムの二人は、ただ一つのことを願っていた。

 

 嘘であってほしい。

 

 リオはそう思った自分に、内心でわずかに驚いていた。自分はいつから、そういう感情で事実を否定したがるようになったのか。

 理屈ではなく、感情で答えを拒むなど、以前の自分なら愚かだと切り捨てていただろう。

 

 だが今は違う。

 

 黒夜と関わったから。

 

 その一文が、リオの中であまりにも重かった。

 

 ヒマリもまた、口元にいつもの笑みを作ろうとしていたが、それは少しだけ失敗していた。

 彼女は知的好奇心を満たすことが好きだ。未知を知ることに喜びを覚える。けれど、今回の答えは知りたくなかった。

 

 知ってしまえば、戻れない気がしたからだ。

 

 アツコは静かに、納得したように呟いた。

 

「やっぱり……そうなんだ……」

 

 その声に、誰もすぐには反応できなかった。

 そんな周囲の動揺など意に介さないように、ナギサ*テラーが口を開く。

 

『貴女は勘がいいですね』

 

 穏やかな声だった。

 褒めているようにも聞こえる。だが、その言葉はむしろ判決に近かった。

 

 ミカ*テラーが楽しげに続ける。

 

『そうだよ。黒夜に救われた者ほど、黒夜を失った時に壊れやすいんだよ』

 

 救われた者ほど。

 その言葉が、会議室全体へ静かに広がっていく。

 セイア*テラーは、リオ、ヒマリ、アツコを順に見つめた。

 

『そして君たちは、もうこちら側に足を踏み入れている』

 

 リオが反射的に口を開いた。

 

「本当に、黒夜と関わったからだという確証はあるの!?」

 

 声にわずかな鋭さが混じる。

 それは疑問というより、否定を求める問いだった。違うと言ってほしい。別の理由があると言ってほしい。まだ分析の余地があると示してほしい。

 

 だが、セイア*テラーは首を横に振らなかった。

 

『私たちも学者じゃないから、確証と言われてしまえば、無いとしか言えないがね』

 

 その答えに、リオの眉がわずかに動く。

 

『ただし、経験上はっきりしていることがある』

 

 セイア*テラーは静かに続けた。

 

『黒夜と深く関わった者は、全員テラー化している。私たちはもちろん、さっき話したようにゲヘナの彼女達もね』

 

 その言葉に、ゲヘナ三人の表情が僅かに硬くなる。

 

 ナギサ*テラーが続けた。

 

『もちろん、単に関わっただけではありません。黒夜さんに救われた者、黒夜さんに必要とされた者、黒夜さんとの繋がりを自分の支えにしてしまった者……そういった者ほど、喪失の反動は強くなるのでしょう』

 

 ヒマリが静かに息を吸う。

 

「つまり、黒夜さんは……」

 

 そこまで言って、言葉を止める。

 彼は何もしていない。

 少なくとも悪意はない。

 

 むしろ救っている。手を伸ばし、寄り添い、守り、信じる。黒夜の行動は常に誰かを救う方向へ向かっている。

 だが、その救いが深すぎるのだとしたら。

 救われた側が、その救いを失った時に耐えられなくなるのだとしたら。

 それは、果たして単なる善意と言い切れるのか。

 

 セイア*テラーが軽く笑う。

 

『だが安心したまえ。別に今すぐどうにかなるようなものじゃないよ』

 

 その言葉に、ほんの一瞬だけ空気が緩みかける。

 

 だが――

 

『ただ、黒夜に何かあれば、ここに居る九人はもれなく全員テラーになるだろうね』

 

 会議室の空気が、死んだように静まり返った。

 

 九人。

 

 ナギサ、ミカ、セイア。

 

 マコト、ヒナ、カヨコ。

 

 リオ、ヒマリ、アツコ。

 

 全員。

 

 その言葉はあまりにも重く、あまりにも具体的だった。

 ナギサが息を呑む音が微かに聞こえた。ミカは一瞬だけ自分の胸元を押さえる。セイアは目を閉じたまま、何かを飲み込むように沈黙している。

 

 マコトは顔を歪める。

 

「……笑えない冗談だな」

 

『冗談じゃないからね☆』

 

 ミカ*テラーが明るく返す。

 その明るさが、逆に恐ろしかった。

 

 ヒナは静かに問いかける。

 

「黒夜に何か、というのは……」

 

『死ぬことだけじゃありませんよ』

 

 ナギサ*テラーが答える。

 

『完全に失われること。届かなくなること。自分の手ではもう二度と触れられないと理解してしまうこと。形は様々でしょうが、本質は同じです』

 

 カヨコは低く呟いた。

 

「喪失……か」

 

 アツコは静かに視線を落とす。

 自分は黒夜の左目を奪った。

 その罪を償うという形で、黒夜との繋がりを自分の中に置いている。それが救いなのか、呪いなのか、時々分からなくなる。

 けれど、今なら少し分かる気がした。

 

 黒夜は、自分の中に深く入り込んでいる。

 本人の自覚とは関係なく。

 

 ヒマリが、いつもの調子を取り戻そうとするように口を開く。

 

「これは……非常に興味深く、同時に非常に厄介な話ですね」

 

 だが、その声には僅かな硬さが残っていた。

 リオは何も言わない。

 ただ、膝の上で組んだ手に力が入っている。

 黒夜に何かあれば、自分も壊れる。

 

 それを否定したかった。

 けれど、エリドゥで彼が死んだと思い込んだ時、自分がどうなっていたかを思い出してしまう。

 

 あの時の喪失感。

 指先から熱が失われていくような感覚。

 自分が彼を死なせたのだと思った瞬間の、底の抜けるような恐怖。

 あれがもし、誤解ではなく現実だったなら。

 

 リオは答えを想像できなかった。

 想像できないことが、すでに答えだった。

 

 ナギサ*テラーが静かに言う。

 

『黒夜さんは人を救う』

 

 続けて、ミカ*テラーが笑う。

 

『救っちゃうんだよね~』

 

 最後に、セイア*テラーが目を細めた。

 

『だけど、救われた者が黒夜を失えば必ず壊れてしまう』

 

 ナギサ*テラーが、柔らかく、それでいてどうしようもなく冷たい声で締める。

 

『それが、黒夜さんの一番厄介な所ですね……』

 

 誰も言い返せなかった。

 黒夜はこの場にいない。

 本人はきっと、どこかで何も知らずに、平和な日々を過ごしている。

 

 だがその裏で、彼に救われた者達は、自分達がいつか壊れるかもしれない可能性を突きつけられている。

 会議室には、ただ重い沈黙だけが残った。

 救いは、時に呪いと区別がつかない。

 その事実を、この場にいる全員が、嫌というほど理解し始めていた。

 

 

 

 

 シャーレからほど近い公園には、夜の静けさが降りていた。

 

 昼間であれば生徒たちの声や、行き交う車両の音が絶えない場所だが、今は違う。

 街灯が等間隔に光を落とし、舗装された道を薄く照らしている。植え込みの葉が風に揺れ、その音だけがやけに耳に残る。都市の中心に近いはずなのに、この一角だけは世界から切り離されたように静かだった。

 

 その静寂の中で、先生は一人の男と向き合っていた。

 

 黒服。

 

 ゲマトリアの一員であり、これまで幾度となく先生と対峙してきた存在。信用できる相手ではない。少なくとも、簡単に信じていい相手ではなかった。

 先生は、何も言わずに黒服を見据えていた。

 

 その視線は鋭い。

 

 普段、生徒たちに向ける柔らかなものとはまるで違う。警戒と拒絶、そして必要ならば即座に踏み込むという意思が、その目にはっきりと宿っていた。

 黒服はその視線を受けながらも、いつものように深々と頭を下げる。

 

「突然お呼び出しして申し訳ありません。ですが、すぐにでもお伝えしたいことがありまして……」

 

 その声は丁寧だった。

 だが、先生は表情を緩めない。

 

「一体何の用だ?」

 

 短く問いかける。

 

「もしまた生徒を実験体にしたいとかだったら、容赦しないぞ」

 

 その言葉に、黒服はわずかに沈黙した。

 怒りを買ったことを恐れているのではない。むしろ、その反応を当然だと受け止めているようだった。

 

「ええ。先生がそう仰るのは当然でしょう」

 

 黒服は静かに頷いた。

 

「ですが、今回の件に関しては、そのような話ではありません」

 

「……」

 

「いいですか? これから私が言うことは、私が研究と観察をして突き止めた真実です。嘘偽りや、先生を騙す意図はありません」

 

 先生の目が細くなる。

 

「……?」

 

 黒服が、ゆっくりと顔を上げた。

 

「月城黒夜さん」

 

 その名前が出た瞬間、先生の表情がわずかに変わった。

 

「彼の神秘について、先生は何かご存知ですか?」

 

「いや……」

 

「では、一から説明します」

 

 黒服は静かに言葉を続けた。

 

「彼の神秘は、元々、彼の周りに存在する人に安心感や良い印象を与えるものでした」

 

 先生は少しだけ眉を下げる。

 

「それは……なんていうか、黒夜らしい神秘だね」

 

 思わず零れた言葉だった。

 

 黒夜という生徒を思えば、納得できてしまう。

 周囲の人間に不思議と安心感を与えることは知っている。彼の言葉や態度が、誰かの警戒を解き、心をほぐし、時には立ち上がるきっかけになることも見てきた。

 彼はいつだって誰かの傍に立ち、誰かを信じ、誰かが壊れないように支えてきた。

 だからこそ、周囲に安心を与える神秘というのは、確かに彼らしい。

 

 だが、黒服はその言葉に笑わなかった。

 

「それだけで終わっていれば、私もこんなに慌てて先生に伝えなくてもよかったのですが……」

 

 その声音に、先生の表情が再び硬くなる。

 

「月城黒夜の神秘は、単に人を惹きつけるものではありません」

 

 黒服は一歩も動かないまま、淡々と続けた。

 

「彼と長く深く関わった者、あるいは彼に救われた者は、彼を“喪失してはならない存在”として認識してしまうのです」

 

 先生は何も言わなかった。

 ただ、黒服を見る。

 

「それは信頼であり、依存であり、時には信仰に近いものです」

 

 風が吹いた。

 街灯の下で、木々の影が揺れる。

 その一言で、自然と先生の中にいくつもの顔が浮かんだ。

 

 桐藤ナギサ

 

 聖園ミカ

 

 百合園セイア

 

 羽沼マコト

 

 空崎ヒナ

 

 鬼方カヨコ

 

 調月リオ

 

 明星ヒマリ

 

 秤アツコ

 

 そして、テラーとなった三人。

 

 彼女たちは皆、黒夜に救われた者たちだった。黒夜を必要とし、黒夜と関わり、黒夜を失いたくないと願った者たちだった。

 先生は無言のまま、黒服に続きを促す。

 黒服は、わずかに声を低くした。

 

「問題は、喪失した時なんです」

 

 その言葉が、夜気に沈む。

 

「彼の神秘に中てられた者が、彼の喪失を自覚して数日経つと、その者の神秘は反転し、恐怖になってしまうのです」

 

「……恐怖」

 

 先生はその言葉を、噛みしめるように繰り返した。

 

 恐怖。

 

 それは、テラーを想起させるには十分すぎる単語だった。

 

 先生の脳裏に、黒いティーパーティーの姿が浮かぶ。黒夜を失った世界で壊れ、世界を滅ぼす側へと変わってしまった彼女たち。

 彼女たちがそうなった理由を、先生はずっと“喪失”や“依存”の問題として見ていた。

 だが、もしそこに黒夜自身の神秘が関わっているのだとしたら。

 話は、もっと根深い。

 

「それは、黒夜が意図して起こしていることなの?」

 

 先生の声は低かった。

 怒りではない、確認だった。

 

「いいえ」

 

 黒服は即答する。

 

「彼は無自覚に日々を過ごしているだけです」

 

 その答えに、先生は一瞬だけ目を伏せた。

 そうだろうと思っていた。

 黒夜がそんなことを望むはずがない。誰かを依存させ、誰かを壊すために動くような生徒ではない。

 むしろその逆だ。彼は自分を削ってでも、誰かを壊さないために手を伸ばす生徒だ。

 だからこそ、余計に苦しかった。

 

「つまり、黒夜が悪いわけじゃない……」

 

 先生は言葉を探すように呟く。

 

「でも、黒夜の存在が周りを変えてしまうってこと?」

 

「そうです」

 

 黒服は静かに頷いた。

 

「彼は救済者であると同時に、喪失した時に最も深い破滅を生む触媒でもあります」

 

 その言葉は、あまりにも残酷だった。

 救うからこそ、壊す。

 救われたからこそ、失えない。

 

 黒夜が誰かに差し伸べた手は、その相手にとって光になる。だがその光が失われた時、残された者は闇の深さに耐えられない。

 それは黒夜の優しさを否定する言葉ではない。

 けれど、黒夜の優しさが危険を伴うものだと告げる言葉だった。

 

 先生はしばらく黙っていた。

 夜風が二人の間を通り過ぎる。

 黒服は、そこでさらに踏み込んだ。

 

「悪いことは言いません、先生」

 

 その声には、いつものような研究者じみた好奇心がなかった。

 

「今すぐ、月城黒夜を隔離するべきです」

 

 先生の視線が鋭くなる。

 

「これ以上、彼の信奉者を増やすわけにはいきません」

 

「出来る訳ないだろ!」

 

 声が、夜の公園に響いた。

 先生がここまで強く声を荒げることは珍しい。

 

「黒夜はいつだって必死に前を向いて頑張っている生徒だぞ!?」

 

 その言葉には怒りがあった。

 だがそれだけではない。

 悲しみもあった。

 黒夜を隔離する。

 

 そんなことが出来るはずがない。彼は危険物ではない。誰かを傷つけるために存在しているわけではない。

 必死に迷い、悩み、それでも誰かを守ろうとしている一人の生徒だ。

 そんな彼を、ただ危険だからという理由で閉じ込めることなど、先生には出来なかった。

 

 黒服は先生の怒りを受け止めるように、静かに目を伏せた。

 

「それは、私も重々承知しています」

 

 珍しく、その声にはほんの僅かな苦味があった。

 

「ですが、このまま放置して、もし彼に何かあった場合――」

 

「文字通り、キヴォトスが滅ぶことになりますよ」

 

 先生は言葉を失った。

 

 黒服は続ける。

 

「それに、彼の神秘はもう限界に近い状態です」

 

「限界……?」

 

「ええ」

 

 黒服の表情は読めない。

 だが、その声だけは妙に真剣だった。

 

「彼の周囲に形成されている繋がりが、多すぎるのです。あまりにも深く、あまりにも広く、そしてあまりにも強い」

 

 先生の胸が、重く沈む。

 

「許容範囲を超えた時、どうなるかは私でも分かりません」

 

「そんな……」

 

 先生の声は掠れていた。

 黒夜が人と繋がること。

 それは、本来喜ぶべきことのはずだった。彼はかつて孤独を抱え、誰も信じられない時期を越えてきた。

 そんな彼が今、多くの人に必要とされ、居場所を得ている。それは救いのはずだった。

 

 なのに。

 

 その繋がりが多すぎることが、危険だと言われる。

 誰かを救った数だけ、彼を失った時の破滅が増える。

 そんな話があっていいのか。

 

「いいですか、先生」

 

 黒服の声が、静かに響く。

 

「私は彼の危険性を、しっかり伝えましたよ」

 

 先生は顔を上げる。

 

「それと、我々は今後一切、彼に手を出しません」

 

 黒服ははっきりと言った。

 

「極力接触することもしません。これはゲマトリアの総意です」

 

「そこまでのモノなのか……?」

 

 先生の問いに、黒服は静かに頷く。

 

「はい」

 

 それだけで十分だった。

 ゲマトリアが、対象への干渉を避ける。

 それは異常だった。

 彼らは通常、未知を観察し、研究し、時に利用しようとする。だがその彼らが、黒夜に手を出さないと断言している。

 それは黒夜が単に厄介な生徒だからではない。

 触れることそのものが、危険だと判断したからだ。

 

「先生」

 

 黒服は最後に、静かに言った。

 

「もし放置するなら、覚悟だけはしておいてください」

 

 先生は答えられなかった。

 黒服は深く一礼する。

 そして、夜の闇へと歩き出した。

 

 足音が遠ざかる。

 

 やがて、公園には先生一人だけが残された。

 先生はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて近くのベンチへと腰を下ろした。

 冷たい木の感触が、背中越しに伝わってくる。

 

 街灯の光が足元に落ちる。

 何も変わらない夜の公園。

 けれど、先生の中ではすべてが変わってしまったように感じられた。

 

 黒夜を隔離する。

 出来るはずがない。

 

 だが、黒夜をこのままにする。

 それで本当にいいのか。

 

 彼が誰かを救うたびに、彼を失った時の危険が増す。けれど救うなとは言えない。誰とも関わるなとも言えない。そんなことを言えば、黒夜の生き方そのものを否定することになる。

 先生は両手を組み、額を押し当てた。

 

 黒夜は悪くない。

 それだけは分かる。

 だが、悪くないことと、危険ではないことは同じではない。

 

 答えは出なかった。

 出るはずもなかった。

 

 先生は一人、静かな公園のベンチに座ったまま、月城黒夜という生徒をどうすればいいのか、答えのない思考の海へと沈んでいった。

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