アビドスから戻って数日が経った。
黒夜の日常は、表面上は何も変わっていなかった。朝はいつも通り身支度を整え、白い眼帯の位置を確かめ、必要な書類や護衛用の装備を確認してから、トリニティの校舎へ向かう。
道中ですれ違う生徒たちは穏やかに挨拶をしてくれたし、廊下に響く声も、窓から差し込む光も、いつものトリニティそのものだった。
柔らかな鐘の音。整えられた庭園。香りの良い紅茶と、どこか上品な空気。
そこには、ゲヘナのような騒がしい火薬の匂いも、ミレニアムのような機械的な緊張も、アビドスの乾いた砂の気配もない。
穏やかで、丁寧で、綺麗に整えられた世界。黒夜にとって、トリニティは今でも少し眩しい場所だった。
だからこそ、戻ってきた時には少し安堵した。
アビドスで学んだことは大きかった。ホシノから教わった盾の扱い方、シロコ達との短い交流、そして自分なりに見つけた守るための動き方。
それらは確かに黒夜の中に残っている。以前の自分なら、ただ受け止めるだけだった。だが今は違う。待つだけではなく、動く。止める。相手の動き出しを潰し、自分の間合いへ引き込む。
まだまだ完璧ではない。
けれど、可能性は感じた。
その手応えを抱えたまま、黒夜はいつものようにティーパーティーの執務室へ向かった。
「おはようございます、ナギサ様、ミカ様、セイア様」
扉を開け、室内に入ると、三人はすでに席についていた。
ナギサは机の上に整えられた書類へ目を通しており、ミカは窓際で退屈そうに頬杖をつき、セイアはソファに腰掛けたまま静かに紅茶の香りを楽しんでいる。
いつもと変わらない光景だった。
「おはようございます、黒夜さん」
ナギサが顔を上げ、穏やかに微笑む。
「黒夜、おはよー。今日はトリニティなんだね~☆」
ミカもぱっと表情を明るくした。
「おはよう、黒夜。今日も無理はしないようにね」
セイアは小さく頷く。
「ありがとうございます。体調は問題ありません。アビドスでの疲れも、もうほとんど抜けています」
黒夜がそう答えると、三人は一瞬だけ顔を見合わせた。
何かを確認するような、あるいは言葉を選ぶような間。その短い空白はすぐに消え、ナギサは何事もなかったかのように書類を揃え直した。
「それなら安心しました。ですが、今日は比較的落ち着いた予定ですので、黒夜さんにはあまり無理をさせないようにしようと思っています」
「そうですか?」
「ええ。アビドスから戻られたばかりですし、少しは休息も必要でしょう」
ナギサの言葉は、どこまでも自然だった。黒夜を気遣うものとしては何の違和感もない。むしろ、彼女らしい丁寧な配慮だと言える。
それでも、黒夜の胸には小さな引っかかりが残った。
休息はありがたい。だが、ナギサがその言葉を使う時、いつもよりほんの少しだけ慎重に聞こえたのだ。
「お気遣いありがとうございます。ですが、通常業務には問題なく対応できます。何か運ぶものや届け物がありましたら、いつも通り私が――」
「あ、黒夜」
言葉の途中で、ミカが明るく割り込んだ。
「今日はさ、私と一緒にいてよ。最近、いろんな所に行ってたし、ちょっと寂しかったんだよね」
軽い調子。甘えるような声音。
その言葉だけなら、ミカらしいわがままとして片付けられる。黒夜もそう受け取った。
「ミカ様がそう仰るのでしたら、もちろん構いませんが……」
「やった☆」
ミカは嬉しそうに笑う。
だがその笑顔の奥に、少しだけ力が入りすぎているように見えた。
ミカはいつも感情表現が豊かだ。嬉しい時は嬉しいと全身で示すし、不満があればすぐ顔に出る。
だが今の笑顔は、普段の無邪気さとは少し違っていた。まるで、黒夜がどこかへ行ってしまわないことを確認して、ようやく安心したような笑顔。
気のせいだろうか。
そう思おうとした時、セイアが静かに口を開いた。
「黒夜、今日は外へ出る予定はなるべく減らした方がいい。天候は穏やかだが、こういう日は思わぬ用件が重なるものだ」
「外へ、ですか?」
「ああ。君は頼まれるとすぐ動いてしまうからね。今日は少し、ここでミカの相手でもして落ち着いていたまえ」
セイアの口調も穏やかだった。未来を見ているのか、ただの直感なのか、あるいは別の理由があるのか。黒夜には分からない。
ただ、三人の言葉が同じ方向を向いていることだけは感じ取れた。
外へ行かせたくない。
誰かと会わせたくない。
そこまで明確に考えたわけではない。だが、そういう気配が、薄く空気の中に混ざっている。
午前中の業務は、いつもより静かに進んだ。
ナギサが書類を確認し、セイアが助言を挟み、ミカが時折退屈そうに黒夜へ話しかける。
黒夜はいつも通り、三人の邪魔にならない位置で待機し、必要に応じて紅茶を淹れたり、資料を整理したりした。
そこまでは本当に普段通りだった。
変化があったのは、昼前のことだった。
ナギサが一束の書類を手に取り、少しだけ思案するような顔をした。その書類の宛先には、シスターフッドの名が記されている。黒夜はそれを見て、自然と一歩前に出た。
「ナギサ様、そちらはシスターフッド宛でしょうか。よろしければ、私がサクラコ様のところまでお持ちします」
それはいつも通りの申し出だった。
黒夜はティーパーティー専属護衛であると同時に、細かな雑務を引き受けることも多い。
サクラコやミネ、あるいはトリニティ内の各部署へ書類を届けることは珍しくない。むしろ、黒夜がいる時には自然と彼が担当する流れになっていた。
だが、ナギサは微笑んだまま、首を横に振った。
「いいえ、黒夜さん。こちらは私の方で手配しておきます」
「ですが、今なら私が直接向かった方が早いかと」
「大丈夫です。既に別の方に頼む予定でしたので」
黒夜はその言葉に、ほんの少しだけ違和感を覚えた。
ナギサが先回りして手配すること自体は珍しくない。だが、黒夜がいる状況で、わざわざ別の者へ頼む予定を立てていたというのは、少し不自然だった。
「承知しました」
黒夜はそれ以上食い下がらなかった。
その場で深く追及するようなことではない。ナギサにはナギサの考えがある。そう判断して一歩下がる。
だが、午後になると似たようなことがもう一度起きた。
今度は救護騎士団宛の連絡だった。
ミネへ直接確認した方がよさそうな内容であり、黒夜は当然のように口を開こうとした。だが、その前にミカが彼の袖を軽く掴んだ。
「黒夜、こっちはいいよ」
「ミカ様?」
「救護騎士団への連絡でしょ? それなら別に、黒夜が行かなくても大丈夫じゃない?」
「ですが、内容の確認が必要なら直接――」
「だーめ」
ミカは笑っていた。
けれど、袖を掴む指の力は意外と強かった。
「今日の黒夜は私の隣。ね?」
軽い言葉。
けれどそこには、譲るつもりのない響きがあった。
黒夜は少しだけ沈黙し、それから穏やかに頷いた。
「……分かりました」
「うん、ありがとうね」
ミカは満足そうに笑った。
その笑顔に悪意はない。むしろ、黒夜を心配しているのは明らかだった。だが、黒夜の胸に残る違和感は、少しずつ大きくなっていく。
ナギサは書類を別の生徒に託した。ミカは黒夜をその場に留めた。セイアは時折、何かを確かめるように黒夜を見ていた。
どれも一つ一つなら説明がつく。
だが、重なると別の意味を持ち始める。
夕方近く、最後の違和感が訪れた。
黒夜が廊下へ出ようとした時、セイアが声をかけたのだ。
「どこへ行くんだい?」
「少しだけ、外の見回りを。今日は来客も少ないようですし、念のため周辺を確認しておこうかと」
「必要ないよ」
即答だった。
黒夜は足を止める。
セイアは紅茶のカップを置き、静かに黒夜を見る。
「今日は何も起きない。少なくとも、この周辺ではね」
「……そうなのですか?」
「ああ。だから君はここで私の話相手になってくれ」
その言葉には、不思議な説得力があった。
セイアがそう言うなら、実際に何も起きないのだろう。黒夜もそう思った。だが、それでも胸の奥の違和感は消えない。
何も起きないなら、なおさら見回りに行っても問題はないはずだ。
だがセイアは行かせたくない様子だった。
黒夜はしばらく彼女を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「承知しました。では、今日は控えておきます」
「そうしてくれ」
セイアは小さく頷いた。
その横で、ナギサがほんの僅かに安堵したように目を伏せる。ミカも、どこかほっとした顔をしていた。
その表情を見て、黒夜はますます分からなくなる。
自分は何か心配をかけるようなことをしただろうか。
アビドスで多少無茶をしたのは確かだ。だが、大きな怪我をしたわけではない。帰ってきてからも体調には問題がない。戦闘面でも、むしろ以前より改善の兆しがある。
ならば、なぜここまで気遣われるのか。
いや、気遣いというより――。
そこまで考えかけて、黒夜は思考を止めた。
疑うような考えはよくない。
三人は自分を大切にしてくれている。それは間違いない。ナギサも、ミカも、セイアも、黒夜を遠ざけようとしているのではなく、ただ休ませようとしてくれているのだろう。そう考える方が自然だった。
そう考えた方が、ずっと楽だった。
夕暮れの光が執務室へ差し込み、窓辺を淡く染める。今日の業務は穏やかに終わった。大きな問題もなく、誰かが怪我をすることもなく、トリニティの一日は静かに過ぎていく。
黒夜は帰り支度を整えながら、三人へ向き直った。
「本日もお疲れ様でした」
「ええ、黒夜さんも。今日はゆっくり休んでくださいね」
「寄り道しちゃだめだよ?」
「明日もまた来るといい」
「はい。それでは、失礼します」
黒夜は丁寧に一礼し、部屋を出た。
扉が閉まる直前、三人が彼を見送る視線に、どこか切実なものが混ざっていたことに、黒夜は気付かなかった。
廊下へ出ると、トリニティの空気はいつも通り穏やかだった。
すれ違う生徒たちは黒夜に会釈し、遠くからは聖歌の練習らしき声が微かに聞こえる。
どこまでも平和で、どこまでも何事もない夕暮れ。
だから黒夜は、自分の胸に残っていた違和感を、静かに押し込めた。
きっと、思い過ごしだ
最近無茶し過ぎたから…皆、少し過保護になっているだけなのだろう。
そう結論づけ、黒夜はトリニティの校舎を後にした。
トリニティでの一日を終えた後、次の日黒夜はゲヘナへ向かっていた。
本来であれば、今日中に顔を出す必要があったわけではない。緊急の呼び出しがあったわけでも、ゲヘナ側から正式な依頼が来ていたわけでもない。
ただ、アビドスから戻って以降、まだゲヘナの面々にきちんと挨拶ができていなかったことが気にかかっていた。
トリニティの柔らかな夕暮れとは違い、ゲヘナの空気は相変わらず騒がしかった。遠くで誰かが叫ぶ声が聞こえ、どこかで爆発音が響き、廊下を走る生徒たちの足音が重なっている。
秩序という言葉からは少し遠いが、それでも黒夜にとっては懐かしさを覚える空気だった。
この騒がしさに身を置くと、不思議と落ち着く。
かつて自分がいた場所。平穏よりも混沌が日常に近かった場所。そこに戻ってきたような感覚が、黒夜の肩から余計な力を少しだけ抜いてくれた。
だが、風紀委員会の建物へ向かう途中で、その安堵は別の違和感へ変わっていく。
いつもなら、黒夜がゲヘナに顔を出せば、自然と何かしらの揉め事に巻き込まれる。逃げた不良を追うことになったり、書類を持ったまま走るイオリにぶつかりかけたり、マコトの大声が遠くから聞こえてきたりする。それがゲヘナの日常だった。
しかし今日は、妙に静かだった。
騒がしいことに変わりはない。だが、その騒がしさが黒夜の方へ向かってこない。まるで、黒夜の周りだけを避けて流れているような感覚があった。
「……気のせいでしょうか」
小さく呟いてから、黒夜は風紀委員会の扉を叩いた。
すぐに中から返事があり、扉を開けると、そこにはいつも通り机に向かっているヒナの姿があった。
書類の山は相変わらず高く、部屋の空気は張り詰めている。しかし黒夜の姿を見た瞬間、ヒナの視線がほんの僅かに柔らかくなった。
「黒夜」
「お疲れ様です、ヒナさん。アビドスから戻りましたので、顔を出そうと思いまして」
「そう。無事ならいいわ」
短い言葉。
だが、そこに含まれる安堵は隠しきれていなかった。
黒夜は軽く頭を下げる。
「ご心配をおかけしました。アビドスでは色々と学ぶことが多く、有意義な時間でした」
「……無茶はしていない?」
「多少無理はしましたが、大丈夫ですよ」
正直に答えると、ヒナの眉がわずかに動いた。
「多少?」
「訓練の範囲です。大きな怪我はしていません」
「そう」
ヒナはそれ以上追及しなかった。だが、書類へ戻る前に、もう一度だけ黒夜をじっと見た。
その視線は、体調を確認しているというよりも、彼が本当に目の前にいることを確かめているようだった。
黒夜はその視線に気付きながらも、深くは考えないことにした。
「ところで、今日は何かお手伝いできることはありますか? 巡回や資料整理など、必要であれば対応します」
「必要ないわ」
即答だった。
黒夜は少しだけ目を瞬かせる。
「……そうですか?」
「今日は危険な案件が多い。貴方が出る必要はない」
「ですが、危険な案件であればこそ、人手が必要なのでは?」
「必要なら私が行く」
有無を言わせない静かな声だった。
ヒナはペンを置き、黒夜を正面から見た。
「貴方は出なくていい。巡回も、現場対応も、追跡も不要よ」
「ヒナさん…」
「これは命令」
その一言で、黒夜は口を閉じた。
ヒナがここまで明確に言う時は、何か理由がある。彼女は感情だけで指示を出す人ではない。だから黒夜は、無理に反論することをしなかった。
「承知しました。では、風紀委員会内で何か手伝えることがあれば――」
「それもいいわ」
「……それも、ですか?」
「今日は休んでいて」
そう言ったヒナの声は、指示というより願いに近かった。
黒夜はまた、胸の奥に小さな違和感が生まれるのを感じた。
危険な案件から遠ざけるだけなら分かる。だが、資料整理すら止める理由は薄い。
ヒナは普段なら、黒夜が手伝いを申し出れば最低限の業務を任せてくれる。過度に甘やかすことはしないし、必要なことなら役割を与える人だった。
それが今日は、明確に外している。
まるで、黒夜を何かから遠ざけるように。
「……わかりました。無理にとは言いません」
黒夜がそう答えると、ヒナは少しだけ目を伏せた。
「ごめんなさい」
「謝られるようなことではありませんよ」
黒夜は穏やかに微笑む。
「ヒナさんがそう判断されたなら、それに従います」
その言葉に、ヒナは一瞬だけ何かを言いかけた。しかし結局、口を閉ざしたまま小さく頷くだけだった。
風紀委員会を後にした黒夜は、次に万魔殿へ向かった。
ヒナの様子は気にかかったが、ゲヘナではよくあることだと考えることもできた。
彼女は忙しい。黒夜の知らないところで大きな案件を抱えている可能性もある。そうであれば、自分を巻き込まないようにする判断も理解できる。
そう思おうとした。
だが、万魔殿に着いた瞬間、その考えは少し揺らいだ。
「おお! 来たか、黒夜!」
扉を開けた途端、マコトの大きな声が室内に響いた。
マコトは椅子にふんぞり返りながらも、黒夜の姿を見るなり妙に機嫌よく手を振った。普段から尊大ではあるが、今日の彼女はどこか待ち構えていたように見える。
「お疲れ様です、マコト様」
「ふははは! よく来たな。ちょうどよい、貴様にはこの私の偉大なる業務を手伝わせてやろう!」
「業務、ですか?」
「そうだ!」
マコトは机の上に積まれた書類を示す。
「本来ならば、この程度の雑務など私が直々に処理するまでもないのだがな。だが、貴様がどうしてもこの私の役に立ちたいというなら、特別に傍で手伝うことを許してやろう!」
言い方はいつも通り尊大だった。
だが、その内容が妙だった。
マコトは普段、黒夜に対してあれこれ命じることはあっても、ここまで“自分の傍に置く”ことにこだわることは少ない。
むしろ外へ使いに出したり、誰かを呼びに行かせたり、面倒事を押し付けたりする方が多かった。
しかし今日のマコトは、明らかに黒夜をこの部屋から出す気がない。
「承知しました。では、どの書類から処理しましょうか」
「うむ、それはだな……」
マコトは大仰に書類を一枚手に取り、得意げに説明を始める。内容自体はそこまで複雑なものではなかった。
予算申請、備品管理、各部署からの報告書。黒夜が横で確認し、必要に応じて分類するだけで済む。
だが、途中で黒夜が外部部署への確認を提案した時、マコトの反応が明らかに変わった。
「この件は現場への確認が必要かもしれません。私が直接――」
「いらん!」
即座に遮られる。
「しかし、マコト様――」
「この私が後で確認しておく! 貴様はここにいろ!」
「ですが、私が行って確認した方が早いかと思いますが?」
「早ければ良いというものではない!」
マコトは胸を張って言い切る。
「偉大なる万魔殿の議長たる私には、すべてを見通す力があるのだ! よって貴様は動かなくていい!」
理屈としては破綻している。
いつものマコトなら、それでも勢いで押し切ることは珍しくない。だが、黒夜はその言葉の裏にある別の意図を感じ取っていた。
行かせたくない。
ヒナと同じだ。
黒夜は書類を持ったまま、少しだけ視線を落とした。
「……本日は、どなたも私を外に出したくないようですね」
ぽつりと漏れた言葉に、マコトの動きが一瞬止まった。
「な、何を言う! そんなわけがあるか!」
すぐに大げさな声で返す。
「私はただ、貴様の忠誠心をこの場で存分に発揮させてやろうとしているだけだ!」
「そうですか」
「そうだ!」
マコトは強く頷く。
だが、その目は一瞬だけ黒夜から逸れた。
黒夜はそれ以上追及しなかった。
マコトが誤魔化していることは分かる。だが、理由は分からない。そして、問い詰めたところで答えてくれるようにも見えなかった。
しばらく万魔殿で書類整理を手伝った後、黒夜は退出することにした。
「本日はこの辺りで失礼します」
「よく働いたな、黒夜。……その、今日はもう余計な場所へは行くなよ」
「余計な場所、ですか?」
「そうだ! ゲヘナは危険が多いからな! この偉大なる私が許可した場所以外をうろつく必要はないからな!」
それはマコトなりの忠告なのだろう。
黒夜は小さく笑った。
「ご忠告、感謝します」
「気をつけて帰れよ」
マコトは満足そうに頷いたが、その表情にはどこか落ち着かないものが残っていた。
万魔殿を出た黒夜は、ゲヘナの敷地内を歩いた。
トリニティでも、ヒナのところでも、マコトのところでも、似たようなことが起きている。自分を危険から遠ざける。外へ出さない。そんな意図が、どうにも見え隠れしている。
それでも黒夜は、まだ確信には至っていなかった。
皆が自分を心配してくれている。それだけの話かもしれない。
「黒夜」
横から声がかかった。
振り向くと、そこにカヨコが立っていた。
「カヨコさん」
「見かけたからさ、声掛けちゃった」
短くそれだけ言うと、彼女は自然な足取りで黒夜の横に並んだ。
まるで、最初からそうするつもりだったかのように。
「どこかへ向かうところだった?」
「いえ、特には。今日はゲヘナに顔を出しただけですので、そろそろ帰ろうかと思ってました」
「そう」
カヨコは短く頷く。
そして、そのまま黒夜の隣を歩き始めた。
「……カヨコさん?」
「送ってあげる」
「そこまでしていただかなくても大丈夫ですよ」
「いいから」
淡々とした声。
しかしそこには、拒否を許さない静かな強さがあった。
黒夜は少しだけ困ったように笑う。
「今日は皆さん、随分と私を大切に扱ってくださいますね」
「……そうなの?」
「ええ。少し、不思議なくらいに」
カヨコはすぐには答えなかった。
ただ、黒夜の隣を歩く。
周囲の様子を確認するように視線を巡らせ、少し離れた場所で騒いでいる生徒たちの動きにも目を向けている。
その立ち位置は、まるで黒夜を守る護衛のようだった。
本来なら、黒夜の方が誰かを護衛する立場であるはずなのに。
「カヨコさん」
「何?」
「もしかして、何かありましたか?」
問いかけは静かだった。
責めるものではない。ただ確認するための言葉。
カヨコは横目で黒夜を見た。
そして、少しだけ沈黙してから答える。
「今は、無茶しない方がいい」
「……理由を聞いても?」
「ごめん、言えない」
正直な答えだった。
黒夜はそれを聞いて、逆に少し安心した。誤魔化されるよりは、言えないと告げられる方が信用できる。カヨコはそういう人だ。
「そうですか」
「ごめんね」
「謝らないでください。カヨコさんがそう言うなら、きっと理由があるのでしょう」
その言葉に、カヨコの表情がわずかに揺れた。
「……そういうところ」
「はい?」
「いや、何でもない」
カヨコは目を逸らした。
黒夜はそれ以上聞かなかった。
並んで歩く二人の間に、しばらく沈黙が落ちる。ゲヘナの夕暮れは相変わらず騒がしく、遠くではまた何かが爆発したような音が聞こえた。だが、カヨコは黒夜の進路をさりげなく変え、騒動から遠ざけるように歩いている。
黒夜はそれに気付いていた。
けれど、あえて何も言わなかった。
カヨコが自分を守ろうとしてくれている。
その事実は分かる。
ただ、その理由だけが分からない。
やがてゲヘナの出口近くまで来ると、カヨコは足を止めた。
「ここまででいい?」
「はい。ありがとうございます」
「寄り道はしないでね」
「今日は皆さんにそれを言われますね」
「……そっか」
カヨコは少しだけ目を伏せた。
「なら、なおさら守って」
その言葉は、冗談ではなかった。
黒夜は小さく頷く。
「分かりました。今日は大人しく戻ります」
「うん」
カヨコはそれだけ言うと、黒夜を見送るように立っていた。
黒夜は一礼して、ゲヘナを後にする。
背中に感じる視線は、彼が角を曲がるまで消えなかった。
歩きながら、黒夜は今日の出来事を思い返す。
トリニティでは、ナギサたちが自分を外へ出さなかった。
ゲヘナでは、ヒナが危険な案件から外し、マコトが自分の傍に置き、カヨコが黙って守るように付き添ってきた。
偶然にしては、少し重なりすぎている。
だが、それでも黒夜はまだ結論を出さなかった。
皆、自分を気遣ってくれているだけなのだろう。
アビドスでの訓練のことを心配しているのかもしれない。ミレニアムでの騒動もあった。
自分が倒れたり、死んだと誤解されたりしたこともある。そう考えれば、周囲が少し過敏になるのも無理はない。
胸の奥に残る違和感を、まだ名前のないものとして押し込める。
ゲヘナの夕暮れを背に、黒夜は帰路へと歩き出るのだった。