ゲヘナを訪れてから数日後、黒夜が次に向かったのはミレニアムだった。
トリニティではナギサ達が、ゲヘナではヒナ達が、どこかいつもと違う様子を見せていた。
皆、妙に優しく、妙に丁寧で、妙に黒夜を危険から遠ざけようとしているように感じた。
けれど、それを異常と断じるには、まだ根拠が足りなかった。
黒夜は歩きながら、胸の奥に残る違和感を静かに押し込める。自分がアビドスで訓練していたこと、ミレニアムで倒れたと誤解されたこと、過去に色々と心配をかけたこと。
それらを思えば、周囲が少し過保護になるのも無理はないのかもしれない。
そう考える方が自然だった。
だから、ミレニアムの校舎が見えてきた時、黒夜は少しだけ気持ちを切り替えた。
ミレニアムは相変わらず、他の学園とはまるで違う空気を持っている。整備された通路、行き交う生徒達の手元で光る端末、どこからともなく聞こえてくる機械音。
トリニティの穏やかさとも、ゲヘナの騒がしさとも違う、効率とハイテクの匂いがする場所だった。
ここに来ると、ミレニアムでの一連の出来事を思い出す。
アリスのこと。リオのこと。ヒマリのこと。ネルとの訓練。エリドゥでの戦い。あの時、自分はここで多くを学んだ。
自分一人で抱え込むのではなく、信じて任せること。犠牲になるのではなく、生きて戻ること。守るために、誰かを頼ること。
だからこそ、黒夜はこの場所にも感謝していた。
そして、その感謝を伝えるためにも、今日はゲーム開発部やC&C、特異現象捜査部にも軽く顔を出せればいいと思っていた。
そう考えながら校舎内を歩いていると、目の前の通路で待っていたかのように一人の姿が立っていた。
「黒夜」
声をかけてきたのはリオだった。
彼女はいつも通り落ち着いた表情で、黒夜を見つめている。表情に大きな変化はない。だが、黒夜の姿を確認した瞬間、ほんの僅かに肩の力が抜けたように見えた。
「リオさん。お疲れ様です」
「ええ。貴方も元気そうね」
「はい。おかげさまで」
黒夜がそう答えると、リオは一瞬だけ目を細めた。
「そう、ならよかったわ」
「今日はゲーム開発部や、ネルさんにも挨拶へ行こうと思っていまして。先にリオさんにお会いできたのは幸運でした」
「それはよかったわ」
リオは短く答えた。
そして、少しだけ間を置いてから続ける。
「それなら、その前に少し手伝ってもらえないかしら」
「手伝い、ですか?」
「ええ。私が使っている部屋の整理をお願いしたいの」
黒夜は少しだけ瞬きをした。
「リオさんの部屋の整理……ですか?」
「そうよ」
リオは当然のように頷く。
「細かな資料や備品が溜まっていて、整理しなければならないと思っていたところなの。私はこういった作業があまり得意ではないから、貴方に手伝ってもらえると助かるわ」
リオが掃除や整理を苦手としている、という言い方は少し意外だった。彼女ならばすべてを効率的に管理していそうな印象がある。
だが考えてみれば、リオは巨大な計画やシステム構築には長けていても、日常的な細かい片付けを自分でやるタイプではないのかもしれない。
「承知しました。私でよろしければお手伝いします」
「助かるわ」
リオはそう言って歩き出す。
黒夜は彼女の後を追った。
案内された部屋は、想像していたよりも整っていた。資料の束や端末類は確かにいくつか積まれているが、散らかっているというほどではない。
むしろ、一般的な基準でいえば十分に整理されている部類だろう。
ただ、リオが使う部屋としては、少しだけ雑然として見えるのかもしれない。
「こちらの資料は分類ごとに分ければよろしいですか?」
「ええ。機密性の高いものはこちら、処理済みのものはこちらへ。不要なものはシュレッダーにかけて」
「分かりました」
黒夜はすぐに作業に取りかかる。
資料を確認し、分類し、不要なものを処理する。作業自体は難しくない。むしろ、黙々と進められる分、気が楽だった。
だが、しばらく作業をしているうちに、黒夜は妙なことに気付いた。
リオが、ほとんど部屋から離れない。
普段の彼女なら、別の用件や作業があれば端末を使って複数の処理を同時に進めたり、別室へ移動したりするはずだ。
だが今日は、黒夜のいる範囲からあまり離れない。端末を操作する時も、書類を見る時も、必ず黒夜の姿が視界に入る位置にいる。
監視されている、というほどではない。
だが、見守られている。
それも、かなり意識的に。
黒夜は資料を束ねながら、少しだけ首を傾げた。
「リオさん」
「何かしら」
「本当に、私がこちらに居てご迷惑ではありませんか?」
問いかけに、リオは一瞬だけ手を止めた。
「迷惑?」
「いえ。作業自体は問題ありませんが、リオさんのお仕事の邪魔になっていないかと思いまして」
「邪魔ではないわ」
「むしろ、助かっている」
「そうですか」
「ええ。だからもう少しここに居てくれると助かるわ」
その言い方は自然だった。
けれど、やはりどこか引っかかる。
もう少しここにいてほしい。
それは手伝いを頼む言葉としてはおかしくない。だが、今日の流れを思えば、また同じ方向へ導かれているような気がした。
外へ行かせない。
誰かと会わせない。
自分の見える場所に置く。
そんな思考が黒夜の中に薄く浮かびかけたが、すぐに消す。
リオが自分を心配してくれているだけなのかもしれない。そう考えれば、何もおかしくはない。
しばらくして、部屋の扉が静かに開いた。
「リオ様、戻りました」
入ってきたのはトキだった。
いつも通り淡々とした表情で、リオへ軽く一礼する。だが黒夜の姿を見ると、一瞬だけ視線を向けた。
「黒夜さんもいらしていたのですね」
「お疲れ様です、トキさん。少しリオさんのお手伝いをしていました」
「そうですか」
トキは短く頷き、リオの傍へ向かう。
その様子を見て、黒夜は少し安心した。トキがいるなら、リオも普段通りの流れに戻るかもしれない。そう思ったのだが――。
「トキ」
「はい」
「昼食を用意してきてもらえるかしら。軽いもので構わないわ」
「承知しました」
トキは即座に頷いた。
だが黒夜は思わず顔を上げる。
「リオさん、昼食でしたら私が――」
「貴方はここにいて」
静かな声で遮られた。
リオの視線は穏やかだった。けれど、その言葉には明確な線が引かれている。
「貴方にはまだ整理を手伝ってもらいたいの」
「……分かりました」
黒夜はそれ以上言わなかった。
トキは黒夜とリオを一度ずつ見て、それから何も言わずに部屋を出ていく。
その背中が扉の向こうに消えた後、部屋にはリオと黒夜だけが残った。
静かな時間が流れる。
黒夜は作業を再開しながらも、胸の奥の違和感が少しだけ大きくなっていることを自覚していた。
リオは、トキすら遠ざけた。
自分を一人で外へ出さないために。
そう考えるのは、少し疑いすぎだろうか。
黒夜がそんなことを考えていると、今度は扉の向こうから明るい声が響いた。
「失礼しますよ、皆さんの憧れでありミレニアムの清楚な高嶺の花、そして『全知』の名を持つ超天才美少女ハッカー、明星ヒマリの登場です」
入ってきたのはヒマリだった。
相変わらず自己紹介が長い。だが、その堂々とした態度には不思議と安心感すらある。
「ヒマリさん、お疲れ様です」
「おや、黒夜さん。ちょうど良いところにいましたね」
ヒマリはにこりと微笑む。
「実は貴方に、私の高度で繊細かつ芸術的なハッキング技術の一端を教えて差し上げようと思っていたところです」
「ハッキング技術をですか?」
「ええ。貴方は情報関係についても学んでいるのでしょう? ならば、この私から直接手ほどきを受けられる機会など、まさに天上から降り注ぐ祝福のようなもの。断る理由はありませんよね?」
黒夜は少しだけ困ったように笑った。
「大変ありがたいお話ですが、今はリオさんのお手伝いを――」
「整理作業なら、ある程度進んでいるわ」
リオが口を挟む。
「この後はヒマリから教わるといい」
「よろしいのですか?」
「ええ。貴方にとって有益でしょう」
黒夜はリオとヒマリを交互に見た。
確かに、有益ではある。ヒマリの情報技術は間違いなく一流であり、学べることは多いだろう。
カヨコから情報の扱い方を学んできた黒夜にとっても、ミレニアム式のハッキング技術は興味深い。
だが、リオの部屋からヒマリの管理する端末の前へ移るだけで、やはり黒夜は“誰かの目の届く範囲”に置かれ続けている。
ヒマリは黒夜を別室へ案内し、端末の前に座らせた。
「では、まず基本的な侵入経路の見つけ方から説明しましょう。とはいえ、貴方の場合は既に基礎的な知識があるようなので、退屈な座学は省きます」
「よろしくお願いします」
「素直で結構です。では、このログを見てください」
ヒマリは画面を示しながら、丁寧に説明を始める。
彼女の教え方は意外にも分かりやすかった。癖のある言葉選びこそ多いが、技術的な説明は的確で、どこに注意すべきかを明確に示してくれる。
黒夜もすぐに集中し、端末上の情報を追い始めた。
だから、手元のモモトークに通知が入ったことに、黒夜は気付かなかった。
画面の隅で、短く光る通知。
ゲーム開発部からのメッセージ。
続けて、ネルからのメッセージ。
ヒマリは説明を続けながら、わずかに指先を動かした。
黒夜の端末には触れていない。
だが、彼女の端末上で走った処理は、静かに黒夜の通知へ干渉する。
メッセージは開封されることなく、通知欄から消えた。
履歴にも残らないよう、自然に処理される。
ヒマリは何事もなかったかのように微笑んだ。
「黒夜さん、ここで重要なのは、相手に気付かれないことです。痕跡を残さず、干渉した事実すら意識させない。これこそが美しく洗練されたハッキングと言えるでしょう」
「なるほど……確かに、痕跡が残れば相手に対策されますからね」
「ええ、その通りです」
ヒマリは満足そうに頷く。
その言葉の裏で、まさに今それを黒夜自身に行っていることなど、黒夜は知らない。
しばらくして、黒夜はふと時間を確認した。
「そろそろ、ゲーム開発部にも顔を出そうと思います。アリスさん達にも挨拶しておきたいので」
その瞬間、ヒマリの笑みが少しだけ深くなった。
「おや、それは残念ですね。ですが、今ちょうど良い演習課題に入ろうとしていたところです。ここで中断してしまうのは、少しもったいないと思いませんか?」
「演習課題、ですか?」
「ええ。貴方の理解度を確認するためのものです。これを終えれば、今日学んだ内容をかなり実践的に扱えるようになるでしょう」
黒夜は少し考える。
ゲーム開発部への挨拶は、急ぎではない。ネルへの連絡も、もし必要であればまた届くだろう。そう考えて、頷いた。
「では、もう少しだけお願いします」
「ええ。引き続きよろしくお願いしますね黒夜さん♪」
ヒマリはにこやかに答えた。
その裏で、黒夜の端末へ再び届いたメッセージが、静かに消された。
ミレニアムで過ごす時間は、想像以上に長くなった。
リオの部屋で整理を手伝い、ヒマリから技術を教わり、途中でトキが用意した昼食を受け取り、また作業へ戻る。
誰も強制しない。ただ自然な流れで、黒夜はずっと誰かの近くにいた。
リオは時折、黒夜が部屋を出ようとする気配を見せると、別の用件を差し出した。
「この資料もお願いできるかしら」
「この端末の確認をしてもらえる?」
「少しだけ待って。貴方に聞きたいことがあるの」
ヒマリはヒマリで、黒夜の興味を引くような課題を次々に提示した。
「この問題を解けたら、次の段階へ進めますよ」
「お見事です。では、さらに少し難しいものを」
「いやはや、教え甲斐がありますね。やはり手の掛かる後輩は可愛いものです」
黒夜はそのたびに応じた。
感謝もあった。学ぶことも多かった。自分が役に立てているという実感もあった。
それでも、時折ふとした瞬間に胸をよぎる。
トリニティでも。
ゲヘナでも。
そして、ミレニアムでも。
皆、自分を“どこかへ行かせない”ようにしている。
その考えが浮かぶたび、黒夜は静かに否定した。
そんなはずはない。
皆が自分を気にかけてくれているだけだ。
自分が勝手に勘違いしているだけだのだろう。
夕方近くになり、ようやく黒夜はミレニアムを後にすることになった。
「今日はありがとうございました。非常に勉強になりました」
黒夜が頭を下げると、ヒマリは満足そうに頷いた。
「ええ。貴方は飲み込みが早いですね。この超天才清楚系病弱美少女ハッカーの教えを受けるに相応しい人と言えるでしょう」
「それは光栄です」
リオも静かに黒夜を見る。
「帰り道には気を付けて」
「はい。リオさんも、お仕事のしすぎにはお気を付けください」
「……貴方に言われるとは思わなかったわ」
少しだけ呆れたような声。
だが、そこにはわずかな柔らかさがあった。
黒夜は二人に別れを告げ、ミレニアムの校舎を出る。
外に出ると、夕暮れの光が街並みを淡く染めていた。
結局、ゲーム開発部にもネルにも会えなかった。
少し残念ではあったが、今日はリオやヒマリの手伝いができた。
それに、ハッキングの基礎も学べた。そう考えれば、決して無駄な時間ではない。
黒夜は歩きながら、ふと端末を確認する。
通知は何もなかった。
「……今日は皆さん、忙しかったのでしょうか?」
小さく呟く。
少しだけ不思議に思った。
だが、それ以上深くは考えなかった。
ミレニアムでの一日もまた、大きなトラブルなく終わったのだから。
ミレニアムで一日を過ごした翌日、黒夜はいつもより少し早くシャーレへ向かっていた。
前日のミレニアムでの出来事は、不思議なほど穏やかだった。リオの部屋で資料整理を手伝い、ヒマリからハッキング技術の基礎を教わり、トキの用意した昼食を食べた。ゲーム開発部やネルに顔を出せなかったことだけは少し心残りだったが、それでも大きな問題が起きたわけではない。
トリニティでも、ゲヘナでも、ミレニアムでも、誰もが黒夜を気にかけてくれていた。
外へ出ようとすれば引き止められる。誰かと会おうとすれば別の用事が差し出される。危険な案件からは外され、手伝いという名目で誰かの近くに置かれる。
ひとつひとつは善意に見えたし、実際に悪意はなかったのだと思う。けれど、重なってみると、まるで自分が何かから遠ざけられているようにも感じられた。
それでも、黒夜は深く追及することを選ばなかった。
皆には皆の考えがある。自分が知らない理由があるのかもしれない。そうでなければ、あそこまで皆が同じような行動を取るはずがない。
それを問い詰める気にはなれなかった。
何より、全員が自分を心配してくれていることだけは分かっていたから受け入れる事にしたのだった。
シャーレに到着し、部屋へ向かうと、そこには先生の姿だけがあった。
「あれ、今日は他の当番の方はいらっしゃらないんですか?」
黒夜がそう尋ねると、先生は少しだけ顔を上げた。
「うん。今日は黒夜だけだよ」
「珍しいですね」
「たまにはこういう日もあるよ」
先生はいつも通りの声でそう言った。けれど、その笑みはほんの少しだけ力が足りないように見えた。
黒夜はすぐに違和感を覚えたが、何も言わなかった。先生が疲れていること自体は珍しくない。
シャーレの仕事は多岐にわたるし、先生はいつも誰かのために動いている。むしろ疲れていない日の方が少ないのかもしれない。
だから黒夜は、いつも通りに頭を下げた。
「本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。来てくれてありがとう」
その言葉も、いつも通りだった。
先生は黒夜をいつもの様に接してくれた。トリニティやゲヘナ、ミレニアムのように、露骨にどこかへ行かせないようにすることもない。
むしろ、黒夜が仕事を申し出れば、きちんと役割を与えてくれた。
書類の整理、報告書の確認、備品の補充、簡単な連絡事項の処理。
黒夜は淡々と業務をこなしていく。シャーレの仕事は雑多だが、その分、誰かの役に立っている実感があった。
多くの学園から依頼が届き、それに先生が目を通し、必要があれば対応する。黒夜はその一端を手伝いながら、改めて先生の仕事量の多さを感じていた。
だが、仕事の合間に、何度か視線を感じた。
先生がこちらを見ている。
それ自体は珍しくない。先生は当番の様子をよく見ているし、生徒が無理をしていないか気にかける人だ。けれど今日の視線は、いつもとは違っていた。
優しいのだけれど、どこか悲しそうだった。
何かを言いたいのに言えないような、手を伸ばしたいのに伸ばせないような、そんな視線。
黒夜は最初、それを見なかったことにした。先生にも考え事はあるのだろう。そう思って作業を続けた。
しかし昼を過ぎ、仕事が落ち着き始めた頃、黒夜はとうとう手を止めた。
「先生」
「ん?」
「何かありましたか?」
先生の指が、書類の上で止まった。
黒夜は真っ直ぐに先生を見る。
「いえ、無理に聞き出すつもりはありません。ただ、今日は少しお疲れのようでしたので」
「……そう見える?」
「はい」
黒夜は素直に頷いた。
「先生は普段から多くのものを背負っています。ですが、先生も一人の人間なんですから、偶には羽目を外してもいいんじゃないですか?」
その言葉に、先生は少しだけ目を丸くした。
そして、困ったように笑う。
「黒夜にそう言われるとは思わなかったな」
「私も以前なら言えなかったと思います」
黒夜は静かに答える。
「ですが、最近いろいろな方から教わりました。無理をし続けることは、誰かを守ることには繋がらないと」
先生は何も言わなかった。
黒夜は立ち上がる。
「少し遅いですが、昼食にしましょう。先生、ちゃんと食事は取っていますか?」
「えっと……」
「その反応は、取っていませんね」
黒夜は小さく息を吐いた。
「簡単なものでよければ、私が作ります」
「いや、黒夜にそこまでしてもらうのは――」
「先生」
黒夜の声が、少しだけ強くなる。
「これは当番業務の一環です。先生の体調管理も、シャーレの業務継続には必要ですから」
その言い方に、先生は思わず笑ってしまった。
「うん、分かった。お願いするよ」
「はい。少々お待ちください」
黒夜は簡易キッチンへ向かった。
シャーレの備品は最低限だが、簡単な食材なら揃っている。冷蔵庫の中身を確認し、手早く材料を取り出す。
凝ったものは作れないが、温かいスープと軽い炒め物、簡単な卵料理なら十分だろう。
包丁がまな板を叩く音が、静かな部屋に響く。
先生はその音を聞きながら、少しだけ目を伏せた。
黒夜はいつも通りだった。
優しく、真面目で、誰かのために自然と動ける。自分のことよりも相手を優先し、それを特別なことだと思っていない。
黒服が語った危険性など知らないまま、ただ先生の疲れに気付き、食事を作ろうとしている。
だからこそ、苦しかった。
黒夜を遠ざけるべきだと言われた。隔離すべきだと告げられた。彼の神秘は人を救い、救われた者を壊す可能性があると聞かされた。
それでも目の前の黒夜は、危険人物などではない。
ただの、一人の生徒だった。
しばらくして、黒夜が料理を運んでくる。
「お待たせしました」
机の上に並べられた食事は、派手ではないが温かかった。湯気の立つスープ、野菜の入った炒め物、ふんわり焼かれた卵。忙しい合間に食べるには十分すぎる内容だった。
「ありがとう、黒夜」
「いえ。味は保証しかねますが」
「大丈夫。すごく美味しそうだよ」
先生が箸を取る。
一口食べて、表情が少しだけ緩んだ。
「美味しいよ!」
「喜んで貰えたなら、よかったです」
黒夜は安心したように微笑んだ。
その笑顔を見て、先生の胸がまた少し痛む。
黒夜は何も知らない。
誰もが黒夜を守ろうとしていることも、同時に黒夜から他者を遠ざけようとしていることも、自分の存在が周囲にどれほど深い影響を与えているのかも、何も知らない。
だが、知らせるべきなのか。
それとも、まだ黙っているべきなのか。
先生は答えを出せないまま、黒夜の作った食事を口へ運んだ。
昼食の後、二人は再び当番業務に戻った。
午後の仕事は比較的穏やかだった。いくつかの連絡、簡単な確認、資料の分類。黒夜は先生の隣で黙々と作業をこなし、先生は時折その様子を見ていた。
黒夜はそれに気付きながらも、もう何も聞かなかった。
先生が何かを抱えていることは分かった。けれど、それを無理やり聞き出すことはしない。先生が話してくれる時が来たら、その時に聞けばいい。
すっかり日が落ちた頃には、仕事も一段落していた。
「今日は助かったよ、黒夜」
「こちらこそ。大きな問題もなく終わってよかったです」
「うん」
先生は少しだけ笑う。
「本当に、何も起きなくてよかった」
その言葉に込められた意味を、黒夜は知らなかった。
ただ、先生が少し安心したように見えたので、黒夜も穏やかに頷いた。
「先生、夕食用に少し作り置きをしておきました。冷蔵庫に入れてありますので、温めて食べてください」
「え、そこまで?」
「昼食のついでです。ちゃんと食べてくださいね」
「……うん。ありがとう」
先生は静かにそう答えた。
黒夜は荷物を整え、いつものように丁寧に一礼する。
「それでは、今日はありがとうございました」
「黒夜」
先生が声をかけた。
黒夜は振り返る。
「はい?」
先生は何かを言おうとして、言葉を探した。
気を付けて。
無理をしないで。
一人で抱え込まないで。
言いたい言葉はいくつもあった。けれど、どれも黒夜を縛る言葉のように思えて、口に出せなかった。
結局、先生はいつもの言葉を選んだ。
「また来てね」
黒夜は少しだけ微笑む。
「はい。また当番の際にはよろしくお願いします」
そう言って、黒夜はシャーレを後にした。
シャーレの建物を出てすぐ、黒夜は入口近くの歩道で見覚えのある一団と出会った。
夜風の中に立っていたのは、アリウススクワッドの面々だった。サオリ、ヒヨリ、ミサキ、そしてアツコ。四人は何か用事を終えた帰りなのか、シャーレの方へ向かうでもなく、かといってすぐに立ち去るでもなく、少しだけ所在なさげにその場にいた。
「黒夜」
最初に気付いたのはアツコだった。
彼女はいつものように柔らかく微笑みながら、黒夜へと歩み寄る。
その後ろでサオリが静かに視線を向け、ヒヨリが少し慌てたように背筋を伸ばし、ミサキは面倒そうにしながらも黒夜の方を見ていた。
「お疲れ様です、皆さん。こんな時間に珍しいですね」
「私たちも少し用事があってね」
アツコはそう言うと、黒夜の顔をじっと見た。
「黒夜は、シャーレの当番?」
「はい。ちょうど今終わったところです」
「そっか」
アツコはにこにこと微笑んだままだったが、その目の奥には何かを確かめるような静けさがあった。
黒夜はそれに少しだけ違和感を覚えたものの、すぐに気のせいだと思うことにした。
サオリが周囲を見回し、静かに口を開く。
「ここで長話をするのも落ち着かないな。少し時間があるなら、近くで座らないか?」
「私は構いませんが……皆さんはよろしいのですか?」
「うん。私も黒夜と話したい」
アツコがそう答えると、ヒヨリも慌てて頷いた。
「わ、私も大丈夫です! というか、ちょうどお腹も空いてきましたし……」
「ヒヨリはいつもそれだね」
ミサキがぼそりと言う。
「だ、だって仕方ないじゃないですかぁ……!」
そんなやり取りに、黒夜は小さく笑った。
「では、近くのファミレスに入りましょうか。ここに居たら風邪をひいてしまいそうですしね」
そうして五人は、シャーレから少し歩いた場所にあるファミレスへ入った。
店内は夕食時を少し過ぎた時間帯だったため、人は多すぎず、程よいざわめきに包まれていた。
窓際の席に案内され、黒夜はアツコの向かいに座る。サオリは通路側に腰を下ろし、ミサキは少し端の席に座り、ヒヨリはメニューを開いた瞬間から目を輝かせていた。
「うぅ……どれも美味しそうです……。でも予算が……」
「今日は私が出しますよ」
黒夜が自然にそう言うと、ヒヨリはぱっと顔を上げた。
「ほ、本当ですか!? 黒夜さん、いいんですか!?」
「大げさですよ。せっかくですから、好きなものを頼んでください」
「黒夜はヒヨリを甘やかしすぎ」
ミサキが呆れたように言う。
「たまには良いでしょう?」
黒夜がそう返すと、サオリもわずかに口元を緩めた。
「すまないな。なら、ありがたく受け取ろう」
注文を終え、料理が運ばれてくるまでの間、話題は自然と黒夜の近況へ移った。
「最近、色々あったって聞いたよ?」
アツコが穏やかに問いかける。
「アビドスにも行ってたんだよね?」
「はい。盾の使い方について学ぶ機会がありまして。短い滞在でしたが、とても有意義でした」
「黒夜は本当に、色々なところに行くな」
サオリが感心したように言う。
「行く先々で何かに巻き込まれている気もするが」
「それは……否定できませんね」
黒夜は少し困ったように笑った。
その笑みに、アツコは変わらずにこにこと微笑んでいる。
料理が運ばれてくると、場の空気はさらに柔らかくなった。
ヒヨリは幸せそうにハンバーグを頬張り、ミサキは淡々と食事を進めながらも時折ヒヨリに突っ込みを入れる。
サオリは静かに食べながら、周囲に気を配っていた。
その中で、黒夜はふと今日までの出来事を思い出した。
「そういえば、最近少し不思議なことがありまして」
「不思議なこと?」
アツコが首を傾げる。
「はい。ナギサ様たちや、マコト様たち、それにリオさんたちが……何と言いますか、妙に私を手元に置きたがっているように感じたのです」
黒夜は自分でも言葉を探しながら話した。
「トリニティでは外へ出る用事をやんわり止められ、ゲヘナでは危険な案件から外され、ミレニアムではリオさんやヒマリさんの近くで手伝いをすることが多くて。もちろん、皆さん私を気遣ってくださっているだけだと思うのですが」
そこまで言ってから、黒夜は少しだけ苦笑した。
「多分、私の気のせいです。最近、色々と心配をかけてしまいましたから」
アツコはその話を聞いても、表情を変えなかった。
ただ、いつものように穏やかに微笑んでいる。
「そっか」
それだけを言う。
その隣で、ヒヨリがフォークを持ったまま目を瞬かせた。
「で、でも、それって単純に黒夜さんが大切にされているからじゃないですか?」
「大切に、ですか?」
「はい。だって、心配じゃなかったら手元に置いておこうなんて思わないですし……あ、でも私なんかが言うのもアレですけど……」
語尾が小さくなるヒヨリに、サオリが静かに頷いた。
「ヒヨリの言う通りかもしれないな。守りたい相手ほど、目の届く場所に置きたくなる。特に、失いたくない相手ならなおさらだ」
その言葉に、黒夜は少しだけ目を伏せた。
「そういうものなのでしょうか」
「そういうものだと思う」
アツコが柔らかく答える。
「黒夜は、色々な人に大切に思われてるんだよ」
その声は穏やかだった。
けれど、どこか妙に確信を持っていた。
ミサキが水を一口飲み、気だるげに口を開く。
「まあ、黒夜は放っておいたら勝手にどこかで誰かを助けてそうだしね。そりゃ周りも落ち着かないんじゃない?」
「私としては、そこまで無茶をしているつもりはないのですが」
「そういう無自覚な所が心配なんでしょ」
ミサキの即答に、ヒヨリがこくこくと頷いた。
「黒夜さん、無自覚で無茶しそうですもんね……!」
「皆さん、随分と私への評価が一致していますね」
黒夜が苦笑すると、サオリが少しだけ表情を和らげた。
「それだけ分かりやすいということだ」
「褒められているのでしょうか?」
「半分くらいは」
ミサキが淡々と言い、ヒヨリが「半分は褒めて無いんですね!?」と慌てたように反応する。
そのやり取りに、黒夜も思わず笑った。
アツコはそんな黒夜を見つめたまま、静かに微笑んでいた。
彼女は知っている。
黒夜が皆に大切に思われているということ、それがただ温かいだけの意味ではないことを。
手元に置きたい、目の届く場所にいてほしい、外へ出したくない。その感情の奥にあるものが、どれほど深く、どれほど危ういものなのかを。
けれど、今それを黒夜に告げることはしなかった。
黒夜は知らない方がいい。
それでいいのかもしれないと、アツコは思った。
少なくとも、この短い食事の時間くらいは。
黒夜が穏やかに笑っていられるなら、それでいい。
食事を終え、会計を済ませて店を出る頃には、空はすっかり夜の帳が下りていた。
「ごちそうさまでした、黒夜さん……! 本当に、本当にありがとうございました……!」
ヒヨリが深々と頭を下げる。
「いえ、喜んでいただけたなら何よりです」
「また奢ってもらう気満々じゃないだろうね?」
ミサキが横から言うと、ヒヨリは慌てて首を振った。
「そ、そんなことは……ちょっとしか思ってません!」
「思ってるじゃん」
そのやり取りに、サオリが小さく息を吐く。
「黒夜、今日はありがとう」
「こちらこそ。皆さんと話せて楽しかったです」
アツコが一歩近づき、黒夜を見上げる。
「黒夜」
「はい」
「ちゃんと帰ってね」
それは何気ない言葉だった。
だが、黒夜には少しだけ不思議な響きに聞こえた。
「ええ、もちろんです」
黒夜は穏やかに答える。
「今日はもう寄り道せずに帰ります」
「うん、なら安心」
アツコは微笑んだ。
「またね」
「はい。また」
黒夜はアリウススクワッドの面々に別れを告げ、夜道を歩き出した。
後ろから聞こえていた彼女たちの声が、少しずつ遠ざかっていく。
そして黒夜は、ふと足を止めた。
空には、満月が浮かんでいた。白く、静かで、どこか寂しい光だった。
今日一日を思い返す。シャーレでは大きな問題は起きなかった。先生の昼食も夕食の作り置きもできた。アリウスの皆とも穏やかに食事ができた。トリニティやゲヘナ、ミレニアムで感じていた違和感も、こうして誰かと笑い合ってみれば、少し考え過ぎだったように思える。
黒夜は満月を見上げながら、小さく呟いた。
「今日は何のトラブルも無い、素晴らしい一日でしたね。こんな日がいつまでも続けばいいんですが…」
その声は、夜風に溶けて消える。
「貴方が、月城黒夜?」
唐突に背後から声がした。
聞き覚えのない声だった。
だが、どこかで聞いたことがあるような、不思議な響きもあった。
黒夜はゆっくりと振り返ろうとする。
「そうですが……」
そう言葉を返した瞬間。
後頭部に、鈍い衝撃が走った。
「――っ!?」
視界が揺れる。
足元の感覚が消え、身体が前へ傾く。咄嗟に手を伸ばそうとするが、力が入らない。思考が遅れ、音が遠のき、満月の光だけが妙に白く滲んで見えた。
何が起きたのか理解するより早く、膝が崩れる。
意識が沈んでいく。
それでも黒夜は、最後の力で視線を上げた。
そこにいたのは、一人の少女だった。
黒いドレスに身を包み、長い髪を夜風に揺らしている。雰囲気は大人びていて、どこか冷たく、けれどその面影には見覚えがあった。
砂狼シロコ。
だが、黒夜の知る彼女とは違う。
似ているのに、違う。
その少女は、倒れゆく黒夜を静かに見下ろしていた。
黒夜は何かを言おうとした。
だが、声にはならない。
視界が暗くなる。
最後に見えたのは、満月の下に立つ、黒いシロコの姿だった。
そしてこの日、黒夜は誰にも気付かれないままキヴォトスから姿を消した。