キヴォトスは何事もなかったかのように日常が広がっていた。
空は澄み、風は穏やかで、各学園にはいつも通りの喧騒が戻っていた。トリニティでは朝の鐘が響き、ゲヘナではどこかで銃声と爆発音が鳴り、ミレニアムでは生徒たちが端末を片手に足早に廊下を行き交っている。
その中に、黒夜の姿だけがなかった。
だが、その不在に最初から気付いた者はいなかった。
正確には、気付かなかったのではない。気付いても、それを異常だとは思わなかった。
黒夜は複数の学園に所属している。トリニティ、ゲヘナ、ミレニアム。さらにシャーレの当番や、最近ではアビドスにも顔を出す。
彼がどこかにいることは珍しくなく、むしろ一つの場所にずっと留まっている方が珍しい。
だから、最初の一日は誰も深刻に受け止めなかった。
トリニティのティーパーティー執務室では、ナギサが朝の書類に目を通しながら、ふと扉の方へ視線を向けていた。
いつもなら、決まった時間に黒夜がやって来る。丁寧なノックの後、静かに扉が開き、白い眼帯をつけた彼が「おはようございます」と頭を下げる。そんな流れが、いつの間にか日常になっていた。
だが、その日は黒夜が来なかった。
「……今日は、黒夜さんはいらっしゃらないようですね」
ナギサが何気なく呟くと、ミカが露骨に肩を落とした。
「えー、黒夜来ないの? せっかく今日は一緒にお茶しようと思ってたのに」
そう言いながらも、ミカの声に焦りはない。ただ少し寂しそうなだけだった。
セイアは紅茶のカップを手にしたまま、静かに目を伏せる。
「ゲヘナかミレニアムに行っているのだろう。なにせ彼は三大校に所属している忙しい身だからね」
「それはそうだけどさぁ……最近、黒夜って色んなところに行きすぎじゃない?」
「それだけ彼を必要としている場所が多いということです」
ナギサはそう言って、表情を整えた。
内心では少しだけ残念だった。先日まで彼をなるべく外へ出さないようにしていた自覚がある。
その後ろめたさもあって、今日くらいは黒夜が自由に過ごしているのなら、それを咎めるべきではないと思った。
黒夜はおそらく、トリニティ以外の別の学園にいる。
そう考えれば、納得できた。
だが同時刻、ゲヘナでも同じようなことが起きていた。
風紀委員会の部室で、ヒナはいつも通り書類に目を通していたが、時折、入口の方へ視線を向けていた。黒夜が来る予定があったわけではない。約束もしていない。それでも、ゲヘナに来た彼が、今日も顔を出すかもしれないとどこかで思っていた。
しかし、昼を過ぎても黒夜は現れなかった。
「ヒナ」
カヨコが静かに声をかける。
「黒夜、今日は来てないみたいだね」
「……そうね」
ヒナは短く答えた。
不安ではない。そう自分に言い聞かせる。彼はトリニティに所属している。ミレニアムにも籍がある。シャーレの当番もある。ゲヘナに来ない日があること自体は、何もおかしくない。
マコトも、やけに落ち着きなく椅子に座っていた。
「ふん、黒夜の奴め。自分の所属を理解してないのではないか?」
口ではそう言ったが、声に本気の怒りはない。
カヨコが半眼で見る。
「別に毎日来るわけじゃないでしょ」
「分かっている! あいつも忙しい身だからな。トリニティかミレニアムか、あるいはシャーレで仕事でもしているのだろうさ」
マコトはそう言って大きく笑った。
だが、笑い終えた後、少しだけ静かになる。
「……まあ、顔を出した時には少しくらい説教してやるがな」
その言葉にも、やはり焦りはなかった。
黒夜はどこかにいる。
それが、ゲヘナ側の共通認識だった。
ミレニアムでも、黒夜の不在はすぐに異常とは見なされなかった。
リオは自室で端末を操作しながら、黒夜が今日は来ないことを確認していた。この前はかなり長い時間、彼を自分たちの近くに置いていた。
その反動で、今日はトリニティやゲヘナの用事を優先しているのだろう。そう考えれば、何も不思議ではなかった。
「黒夜さん、今日は来ませんね」
ヒマリが車椅子に座ったまま、端末を眺めながら呟く。
「トリニティかゲヘナでしょう」
リオは淡々と答えた。
「この前は私たちがかなり時間を取ったもの。今日は別の場所へ顔を出していてもおかしくないわ」
「そうですね。彼は何かと引く手あまたですから」
ヒマリはそう言いながら、ほんの少しだけ目を細める。
昨日、黒夜の端末に届いたメッセージを消したことを思い出した。ゲーム開発部やネルからの連絡。黒夜を守るため、余計な接触を減らすため。その時は必要な処理だと思った。
だが、その後ろめたさが完全に消えたわけではない。
それでも、ヒマリはまだ不安とは呼ばなかった。
黒夜はどこかにいる。
トリニティか、ゲヘナか、シャーレか。きっとそのどこかで、いつものように誰かの手伝いをしているのだろう。
そうして、一日目は何事もなく過ぎた。
黒夜はどこにもいなかった。
だが、誰もそれを知らなかった。
異変を最初に異変として扱い始めたのは、テラー達だった。
彼女たちはトリニティにある家で、いつも通り過ごしている――ように見えた。
ミカ*テラーはソファの上で膝を抱え、ナギサ*テラーは紅茶を淹れ、セイア*テラーは窓際で静かに外を見ている。
だが、空気は明らかに淀んでいた。
『ねぇ』
ミカ*テラーがぽつりと声を漏らす。
『黒夜、今日来ないの?』
『今日は別の予定があるのでしょう』
ナギサ*テラーは紅茶のカップを置きながら答えた。
『黒夜さんは多忙ですからね』
『でもさぁ』
ミカ*テラーは不満そうに頬を膨らませる。
『最近あんまり会えてないし、全然足りてないんだけど』
『何が足りていないんだい?』
セイア*テラーが窓の外を見たまま問いかける。
ミカ*テラーは真顔で答えた。
『コクヤニウム』
部屋の空気が一瞬だけ止まった。
ナギサ*テラーがゆっくりと瞬きをする。
『……何ですか、それは』
『黒夜からしか摂取できない大事な成分だよ。最近ずっと足りてないの。だから私、そろそろ限界かも』
『相変わらず意味の分からない概念を生み出すね、ミカは…』
セイア*テラーは呆れたように言ったが、その声にもどこか余裕がなかった。
ナギサ*テラーもまた、ミカ*テラーの言葉を完全には笑えなかった。確かに、黒夜と顔を合わせていない時間が続くと落ち着かない。
彼がどこにいるのか、何をしているのか、無事なのか。それが分からないだけで、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。
ただ、一日程度ならまだ耐えられた。
黒夜は忙しい。
そう思えたから。
二日目も、黒夜は姿を見せなかった。
トリニティでは、ミカが昨日よりも明確に不満を口にするようになっていた。
「ねぇ、ナギちゃん。黒夜、今日も来ないの?」
「……そのようですね。ゲヘナかミレニアムの用事が長引いているのでしょう」
「でもさ、連絡くらいあってもよくない?」
「黒夜さんにも予定があります。こちらから急かすようなことは控えましょう」
そう言いながら、ナギサ自身も端末へ視線を向けていた。
黒夜からの連絡はない。
いつもなら、何かしら一言くらいは届くことがある。今日はそちらに顔を出せません、また後日伺います。
その程度の短い連絡でも、彼は丁寧に送ってくることが多かった。
それがない。
セイアもまた、言葉数が少な目だった。
何かを見通すように目を閉じる。しかし、明確なものは見えない。見えないこと自体は珍しくない。
だが、黒夜に関わる事柄は最近、妙に輪郭が掴みにくくなっていた。
「……少し、妙だね」
セイアが呟くと、ナギサとミカが同時に顔を向けた。
「妙、とは?」
「いや。まだ言葉にするほどではない」
セイアは静かに首を横に振る。
「ただ、黒夜の気配が遠い気がしてね」
その言葉に、ミカの表情が曇った。
ゲヘナでも、二日目の午後には小さな違和感が積み重なり始めていた。
「黒夜から連絡は?」
ヒナがカヨコに尋ねる。
「無いね」
カヨコは短く答えた。
「トリニティにいるんじゃない?」
「……そうよね」
ヒナはそう答えたが、納得しているようには見えなかった。
マコトは落ち着きなく机を叩いていた。
「まったく、黒夜の奴め。二日も顔を出さないのはいいとして、連絡も寄越さないとは何事だ?」
「心配なら連絡すれば?」
カヨコが冷静に言うと、マコトは一瞬だけ言葉に詰まった。
「私が連絡をしたら、あいつの事だからすっ飛んでくるだろう…それはそれで予定を壊してしまうだろう?」
そう言いながらも、端末を手に取る。
だが、送信する前に手が止まった。
黒夜が忙しいだけなら、邪魔をしたくない。そんな考えがよぎったことが、マコト自身にも少し意外だった。
ミレニアムでは、リオとヒマリがそれぞれ別の形で違和感を抱き始めていた。
「黒夜…今日も来ていないわね」
リオが呟く。
「トリニティかゲヘナにいる可能性が高いでしょう。とはいえ、二日続けてこちらに何の連絡もないのは、やや珍しいですね」
ヒマリは端末を操作しながら答える。
彼女の指が、一瞬だけ止まる。
黒夜の端末に関するログを見たいという衝動があった。だが、それをすれば昨日自分が行った干渉の痕跡と向き合うことになる。
黒夜を守るためとはいえ、彼の連絡を消した。その事実が、今になって妙に重く感じられる。
「……まあ、明日になればいつものように来るでしょう」
ヒマリはそう言って、画面を閉じた。
その判断が、さらに一日を失わせることになるとは知らずに。
三日目。
テラー達は我慢の限界だった。
『無理』
ミカ*テラーがソファから勢いよく立ち上がった。
『もう無理。コクヤニウム不足で死ぬ。黒夜に会わないと死ぬ』
『人はそんな事では死にません』
ナギサ*テラーが淡々と言うが、彼女の表情にも余裕はなかった。
『でも、確かに遅いね』
セイア*テラーが静かに目を細める。
『三日だ。黒夜が三日も私たちに顔を見せない。これは少しおかしい』
『少し!? かなりおかしいよ!』
ミカ*テラーは声を荒げる。
『黒夜が私たちに何も言わず三日も会いに来ないなんてありえない! 絶対何かある!』
その言葉を、ナギサ*テラーもセイア*テラーも否定しなかった。
次の瞬間、三人の姿は部屋から消えた。
トリニティのティーパーティー執務室では、ナギサ、ミカ、セイアが重い空気の中で業務を進めていた。
黒夜は今日も来ていない。
その事実が、三人の間に言葉にならない不安を生んでいた。
そこへ、何の前触れもなく空気が揺れる。
『黒夜はどこ?』
現れたミカ*テラーが、開口一番にそう言った。
ナギサが驚きに目を見開く。
「貴女達……」
『挨拶は後です』
ナギサ*テラーの声は静かだったが、普段よりも硬い。
『最近、黒夜さんと会えていません。黒夜さんを今すぐトリニティに呼び出してください』
「呼び出せ、と?」
ナギサは戸惑う。
『そう! 電話して! 今すぐ!』
ミカ*テラーが机に手をつく勢いで迫る。
『黒夜に会えないの! 足りないの! もう限界なの!』
「何が足りないの……?」
ミカが思わず呟くと、ミカ*テラーは真顔で答えた。
『コクヤニウム』
「……私でも分からない概念出さないでくれる?」
ミカは困惑したが、セイアだけは笑わなかった。
セイアは静かにテラー達を見る。
「貴女達も、黒夜の所在を把握していないのかい?」
『していないから来たのだよ』
セイア*テラーが答える。
『君たちは把握しているんじゃないのかな?』
その言葉に、室内の空気が変わった。
ナギサは一瞬だけ言葉を失う。
「黒夜さんは……ゲヘナかミレニアムにいるのではないのですか?」
『確認しましたか?』
ナギサ*テラーの問いが、鋭く落ちる。
ナギサの指先が止まった。
確認していない。
そう、確認していなかった。
黒夜が来ない理由を、勝手に他の学園にいるのだろうと思い込んでいた。ゲヘナかミレニアムか、あるいはシャーレか。どこかにいるはずだと決めつけていた。
ミカの顔から血の気が引いていく。
「ナギちゃん……電話」
「ええ」
ナギサは端末を手に取った。
黒夜の連絡先を開く。その動作が、いつもより妙に重く感じた。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
誰も出ない。
ナギサの表情が少しずつ硬くなる。
ミカは両手を握りしめ、セイアは目を閉じていた。
テラー達は誰一人として動かず、ただ端末を見つめている。
呼び出し音は続く。
だが、黒夜の声は返ってこない。
やがて通信は切れた。
ナギサは端末を見つめたまま、しばらく動けなかった。
「……繋がりません」
その一言が、部屋に落ちた。
ミカが震えた声で呟く。
「そんな……黒夜が、出ないなんて……」
セイアは静かに目を開けた。
その表情は、先ほどまでとは違っていた。
「ナギサ」
「……ええ」
ナギサもまた、もう分かっていた。
黒夜は忙しいだけではない。
どこかの学園にいるだけではない。
何かが起きている。
テラー達の空気が、目に見えて変わった。
ミカ*テラーの表情から血の気が失せ、ナギサ*テラーの手が恐怖で震え、セイア*テラーの目が冷たく細まる。
『……黒夜に何かあったのかも知れない』
セイア*テラーがか細い声で呟いた。
その言葉に、誰も反論できなかった。
黒夜に電話が繋がらない。
ただそれだけの事実が、ティーパーティーの執務室にいる全員の呼吸を止めていた。
ナギサは端末を握ったまま、しばらく画面から目を離せなかった。表示されているのは、通話終了の文字。
何の変哲もない、日常の中で何度も見るはずの表示。だが今は、それが底の見えない穴のように思えた。
「……もう一度、掛けてみます」
自分に言い聞かせるように呟き、ナギサは再び黒夜の番号を押した。
呼び出し音が鳴る。
一度、二度、三度。
しかし、返ってくるのは沈黙だけだった。
ミカは両手を胸の前で握り締め、今にも泣き出しそうな顔で画面を見つめている。セイアは静かに目を閉じていたが、その表情にいつもの余裕はない。
テラー達に至っては、もはや空気そのものが変質していた。
『……出ない』
ミカ*テラーの声が、低く震える。
『黒夜が……電話に出ない……』
『落ち着きなさい、ミカさん。まだそうと決まったわけではありません』
ナギサ*テラーはそう言ったが、その指先は微かに震えていた。
『では、どこにいるというのだい?』
セイア*テラーの声は冷えていた。
『トリニティにはいない。私たちも会えていない。電話にも出ない。ならば確認すべき相手は決まっている』
ナギサはその言葉に弾かれるように顔を上げた。
「ゲヘナと、ミレニアム……!」
「ナギちゃん、早く!」
ミカの声に押されるように、ナギサはすぐにゲヘナへ連絡を入れた。
最初に繋がったのはカヨコだった。端末越しの彼女は、いつも通り静かな声だったが、ナギサの第一声を聞いた瞬間、その声色が変わった。
「黒夜が、そっちにもいない?」
「ええ。この三日間、こちらには来ていません。そして今、電話も繋がりません」
短い沈黙があった。
「……こっちにも来てない」
カヨコの返答に、室内の空気がさらに重くなる。
「ヒナさんやマコト議長のところにも?」
「確認する」
カヨコはすぐに通信を切らず、端末を手にしたまま動いたらしい。少し遠くで扉の開く音と、誰かを呼ぶ声が聞こえる。しばらくして、ヒナの低い声が通話に混じった。
「黒夜がトリニティに居ないって、本当?」
「はい。トリニティにも、この三日間来ていません」
「……ゲヘナにも来ていないわ」
ヒナの声は冷静だった。だが、その静けさが逆に恐ろしい。
さらに遠くから、マコトの声が響いた。
「何だと!? 黒夜がいないだと!?」
「そちらも把握していなかったのでしょう」
ナギサがそう返すと、マコトは言葉に詰まった。
「ぐっ……そ、それは……黒夜がトリニティかミレニアムにいると思っていたからだ!」
その言葉は、今の全員に突き刺さった。
トリニティはゲヘナかミレニアムにいると思っていた。ゲヘナはトリニティかミレニアムにいると思っていた。ミレニアムもまた、恐らく同じように考えている。
誰も、確認していなかった。
黒夜はどこかにいるはずだと、全員が勝手に思い込んでいた。
「ミレニアムに連絡します」
ナギサは声を震わせないようにしながら、次の通信を繋げた。
リオはすぐに出た。
「ナギサ? 何の用かしら?」
「黒夜さんは、そちらにいますか?」
問いかけた瞬間、リオの表情が固まった。
「……いないわ」
短い答えだった。
その横からヒマリの声が聞こえる。
「黒夜さんでしたら、トリニティかゲヘナにいるのでは?」
「どちらにもいません」
ナギサの言葉に、通信越しの空気が凍った。
リオはすぐに端末を操作し始めたらしく、わずかに音が入る。ヒマリもまた、普段の芝居がかった口調を消し、低い声で何かを確認している。
「黒夜さんに連絡は?」
「繋がりません」
「……こちらからも試します」
ヒマリの声が硬くなる。
数秒。
たった数秒のはずなのに、永遠のように長かった。
「駄目です。応答がありません」
ヒマリが告げた瞬間、ミカが小さく息を呑んだ。
「そんな……」
リオは沈黙していた。
だが、その顔色は明らかに悪くなっていた。
「最後に黒夜を見たのはいつ?」
「少し前にミレニアムに来た時…」
「その後は?」
「……分からないわ」
リオの声に、わずかな掠れが混じる。
それは彼女にしては珍しい、完全な動揺の色だった。
ナギサは唇を噛み、次の連絡先を開く。
「アリウスにも確認します」
通信はアツコに繋がった。
画面に映るアツコは、最初はいつもの穏やかな顔をしていた。だが、黒夜の名前が出た瞬間、その表情から柔らかさが消える。
「黒夜?」
「はい。アツコさん、黒夜さんと最近会いましたか?」
「……三日前に会ったよ」
全員の視線が一斉に画面へ集中した。
「三日前?」
「シャーレの近くで会って、一緒にファミレスでご飯を食べたよ」
「でも、それからは会ってないかな」
その言葉に、黒夜が最後に誰かと会った時刻が、少しずつ輪郭を持ち始める。
シャーレの近く。
アリウススクワッドと食事。
その後、別れた。
そこから先が、ない。
ナギサは最後の望みをかけて、アビドスへも連絡を入れた。
「ん、黒夜君?」
「ええ。そちらに黒夜さんは来ていませんか?」
「来てないよ~」
短い答えだった。
黒夜はアビドスにもいない。
トリニティにもいない。
ゲヘナにもいない。
ミレニアムにもいない。
アリウスにもいない。
どこにも、いない。
その事実が、ようやく全員の前に姿を現した。
「シャーレに行きましょう」
ナギサが言った。
それは決断というより、最後の縋りつきだった。
「先生なら、何かご存じかもしれません」
誰も反対しなかった。
その後の動きは早かった。
トリニティからナギサ、ミカ、セイア。ゲヘナからマコト、ヒナ、カヨコ。ミレニアムからリオとヒマリ。アリウスからアツコ。そしてテラーの三人。
全員が、シャーレへ集まった。
アビドスには連絡だけを入れ、緊急時に動けるよう待機してもらう形になった。
今は情報が少なすぎる。むやみに動けば、かえって手がかりを散らすだけだと。
シャーレに到着した時、先生は既にただならぬ空気を感じ取っていた。
会議室に集まった面々を見た瞬間、先生の顔色が変わる。
「……みんなどうしたの?」
その一言で、誰もが先生も異変を察していたことを理解した。
ナギサが震える声を抑えて問いかける。
「先生、黒夜さんは……こちらにいませんか?」
先生は首を横に振った。
「来てないよ」
その答えに、部屋の空気が死んだ。
「最後に会ったのは、三日前かな?シャーレの当番の日だよ」
先生はゆっくりと話す。
「その日は黒夜だけが当番で、仕事を手伝ってくれて、昼食も作ってくれて……夕食の作り置きまでしてくれた。それから、普通に帰ったはず」
「その後、アリウススクワッドと会っています」
ナギサから引き継ぐようにアツコが静かに言う。
「シャーレの近くで会って、食事をした後、別れたの」
「……そこから先がない」
カヨコが低く呟いた。
ヒマリは端末を操作し、黒夜の通信履歴や位置情報の確認を始める。リオも別端末を開き、補助するようにデータを照合していく。
「最終通信地点は、シャーレ周辺です」
ヒマリの声には、いつもの芝居がかった響きがなかった。
「ただし、その後の位置情報が途切れています。通常の通信障害ではありません。意図的な遮断、あるいは端末そのものが無効化された可能性があります」
「つまり……」
ミカの声が震える。
「黒夜は、アツコちゃん達と別れた後に……」
誰も続きを言えなかった。
拉致。
誘拐。
襲撃。
最悪の言葉ばかりが、頭の中に浮かんでは消える。
ナギサは椅子に座ることもできず、机に手をついて立っていた。ミカは今にも崩れ落ちそうで、セイアがそっと支えている。
マコトは怒りで顔を歪め、ヒナは無言のまま拳を握り締めていた。カヨコは表情を消していたが、その目は冷え切っている。
リオは端末を見つめたまま唇を噛み、ヒマリは画面を凝視している。アツコは静かに目を伏せていた。
テラー達は、さらに酷かった。
『……また?』
ミカ*テラーが小さく呟く。
『また黒夜がいなくなるの?』
『落ち着いてください』
ナギサ*テラーがそう言うが、彼女自身も落ち着いてはいなかった。
声が震えている。手が震えている。瞳の奥が、かつての喪失を思い出して揺れている。
セイア*テラーは、誰よりも静かだった。
『三日……』
ぽつりと呟く。
『三日も経っている』
その言葉が、全員の胸を刺した。
黒夜が消えてから、三日。
三日も、誰も気付けなかった。
全員が彼を大切に思っていたはずなのに。全員が彼を守ろうとしていたはずなのに。各々が勝手に、黒夜はどこかにいると思い込んでいた。
そしてその結果、三日という時間が失われた。
「最悪だ…」
アツコが、ほとんど聞こえないほど小さく呟いた。
その言葉は、部屋にいる全員の心情そのものだった。
絶望という二文字が、深く、重く、彼女達に圧し掛かっていた。
その時だった。
シャーレの端末が、甲高い警告音を鳴らした。
空気が一変する。
先生がすぐに端末へ向かい、画面を開く。そこには連邦生徒会からの緊急通信が表示されていた。映像は乱れ、音声も途切れ途切れだったが、その内容だけは嫌でも理解できた。
『先生……緊急事態です……! キヴォトス全域で、正体不明のエネルギー反応を確認……!』
画面にノイズが走る。
別の映像が割り込む。
空に浮かぶ異様な構造体。現実の空間に穴を開けるように現れた巨大な影。それは形を成し、やがて誰もが見上げるほどの存在感を持って、キヴォトスの空に君臨し始めた。
「……なんだあれ?」
誰かが呟いた。
同時に、各地から報告が雪崩れ込む。
追従者の出現。
聖徒会のミメシスの確認。
各学園での襲撃。
通信障害。
市街地での混乱。
避難誘導の遅れ。
キヴォトス全域が、瞬く間に混乱の渦へ飲み込まれていく。
「こんな時に……!」
マコトが机を叩く。
「黒夜を探さねばならんという時に、何だこれは!」
ヒナはすぐに状況を切り替えようとしていた。だが、その目の奥には明らかに迷いがある。
黒夜を探したい。
だが、目の前でキヴォトス全域が危機に陥っている。
リオも、ヒマリも、ナギサも、全員が同じ葛藤に囚われていた。
黒夜を優先したい。
黒夜を探したい。
黒夜を取り戻したい。
けれど、今起きている事態を放置すれば、それこそ取り返しがつかなくなる。
先生は端末の画面を見つめていた。
黒服の言葉が、脳裏をよぎる。
――黒夜に何かあれば、文字通りキヴォトスが滅ぶことになりますよ。
今、キヴォトスは本当に滅びの入口に立っている。
これが黒夜の失踪と関係しているのか。それとも別の危機なのか。今の段階では分からない。
だが、やるべきことは決めなければならない。
先生はゆっくりと振り返った。
「みんな」
その声は、決して大きくはなかった。
だが、不思議と全員の耳に届いた。
「黒夜を探したい気持ちは、僕も同じだ」
誰も言葉を挟まなかった。
「でも、今起きていることを放っておけば、黒夜を探す前に、キヴォトスそのものが壊れてしまう」
先生は、一人一人を見る。
「お願い。力を貸して」
その言葉に、ナギサが目を閉じた。
そして、静かに頷く。
「……分かりました。トリニティはこの事態に対処します」
ヒナも続いた。
「ゲヘナも対応する。黒夜は……必ず見つける。そのためにも、今は目の前の危機を処理する」
リオは唇を噛みながらも、端末を操作し始めた。
「ミレニアムは情報解析と防衛支援に回るわ」
ヒマリも静かに頷く。
「この超天才清楚系病弱美少女ハッカーが、全力で状況を洗い出しましょう」
マコトは荒々しく息を吐く。
「このクソ忙しい時に!! この事態を収拾したら、すぐに黒夜を探すからな!!」
「もちろん」
先生ははっきり頷いた。
「黒夜はそう簡単に死んだりしない。私はそう信じる」
その言葉に、ほんの少しだけ空気が変わった。
確かに、黒夜なら。
そう簡単には折れない。倒れない。何度も危険な状況を越えてきた彼なら、きっと今もどこかで足掻いている。
皆は、その細い希望に縋るように頷いた。
だが――
『私は無理』
ミカ*テラーの声がした。
全員が振り向く。
ミカ*テラーは、既に扉へ向かっていた。
『私は黒夜を探す』
『ミカさん!』
ナギサ*テラーが呼び止めるが、彼女自身も立ち止まれない顔をしていた。
『……すみません、先生。私たちは協力できません』
ナギサ*テラーの声は震えていた。
『黒夜さんがどこにいるか分からない状態で、別のことを優先することはできません』
セイア*テラーも静かに歩き出す。
『君たちは君たちの戦いをするといい。私たちは、私たちの黒夜を探す』
「待って!」
先生が叫ぶ。
「三人だけなんて危ないよ!?」
『知ってるよ』
ミカ*テラーは振り返らない。
『でも、黒夜がいない方がもっと怖い』
その一言に、誰も返せなかった。
次の瞬間、テラー達はシャーレから飛び出していった。
扉が開き、閉まる音が響く。
残された全員の胸に、苦いものが沈んだ。
黒夜を探す者。
キヴォトスを守る者。
世界は、否応なく二つの危機へ引き裂かれていく。