ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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最期の選択 ~4~

 最初に戻ってきた感覚は、痛みだった。

 

 後頭部の奥で鈍く脈打つような痛みがあり、意識が浮上するたびに視界の裏側へ白い火花が散る。

 次に感じたのは、冷たさ。背中に触れている床は金属のように硬く、体温を奪うような冷気が衣服越しに染み込んでくる。

 耳に届くのは、どこか遠くから響く低い駆動音と、規則正しく鳴る電子音。トリニティでも、ゲヘナでも、ミレニアムでも、シャーレでもない。

 

 黒夜はゆっくりと目を開いた。

 

 視界はぼやけていた。片側の世界はいつも通り閉ざされ、残された視界だけで周囲を確認しようとする。

 天井には見慣れない光のラインが走り、壁面には複雑な幾何学模様のような回路が浮かび上がっている。

 薄暗い部屋。閉鎖された空間。窓はない。扉は一つ。監視カメラらしきものが天井の隅にある。

 

 身体を起こそうとして、そこで初めて自分が拘束されていることに気付いた。

 

 両腕は椅子の肘掛けに固定され、手首には金属とも樹脂ともつかない黒い拘束具が嵌められている。

 足首も同じように固定され、腰回りにもベルトが回されていた。力を込めれば多少の遊びはあるが、外せるほどではない。

 装備はすべて外されている。盾も、銃も、予備の小物もない。

 

「……ここは一体?」

 

 声を出した瞬間、喉が少し掠れた。

 最後に覚えているのは、満月だった。

 

 シャーレを出て、アリウスの皆と食事をして、別れた後。背後から声をかけられて、振り返ろうとして、後頭部に衝撃が走った。

 砂狼シロコに似た、けれど明らかに違う人物。

 そこまで思い出して、黒夜の意識は急速に冷えていった。

 

 誘拐された?

 

 その理解と同時に、黒夜は拘束具へ力を込める。手首を捻り、指先の感覚を確かめ、肘の角度を変えながら可動域を探る。

 無理に引き千切れるほど甘い拘束ではない。だが完全に動けないわけでもない。関節を痛める覚悟で手首を抜ける隙間がないか確認する。

 右手の親指を内側へ押し込むようにして角度を変え、拘束具の縁へ力を掛ける。

 

 痛みが走ったが、外れる事は無かった。

 

「……クソ!」

 

 黒夜は息を吐き、次に足首へ意識を向けた。靴も外されている。足首の拘束具は手首よりも太く、床へ直接固定されている。蹴り壊すことは難しい。椅子ごと倒すことも考えたが、腰のベルトがそれを許さない。

 

 監視カメラ。

 

 扉。

 

 拘束具。

 

 部屋の構造。

 

 黒夜は一つずつ確認しながら、脱出の可能性を探した。頭はまだ痛む。だが、思考は動く。敵の拠点ならば、ここから出なければならない。

 自分の居場所を伝える手段はない。端末も奪われている。ならば、まず拘束を解き、出口を確保する必要がある。

 

 その時、扉の向こうで小さな音がした。

 黒夜は咄嗟に動きを止める。

 電子ロックが解除される音。扉が静かに横へ滑り、冷たい光が部屋の中へ差し込んだ。

 

 入ってきたのは、あの少女だった。

 

 黒いドレスを纏い、白い髪を揺らしながら、ゆっくりと部屋へ入ってくる。歩き方に無駄がない。警戒している様子も、勝ち誇っている様子もない。ただ必要な作業を確認しに来たかのような平坦さがあった。

 

 黒夜は彼女を見た。

 

 やはり、似ている。

 

 砂狼シロコ。

 

 だが違う。黒夜の知るシロコは、無口で感情表現は少ないが、どこか真っ直ぐで温かみがあった。目の前の彼女には、それがない。

 そこにあるのは、静かな諦めと、底の見えない空白のようなものだった。

 

「目が覚めた?」

 

 彼女は淡々と言った。

 

「体調は?」

 

「貴方のおかげで……後頭部が痛みます」

 

「死なない程度にした」

 

「それはご配慮、ありがとうございます」

 

 黒夜は拘束されたまま、皮肉で返した。

 シロコ*テラーは表情を変えなかった。

 

「貴方が月城黒夜で間違いない?」

 

「そうです。貴方は……砂狼シロコさん、ではありませんね」

 

「そうだけど、違う存在」

 

 彼女は短く答える。

 

「私は、貴方の知っているシロコではない」

 

「では、何とお呼びすれば?」

 

「呼び名は必要ない」

 

 黒夜は少しだけ視線を細める。

 

「会話をするつもりはありませんか?」

 

 シロコ*テラーは数秒だけ黒夜を見つめた。

 そして、近くにあった端末へ軽く手を触れる。壁面の光がわずかに変わり、部屋の中の照明が少しだけ明るくなった。

 

「会話はする」

 

「それなら助かります」

 

 黒夜は小さく息を吐く。

 

「まずお聞きします。なぜ、私を拉致したのですか?」

 

「必要だったから」

 

「何にですか?」

 

「保険」

 

 あまりにも短い答えだった。

 

 黒夜はすぐには言葉を返せなかった。

 

「保険?」

 

「そう」

 

「私は人質ではないと?」

 

「違う」

 

「交渉材料でも?」

 

「違う」

 

 シロコ*テラーは、黒夜を見下ろすように立ったまま答える。

 

「貴方は、私たちの計画が失敗した時の最後の手段」

 

 その言葉に、黒夜の表情がわずかに硬くなった。

 

「最後の手段……」

 

 シロコ*テラーは冷たい声で宣言した。

 

「貴方を使えば、この世界は簡単に壊れる」

 

 黒夜は一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。

 

 自分を使えば世界が壊れる。

 

 それは比喩なのか、脅しなのか、それとも本気でそう言っているのか。目の前の彼女の表情からは何も読み取れない。

 冗談を言っているようには見えなかった。だが、それを真に受けるには、内容があまりにも突飛だった。

 

「……私は、ただの生徒です」

 

「戦闘経験はあります。多少の特殊な立場もあります。しかし、世界を壊すような存在ではありません」

 

「そう思っているのは、貴方だけ」

 

「どういう意味ですか」

 

「貴方は、この世界におけるイレギュラー」

 

 シロコ*テラーは一歩近づく。

 

「そして、キヴォトス滅亡の種」

 

 黒夜は無意識に拘束具へ力を込めた。

 金属がわずかに軋む。しかし、外れない。

 

「……何を根拠に」

 

「貴方の神秘」

 

 その言葉は、黒夜の理解の外側から投げ込まれた。

 

「神秘……?」

 

 黒夜は思わず聞き返した。

 

「私の……?」

 

「ん」

 

「私は、自分の神秘を自覚したことなどありません」

 

「知ってる」

 

 シロコ*テラーは即答した。

 

「だから厄介」

 

 その声には、責める響きも、同情もなかった。ただ事実を並べているだけだった。

 

「貴方は何も知らないまま救う。何も知らないまま、人の心に入り込む。何も知らないまま、失えないものになる」

 

 心当たりがないわけではなかった。

 黒夜は、自分が多くの人と関わってきたことを知っている。

 ナギサ、ミカ、セイア。マコト、ヒナ、カヨコ。リオ、ヒマリ、アツコ。アリスやネル、アビドスの面々。テラー達。先生。

 

 だが、それは自分が何か特別な力を使ったからではない。

 ただ、その時に必要だと思ったことをしてきただけだ。

 困っている人がいれば手を伸ばした。危険があれば前に立った。迷っている人がいれば話を聞いた。自分にできることを、自分なりにしただけだった。

 

「私は……」

 

 黒夜は言葉を探す。

 

「私は、そんなつもりで誰かと関わったことはありません」

 

「関係ない」

 

 シロコ*テラーは切り捨てる。

 

「貴方が望んだかどうかは関係ない。貴方が知っていたかどうかも関係ない。結果だけが重要」

 

「貴方の神秘は、周囲の人間に安心感を与える。良い印象を残す。拒絶されにくく、受け入れられやすい。そこまではただの性質」

 

 シロコ*テラーは淡々と続けた。

 

「問題は、深く関わった後。貴方に救われた者、貴方に必要とされた者、貴方を心の支えにした者は、貴方を失ってはいけない存在として認識する」

 

 黒夜の脳裏に、ここ数日の出来事が浮かんだ。

 ナギサ達が自分を外へ出したがらなかったこと。ミカが自分の袖を掴んだこと。セイアが見回りを止めたこと。

 ヒナが危険な案件から外したこと。マコトが自分を傍に置こうとしたこと。カヨコが黙って隣に立ち、送ってくれたこと。

 リオが部屋に留めたこと。ヒマリが技術を教える名目で傍に置いたこと。アツコが別れ際に、ちゃんと帰ってねと言ったこと。

 

 あれは、ただの心配ではなかったのか。

 いや、心配だったのだろう。

 けれど、その心配の奥に、もっと深いものがあったのだとしたら。

 

「そして、貴方を失った時」

 

 シロコ*テラーの声が、黒夜の思考を断ち切った。

 

「救われた者の神秘は反転する」

 

「反転……」

 

「恐怖になる」

 

 その言葉を聞いた瞬間、黒夜の胸の奥で何かが冷たく沈んだ。

 

 恐怖。

 

 テラー。

 

 黒夜は、テラー達のことを思い出す。

 

 ナギサ*テラー。ミカ*テラー。セイア*テラー。彼女達は別の世界で黒夜を失い、壊れ、世界を滅ぼした存在だった。

 彼女達が一度、自分たちの存在ごと消そうとした時の光景が、脳裏に浮かぶ。

 

 あの時、黒夜は止めた。

 彼女達を信じると言った。

 自分も彼女達に信じてほしいと言った。

 

 だが、もしその原因の一端が自分にあったのだとしたら。

 もし、自分の神秘が彼女達をあそこまで壊したのだとしたら。

 

「そんなことが……」

 

 黒夜の声は掠れていた。

 

「本当に、あるのですか?」

 

「ある」

 

 シロコ*テラーは揺れない。

 

「別の世界で何度も起きた」

 

「何度も……?」

 

「貴方に深く関わった者は、貴方を失えば壊れる。形は違うかもしれない。でも結果は同じ」

 

「……私は」

 

 黒夜は拘束具を握り締めるように指へ力を込めた。

 

「私は、誰かを壊すために行動してきたわけではありません」

 

「知ってる」

 

 また、同じ答え。

 だからこそ残酷だった。

 

「貴方は誰かを壊すために生きていない。救うために動く。守るために傷つく。誰かのために前に立つ」

 

 シロコ*テラーは黒夜の前で足を止めた。

 

「だから、救われた人は貴方を失えなくなる」

 

 黒夜は何も言えなかった。

 否定したい。

 そんなはずはないと言いたい。

 

 ナギサ達も、マコト達も、リオ達も、アツコも、テラー達も、先生も、皆そんなに弱くない。

 自分を失ったくらいで壊れるはずがない。そう言いたい。

 

 だが、言えなかった。

 なぜなら黒夜は、知っている。

 自分自身もまた、失うことを恐れている。

 

 誰かを守れなかった時、どれほど胸が潰れるかを知っている。アリスを守れなかったと思った時。

 リオが自分を犠牲にしようとした時。テラー達が自分たちの存在を消そうとした時。残される側の痛みを知ったはずだった。

 

 それなのに、自分を失った誰かの痛みだけを軽く見積もることなど、できるはずがなかった。

 

「……私を殺すつもりですか?」

 

 黒夜は、ようやくそう問いかけた。

 声は静かだった。

 恐怖よりも、確認に近い響きだった。

 

 シロコ*テラーは首を横に振る。

 

「私は殺さない」

 

 黒夜は彼女を見る。

 次の言葉が、胸に突き刺さる。

 

「貴方の神秘が、貴方の世界を殺す」

 

 部屋の駆動音が、やけに遠く聞こえた。

 黒夜は呼吸を忘れたように、ただその言葉を受け止めるしかなかった。

 

「私たちの計画が失敗した時、貴方が必要になる」

 

 シロコ*テラーは続ける。

 

「貴方を失えば、この世界の生徒たちは壊れる。貴方と深く関わった者たちが、次々に恐怖へ落ちる」

 

「……」

 

「そうなれば、キヴォトスは終わり」

 

 黒夜は唇を噛んだ。

 

 自分が起爆剤。

 

 自分が保険。

 

 自分が、皆を壊すための最後の手段。

 

 それは、あまりにも悪趣味で、あまりにも残酷だった。

 

「私は……皆を、信じています」

 

 ようやく絞り出した言葉は、それだった。

 自分でも、それがどれほど弱い反論なのか分かっていた。

 シロコ*テラーは、表情を変えない。

 

「信じれば壊れないとでも?」

 

「……」

 

「残された側は、そんなに都合よく強くなれない」

 

 その言葉には、初めてわずかな重みがあった。

 それは同情ではない。

 自分自身の喪失を知る者の、冷たい実感だった。

 

「貴方は、失う側の痛みを知っている。でも、貴方を失う痛みを知らない」

 

 黒夜は何も返せなかった。

 シロコ*テラーは端末へ視線を向ける。

 

「今は何もしなくていい」

 

「……何も?」

 

「ここにいればいい」

 

 黒夜の喉が鳴る。

 

「必要な時まで」

 

「必要な時、とは?」

 

 シロコ*テラーは扉へ向かう。

 その背中に、黒夜は問いかけた。

 

「その時、私は何をさせられるのですか!?」

 

 シロコ*テラーは扉の前で立ち止まった。

 振り返らないまま、静かに答える。

 

「この世界が、生き延びた時…」

 

 扉が開く。

 

「その時は貴方が世界を終わらせる」

 

 そして彼女は部屋を出ていった。

 扉が閉まり、電子ロックの音が響く。

 再び部屋には、低い駆動音だけが残った。

 

 黒夜は拘束されたまま、しばらく動けなかった。

 痛む後頭部よりも、締め付けられた手首よりも、胸の奥に突き刺さった言葉の方がずっと重かった。

 

 扉が閉まり、電子ロックの音が響いた。

 シロコ*テラーの足音はすぐに遠ざかり、部屋には再び低い駆動音だけが残された。

 

 黒夜は拘束されたまま、しばらく動けなかった。

 手首は固定されている。足首も、腰も、椅子に縛りつけられている。だが今は、その拘束を解こうとする気力すら湧かなかった。

 頭の奥で、先ほどの言葉が何度も反響していた。

 

 貴方の神秘が、貴方の世界を殺す。

 

 それは刃物のような言葉ではなかった。もっと鈍く、重く、胸の奥へ沈んでいくものだった。一度刺さったら抜けない。

 抜こうとすれば、そこから自分の中身まで引きずり出されてしまうような、そんな言葉。

 

「……神秘」

 

 掠れた声が漏れる。

 

 自分の神秘。

 

 黒夜はそんなものを意識したことがなかった。自分に特別な何かがあるなど、考えたこともなかった。ただ、自分にできることをしてきただけだ。

 目の前に困っている人がいれば、手を伸ばした。

 

 誰かが傷つきそうなら、前に立った。

 誰かが迷っているなら、話を聞いた。

 誰かが壊れそうなら、そばにいようとした。

 

 それが正しいことだと思っていた。少なくとも、間違っているとは思っていなかった。

 だが、それがもし。

 誰かを救うことではなく、誰かの心に深く入り込み、失えないものになってしまうことだったとしたら。

 その結果、自分を失った時に、皆が壊れてしまうのだとしたら。

 

「……そんな」

 

 黒夜は小さく首を振る。

 違う、と言いたかった。

 ナギサは強い人だ。ミカは眩しい人だ。セイアは静かに先を見据える人だ。ヒナも、マコトも、カヨコも、リオも、ヒマリも、アツコも、それぞれが確かな強さを持っている。

 

 自分一人がいなくなったくらいで壊れるはずがない。

 そう思いたかった。

 けれど、思い出してしまう。

 

 テラー達の姿を。

 

 黒夜を失った世界で壊れ、世界を滅ぼす側に立った彼女達。

 自分に深く関わった者は、自分を失えば壊れる。

 

 それが本当なら。

 

 自分は、これまで何をしてきたのだろう。

 救っていたつもりだった。

 守っていたつもりだった。

 支えていたつもりだった。

 だが本当は、皆の心に消えない傷の種を植えていただけなのかもしれない。

 

 ナギサの顔が浮かぶ。

 自分を気遣い、いつも丁寧に言葉を選んでくれた彼女。けれど最近は、自分を外へ出したがらなかった。

 あれは心配だったのだろう。もしかしたら心配だけではなかったのかもしれない。

 

 ミカの顔が浮かぶ。

 袖を掴んで、今日はここにいてと笑った彼女。あの指先の強さは、ただのわがままではなかったのだろうか。

 

 セイアの顔が浮かぶ。

 見回りを止めた時の静かな声。外へ出る必要はないと言ったあの目は、何かを恐れていたのかもしれない。

 

 ヒナ、マコト、カヨコ、リオ、ヒマり、アツコ、先生。

 

 彼女達以外にも今まで関わってきた皆の顔が、次々に浮かんでは消える。

 その一人一人の人生に、自分がどれほど深く入り込んでしまったのか。

 自分がいなくなった時、その人たちがどうなってしまうのか。考えれば考えるほど、胸の奥が冷えていく。

 

 黒夜の視界が滲んだ。

 

 最初は、何が起きたのか分からなかった。

 片方しかない視界の端が、少しずつぼやけていく。頬に温かいものが伝う。それが涙だと理解するまでに、数秒かかった。

 

「……ごめんなさい」

 

 声が、勝手に漏れた。

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。

 けれど一度こぼれた謝罪は、止まらなかった。

 

「ごめんなさい……」

 

 喉が震える。

 

「ナギサ様……ミカ様……セイア様……」

 

 名前を呼ぶたびに、胸が痛んだ。

 

「ヒナさん……マコト様……カヨコさん……」

 

 自分が居なければ、彼女達はこんな未来を辿らずに済んだのだろうか。

 

「リオさん……ヒマリさん……アツコさん……」

 

 自分に救われたと言ってくれた人たち。自分を信じてくれた人たち。自分と関わってくれた人たち。

 そのすべてを、自分が危うくしていたのだとしたら。

 

「先生……」

 

 最後に先生の名前を呼ぼうとして、声が詰まった。

 

 先生は、いつも自分をただの生徒として見てくれた。一人の生徒として向き合ってくれた。

 だが先生も、もし自分の神秘の危険性を知っていたなら、どんな気持ちで自分と接していたのだろう。

 

 シャーレでの視線を思い出す。

 優しくて、悲しそうだった。

 あの時、先生は何かを知っていたのかもしれない。

 黒夜は俯いたまま、拘束された手に力を込める。金属が軋む音がした。だが外れない。自分の無力さだけが、嫌になるほどはっきりしていた。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 誰にも届かないと分かっていた。

 

 この部屋には、自分の声を聞いてくれる人などいない。仮に監視されていたとしても、それはただ情報として処理されるだけだろう。

 トリニティの皆にも、ゲヘナの仲間達にも、ミレニアムの皆にも、アリウススクワッドにも、先生にも届かない。

 

 それでも謝ることしかできなかった。

 自分が悪意を持っていたわけではない。

 そんなことは分かっている。

 

 けれど、悪意がなかったからといって、結果が消えるわけではない。

 もし自分の存在が、皆を壊す原因になるなら。

 もし自分の喪失が、皆の神秘を反転させるなら。

 自分は、どうすればいいのだろう。

 

 その時だった。

 

 扉が開く音がした。

 黒夜は反射的に顔を上げようとした。だが、できなかった。

 頬を伝う涙を止めることも、震える呼吸を整えることもできない。喉の奥に言葉が詰まり、謝罪の形になりかけた声だけが、掠れて消えていく。

 

「……」

 

 誰かが入ってきた。

 それは分かる。

 警戒しなければならない。問いかけなければならない。何者か、何のために来たのか、確認しなければならない。

 

 けれど、黒夜は何も言えなかった。

 ただ俯いたまま、拘束された手に力を込めることしかできない。

 入ってきた人物は、すぐには言葉を発しなかった。

 足音は静かだった。シロコ*テラーのように無駄がない。だが、彼女とは違う。そこには何か、深く沈んだ疲労のようなものがあった。

 

 黒夜の前で足音が止まる。

 しばらく沈黙が落ちた。

 そして、その人物は静かに口を開いた。

 

「泣いているんだね」

 

 声は低く、擦れていた。

 どこか機械越しのようでもあり、遠い場所から届いているようでもある。だが、その言葉の響きは不思議と柔らかかった。

 

 黒夜は答えられない。

 顔を上げることもできない。

 相手は続けた。

 

「謝っていたんだね」

 

 黒夜の肩が、小さく震えた。

 

「誰に?」

 

 その問いは責めるものではなかった。

 ただ、聞いていた。

 黒夜は唇を震わせる。声を出そうとして、何度か失敗した。ようやく喉の奥から絞り出せた言葉は、ひどく小さかった。

 

「……みんなに」

 

 その一言だけで、精一杯だった。

 相手はしばらく黙っていた。

 黒夜はそこで、ようやく視線を少しだけ上げる。

 目の前に立っていたのは、見覚えのない人物だった。

 

 顔は隠れている。身体の輪郭も、どこか人間離れして見える。だが、その佇まいには奇妙な静けさがあった。

 威圧感はある。敵であることも分かる。けれど、シロコ*テラーのような冷たい道具を見る視線ではない。

 

 もっと深く、もっと遠くから、黒夜を見ているようだった。

 

「……貴方は――」

 

 黒夜は掠れた声で問いかける。

 

「この場所の、主ですか?」

 

「そうとも言えるね」

 

 相手は静かに答えた。

 

「君をここに連れてくることを決めた側にいる」

 

「では……」

 

 黒夜は息を吸う。

 

「貴方も、私を世界を壊す道具として使うつもりなのですね…」

 

 その問いに、相手はすぐには答えなかった。

 

 しばらくして、彼は静かに言った。

 

「そうだね」

 

 黒夜の胸がまた冷える。

 

「けれど、それだけではない」

 

「君は――生徒だから」

 

 その言葉に、黒夜は息を止めた。

 

 生徒。

 

 この状況で、その言葉を聞くとは思わなかった。

 敵の拠点。拘束された椅子。世界を壊す起爆剤として拉致された自分。その自分に向けて、目の前の人物は生徒と言った。

 

「君が悪いわけじゃない」

 

 彼は続ける。

 

「君の在り方が罪なわけじゃない」

 

 黒夜は言葉を失った。

 許されるとは思っていなかった。

 責められる方が、まだ理解できた。お前のせいで皆が壊れる。お前の存在が危険だ。お前は世界を滅ぼす種だ。

 そう言われる方が、シロコ*テラーの言葉と繋がる。

 

 けれど、目の前の人物は違うことを言った。

 

 君は悪くない。

 

 その一言が、黒夜にはあまりにも重かった。

 

「どうして…?」

 

 黒夜は呟く。

 

「どうして、そんな言葉を私に言うのですか?」

 

 相手は黒夜を見ていた。

 その視線の奥に何があるのかは、黒夜には分からない。だが、不思議とそこに敵意は感じなかった。

 

「君は、君のやりたいことをしていい」

 

 その言葉は、さらに黒夜を揺らした。

 

「誰かを救いたいなら、救おうとしていい。誰かのそばにいたいなら、そばにいていい。誰かを守りたいなら、守ろうとしていい」

 

「でも……」

 

 黒夜は震える声で遮った。

 

「その結果、皆が壊れるかもしれないのなら……私は……」

 

「悪くない者が、世界を壊すこともある」

 

 静かな言葉だった。

 優しいのに、残酷だった。

 

「君が望まなくても、君が知らなくても、君の存在を理由に誰かが壊れることはある」

 

 黒夜は俯く。

 

「なら……私は、どうすればいいのですか」

 

 声が震えた。

 

「誰かを救おうとすれば、その人を壊すかもしれない。何もしなければ、救えない。関われば危うくなる。離れれば、きっと誰かを傷つける」

 

 言葉が溢れていく。

 

「私は……一体どうすればいいのですか?」

 

 問いは、ほとんど悲鳴に近かった。

 目の前の人物は、すぐには答えなかった。

 その沈黙は、冷たくはなかった。だが、救いでもなかった。

 

「それを決めるのは、君だ」

 

 やがて彼は言った。

 黒夜は顔を上げる。

 

「私が……」

 

「そう。君が選ばなければならない」

 

「私に、選べるのですか」

 

「選ぶしかない」

 

 その声は、とても静かだった。

 

「誰かが代わりに選べば、君はその結果に縛られる」

 

「だから、君自身が選ぶしかない」

 

「……」

 

「君が誰を信じるのか。君が何を守るのか。君がどこへ行きたいのか」

 

 その言葉に、黒夜の心がわずかに揺れた。

 

 自分が行きたい場所。

 

 トリニティ。

 

 ゲヘナ。

 

 ミレニアム。

 

 アリウス。

 

 アビドス。

 

 シャーレ。

 

 自分には、行きたい場所が多すぎる。

 だからこそ、自分が消えれば、多くの人が傷つく。

 けれど、自分が戻れば、また誰かを危うくするかもしれない。

 

「私は……」

 

 黒夜は言葉を探した。

 

「私は、まだ分かりません」

 

「今はそれでいい」

 

 彼は静かに言う。

 

「すぐに答えを出せる問いではない」

 

「では、なぜ私にこんな話を」

 

「君が、いつか選ばなければならないから」

 

 その言葉の意味を、黒夜はまだ理解できなかった。

 だが、相手はそれ以上説明しなかった。

 代わりに、ほんの少しだけ視線を下げる。

 

「黒夜」

 

 初めて、名前を呼ばれた。

 黒夜は息を呑む。

 その声には、妙な懐かしさがあった。会ったことのないはずの相手なのに、どこかで聞いたような温度があった。

 

「君は悪くない」

 

 もう一度、彼はそう言った。

 

「でも、悪くないからといって、何も背負わなくていいわけではない」

 

 黒夜は黙って聞いていた。

 

「それでも、君は君のままでいていい」

 

 その言葉は、救いのようだった。

 けれど同時に、呪いのようでもあった。

 

 自分のままでいていい。

 

 それはつまり、自分の危険性を知った上で、それでも選び続けろということだ。逃げることも、消えることも、誰かに決めてもらうことも許されない。

 黒夜は涙で濡れた視界のまま、目の前の人物を見上げる。

 

「貴方は……何者なのですか…?」

 

 だが彼は答えなかった。

 ただ、静かに背を向ける。

 

「今はまだ、知らなくていい」

 

 扉へ向かって歩き出す。

 黒夜は思わず声を上げようとした。

 だが、言葉が出ない。

 

 相手は扉の前で一度だけ立ち止まった。

 

「黒夜」

 

 もう一度、名前を呼ぶ。

 

「君が何を選んでも、誰かは傷つくかも知れない」

 

 黒夜の喉が詰まる。

 

「だからこそ、誰かの痛みだけを理由に、生きる事から逃げてはいけないよ」

 

 それだけ言い残し、彼は部屋を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 電子ロックの音が響く。

 部屋には再び、黒夜一人が残された。

 

 先ほどまでと同じ部屋。同じ拘束。同じ冷たい床。

 だが、黒夜の中には、先ほどとは違う問いが残っていた。

 

 自分が悪いわけではない。

 けれど、自分が世界を壊すかもしれない。

 

 自分は誰かを救いたい。

 けれど、救った相手を壊すかもしれない。

 

 自分を消せば、皆は壊れずに済むのだろうか。

 いや、本当にそうなのだろうか。

 

 誰かの痛みだけを理由に、逃げてはいけない。

 その言葉が、胸の奥で揺れている。

 

 黒夜は拘束された手を見下ろした。

 涙はまだ止まりきっていない。頬に残る熱も、胸の痛みも消えていない。

 だが、先ほどのようにただ謝ることしかできない状態ではなかった。

 

 答えは出ない。

 何も分からない。

 

 それでも、問いだけは残された。

 

「……私は」

 

 黒夜は小さく呟く。

 

「何を、選べばいいのでしょうか…」

 

 その声は、誰にも届かなかった。

 ただ、低い駆動音だけが、冷たい部屋の中で静かに響き続けていた。

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