最初に戻ってきた感覚は、痛みだった。
後頭部の奥で鈍く脈打つような痛みがあり、意識が浮上するたびに視界の裏側へ白い火花が散る。
次に感じたのは、冷たさ。背中に触れている床は金属のように硬く、体温を奪うような冷気が衣服越しに染み込んでくる。
耳に届くのは、どこか遠くから響く低い駆動音と、規則正しく鳴る電子音。トリニティでも、ゲヘナでも、ミレニアムでも、シャーレでもない。
黒夜はゆっくりと目を開いた。
視界はぼやけていた。片側の世界はいつも通り閉ざされ、残された視界だけで周囲を確認しようとする。
天井には見慣れない光のラインが走り、壁面には複雑な幾何学模様のような回路が浮かび上がっている。
薄暗い部屋。閉鎖された空間。窓はない。扉は一つ。監視カメラらしきものが天井の隅にある。
身体を起こそうとして、そこで初めて自分が拘束されていることに気付いた。
両腕は椅子の肘掛けに固定され、手首には金属とも樹脂ともつかない黒い拘束具が嵌められている。
足首も同じように固定され、腰回りにもベルトが回されていた。力を込めれば多少の遊びはあるが、外せるほどではない。
装備はすべて外されている。盾も、銃も、予備の小物もない。
「……ここは一体?」
声を出した瞬間、喉が少し掠れた。
最後に覚えているのは、満月だった。
シャーレを出て、アリウスの皆と食事をして、別れた後。背後から声をかけられて、振り返ろうとして、後頭部に衝撃が走った。
砂狼シロコに似た、けれど明らかに違う人物。
そこまで思い出して、黒夜の意識は急速に冷えていった。
誘拐された?
その理解と同時に、黒夜は拘束具へ力を込める。手首を捻り、指先の感覚を確かめ、肘の角度を変えながら可動域を探る。
無理に引き千切れるほど甘い拘束ではない。だが完全に動けないわけでもない。関節を痛める覚悟で手首を抜ける隙間がないか確認する。
右手の親指を内側へ押し込むようにして角度を変え、拘束具の縁へ力を掛ける。
痛みが走ったが、外れる事は無かった。
「……クソ!」
黒夜は息を吐き、次に足首へ意識を向けた。靴も外されている。足首の拘束具は手首よりも太く、床へ直接固定されている。蹴り壊すことは難しい。椅子ごと倒すことも考えたが、腰のベルトがそれを許さない。
監視カメラ。
扉。
拘束具。
部屋の構造。
黒夜は一つずつ確認しながら、脱出の可能性を探した。頭はまだ痛む。だが、思考は動く。敵の拠点ならば、ここから出なければならない。
自分の居場所を伝える手段はない。端末も奪われている。ならば、まず拘束を解き、出口を確保する必要がある。
その時、扉の向こうで小さな音がした。
黒夜は咄嗟に動きを止める。
電子ロックが解除される音。扉が静かに横へ滑り、冷たい光が部屋の中へ差し込んだ。
入ってきたのは、あの少女だった。
黒いドレスを纏い、白い髪を揺らしながら、ゆっくりと部屋へ入ってくる。歩き方に無駄がない。警戒している様子も、勝ち誇っている様子もない。ただ必要な作業を確認しに来たかのような平坦さがあった。
黒夜は彼女を見た。
やはり、似ている。
砂狼シロコ。
だが違う。黒夜の知るシロコは、無口で感情表現は少ないが、どこか真っ直ぐで温かみがあった。目の前の彼女には、それがない。
そこにあるのは、静かな諦めと、底の見えない空白のようなものだった。
「目が覚めた?」
彼女は淡々と言った。
「体調は?」
「貴方のおかげで……後頭部が痛みます」
「死なない程度にした」
「それはご配慮、ありがとうございます」
黒夜は拘束されたまま、皮肉で返した。
シロコ*テラーは表情を変えなかった。
「貴方が月城黒夜で間違いない?」
「そうです。貴方は……砂狼シロコさん、ではありませんね」
「そうだけど、違う存在」
彼女は短く答える。
「私は、貴方の知っているシロコではない」
「では、何とお呼びすれば?」
「呼び名は必要ない」
黒夜は少しだけ視線を細める。
「会話をするつもりはありませんか?」
シロコ*テラーは数秒だけ黒夜を見つめた。
そして、近くにあった端末へ軽く手を触れる。壁面の光がわずかに変わり、部屋の中の照明が少しだけ明るくなった。
「会話はする」
「それなら助かります」
黒夜は小さく息を吐く。
「まずお聞きします。なぜ、私を拉致したのですか?」
「必要だったから」
「何にですか?」
「保険」
あまりにも短い答えだった。
黒夜はすぐには言葉を返せなかった。
「保険?」
「そう」
「私は人質ではないと?」
「違う」
「交渉材料でも?」
「違う」
シロコ*テラーは、黒夜を見下ろすように立ったまま答える。
「貴方は、私たちの計画が失敗した時の最後の手段」
その言葉に、黒夜の表情がわずかに硬くなった。
「最後の手段……」
シロコ*テラーは冷たい声で宣言した。
「貴方を使えば、この世界は簡単に壊れる」
黒夜は一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。
自分を使えば世界が壊れる。
それは比喩なのか、脅しなのか、それとも本気でそう言っているのか。目の前の彼女の表情からは何も読み取れない。
冗談を言っているようには見えなかった。だが、それを真に受けるには、内容があまりにも突飛だった。
「……私は、ただの生徒です」
「戦闘経験はあります。多少の特殊な立場もあります。しかし、世界を壊すような存在ではありません」
「そう思っているのは、貴方だけ」
「どういう意味ですか」
「貴方は、この世界におけるイレギュラー」
シロコ*テラーは一歩近づく。
「そして、キヴォトス滅亡の種」
黒夜は無意識に拘束具へ力を込めた。
金属がわずかに軋む。しかし、外れない。
「……何を根拠に」
「貴方の神秘」
その言葉は、黒夜の理解の外側から投げ込まれた。
「神秘……?」
黒夜は思わず聞き返した。
「私の……?」
「ん」
「私は、自分の神秘を自覚したことなどありません」
「知ってる」
シロコ*テラーは即答した。
「だから厄介」
その声には、責める響きも、同情もなかった。ただ事実を並べているだけだった。
「貴方は何も知らないまま救う。何も知らないまま、人の心に入り込む。何も知らないまま、失えないものになる」
心当たりがないわけではなかった。
黒夜は、自分が多くの人と関わってきたことを知っている。
ナギサ、ミカ、セイア。マコト、ヒナ、カヨコ。リオ、ヒマリ、アツコ。アリスやネル、アビドスの面々。テラー達。先生。
だが、それは自分が何か特別な力を使ったからではない。
ただ、その時に必要だと思ったことをしてきただけだ。
困っている人がいれば手を伸ばした。危険があれば前に立った。迷っている人がいれば話を聞いた。自分にできることを、自分なりにしただけだった。
「私は……」
黒夜は言葉を探す。
「私は、そんなつもりで誰かと関わったことはありません」
「関係ない」
シロコ*テラーは切り捨てる。
「貴方が望んだかどうかは関係ない。貴方が知っていたかどうかも関係ない。結果だけが重要」
「貴方の神秘は、周囲の人間に安心感を与える。良い印象を残す。拒絶されにくく、受け入れられやすい。そこまではただの性質」
シロコ*テラーは淡々と続けた。
「問題は、深く関わった後。貴方に救われた者、貴方に必要とされた者、貴方を心の支えにした者は、貴方を失ってはいけない存在として認識する」
黒夜の脳裏に、ここ数日の出来事が浮かんだ。
ナギサ達が自分を外へ出したがらなかったこと。ミカが自分の袖を掴んだこと。セイアが見回りを止めたこと。
ヒナが危険な案件から外したこと。マコトが自分を傍に置こうとしたこと。カヨコが黙って隣に立ち、送ってくれたこと。
リオが部屋に留めたこと。ヒマリが技術を教える名目で傍に置いたこと。アツコが別れ際に、ちゃんと帰ってねと言ったこと。
あれは、ただの心配ではなかったのか。
いや、心配だったのだろう。
けれど、その心配の奥に、もっと深いものがあったのだとしたら。
「そして、貴方を失った時」
シロコ*テラーの声が、黒夜の思考を断ち切った。
「救われた者の神秘は反転する」
「反転……」
「恐怖になる」
その言葉を聞いた瞬間、黒夜の胸の奥で何かが冷たく沈んだ。
恐怖。
テラー。
黒夜は、テラー達のことを思い出す。
ナギサ*テラー。ミカ*テラー。セイア*テラー。彼女達は別の世界で黒夜を失い、壊れ、世界を滅ぼした存在だった。
彼女達が一度、自分たちの存在ごと消そうとした時の光景が、脳裏に浮かぶ。
あの時、黒夜は止めた。
彼女達を信じると言った。
自分も彼女達に信じてほしいと言った。
だが、もしその原因の一端が自分にあったのだとしたら。
もし、自分の神秘が彼女達をあそこまで壊したのだとしたら。
「そんなことが……」
黒夜の声は掠れていた。
「本当に、あるのですか?」
「ある」
シロコ*テラーは揺れない。
「別の世界で何度も起きた」
「何度も……?」
「貴方に深く関わった者は、貴方を失えば壊れる。形は違うかもしれない。でも結果は同じ」
「……私は」
黒夜は拘束具を握り締めるように指へ力を込めた。
「私は、誰かを壊すために行動してきたわけではありません」
「知ってる」
また、同じ答え。
だからこそ残酷だった。
「貴方は誰かを壊すために生きていない。救うために動く。守るために傷つく。誰かのために前に立つ」
シロコ*テラーは黒夜の前で足を止めた。
「だから、救われた人は貴方を失えなくなる」
黒夜は何も言えなかった。
否定したい。
そんなはずはないと言いたい。
ナギサ達も、マコト達も、リオ達も、アツコも、テラー達も、先生も、皆そんなに弱くない。
自分を失ったくらいで壊れるはずがない。そう言いたい。
だが、言えなかった。
なぜなら黒夜は、知っている。
自分自身もまた、失うことを恐れている。
誰かを守れなかった時、どれほど胸が潰れるかを知っている。アリスを守れなかったと思った時。
リオが自分を犠牲にしようとした時。テラー達が自分たちの存在を消そうとした時。残される側の痛みを知ったはずだった。
それなのに、自分を失った誰かの痛みだけを軽く見積もることなど、できるはずがなかった。
「……私を殺すつもりですか?」
黒夜は、ようやくそう問いかけた。
声は静かだった。
恐怖よりも、確認に近い響きだった。
シロコ*テラーは首を横に振る。
「私は殺さない」
黒夜は彼女を見る。
次の言葉が、胸に突き刺さる。
「貴方の神秘が、貴方の世界を殺す」
部屋の駆動音が、やけに遠く聞こえた。
黒夜は呼吸を忘れたように、ただその言葉を受け止めるしかなかった。
「私たちの計画が失敗した時、貴方が必要になる」
シロコ*テラーは続ける。
「貴方を失えば、この世界の生徒たちは壊れる。貴方と深く関わった者たちが、次々に恐怖へ落ちる」
「……」
「そうなれば、キヴォトスは終わり」
黒夜は唇を噛んだ。
自分が起爆剤。
自分が保険。
自分が、皆を壊すための最後の手段。
それは、あまりにも悪趣味で、あまりにも残酷だった。
「私は……皆を、信じています」
ようやく絞り出した言葉は、それだった。
自分でも、それがどれほど弱い反論なのか分かっていた。
シロコ*テラーは、表情を変えない。
「信じれば壊れないとでも?」
「……」
「残された側は、そんなに都合よく強くなれない」
その言葉には、初めてわずかな重みがあった。
それは同情ではない。
自分自身の喪失を知る者の、冷たい実感だった。
「貴方は、失う側の痛みを知っている。でも、貴方を失う痛みを知らない」
黒夜は何も返せなかった。
シロコ*テラーは端末へ視線を向ける。
「今は何もしなくていい」
「……何も?」
「ここにいればいい」
黒夜の喉が鳴る。
「必要な時まで」
「必要な時、とは?」
シロコ*テラーは扉へ向かう。
その背中に、黒夜は問いかけた。
「その時、私は何をさせられるのですか!?」
シロコ*テラーは扉の前で立ち止まった。
振り返らないまま、静かに答える。
「この世界が、生き延びた時…」
扉が開く。
「その時は貴方が世界を終わらせる」
そして彼女は部屋を出ていった。
扉が閉まり、電子ロックの音が響く。
再び部屋には、低い駆動音だけが残った。
黒夜は拘束されたまま、しばらく動けなかった。
痛む後頭部よりも、締め付けられた手首よりも、胸の奥に突き刺さった言葉の方がずっと重かった。
扉が閉まり、電子ロックの音が響いた。
シロコ*テラーの足音はすぐに遠ざかり、部屋には再び低い駆動音だけが残された。
黒夜は拘束されたまま、しばらく動けなかった。
手首は固定されている。足首も、腰も、椅子に縛りつけられている。だが今は、その拘束を解こうとする気力すら湧かなかった。
頭の奥で、先ほどの言葉が何度も反響していた。
貴方の神秘が、貴方の世界を殺す。
それは刃物のような言葉ではなかった。もっと鈍く、重く、胸の奥へ沈んでいくものだった。一度刺さったら抜けない。
抜こうとすれば、そこから自分の中身まで引きずり出されてしまうような、そんな言葉。
「……神秘」
掠れた声が漏れる。
自分の神秘。
黒夜はそんなものを意識したことがなかった。自分に特別な何かがあるなど、考えたこともなかった。ただ、自分にできることをしてきただけだ。
目の前に困っている人がいれば、手を伸ばした。
誰かが傷つきそうなら、前に立った。
誰かが迷っているなら、話を聞いた。
誰かが壊れそうなら、そばにいようとした。
それが正しいことだと思っていた。少なくとも、間違っているとは思っていなかった。
だが、それがもし。
誰かを救うことではなく、誰かの心に深く入り込み、失えないものになってしまうことだったとしたら。
その結果、自分を失った時に、皆が壊れてしまうのだとしたら。
「……そんな」
黒夜は小さく首を振る。
違う、と言いたかった。
ナギサは強い人だ。ミカは眩しい人だ。セイアは静かに先を見据える人だ。ヒナも、マコトも、カヨコも、リオも、ヒマリも、アツコも、それぞれが確かな強さを持っている。
自分一人がいなくなったくらいで壊れるはずがない。
そう思いたかった。
けれど、思い出してしまう。
テラー達の姿を。
黒夜を失った世界で壊れ、世界を滅ぼす側に立った彼女達。
自分に深く関わった者は、自分を失えば壊れる。
それが本当なら。
自分は、これまで何をしてきたのだろう。
救っていたつもりだった。
守っていたつもりだった。
支えていたつもりだった。
だが本当は、皆の心に消えない傷の種を植えていただけなのかもしれない。
ナギサの顔が浮かぶ。
自分を気遣い、いつも丁寧に言葉を選んでくれた彼女。けれど最近は、自分を外へ出したがらなかった。
あれは心配だったのだろう。もしかしたら心配だけではなかったのかもしれない。
ミカの顔が浮かぶ。
袖を掴んで、今日はここにいてと笑った彼女。あの指先の強さは、ただのわがままではなかったのだろうか。
セイアの顔が浮かぶ。
見回りを止めた時の静かな声。外へ出る必要はないと言ったあの目は、何かを恐れていたのかもしれない。
ヒナ、マコト、カヨコ、リオ、ヒマり、アツコ、先生。
彼女達以外にも今まで関わってきた皆の顔が、次々に浮かんでは消える。
その一人一人の人生に、自分がどれほど深く入り込んでしまったのか。
自分がいなくなった時、その人たちがどうなってしまうのか。考えれば考えるほど、胸の奥が冷えていく。
黒夜の視界が滲んだ。
最初は、何が起きたのか分からなかった。
片方しかない視界の端が、少しずつぼやけていく。頬に温かいものが伝う。それが涙だと理解するまでに、数秒かかった。
「……ごめんなさい」
声が、勝手に漏れた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
けれど一度こぼれた謝罪は、止まらなかった。
「ごめんなさい……」
喉が震える。
「ナギサ様……ミカ様……セイア様……」
名前を呼ぶたびに、胸が痛んだ。
「ヒナさん……マコト様……カヨコさん……」
自分が居なければ、彼女達はこんな未来を辿らずに済んだのだろうか。
「リオさん……ヒマリさん……アツコさん……」
自分に救われたと言ってくれた人たち。自分を信じてくれた人たち。自分と関わってくれた人たち。
そのすべてを、自分が危うくしていたのだとしたら。
「先生……」
最後に先生の名前を呼ぼうとして、声が詰まった。
先生は、いつも自分をただの生徒として見てくれた。一人の生徒として向き合ってくれた。
だが先生も、もし自分の神秘の危険性を知っていたなら、どんな気持ちで自分と接していたのだろう。
シャーレでの視線を思い出す。
優しくて、悲しそうだった。
あの時、先生は何かを知っていたのかもしれない。
黒夜は俯いたまま、拘束された手に力を込める。金属が軋む音がした。だが外れない。自分の無力さだけが、嫌になるほどはっきりしていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
誰にも届かないと分かっていた。
この部屋には、自分の声を聞いてくれる人などいない。仮に監視されていたとしても、それはただ情報として処理されるだけだろう。
トリニティの皆にも、ゲヘナの仲間達にも、ミレニアムの皆にも、アリウススクワッドにも、先生にも届かない。
それでも謝ることしかできなかった。
自分が悪意を持っていたわけではない。
そんなことは分かっている。
けれど、悪意がなかったからといって、結果が消えるわけではない。
もし自分の存在が、皆を壊す原因になるなら。
もし自分の喪失が、皆の神秘を反転させるなら。
自分は、どうすればいいのだろう。
その時だった。
扉が開く音がした。
黒夜は反射的に顔を上げようとした。だが、できなかった。
頬を伝う涙を止めることも、震える呼吸を整えることもできない。喉の奥に言葉が詰まり、謝罪の形になりかけた声だけが、掠れて消えていく。
「……」
誰かが入ってきた。
それは分かる。
警戒しなければならない。問いかけなければならない。何者か、何のために来たのか、確認しなければならない。
けれど、黒夜は何も言えなかった。
ただ俯いたまま、拘束された手に力を込めることしかできない。
入ってきた人物は、すぐには言葉を発しなかった。
足音は静かだった。シロコ*テラーのように無駄がない。だが、彼女とは違う。そこには何か、深く沈んだ疲労のようなものがあった。
黒夜の前で足音が止まる。
しばらく沈黙が落ちた。
そして、その人物は静かに口を開いた。
「泣いているんだね」
声は低く、擦れていた。
どこか機械越しのようでもあり、遠い場所から届いているようでもある。だが、その言葉の響きは不思議と柔らかかった。
黒夜は答えられない。
顔を上げることもできない。
相手は続けた。
「謝っていたんだね」
黒夜の肩が、小さく震えた。
「誰に?」
その問いは責めるものではなかった。
ただ、聞いていた。
黒夜は唇を震わせる。声を出そうとして、何度か失敗した。ようやく喉の奥から絞り出せた言葉は、ひどく小さかった。
「……みんなに」
その一言だけで、精一杯だった。
相手はしばらく黙っていた。
黒夜はそこで、ようやく視線を少しだけ上げる。
目の前に立っていたのは、見覚えのない人物だった。
顔は隠れている。身体の輪郭も、どこか人間離れして見える。だが、その佇まいには奇妙な静けさがあった。
威圧感はある。敵であることも分かる。けれど、シロコ*テラーのような冷たい道具を見る視線ではない。
もっと深く、もっと遠くから、黒夜を見ているようだった。
「……貴方は――」
黒夜は掠れた声で問いかける。
「この場所の、主ですか?」
「そうとも言えるね」
相手は静かに答えた。
「君をここに連れてくることを決めた側にいる」
「では……」
黒夜は息を吸う。
「貴方も、私を世界を壊す道具として使うつもりなのですね…」
その問いに、相手はすぐには答えなかった。
しばらくして、彼は静かに言った。
「そうだね」
黒夜の胸がまた冷える。
「けれど、それだけではない」
「君は――生徒だから」
その言葉に、黒夜は息を止めた。
生徒。
この状況で、その言葉を聞くとは思わなかった。
敵の拠点。拘束された椅子。世界を壊す起爆剤として拉致された自分。その自分に向けて、目の前の人物は生徒と言った。
「君が悪いわけじゃない」
彼は続ける。
「君の在り方が罪なわけじゃない」
黒夜は言葉を失った。
許されるとは思っていなかった。
責められる方が、まだ理解できた。お前のせいで皆が壊れる。お前の存在が危険だ。お前は世界を滅ぼす種だ。
そう言われる方が、シロコ*テラーの言葉と繋がる。
けれど、目の前の人物は違うことを言った。
君は悪くない。
その一言が、黒夜にはあまりにも重かった。
「どうして…?」
黒夜は呟く。
「どうして、そんな言葉を私に言うのですか?」
相手は黒夜を見ていた。
その視線の奥に何があるのかは、黒夜には分からない。だが、不思議とそこに敵意は感じなかった。
「君は、君のやりたいことをしていい」
その言葉は、さらに黒夜を揺らした。
「誰かを救いたいなら、救おうとしていい。誰かのそばにいたいなら、そばにいていい。誰かを守りたいなら、守ろうとしていい」
「でも……」
黒夜は震える声で遮った。
「その結果、皆が壊れるかもしれないのなら……私は……」
「悪くない者が、世界を壊すこともある」
静かな言葉だった。
優しいのに、残酷だった。
「君が望まなくても、君が知らなくても、君の存在を理由に誰かが壊れることはある」
黒夜は俯く。
「なら……私は、どうすればいいのですか」
声が震えた。
「誰かを救おうとすれば、その人を壊すかもしれない。何もしなければ、救えない。関われば危うくなる。離れれば、きっと誰かを傷つける」
言葉が溢れていく。
「私は……一体どうすればいいのですか?」
問いは、ほとんど悲鳴に近かった。
目の前の人物は、すぐには答えなかった。
その沈黙は、冷たくはなかった。だが、救いでもなかった。
「それを決めるのは、君だ」
やがて彼は言った。
黒夜は顔を上げる。
「私が……」
「そう。君が選ばなければならない」
「私に、選べるのですか」
「選ぶしかない」
その声は、とても静かだった。
「誰かが代わりに選べば、君はその結果に縛られる」
「だから、君自身が選ぶしかない」
「……」
「君が誰を信じるのか。君が何を守るのか。君がどこへ行きたいのか」
その言葉に、黒夜の心がわずかに揺れた。
自分が行きたい場所。
トリニティ。
ゲヘナ。
ミレニアム。
アリウス。
アビドス。
シャーレ。
自分には、行きたい場所が多すぎる。
だからこそ、自分が消えれば、多くの人が傷つく。
けれど、自分が戻れば、また誰かを危うくするかもしれない。
「私は……」
黒夜は言葉を探した。
「私は、まだ分かりません」
「今はそれでいい」
彼は静かに言う。
「すぐに答えを出せる問いではない」
「では、なぜ私にこんな話を」
「君が、いつか選ばなければならないから」
その言葉の意味を、黒夜はまだ理解できなかった。
だが、相手はそれ以上説明しなかった。
代わりに、ほんの少しだけ視線を下げる。
「黒夜」
初めて、名前を呼ばれた。
黒夜は息を呑む。
その声には、妙な懐かしさがあった。会ったことのないはずの相手なのに、どこかで聞いたような温度があった。
「君は悪くない」
もう一度、彼はそう言った。
「でも、悪くないからといって、何も背負わなくていいわけではない」
黒夜は黙って聞いていた。
「それでも、君は君のままでいていい」
その言葉は、救いのようだった。
けれど同時に、呪いのようでもあった。
自分のままでいていい。
それはつまり、自分の危険性を知った上で、それでも選び続けろということだ。逃げることも、消えることも、誰かに決めてもらうことも許されない。
黒夜は涙で濡れた視界のまま、目の前の人物を見上げる。
「貴方は……何者なのですか…?」
だが彼は答えなかった。
ただ、静かに背を向ける。
「今はまだ、知らなくていい」
扉へ向かって歩き出す。
黒夜は思わず声を上げようとした。
だが、言葉が出ない。
相手は扉の前で一度だけ立ち止まった。
「黒夜」
もう一度、名前を呼ぶ。
「君が何を選んでも、誰かは傷つくかも知れない」
黒夜の喉が詰まる。
「だからこそ、誰かの痛みだけを理由に、生きる事から逃げてはいけないよ」
それだけ言い残し、彼は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
電子ロックの音が響く。
部屋には再び、黒夜一人が残された。
先ほどまでと同じ部屋。同じ拘束。同じ冷たい床。
だが、黒夜の中には、先ほどとは違う問いが残っていた。
自分が悪いわけではない。
けれど、自分が世界を壊すかもしれない。
自分は誰かを救いたい。
けれど、救った相手を壊すかもしれない。
自分を消せば、皆は壊れずに済むのだろうか。
いや、本当にそうなのだろうか。
誰かの痛みだけを理由に、逃げてはいけない。
その言葉が、胸の奥で揺れている。
黒夜は拘束された手を見下ろした。
涙はまだ止まりきっていない。頬に残る熱も、胸の痛みも消えていない。
だが、先ほどのようにただ謝ることしかできない状態ではなかった。
答えは出ない。
何も分からない。
それでも、問いだけは残された。
「……私は」
黒夜は小さく呟く。
「何を、選べばいいのでしょうか…」
その声は、誰にも届かなかった。
ただ、低い駆動音だけが、冷たい部屋の中で静かに響き続けていた。