黒夜を探すためにシャーレを飛び出してから、どれほど時間が経ったのか。
テラー達には、もう正確には分からなくなっていた。
空はいつの間にか紅い色へと変わり、キヴォトス全域に現れた異常な構造体――虚妄のサンクトゥムの影が、街のどこにいても視界の端に入り込んでくる。
各地では追従者や聖徒会のミメシスが出現し、混乱が広がっていた。避難誘導の声、銃声、警報、通信障害を知らせるノイズ。
世界そのものが軋んでいるような音が、絶えずどこかから響いていた。
けれど、三人にとってはどうでもよかった。
世界がどうなろうと、今の彼女たちにとって最優先なのは一つだけだった。
黒夜を見つける――それだけだった。
『いない……』
ミカ*テラーが、掠れた声で呟いた。
彼女たちはまずトリニティを探した。ティーパーティーの執務室、黒夜がよく通る廊下、庭園、礼拝堂の近く、シスターフッドや救護騎士団の方面。
黒夜が立ち寄りそうな場所を、思いつく限り回った。
居なかった。
次にゲヘナへ向かった。風紀委員会、万魔殿、便利屋が出入りしそうな通り、かつて黒夜がよく巻き込まれていた騒動の起点になりそうな場所。
追従者の出現で混乱している中、それでも三人は探し続けた。
見つからなかった。
ミレニアムにも行った。リオの部屋、特異現象捜査部、ゲーム開発部、C&Cの活動圏、訓練場、エリドゥ関連の施設。
すでに学園内も混乱していたが、三人は構わず進んだ。
認めたくなかった。
シャーレ周辺も探した。黒夜が最後に確認された場所。アツコたちと別れたというファミレスの周辺。路地裏、監視カメラの死角になりそうな場所、建物の影。
黒夜の痕跡を見つけようと、何度も何度も歩き回った。
それでも、どこにもいなかった。
『黒夜……どこ……?』
ミカ*テラーの声が震えていた。
いつものような軽さはもうない。冗談を言う余裕も、怒りでごまかす余裕もない。ただ、底の抜けた不安だけが彼女の中に残っていた。
『黒夜、返事してよ……ねぇ……』
『ミカさん、声を抑えてください。周囲の敵を引き寄せます』
ナギサ*テラーはそう言ったが、その声も硬かった。冷静であろうとしている。状況を整理し、優先順位をつけ、次に向かう場所を考えようとしている。
けれど、思考は何度も同じ場所へ戻ってしまう。
黒夜がいない。
その事実だけが、すべてを塗り潰していく。
『うるさい……雑魚なんかどうでもいいよ……』
ミカ*テラーは顔を上げた。
『黒夜がいないの。黒夜がどこにもいないの。なんで? なんで見つからないの?』
『……落ち着け、ミカ』
セイア*テラーが言う。
だが、その言葉に力はなかった。彼女自身もまた、顔色を失っていた。未来を読む力、先を見通す思考、状況を俯瞰する冷静さ。それらを総動員しても、黒夜の居場所だけが掴めない。
まるで、黒夜だけがこの世界から切り取られてしまったかのようだった。
三人は崩れかけた建物の影で、一度だけ足を止めた。
周囲には戦闘の痕跡が残っていた。破壊されたミメシスの残骸、焦げた地面、割れたガラス、遠くで響く警報音。世界は確かに異常事態の中にあった。
だが、それでも黒夜がいないことに比べれば、すべてが遠かった。
『セイアさん』
『力を使ってください』
『……簡単に言うね』
『簡単なことだとは思っていません』
『ですが、もう手段を選んでいる場合ではありません。私たちは黒夜さんを見つけなければならない』
『セイアちゃん、お願い』
ミカ*テラーが一歩詰め寄る。
『もう無理。黒夜が見つからないの、耐えられない。どこにいるのかだけでもいい。力を使って、黒夜を探して』
セイア*テラーは、二人を見た。
ナギサ*テラーは冷静に見えるが、指先が震えている。ミカ*テラーは涙をこらえきれていない。
二人とも限界だった。いや、自分も同じだと、セイア*テラーは理解していた。
力を使うこと自体はできるが、怖かった。
もしそれでも見つからなかったら。
もし、何も見えなかったら。
もし、黒夜の存在そのものがどこにも引っかからなかったら。
その意味を、自分たちは受け止められるのか。
『……分かった』
セイア*テラーは小さく息を吐いた。
『ただし、期待しすぎないでくれ。今のキヴォトスは異常だ。この空の影響か、座標も因果も乱れている。通常とは違う』
『言い訳は後でいいです』
ナギサ*テラーの声が鋭くなる。
『今は、探してください』
セイア*テラーは目を閉じた。
世界の輪郭が、薄くほどけていく。
視界ではなく、もっと深い場所。空間の歪み、因果の流れ、存在の残響。黒夜という存在に繋がる細い糸を探すように、セイア*テラーは意識を広げた。
トリニティ。
ゲヘナ。
ミレニアム。
シャーレ。
アリウス。
アビドス。
街路、校舎、地下施設、屋上、病室、廃墟、戦場。黒夜がいそうな場所、黒夜が行きそうな場所、黒夜の痕跡が残りそうな場所を、感覚の網で一つずつ撫でていく。
見えない。
いない。
黒夜の気配が、ない。
セイア*テラーの眉間に皺が寄る。呼吸が浅くなる。額に汗が滲む。力をさらに広げる。キヴォトス全域へ、黒夜の名を持つ存在を探す。
それでも――。
『……いない』
ぽつりと、言葉が落ちた。
ミカ*テラーが固まる。
『え……?』
ナギサ*テラーの喉が、小さく鳴った。
『どういう……意味ですか』
セイア*テラーは目を開けた。
その顔には、困惑と恐怖が滲んでいた。
『キヴォトスに黒夜はもういない…』
その瞬間、世界の音が消えたように感じた。
遠くの警報も、銃声も、追従者の駆動音も、何も聞こえない。ただ、その一言だけが、三人の間に残った。
キヴォトスにはいない。
黒夜がこの世界のどこにも。
『嘘……』
ミカ*テラーの声が崩れる。
『嘘だよね? セイアちゃん、嘘って言って。見落としただけだよね? ねぇ、ちゃんと探してよ。もっとちゃんと探してよ!!!』
『ミカ…』
『だって、おかしいじゃん! 黒夜がいないって何!? どこにもいないって何!? そんなの、そんなの……』
ミカ*テラーは言葉を続けられなかった。
彼女の中で、最悪の可能性が形を持ち始めていた。
黒夜が、この世にいない。
もう、どこにもいない。
その考えが浮かんだ瞬間、膝から力が抜けそうになる。
『黒夜さんが……』
ナギサ*テラーの声は、非常にか細い物だった。
『もう……』
言葉にできない。
言葉にすれば、それが現実になってしまう気がした。
セイア*テラーは唇を噛んだ。自分で告げた言葉なのに、その意味を受け止められない。キヴォトスにはいない。ではどこにいる。まさか、本当に。
黒夜が死んだ。
その可能性が、三人を押し潰そうとしていた。
ミカ*テラーは両手で頭を抱える。
『いや……いやだ……いやだいやだいやだ……』
『また? また黒夜がいなくなるの? やっと、やっと今度は一緒にいられると思ったのに……いやだ……』
『ミカさん…』
ナギサ*テラーが手を伸ばしかける。
けれど、その手も震えていた。
自分も同じだった。
黒夜を失う。
それは、彼女たちにとって二度目の終わりだった。
かつての世界で、黒夜を失った。
その果てに壊れ、狂い、世界を滅ぼした。
そして今度こそと思った。今度こそ黒夜のいる世界で、黒夜の傍にいられると思った。
彼を守り、彼に嫌われないように、彼と共に生き直せると思った。
なのに、また。
また、黒夜がいなくなる。
視界が暗く沈んでいく。
その時ナギサ*テラーの思考に何かが引っ掛かる。
『……待ってください』
ナギサ*テラーが、ふと顔を上げた。
声は震えていた。
だが、その奥に別の色が混じっていた。
『おかしくないですか…?』
ミカ*テラーが涙で濡れた顔を向ける。
『何が……?』
『変ですよ…』
ナギサ*テラーは、自分の言葉を確かめるようにゆっくり続けた。
『もし黒夜さんが本当に亡くなっているのなら……なぜ、まだ誰もテラー化していないのですか?』
その言葉に、セイア*テラーの目が見開かれた。
ミカ*テラーも、呼吸を止める。
『……え?』
『黒夜さんが行方不明になってから、既に三日が経っています』
ナギサ*テラーの声が少しずつはっきりしていく。
『私たちは知っているはずです。黒夜さんを失った者がどうなるのかを。もし本当に黒夜さんが死んでいるのなら、あれほど深く黒夜さんと関わった者たちの中から、既に誰かがテラーへ落ちていてもおかしくない』
それは希望というより、絶望の中から拾い上げた矛盾だった。
黒夜が死んでいない証拠が、誰も壊れていないこと。
あまりにも歪で、あまりにも悲しい論理。
けれど、今の三人にはそれしかなかった。
『つまり……』
ミカ*テラーが震える声で言う。
『黒夜は……まだ生きてる?』
『可能性はあります』
ナギサ*テラーは即答した。
『少なくとも、黒夜さんの死が確定したと考えるには矛盾があります』
『……なるほど』
セイア*テラーの目に、わずかな光が戻る。
『キヴォトスにはいない。だが、死んでいるわけでもない。ならば、キヴォトスの通常座標から外れた場所にいる可能性がある』
『通常座標から外れた場所……?』
『上空、異空間、隔離領域、あるいはそれらに関連する構造体』
セイア*テラーは空を見上げる。
そこには、キヴォトス全域を覆うように異常な気配が広がっていた。
ナギサ*テラーが静かに言う。
『セイアさん。もう一度、探してください』
『……さっきより範囲を広げろと?』
『そうです』
ナギサ*テラーは頷く。
『キヴォトスの内側だけではなく、外側も。通常の空間だけでなく、切り離された場所も、あらゆる可能性を含めて』
セイア*テラーは小さく笑った。
余裕からではない。あまりにも無茶な要求だったからだ。
『君は本当に、黒夜のことになると容赦がないね』
『当然です』
ナギサ*テラーは即答した。
『黒夜さんを見つけるためなら、容赦など必要ありません』
『そうだよ』
ミカ*テラーも涙を拭わないまま顔を上げる。
『黒夜が生きてるなら、絶対見つける。どこにいても、絶対に』
セイア*テラーは二人を見て、静かに息を吸った。
『分かった』
再び目を閉じる。
今度は、先ほどよりもさらに深く。
キヴォトスという枠そのものを越えて、存在の残響を探す。地上ではない。校舎でもない。街でもない。人の気配が集まる場所ではない。もっと遠く、もっと高く、通常の視点では届かない場所。
この紅い空の歪みを避け、追従者たちの気配を掻き分け、空間の裂け目のような場所へ意識を伸ばす。
セイア*テラーの呼吸が乱れた。
視界の裏側に黒い影が走る。情報が多すぎる。異常が多すぎる。世界全体が軋んでいる今、正確に一点を探し当てるのは容易ではない。
それでも、探す。
黒夜。
黒夜。
黒夜。
どこにいる。
どこへ連れていかれた。
どこで、何をされている。
セイア*テラーの表情が変わった。
『……あ』
小さな声。
ナギサテラーとミカテラーが同時に身を乗り出す。
『見つけたのですか!?』
『黒夜!? 黒夜いた!?』
セイア*テラーは目を開けた。
その顔は困ったように歪んでいた。安堵ではない。恐怖でもない。
ただ、信じたくないものを見つけてしまった者の顔だった。
『……上だ』
ぽつりと呟く。
『え?』
『遥か上空だ』
セイア*テラーは、ゆっくりと空を指さした。
ナギサ*テラーとミカ*テラーが、その指の先を追う。
空…その遥か上。
鈍く歪んだ空のさらに向こう。雲とも影ともつかないものの中に、黒い点のような何かが見えた。
あまりにも遠い。
普通なら見落としてしまうほど小さい。
けれど、三人には分かった。
あれだ。あそこに、黒夜がいる。
あるいは、黒夜を奪ったものがある。
ナギサ*テラーの瞳から、光が消えていく。
ミカ*テラーの口元が、ゆっくりと歪んだ。
セイア*テラーは空を見上げたまま、静かに息を吐く。
『あそこ、ですね』
ナギサ*テラーが呟いた。
声は静かだった。
だが、その奥には黒く燃えるものがあった。
『黒夜を返してもらわないとね』
ミカ*テラーが笑った。
涙の跡が残った顔で、ひどく虚ろな笑みを浮かべながら。
セイア*テラーは、遥か上空の黒い点を睨むように見つめた。
『……行こうか』
三人は同時に空を見上げる。
キヴォトスの混乱も、世界の危機も、虚妄のサンクトゥムも、今だけは彼女たちの視界から消えていた。
ただ一つ。
黒夜を奪った場所だけが、彼女たちの目に焼き付いていた。