ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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最期の選択 ~7~

 涙は、もう出なかった。

 どれだけ目の奥が熱くなっても、どれだけ胸の奥が締め付けられても、頬を伝うものはなかった。

 泣き疲れたのか、それとも身体が涙を流すことすら諦めてしまったのか、黒夜には分からない。

 

 ただ、喉だけが痛かった。

 謝り続けたせいかもしれない。

 

 誰にも届かないと分かっていながらそれでも繰り返した。ごめんなさい、と何度も何度も。

 名前を呼びながら、顔を思い浮かべながら、届くはずのない相手へ、届かない謝罪を続けた。

 

 やがて声も枯れ、涙も枯れ、黒夜はただ拘束椅子に縛り付けられたまま、薄暗い部屋の中で項垂れていた。

 

 アトラ・ハシースの箱舟。その内部にある、窓のない一室。

 

 外で何が起きているのか、黒夜には分からない。キヴォトスがどうなっているのかも、先生や皆がどうしているのかも、何一つ分からなかった。

 分かるのは、自分がここにいるということだけ。

 

 何もできない。

 

 その事実が、時間が経つほどに重くなっていく。

 

 以前の自分なら、こんな状況でも考え続けていたはずだった。何か手はないか。どうすれば脱出できるか。誰かに連絡する手段はないか。

 拘束具の構造、監視の死角、扉の開閉タイミング、全てを観察して、何かをしようと足掻いたはずだった。

 だが今は、その気力が湧かなかった。

 

 動かなければならない。

 それは分かっている。

 それでも、心が動かなかった。

 

 自分が外へ戻れば、また誰かと関わってしまう。誰かが自分を見て安心してしまう。自分を必要としてしまう。

 そしていつか自分を失った時、その人たちは壊れてしまうかもしれない。

 だから動けない。

 でも、動かないままでは誰も救えない。

 

 その矛盾が、黒夜の中でずっと絡まり続けていた。

 

 ――君は、君のやりたいことをしていい。

 

 頭の中で何度も響く。

 

 名前も知らない。

 

 正体も分からない。

 

 けれど、どこか先生に似た温度を持っていた人。

 

 敵側の存在であるはずなのに、黒夜を責めなかった。お前のせいだとは言わなかった。悪いのは君ではないと言った。君の在り方が罪ではないと言った。

 その言葉は優しかった。

 優しかったからこそ、今の黒夜には痛かった。

 

「……私の、やりたいこと」

 

 掠れた声が、薄暗い部屋に落ちる。

 やりたいこと。

 自分は何がしたかったのだろう。

 

 誰かを守りたかった。

 それは確かだ。

 

 誰かの役に立ちたかった。

 それも確かだ。

 

 けれど、それは本当に自分の願いだったのか。それとも、誰かに必要とされたいという弱さだったのか。

 誰かを救うことで、自分の居場所を確かめていただけなのか。

 そう考え始めると、何も分からなくなった。

 

 自分が善意だと思っていたものも、優しさだと思っていたものも、誰かを縛る楔だったのかもしれない。

 自分は救っていたのではなく、依存させていたのかもしれない。

 自分は守っていたのではなく、自己の自尊心を満たしたかったのかもしれない。

 

 考えれば考えるほど、胸の奥が冷えていく。

 

 黒夜は目を閉じた。

 

 すると、闇の中に記憶が浮かんだ。

 

 最初は、ゲヘナだった。

 

 まだ自分がゲヘナの生徒だった頃。ゲヘナのスパイとして、トリニティへ入り込んだ日のことを思い出す。

 あの頃の自分は、今よりもずっと色褪せた世界で生きていた気がする。警戒して、疑って、周囲と一定の距離を置いていた。

 

 トリニティは眩しかった。

 

 整えられた庭園、静かな礼拝堂、上品な紅茶の香り、柔らかな声。ゲヘナとはまるで違う世界だった。

 秩序があって、綺麗で、穏やかで、だからこそ居心地が悪かった。

 自分はそこに紛れ込んだ異物だった。

 いつ正体が露見するか分からない。誰を信じればいいのか分からない。そんな中で、ティーパーティーの三人と関わるようになった。

 

 ナギサ、ミカ、セイア

 

 最初は、距離があった。

 

 当然だ。立場も違う。背景も違う。抱えているものも違う。けれど、いつの間にか黒夜は彼女たちの近くにいるようになっていた。

 護衛として、従者のように、時に話し相手として。気が付けば、ティーパーティー専属護衛という肩書きが自分に与えられていた。

 

 その時の戸惑いを、まだ覚えている。

 自分がそんな場所にいていいのかと、何度も思った。

 けれど、ナギサは当然のように自分へ役割を与えた。ミカは遠慮なく距離を詰めてきた。セイアは静かな目で、自分が逃げようとする先を見透かすように言葉を投げてきた。

 

 本当に、面倒だった。

 それでも、今思い返すと、その面倒さはどこか温かかった。

 

 次に浮かんだのは、先生だった。

 

 先生と出会い、先生に助けられた。自分ではどうにもならないものを抱え、潰れそうになっていた時、先生は自分をただの道具として見なかった。

 利用価値のある存在でも、危険な存在でも、都合の良い駒でもなく、一人の生徒として見てくれた。

 嘘までついて自分を救ってくれた。

 

 先生はいつも、簡単な答えをくれるわけではなかった。

 むしろ、問いを残す人だった。

 それでも、先生のそばにいると、不思議と前を向こうと思えた。

 

 ナギサたちにも救われた。

 

 マコトたちにも救われた。

 

 ゲヘナとトリニティの間で揺れ、どちらにも完全には属せないような自分を、それでも誰かが見てくれていた。

 

 マコト様は、いつも大げさで、騒がしくて、時に面倒で、けれど不思議なほど真っ直ぐだった。

 黒夜に向けられる尊大な言葉の裏に、確かな信頼があることを、黒夜はいつしか知っていた。

 

 ヒナは厳しく、強く、そして誰よりも責任を背負っていた。戦い方を教わった。自分に必要なものを叩き込まれた。

 黒夜が今まで生き延びてこられたのは、彼女の教えがあったからでもある。

 

 カヨコは多くを語らない。

 だが、必要な時には必ず言葉をくれた。情報の扱い方、距離の取り方、誰かを無理に変えようとしないこと。

 彼女の静かな在り方に、黒夜は何度も助けられた。

 

 そうして思い出は、次の痛みへ移っていく。

 

 アリウススクワッド。

 

 調印式襲撃。

 

 左目を失った日のこと。

 

 痛みは今でも思い出せる。

 

 熱さと、暗さと、何かが自分の世界から永遠に欠け落ちた感覚。片目を失ったという事実は、ただ身体の一部を失っただけではなかった。

 それまで見えていた世界が変わり、自分の距離感も、戦い方も、日常の所作すらも変わった。

 

 その原因となった彼女たちを、許した。

 許した、と言うほど立派なものだったのかは、今でも分からない。

 ただ、彼女たちを憎みきれなかった。

 

 アツコの顔が浮かぶ。

 

 自分の左目を奪ったことを、彼女はずっと背負っている。償いという言葉で、自分との繋がりを持ち続けようとしていた。

 黒夜はそれを止められなかった。止めるべきだったのかもしれない。自分との繋がりが彼女を危うくするなら、もっと早く距離を置くべきだったのかもしれない。

 

 でも、できなかった。

 彼女たちともまた、関わってしまった。

 関わって、知って、許して、笑い合えるようになってしまった。

 

 そして自分は、ゲヘナとトリニティの両学園所属になった。

 普通ではあり得ないことだ。

 それだけでも十分に騒がしい人生だったはずなのに、そこへ別世界からテラー達がやって来た。

 

 今では黒いティーパーティーと言われるナギサ*テラー、ミカ*テラー、セイア*テラーの三人。

 

 最初は、どう向き合えばいいのか分からなかった。

 彼女たちは、自分を失った世界の成れの果てだった。愛と依存と後悔と絶望が混ざり合い、取り返しのつかない形になってしまった存在。

 彼女たちを見るたびに、黒夜は胸の奥を掴まれるような感覚を覚えた。

 

 それでも、彼女たちとも向き合った。

 ぎこちなくても、恐ろしくても、逃げずに話した。

 少しずつ、関係を作り直そうとした。

 

 あの三人は、黒夜の前では時々とても不器用だった。過保護で、重くて、危うくて、けれどどこか憎めなかった。

 自分を失った痛みを抱えたまま、それでも今の世界でやり直そうとしていた。

 

 黒夜は彼女たちを信じたいと思った。

 信じてもらいたいとも思った。

 

 その後に、ミレニアムの事件があった。

 

 アリス。

 

 ゲーム開発部。

 

 リオ。

 

 ヒマリ。

 

 ネルたちC&C。

 

 エリドゥでの戦い。

 

 自分はまた、そこでも多くの人と関わった。

 アリスを救いたかった。

 リオを救いたかった。

 先生たちの助けになりたかった。

 結果として自分は限界まで戦い、倒れ、死んだと勘違いされ、皆を不安にさせた。

 そして気が付けば、なぜかミレニアム所属まで追加されていた。

 

 三大校所属。

 ゲヘナ トリニティ ミレニアム

 

 冷静に考えれば、意味が分からない。

 

 どうしてそうなったのか、今でも完全には理解できていない。リオとヒマリが何かしたのだろう、ということだけは分かっている。

 けれど、あの時の騒動を思い出すと、今でも少しだけ苦笑したくなる。

 

 そして、アビドス。

 

 盾の扱いに伸び悩み、シロコに連れて行かれた先で、ホシノと出会った。

 守るとは耐えることではない。

 守るとは、ただ前に立って攻撃を受け止めることではない。

 動き、相手の動きを潰し、味方を守るために自分の距離を作ること。

 ホシノから学んだそれは、黒夜にとって大きな転機だった。

 

 アビドスの空気は気安く楽しかった。

 砂に覆われ、どこか寂しくて、それでもあの学校には確かな温かさがあった。

 

 シロコ、ノノミ、セリカ、アヤネ、ホシノ。

 

 短い時間だったが、あの場所でもまた、自分は誰かと関わった。

 

 思い返せば、本当に騒がしい日々だった。

 裏切りから始まり、護衛になり、救われ、傷つき、許し、所属が増え、別世界の存在と向き合い、ミレニアムで騒動に巻き込まれ、アビドスで訓練を受けた。

 普通の生徒の人生としては、きっと滅茶苦茶だ。

 

 面倒なことばかりだった。

 危険なことばかりだった。

 泣いたことも、苦しんだことも、後悔したことも、数え切れないほどあった。

 

 けれど…それでも――

 

 記憶の中で浮かぶ顔は、どれも騒がしくて、面倒で、眩しかった。

 

 ナギサの困ったような微笑み。

 

 ミカの遠慮のない笑顔。

 

 セイアの静かな眼差し。

 

 マコトの大げさな高笑い。

 

 ヒナの厳しい横顔。

 

 カヨコの呆れたような声。

 

 リオの不器用な優しさ。

 

 ヒマリの自信たっぷりのドヤ顔。

 

 アツコの柔らかな微笑み。

 

 先生の、いつも生徒を見る目。

 

 テラー達の重くて不器用で、それでも確かな想い。

 

 そのどれもが、黒夜の中に残っていた。

 涙も枯れて、ボロボロで、拘束されたままなのに。

 それでも思い出す顔は、どれも騒がしくて、面倒で、眩しくて。

 

 気付けば、黒夜はかすかに笑っていた。

 笑えるような状況ではない。

 そんなことは分かっている。

 それでも、思い出の中の皆はあまりにも鮮やかだった。

 

 自分を振り回して、怒って、笑って、心配して、信じて、勝手に所属を増やして、勝手に手元に置こうとして、勝手に守ろうとしてくる。

 面倒で、騒がしくて、どうしようもなく眩しい。

 

「……あぁ」

 

 黒夜は、掠れた声で呟いた。

 

「私は……」

 

 胸の奥に、静かな答えが落ちる。

 自分は、ずっと怖かった。

 自分が誰かを壊すかもしれないことが怖かった。

 自分の存在が誰かを縛ることが怖かった。

 

 でも、それ以前に。

 自分はこの世界が好きだった。

 

 ゲヘナの騒がしさも。

 

 トリニティの静かさも。

 

 ミレニアムの慌ただしさも。

 

 アリウスの痛みも。

 

 アビドスの温かさも。

 

 シャーレの穏やかな時間も。

 

 そこにいる人たちも。

 

 自分と関わってくれた、全ての人たちも。

 

「私は……この騒がしくて明るい世界が、好きなんですね……」

 

 その自覚は、あまりにも遅く、あまりにも残酷だった。

 好きだからこそ、壊したくない。

 大切だからこそ、自分のせいで傷つけたくない。

 

 帰りたいと思う。

 けれど、帰っていいのか分からない。

 

 消えたくないと思う。

 けれど、消えなければならないのかもしれない。

 

 好きだと自覚した瞬間、その世界を守るために自分が何をすべきなのかという問いが、さらに重くのしかかってきた。

 黒夜は目を閉じる。拘束された手首の痛みも、乾いた喉の痛みも、どこか遠い。

 

 ただ、胸の中にある温かな記憶だけが、苦しいほど鮮明だった。

 この世界が好きだと気付いた瞬間、黒夜の胸に落ちたものは、救いではなかった。

 

 むしろ、それは新しい痛みに近かった。

 

 好きだと思えた。帰りたいと思えた。もう一度、皆の声を聞きたいと思えた。

 それは、黒夜にとって確かに大切なものだった。

 

 だからこそ、怖かった。

 

 大切だと自覚してしまったから、失うことが怖い。傷つけることが怖い。

 自分の存在が、その眩しい世界を壊すかもしれないと知ってしまった今、好きだという感情はそのまま刃のように胸へ返ってきた。

 

 この世界が好きだ。

 だから壊したくない。

 そのために、自分は何を選べばいいのか。

 

 そして、ある場面が浮かんだ。

 

 ミレニアムでの事件の時。

 あの時、テラー達は消えようとしていた。

 

 自分たちの存在を、自分と関わった記憶ごと消そうとしていた。黒夜に嫌われたくないから。黒夜を苦しめたくないから。

 黒夜の中に自分たちが残ることすら、彼の負担になると思ったから。

 

 彼女達は、自分たちを消すことを選ぼうとした。

 あの時の光景が、今になって妙に鮮明に蘇る。

 

 ナギサ*テラーの静かな微笑み。ミカ*テラーの壊れそうな明るさ。セイア*テラーの諦めたような瞳。

 あの三人は、自分たちが消えることを救いだと思っていた。黒夜のためだと信じていた。自分たちがいなくなれば、黒夜は前へ進めると考えていた。

 

 黒夜は、それを止めた。

 

 止めたはずだった。

 

 消えないでほしいと言った。

 残ってほしいと言った。

 自分は彼女達を信じるから、彼女達にも自分を信じてほしいと言った。

 

 あの時は、本気でそう思っていた。

 今でも、あの言葉が嘘だったとは思わない。

 

 けれど。

 

「あの時、私は……彼女達を止めた」

 

 黒夜は、掠れた声で呟いた。

 

「けれど……本当に、止めてよかったのでしょうか…?」

 

 その問いは、誰にも届かない。

 それでも、口にせずにはいられなかった。

 

 あの時の黒夜は、消えることは間違いだと思っていた。どれだけ苦しくても、どれだけ罪を背負っていても、自分の存在を消すことは救いではないと思っていた。

 残された者の痛みを知っていたから。リオが自己犠牲を選ぼうとした時、その選択がどれほど周囲を傷つけるかを知ったから。

 

 だから止めた、でも今は。

 

 今の黒夜は、自分自身に同じ問いを向けている。

 もし存在そのものが誰かを傷つけるなら。

 もし自分が生きているだけで、誰かの中に壊れる種を残してしまうなら。

 もし自分と関わった人たちが、自分を失った時に恐怖へ落ちるのなら。

 

 消えることは、本当に間違いなのか?

 

 それは逃げなのか?

 

 それとも、救いなのか?

 

 黒夜はゆっくりと息を吸った。

 答えを考えるたびに、身体の内側を削られているような感覚がある。

 自分が消えればいい。そう考えた瞬間、どこかがひどく静かになった。恐ろしいほど静かだった。それは諦めに似ていた。けれど同時に、救いにも似ていた。

 自分がいなくなれば、皆は自己を失わずに済むのではないか。

 

 けれど、ただいなくなるだけでは駄目だ。

 

 自分を覚えている者がいる限り、喪失は残る。自分の名前が、声が、姿が、誰かの中に残る限り、皆はきっと傷ついてしまう。

 自分が消えたという事実を認識した瞬間、その人たちは壊れてしまうかもしれない。

 

 ならば、残してはいけない。

 自分という楔を。

 自分という痕跡を。

 自分が誰かの心に残してしまったものを。

 

 黒夜はそこで、思考を止めた。

 いや、止まった。

 その先を考えれば、自分が何を選ぼうとしているのか、はっきりしてしまう気がした。

 

 黒夜は静かに目を閉じた。

 

 そして、心の中で一人ずつ名前を呼ぶ。

 

 ナギサ様。

 

 いつも優雅で、けれど不器用で、自分を丁寧に扱おうとしてくれた人。トリニティという眩しい世界の中で、自分に居場所を与えてくれた人。

 

 ミカ様。

 

 明るくて、強くて、どうしようもなく眩しい人。距離の詰め方が下手で、時々無茶苦茶で、それでも真っ直ぐな感情を向けてくれた人。

 

 セイア様。

 

 静かに先を見て、言葉少なに本質を突いてくる人。自分が逃げようとする時、いつも逃げ道の先に立っているような人。

 

 ヒナさん。

 

 戦う術を教えてくれた人。厳しく、冷静で、誰よりも責任を背負いながら、それでも自分を見捨てなかった人。

 

 マコト様。

 

 大げさで、騒がしくて、面倒で、それでもどこか憎めない人。自分に対して、不思議なほど真っ直ぐな信頼を向けてくれた人。

 

 カヨコさん。

 

 多くを語らず、けれど必要な時には必ず言葉をくれた人。距離を取ることも、見守ることも、自分に教えてくれた人。

 

 リオさん。

 

 間違えて、傷ついて、それでも前を向こうとした人。自分に自己犠牲の残酷さを教えてくれた人。

 

 ヒマリさん。

 

 自称が長くて、言葉が回りくどくて、それでも誰よりも鋭く物事を見ていた人。自分を後輩のように扱いながら、繋がりを求めてくれた人。

 

 アツコさん。

 

 自分の左目を奪ったことを背負い続け、それでも柔らかく笑っていた人。償いという形で、自分との繋がりを持ち続けようとした人。

 

 先生。

 

 どんな時も、生徒を生徒として見てくれた人。自分を一人の生徒として扱ってくれた人。

 

 そして。

 

 テラーの皆さん。

 

 自分を失った世界で壊れ、それでも今の世界でやり直そうとしてくれた人たち。重くて、危うくて、不器用で、けれど自分のことを本気で想ってくれた人たち。

 

 黒夜は、心の中で深く頭を下げた。

 届かないと分かっている。

 けれど、言わずにはいられなかった。

 

 ありがとうございます。

 

 そして、ごめんなさい。

 

 自分は皆に救われた。

 皆がいたから、ここまで来られた。

 それは全部、皆との繋がりがあったからだ。

 

 黒夜はその繋がりを、大切だと思っている。

 大切だからこそ、壊したくない。

 自分のせいで壊したくない。

 自分が好きになった世界を、自分の神秘で殺したくない。

 

 黒夜はゆっくりと息を吐いた。

 体はまだ拘束されている。

 どこにも行けない。

 何もできない。

 けれど、心の奥にあった濁った水が、少しずつ沈んでいくような感覚があった。

 

 絶望が消えたわけではない。

 罪悪感がなくなったわけでもない。

 それでも、先ほどまでとは違う。

 ただ泣いて謝ることしかできなかった自分の中に、ひとつの意思が生まれ始めていた。

 

 もし、私という存在が皆を縛ってしまうなら。

 

 もし、私の喪失が皆を壊してしまうなら。

 

 もし、私が残したものが、この明るく騒がしい世界を終わらせてしまうなら。

 

 私は――

 

 黒夜は、そこで言葉を止めた。

 その先は、まだ声にしてはいけない気がした。

 言ってしまえば、もう戻れなくなる。

 

 そんな気がした。

 

 けれど、戻るつもりがないわけではなかった。

 帰りたい場所はある。

 会いたい人たちもいる。

 もう一度聞きたい声も、もう一度見たい笑顔も、もう一度交わしたい言葉も、数え切れないほどある。

 

 だからこそ、自分は選ばなければならない。

 誰かに選ばせるのではなく。

 先生に決めてもらうのでもなく。

 世界に押し付けられるのでもなく。

 恐怖に逃げ込むのでもなく。

 

 自分で。

 

 黒夜は、ゆっくりと目を開いた。

 朧げだった視界が、少しずつ輪郭を取り戻していく。薄暗い部屋。拘束された手首。床へ固定された足首。逃げ場のない椅子。何も変わっていない。

 

 それでも、黒夜の目には光が戻っていた。

 弱く、細く、今にも消えそうな光だった。

 けれど確かに、そこにあった。

 

 黒夜は顔を上げる。

 もう涙は出ない。

 声も掠れている。

 身体は疲れ果て、心もまだ傷だらけだ。

 それでも、黒夜は前を見た。

 

 かつてテラー達が消えようとした時、自分は止めた。

 なら今度は、自分が選ぶ番だ。

 誰かに止めてもらうためではない。

 誰かに許してもらうためでもない。

 自分がこの世界を好きだと知ってしまったから。

 この騒がしくて明るい世界を、壊したくないと思ってしまったから。

 

 黒夜は、静かに呟いた。

 

「今度は、私が選ぶ番ですね」

 

 その声は小さかった。

 けれど、確かに部屋の中へ落ちた。

 

 アトラ・ハシースの箱舟の奥深く。

 誰にも届かない場所で。

 月城黒夜は、静かに決意を固めていた。

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