涙は、もう出なかった。
どれだけ目の奥が熱くなっても、どれだけ胸の奥が締め付けられても、頬を伝うものはなかった。
泣き疲れたのか、それとも身体が涙を流すことすら諦めてしまったのか、黒夜には分からない。
ただ、喉だけが痛かった。
謝り続けたせいかもしれない。
誰にも届かないと分かっていながらそれでも繰り返した。ごめんなさい、と何度も何度も。
名前を呼びながら、顔を思い浮かべながら、届くはずのない相手へ、届かない謝罪を続けた。
やがて声も枯れ、涙も枯れ、黒夜はただ拘束椅子に縛り付けられたまま、薄暗い部屋の中で項垂れていた。
アトラ・ハシースの箱舟。その内部にある、窓のない一室。
外で何が起きているのか、黒夜には分からない。キヴォトスがどうなっているのかも、先生や皆がどうしているのかも、何一つ分からなかった。
分かるのは、自分がここにいるということだけ。
何もできない。
その事実が、時間が経つほどに重くなっていく。
以前の自分なら、こんな状況でも考え続けていたはずだった。何か手はないか。どうすれば脱出できるか。誰かに連絡する手段はないか。
拘束具の構造、監視の死角、扉の開閉タイミング、全てを観察して、何かをしようと足掻いたはずだった。
だが今は、その気力が湧かなかった。
動かなければならない。
それは分かっている。
それでも、心が動かなかった。
自分が外へ戻れば、また誰かと関わってしまう。誰かが自分を見て安心してしまう。自分を必要としてしまう。
そしていつか自分を失った時、その人たちは壊れてしまうかもしれない。
だから動けない。
でも、動かないままでは誰も救えない。
その矛盾が、黒夜の中でずっと絡まり続けていた。
――君は、君のやりたいことをしていい。
頭の中で何度も響く。
名前も知らない。
正体も分からない。
けれど、どこか先生に似た温度を持っていた人。
敵側の存在であるはずなのに、黒夜を責めなかった。お前のせいだとは言わなかった。悪いのは君ではないと言った。君の在り方が罪ではないと言った。
その言葉は優しかった。
優しかったからこそ、今の黒夜には痛かった。
「……私の、やりたいこと」
掠れた声が、薄暗い部屋に落ちる。
やりたいこと。
自分は何がしたかったのだろう。
誰かを守りたかった。
それは確かだ。
誰かの役に立ちたかった。
それも確かだ。
けれど、それは本当に自分の願いだったのか。それとも、誰かに必要とされたいという弱さだったのか。
誰かを救うことで、自分の居場所を確かめていただけなのか。
そう考え始めると、何も分からなくなった。
自分が善意だと思っていたものも、優しさだと思っていたものも、誰かを縛る楔だったのかもしれない。
自分は救っていたのではなく、依存させていたのかもしれない。
自分は守っていたのではなく、自己の自尊心を満たしたかったのかもしれない。
考えれば考えるほど、胸の奥が冷えていく。
黒夜は目を閉じた。
すると、闇の中に記憶が浮かんだ。
最初は、ゲヘナだった。
まだ自分がゲヘナの生徒だった頃。ゲヘナのスパイとして、トリニティへ入り込んだ日のことを思い出す。
あの頃の自分は、今よりもずっと色褪せた世界で生きていた気がする。警戒して、疑って、周囲と一定の距離を置いていた。
トリニティは眩しかった。
整えられた庭園、静かな礼拝堂、上品な紅茶の香り、柔らかな声。ゲヘナとはまるで違う世界だった。
秩序があって、綺麗で、穏やかで、だからこそ居心地が悪かった。
自分はそこに紛れ込んだ異物だった。
いつ正体が露見するか分からない。誰を信じればいいのか分からない。そんな中で、ティーパーティーの三人と関わるようになった。
ナギサ、ミカ、セイア
最初は、距離があった。
当然だ。立場も違う。背景も違う。抱えているものも違う。けれど、いつの間にか黒夜は彼女たちの近くにいるようになっていた。
護衛として、従者のように、時に話し相手として。気が付けば、ティーパーティー専属護衛という肩書きが自分に与えられていた。
その時の戸惑いを、まだ覚えている。
自分がそんな場所にいていいのかと、何度も思った。
けれど、ナギサは当然のように自分へ役割を与えた。ミカは遠慮なく距離を詰めてきた。セイアは静かな目で、自分が逃げようとする先を見透かすように言葉を投げてきた。
本当に、面倒だった。
それでも、今思い返すと、その面倒さはどこか温かかった。
次に浮かんだのは、先生だった。
先生と出会い、先生に助けられた。自分ではどうにもならないものを抱え、潰れそうになっていた時、先生は自分をただの道具として見なかった。
利用価値のある存在でも、危険な存在でも、都合の良い駒でもなく、一人の生徒として見てくれた。
嘘までついて自分を救ってくれた。
先生はいつも、簡単な答えをくれるわけではなかった。
むしろ、問いを残す人だった。
それでも、先生のそばにいると、不思議と前を向こうと思えた。
ナギサたちにも救われた。
マコトたちにも救われた。
ゲヘナとトリニティの間で揺れ、どちらにも完全には属せないような自分を、それでも誰かが見てくれていた。
マコト様は、いつも大げさで、騒がしくて、時に面倒で、けれど不思議なほど真っ直ぐだった。
黒夜に向けられる尊大な言葉の裏に、確かな信頼があることを、黒夜はいつしか知っていた。
ヒナは厳しく、強く、そして誰よりも責任を背負っていた。戦い方を教わった。自分に必要なものを叩き込まれた。
黒夜が今まで生き延びてこられたのは、彼女の教えがあったからでもある。
カヨコは多くを語らない。
だが、必要な時には必ず言葉をくれた。情報の扱い方、距離の取り方、誰かを無理に変えようとしないこと。
彼女の静かな在り方に、黒夜は何度も助けられた。
そうして思い出は、次の痛みへ移っていく。
アリウススクワッド。
調印式襲撃。
左目を失った日のこと。
痛みは今でも思い出せる。
熱さと、暗さと、何かが自分の世界から永遠に欠け落ちた感覚。片目を失ったという事実は、ただ身体の一部を失っただけではなかった。
それまで見えていた世界が変わり、自分の距離感も、戦い方も、日常の所作すらも変わった。
その原因となった彼女たちを、許した。
許した、と言うほど立派なものだったのかは、今でも分からない。
ただ、彼女たちを憎みきれなかった。
アツコの顔が浮かぶ。
自分の左目を奪ったことを、彼女はずっと背負っている。償いという言葉で、自分との繋がりを持ち続けようとしていた。
黒夜はそれを止められなかった。止めるべきだったのかもしれない。自分との繋がりが彼女を危うくするなら、もっと早く距離を置くべきだったのかもしれない。
でも、できなかった。
彼女たちともまた、関わってしまった。
関わって、知って、許して、笑い合えるようになってしまった。
そして自分は、ゲヘナとトリニティの両学園所属になった。
普通ではあり得ないことだ。
それだけでも十分に騒がしい人生だったはずなのに、そこへ別世界からテラー達がやって来た。
今では黒いティーパーティーと言われるナギサ*テラー、ミカ*テラー、セイア*テラーの三人。
最初は、どう向き合えばいいのか分からなかった。
彼女たちは、自分を失った世界の成れの果てだった。愛と依存と後悔と絶望が混ざり合い、取り返しのつかない形になってしまった存在。
彼女たちを見るたびに、黒夜は胸の奥を掴まれるような感覚を覚えた。
それでも、彼女たちとも向き合った。
ぎこちなくても、恐ろしくても、逃げずに話した。
少しずつ、関係を作り直そうとした。
あの三人は、黒夜の前では時々とても不器用だった。過保護で、重くて、危うくて、けれどどこか憎めなかった。
自分を失った痛みを抱えたまま、それでも今の世界でやり直そうとしていた。
黒夜は彼女たちを信じたいと思った。
信じてもらいたいとも思った。
その後に、ミレニアムの事件があった。
アリス。
ゲーム開発部。
リオ。
ヒマリ。
ネルたちC&C。
エリドゥでの戦い。
自分はまた、そこでも多くの人と関わった。
アリスを救いたかった。
リオを救いたかった。
先生たちの助けになりたかった。
結果として自分は限界まで戦い、倒れ、死んだと勘違いされ、皆を不安にさせた。
そして気が付けば、なぜかミレニアム所属まで追加されていた。
三大校所属。
ゲヘナ トリニティ ミレニアム
冷静に考えれば、意味が分からない。
どうしてそうなったのか、今でも完全には理解できていない。リオとヒマリが何かしたのだろう、ということだけは分かっている。
けれど、あの時の騒動を思い出すと、今でも少しだけ苦笑したくなる。
そして、アビドス。
盾の扱いに伸び悩み、シロコに連れて行かれた先で、ホシノと出会った。
守るとは耐えることではない。
守るとは、ただ前に立って攻撃を受け止めることではない。
動き、相手の動きを潰し、味方を守るために自分の距離を作ること。
ホシノから学んだそれは、黒夜にとって大きな転機だった。
アビドスの空気は気安く楽しかった。
砂に覆われ、どこか寂しくて、それでもあの学校には確かな温かさがあった。
シロコ、ノノミ、セリカ、アヤネ、ホシノ。
短い時間だったが、あの場所でもまた、自分は誰かと関わった。
思い返せば、本当に騒がしい日々だった。
裏切りから始まり、護衛になり、救われ、傷つき、許し、所属が増え、別世界の存在と向き合い、ミレニアムで騒動に巻き込まれ、アビドスで訓練を受けた。
普通の生徒の人生としては、きっと滅茶苦茶だ。
面倒なことばかりだった。
危険なことばかりだった。
泣いたことも、苦しんだことも、後悔したことも、数え切れないほどあった。
けれど…それでも――
記憶の中で浮かぶ顔は、どれも騒がしくて、面倒で、眩しかった。
ナギサの困ったような微笑み。
ミカの遠慮のない笑顔。
セイアの静かな眼差し。
マコトの大げさな高笑い。
ヒナの厳しい横顔。
カヨコの呆れたような声。
リオの不器用な優しさ。
ヒマリの自信たっぷりのドヤ顔。
アツコの柔らかな微笑み。
先生の、いつも生徒を見る目。
テラー達の重くて不器用で、それでも確かな想い。
そのどれもが、黒夜の中に残っていた。
涙も枯れて、ボロボロで、拘束されたままなのに。
それでも思い出す顔は、どれも騒がしくて、面倒で、眩しくて。
気付けば、黒夜はかすかに笑っていた。
笑えるような状況ではない。
そんなことは分かっている。
それでも、思い出の中の皆はあまりにも鮮やかだった。
自分を振り回して、怒って、笑って、心配して、信じて、勝手に所属を増やして、勝手に手元に置こうとして、勝手に守ろうとしてくる。
面倒で、騒がしくて、どうしようもなく眩しい。
「……あぁ」
黒夜は、掠れた声で呟いた。
「私は……」
胸の奥に、静かな答えが落ちる。
自分は、ずっと怖かった。
自分が誰かを壊すかもしれないことが怖かった。
自分の存在が誰かを縛ることが怖かった。
でも、それ以前に。
自分はこの世界が好きだった。
ゲヘナの騒がしさも。
トリニティの静かさも。
ミレニアムの慌ただしさも。
アリウスの痛みも。
アビドスの温かさも。
シャーレの穏やかな時間も。
そこにいる人たちも。
自分と関わってくれた、全ての人たちも。
「私は……この騒がしくて明るい世界が、好きなんですね……」
その自覚は、あまりにも遅く、あまりにも残酷だった。
好きだからこそ、壊したくない。
大切だからこそ、自分のせいで傷つけたくない。
帰りたいと思う。
けれど、帰っていいのか分からない。
消えたくないと思う。
けれど、消えなければならないのかもしれない。
好きだと自覚した瞬間、その世界を守るために自分が何をすべきなのかという問いが、さらに重くのしかかってきた。
黒夜は目を閉じる。拘束された手首の痛みも、乾いた喉の痛みも、どこか遠い。
ただ、胸の中にある温かな記憶だけが、苦しいほど鮮明だった。
この世界が好きだと気付いた瞬間、黒夜の胸に落ちたものは、救いではなかった。
むしろ、それは新しい痛みに近かった。
好きだと思えた。帰りたいと思えた。もう一度、皆の声を聞きたいと思えた。
それは、黒夜にとって確かに大切なものだった。
だからこそ、怖かった。
大切だと自覚してしまったから、失うことが怖い。傷つけることが怖い。
自分の存在が、その眩しい世界を壊すかもしれないと知ってしまった今、好きだという感情はそのまま刃のように胸へ返ってきた。
この世界が好きだ。
だから壊したくない。
そのために、自分は何を選べばいいのか。
そして、ある場面が浮かんだ。
ミレニアムでの事件の時。
あの時、テラー達は消えようとしていた。
自分たちの存在を、自分と関わった記憶ごと消そうとしていた。黒夜に嫌われたくないから。黒夜を苦しめたくないから。
黒夜の中に自分たちが残ることすら、彼の負担になると思ったから。
彼女達は、自分たちを消すことを選ぼうとした。
あの時の光景が、今になって妙に鮮明に蘇る。
ナギサ*テラーの静かな微笑み。ミカ*テラーの壊れそうな明るさ。セイア*テラーの諦めたような瞳。
あの三人は、自分たちが消えることを救いだと思っていた。黒夜のためだと信じていた。自分たちがいなくなれば、黒夜は前へ進めると考えていた。
黒夜は、それを止めた。
止めたはずだった。
消えないでほしいと言った。
残ってほしいと言った。
自分は彼女達を信じるから、彼女達にも自分を信じてほしいと言った。
あの時は、本気でそう思っていた。
今でも、あの言葉が嘘だったとは思わない。
けれど。
「あの時、私は……彼女達を止めた」
黒夜は、掠れた声で呟いた。
「けれど……本当に、止めてよかったのでしょうか…?」
その問いは、誰にも届かない。
それでも、口にせずにはいられなかった。
あの時の黒夜は、消えることは間違いだと思っていた。どれだけ苦しくても、どれだけ罪を背負っていても、自分の存在を消すことは救いではないと思っていた。
残された者の痛みを知っていたから。リオが自己犠牲を選ぼうとした時、その選択がどれほど周囲を傷つけるかを知ったから。
だから止めた、でも今は。
今の黒夜は、自分自身に同じ問いを向けている。
もし存在そのものが誰かを傷つけるなら。
もし自分が生きているだけで、誰かの中に壊れる種を残してしまうなら。
もし自分と関わった人たちが、自分を失った時に恐怖へ落ちるのなら。
消えることは、本当に間違いなのか?
それは逃げなのか?
それとも、救いなのか?
黒夜はゆっくりと息を吸った。
答えを考えるたびに、身体の内側を削られているような感覚がある。
自分が消えればいい。そう考えた瞬間、どこかがひどく静かになった。恐ろしいほど静かだった。それは諦めに似ていた。けれど同時に、救いにも似ていた。
自分がいなくなれば、皆は自己を失わずに済むのではないか。
けれど、ただいなくなるだけでは駄目だ。
自分を覚えている者がいる限り、喪失は残る。自分の名前が、声が、姿が、誰かの中に残る限り、皆はきっと傷ついてしまう。
自分が消えたという事実を認識した瞬間、その人たちは壊れてしまうかもしれない。
ならば、残してはいけない。
自分という楔を。
自分という痕跡を。
自分が誰かの心に残してしまったものを。
黒夜はそこで、思考を止めた。
いや、止まった。
その先を考えれば、自分が何を選ぼうとしているのか、はっきりしてしまう気がした。
黒夜は静かに目を閉じた。
そして、心の中で一人ずつ名前を呼ぶ。
ナギサ様。
いつも優雅で、けれど不器用で、自分を丁寧に扱おうとしてくれた人。トリニティという眩しい世界の中で、自分に居場所を与えてくれた人。
ミカ様。
明るくて、強くて、どうしようもなく眩しい人。距離の詰め方が下手で、時々無茶苦茶で、それでも真っ直ぐな感情を向けてくれた人。
セイア様。
静かに先を見て、言葉少なに本質を突いてくる人。自分が逃げようとする時、いつも逃げ道の先に立っているような人。
ヒナさん。
戦う術を教えてくれた人。厳しく、冷静で、誰よりも責任を背負いながら、それでも自分を見捨てなかった人。
マコト様。
大げさで、騒がしくて、面倒で、それでもどこか憎めない人。自分に対して、不思議なほど真っ直ぐな信頼を向けてくれた人。
カヨコさん。
多くを語らず、けれど必要な時には必ず言葉をくれた人。距離を取ることも、見守ることも、自分に教えてくれた人。
リオさん。
間違えて、傷ついて、それでも前を向こうとした人。自分に自己犠牲の残酷さを教えてくれた人。
ヒマリさん。
自称が長くて、言葉が回りくどくて、それでも誰よりも鋭く物事を見ていた人。自分を後輩のように扱いながら、繋がりを求めてくれた人。
アツコさん。
自分の左目を奪ったことを背負い続け、それでも柔らかく笑っていた人。償いという形で、自分との繋がりを持ち続けようとした人。
先生。
どんな時も、生徒を生徒として見てくれた人。自分を一人の生徒として扱ってくれた人。
そして。
テラーの皆さん。
自分を失った世界で壊れ、それでも今の世界でやり直そうとしてくれた人たち。重くて、危うくて、不器用で、けれど自分のことを本気で想ってくれた人たち。
黒夜は、心の中で深く頭を下げた。
届かないと分かっている。
けれど、言わずにはいられなかった。
ありがとうございます。
そして、ごめんなさい。
自分は皆に救われた。
皆がいたから、ここまで来られた。
それは全部、皆との繋がりがあったからだ。
黒夜はその繋がりを、大切だと思っている。
大切だからこそ、壊したくない。
自分のせいで壊したくない。
自分が好きになった世界を、自分の神秘で殺したくない。
黒夜はゆっくりと息を吐いた。
体はまだ拘束されている。
どこにも行けない。
何もできない。
けれど、心の奥にあった濁った水が、少しずつ沈んでいくような感覚があった。
絶望が消えたわけではない。
罪悪感がなくなったわけでもない。
それでも、先ほどまでとは違う。
ただ泣いて謝ることしかできなかった自分の中に、ひとつの意思が生まれ始めていた。
もし、私という存在が皆を縛ってしまうなら。
もし、私の喪失が皆を壊してしまうなら。
もし、私が残したものが、この明るく騒がしい世界を終わらせてしまうなら。
私は――
黒夜は、そこで言葉を止めた。
その先は、まだ声にしてはいけない気がした。
言ってしまえば、もう戻れなくなる。
そんな気がした。
けれど、戻るつもりがないわけではなかった。
帰りたい場所はある。
会いたい人たちもいる。
もう一度聞きたい声も、もう一度見たい笑顔も、もう一度交わしたい言葉も、数え切れないほどある。
だからこそ、自分は選ばなければならない。
誰かに選ばせるのではなく。
先生に決めてもらうのでもなく。
世界に押し付けられるのでもなく。
恐怖に逃げ込むのでもなく。
自分で。
黒夜は、ゆっくりと目を開いた。
朧げだった視界が、少しずつ輪郭を取り戻していく。薄暗い部屋。拘束された手首。床へ固定された足首。逃げ場のない椅子。何も変わっていない。
それでも、黒夜の目には光が戻っていた。
弱く、細く、今にも消えそうな光だった。
けれど確かに、そこにあった。
黒夜は顔を上げる。
もう涙は出ない。
声も掠れている。
身体は疲れ果て、心もまだ傷だらけだ。
それでも、黒夜は前を見た。
かつてテラー達が消えようとした時、自分は止めた。
なら今度は、自分が選ぶ番だ。
誰かに止めてもらうためではない。
誰かに許してもらうためでもない。
自分がこの世界を好きだと知ってしまったから。
この騒がしくて明るい世界を、壊したくないと思ってしまったから。
黒夜は、静かに呟いた。
「今度は、私が選ぶ番ですね」
その声は小さかった。
けれど、確かに部屋の中へ落ちた。
アトラ・ハシースの箱舟の奥深く。
誰にも届かない場所で。
月城黒夜は、静かに決意を固めていた。