最初に響いたのは、音ではなく衝撃だった。
アトラ・ハシースの箱舟全体が、内側から軋むように震えた。金属質の床が大きく跳ね、壁面を走っていた光のラインが一斉に乱れる。どこか遠くから警報が鳴り始めた。
黒夜は拘束された椅子の上で、反射的に顔を上げた。
何かが起きた。
それだけは分かった。
だが、それが攻撃なのか、事故なのか、それともこの箱舟そのものに異常が起きたのかは分からない。
窓のない部屋では外の状況を知る術もなく、ただ天井から降るように響く警報音だけが、事態の大きさを伝えていた。
再び、衝撃。
今度は先ほどよりも強い。拘束具が軋み、椅子の脚が床を擦る。どこかの隔壁が閉じるような音が遠くで重なり、続けて爆発音にも似た低い響きが箱舟全体へ広がった。
黒夜は乾いた喉で息を呑む。
先生たちが来たのか?
それとも、別の何かか?
確かめる手段はない。だが、黒夜の中で朧げだった意識が少しずつ輪郭を取り戻していく。先ほどまでの間に固まった決意は、まだ胸の奥に沈んでいた。
そのために自分が何を選ぶべきなのか、まだ誰にも言っていない答えを、黒夜は既に抱えていた。
だからこそ、今の衝撃は希望にも、恐怖にも感じられた。
扉の外で足音がした。
無人機の規則正しい駆動音ではない。もっと速く、もっと乱暴で、そして感情のある足音だった。電子ロックが強制解除されるような音が響き、扉が横へ滑る。
黒夜は敵かと思い、わずかに身構えた。
けれど、入ってきたのは良く知っている顔の三人だった。
『黒夜!』
最初に声を上げたのはミカ*テラーだった。
彼女は扉が開ききるのも待たずに部屋へ飛び込み、拘束された黒夜を見た瞬間、顔を歪めた。
怒りと安堵と恐怖が混ざったような表情。彼女らしくないほど、その目は泣きそうだった。
『黒夜さん……無事ですか!?』
ナギサ*テラーも駆け寄る。
普段ならどんな状況でも礼儀と優雅さを崩さない彼女が、この時ばかりは取り繕う余裕を失っていた。
黒夜の手首に残る赤い跡、憔悴した顔、乾ききった唇、力の入らない肩。そのすべてを見て、表情が冷たく固まる。
『……随分と酷い扱いだね』
セイア*テラーの声は静かだったが、怒りで震えていた。彼女は黒夜の拘束具を一瞥すると、すぐに構造を見切ったように手を伸ばす。
「皆さん……」
黒夜は掠れた声で呟いた。
それだけで、ミカ*テラーの顔が崩れた。
『よかった……生きてる……ちゃんと、生きてる……!』
彼女はそのまま黒夜に抱きつこうとして、拘束具があることに気付き、怒りの矛先をそちらへ向けた。
『こんなもの……!』
ミカ*テラーが拳を振り下ろす。
金属とも樹脂ともつかない拘束具が、鈍い音を立てて砕けた。手首の固定具が壊れ、黒夜の腕が自由になる。
だが黒夜の腕はすぐには上がらなかった。長時間固定されていたせいで痺れ、力が入らない。
ナギサ*テラーが腰の拘束を破壊し、セイア*テラーが足首の固定具を外す。
拘束が解かれた瞬間、黒夜の身体は前へ崩れた。
『黒夜!』
ミカ*テラーが慌てて支えようとするより早く、セイア*テラーが横から黒夜の身体を受け止めた。
『無理に立つな。君の身体は限界だ』
「……すみません」
『君が謝る事じゃない』
セイア*テラーの声が低くなる。
『謝るのは、君をこんな場所に閉じ込めた連中だ』
ナギサ*テラーはすでに通信機を取り出していた。
『先生、聞こえますか。こちらナギサです。黒夜さんを発見しました。生きています。ただし、かなり衰弱しています』
通信の向こうで、一瞬だけ音が止まった。
それから先生の声が返ってくる。
“黒夜は……無事なんだね?”
『はい。拘束は解除しました。これより合流地点へ向かいます』
“分かった。こっちも中心部へ進んでる。気を付けて”
通信が切れる。
ミカ*テラーは黒夜の顔を覗き込む。
『黒夜、歩ける? 無理なら私がお姫様抱っこしてあげるけど』
「……お気持ちだけで」
黒夜は少しだけ苦笑しようとしたが、上手く笑えなかった。
足に力を入れる。
けれど、膝が震えた。長く拘束されていたせいか、思うように体は動かなかった。精神的な消耗も大きい。自分で思っている以上に、身体は限界に近かった。
セイア*テラーが黒夜の腕を自分の肩へ回す。
『私が支える。ミカは前方警戒、ナギサは後方だ』
『わかった!』
『承知しました』
黒夜はセイア*テラーに身体を預ける形で、部屋の外へ出た。
その時、黒夜の指先が、ふらついた身体を支えるようにセイア*テラーの服の内側へ触れた。
ほんの一瞬。
セイア*テラーは、黒夜がバランスを崩したのだと思った。黒夜の身体を支え直し、何も言わず歩き出す。
黒夜の指先には、小さな重みが残っていた。
それを彼は、誰にも見えないように、そっと掌の中へ隠した。
通路へ出ると、箱舟の内部は明らかに混乱していた。
警報が鳴り続け、壁面の光は赤く点滅している。遠くから戦闘音が響き、所々で隔壁が破損していた。先ほどの衝撃の正体が、ただ事ではないことは明らかだった。
『私たちが乗ってきたウトナピシュティムの本船が激突した影響だろう…』
セイア*テラーが低く呟いた。
『先生たちが強引に突入したのですよ。無茶苦茶でしょう?』
ナギサ*テラーの声には、ほんのわずかに呆れが混じった。
『黒夜のためなら先生もなかなか無茶をするよね』
ミカ*テラーが前方の無人機を蹴り飛ばしながら言う。
『でも助かったよ! おかげで私たちもここまでスムーズに来れたし!』
黒夜はその会話を聞きながら、足を進めた。
先生が来ている。
皆が来ている。
その事実は、本来なら心から安堵できるもののはずだった。だが黒夜の胸には、安堵と同時に痛みが走る。
助けに来てくれた。
自分のために。
こんなにも危険な場所まで。
それが嬉しい。
嬉しいと思ってしまう。
だからこそ、怖かった。
通路を進む間、黒夜はほとんど口を開かなかった。
ミカ*テラーが何度も「大丈夫?」と聞き、ナギサ*テラーが「痛むところはありませんか」と声をかけ、セイア*テラーが支える力を調整してくれる。
その一つ一つが温かくて、同時に胸を締め付ける。
自分がいなくなれば、彼女たちは壊れるかもしれない。
その現実が、黒夜の中でまだ消えずに残っていた。
やがて、中心部に近づくにつれ、戦闘音が大きくなった。
開けた空間へ通じる通路の手前で、ナギサ*テラーが手を上げる。
『待ってください』
三人と黒夜は足を止めた。
通路の先、巨大な中枢区画のような場所で、すでに戦いが始まっていた。
そこにはアビドスの生徒たちの姿があった。
ホシノ、シロコ、ノノミ、セリカ。アヤネの姿はない。恐らく後方から支援に回っているのだろう。その少し後ろに先生が立ち、彼女たちを見守っている。
そして対面には、黒いドレスを纏った少女。
シロコ*テラー。
さらにその後方に、あの男がいた。
黒夜へ「君は悪くない」と告げた、謎の男。
プレナパテス。
黒夜は息を呑む。
セイア*テラーに支えられたまま、思わず一歩踏み出しかける。だが、ナギサテラーの手がそれを止めた。
『今出てはいけません』
「ですが……」
『黒夜さん、今の状態の貴方では戦闘に参加しても足手まといになるでしょう。それに、これは彼女たちの戦いです』
ナギサ*テラーの声は静かだった。
黒夜は唇を噛み、通路の影から様子を窺うことにした。
戦いは激しかった。
シロコ*テラーは強い。動きが鋭く、迷いがない。アビドスのシロコとは似ているのに、どこか決定的に違っていた。ホシノたちが連携して攻めても、彼女は容易に崩れない。
だが、彼女たちも退かなかった。
ホシノが前に立ち、シロコが撃ち、ノノミが火力を重ね、セリカが隙を突く。先生の指示が入り、彼女たちの動きが噛み合っていく。
黒夜は、その光景をただ見ていた。
自分が入る余地はないし入れる状態でもない。
それ以上に入ってはいけない、そう思った。
やがて、戦いの中でシロコ*テラーの口からこぼれる言葉が、断片的に黒夜の耳にも届いた。
滅びて失われた世界。
帰って来なかったアビドスのメンバー。
同じ力ならどちらが上なのかな?
そして、プレナパテスが取り出したもの。
大人のカード。
黒夜の目が見開かれた。
先生が使うものと同じ。
いや、同じではない。だが、それは明らかに同じ意味を持つものだった。
「……まさか」
黒夜は小さく呟いた。
あの人は…あの男は。
自分に、君は悪くないと言った人は。
「別の世界の……先生……なのか?」
声は震えていた。
セイア*テラーが横目で黒夜を見る。だが何も言わなかった。
黒夜の中で記憶が繋がる。
なぜ、敵であるはずの彼が自分を生徒と呼んだのか。なぜ、君のやりたいことをしていいと言ったのか。
なぜ、自分を責めず、それでも選ばなければならないと告げたのか。
先生だったからか……。
別の世界で、すべてを失った先生だったから。
そう理解した瞬間、黒夜の胸にまた別の痛みが生まれた。
戦いは進んでいく。
やがてシロコ*テラーが敗れ、膝をつく。だが、それで終わりではなかった。プレナパテスがシロコ*テラーを庇うように静かに前へ出る。
そこへ、新たな足音が響いた。
ゲーム開発部と美食研究会。
彼女たちが合流し、アビドス廃校対策委員会と共にプレナパテスへ向き合う。
先生の指示が飛ぶ。
その場にいる全員が火力を集中させる。
銃撃が重なり、爆発が連続し、光と煙が中枢区画を埋め尽くす。普通なら、どんな相手でも立っていられないほどの攻撃。だが、プレナパテスは決して倒れなかった。
まるで、痛みも損傷も抱えたまま、それでも立ち続けることだけを選んだ存在のように。
黒夜はその姿から目を離せなかった。
やがて、通信越しにリンの声が響く。
ウトナピシュティムの主砲。
巨大な光が、箱舟の中枢を貫いた。
轟音が響き、世界が白く染まる。
衝撃で中枢区画全体が揺れ、天井から破片が落ちる。アトラ・ハシースの箱舟の構造が悲鳴を上げるように軋み、崩壊が始まった。
警報音が一段と激しくなる。
床が傾き、壁面の光が乱れ、各所で爆発が起きる。
先生が叫ぶ。
「みんな脱出するよ!」
シッテムの箱が輝き、脱出シーケンスが起動する。
まず、負傷した者から順に光に包まれ、地上へ転送されていく。ゲーム開発部、美食研究会、対策委員会の面々。ひとり、またひとりと姿が消えていく。
黒夜たちは通路の影から出た。
先生が黒夜に気付く。
「黒夜!」
「先生……」
先生の顔には、驚きと安堵と、抑えきれない焦りが浮かんでいた。
「よかった、無事で……!」
先生はすぐに黒夜へ脱出シーケンスを使おうとする。
だが黒夜は、弱い声で言った。
「先生……先に、彼女達をお願いします」
そう言ってテラー達を見た。
『黒夜?』
ミカ*テラーが不安そうに黒夜を見つめる。
「私は、少し気になる事があるので、後で先生と一緒に行きます。皆さんは先に地上へ帰っていてください」
『でも……』
「お願いします」
黒夜の声は小さかった。
けれど、妙に落ち着いていた。
ナギサ*テラーは黒夜の顔をじっと見つめる。何かを感じ取ろうとするように。
セイア*テラーも同じだった。だが、崩壊は進んでいる。時間はない。
先生も判断を迫られていた。
「……分かった。先に送るよ」
光がテラー達を包む。
ミカ*テラーは最後まで黒夜を見ていた。
『黒夜、すぐに来てね。絶対だよ?』
ナギサ*テラーも、消えゆく光の中で言う。
『地上で待っています。必ず来てください』
セイア*テラーは、黒夜を支えていた腕をゆっくり離した。
『……待っているからね』
黒夜は、ほんの僅かに目を伏せた。
そして、笑った。
「はい。必ず」
光が弾け、テラー達の姿が消えた。
残されたのは、先生と黒夜。
膝をついているシロコ*テラー。
そして、倒れかけたプレナパテスだけだった。
箱舟は崩れ続けている。
瓦礫が落ち、床が揺れる中、プレナパテスは先生へ視線を向けた。
その身体はもう限界だった。
それでも彼は、最後に言葉を紡ぐ。
「生徒たちを……よろしく、お願いします」
先生は、プレナパテスの最期の言葉を受け止めた。
ただの敵の言葉ではない。
別の世界で先生だった者の、最後の願い。
先生は静かに頷く。
「任せて」
その答えを聞いて安心したように、プレナパテスは崩れるように倒れた。
そして先生は、シロコ*テラーを見た。
彼女はまだそこにいた。
置いていけない。
先生は一瞬だけ迷い、そして自分の分の脱出シーケンスを彼女へ使った。
シロコ*テラーの身体が光に包まれる。
彼女は何かを言おうとしたように見えたが、その前に地上へ転送されていった。
黒夜はそれを見ていた。
そして、静かに口を開く。
「先生……今の」
「黒夜、君もすぐに送る」
「先生の分が……無くなったんじゃないですか……?」
先生は少しだけ笑った。
「僕は…大丈夫だよ」
その笑顔を、黒夜は見つめた。
大丈夫と先生はそう言った。
でも、黒夜には分かった。
大丈夫ではない。
先生は、自分を置いていくつもりだ。
自分の分を誰かに使い、それでも笑って生徒を逃がそうとしている。
黒夜の中で、何かが静かに決まった。
先生が黒夜へ脱出シーケンスを起動する。
光が足元に広がる。
転送が始まる、その直前。
黒夜はよろよろと立ち上がり、先生の腕を掴んだ。
「黒夜?」
先生が気付いた時には、もう遅かった。
黒夜は残った力を振り絞り、先生の身体を引く。入れ替わるように、自分は光の範囲の外へ出た。
「黒夜!?」
先生が叫ぶ。
黒夜は、困ったように笑った。
いつものように。
少し申し訳なさそうに。
「ごめんなさい……先生」
光が立ち上がる。
先生の伸ばした手は、黒夜へ届かなかった。
次の瞬間、先生は地上へ転送された。
崩れゆくアトラ・ハシースの箱舟の中に、月城黒夜だけが残された。