地上に戻った瞬間、最初に感じたのは風だった。
次々と光が弾け、転送されてきた生徒たちが地面に降り立つ。
廃校対策委員会。ゲーム開発部。美食研究会。負傷した者を支える者、周囲の安全を確認する者、何が起きたのか理解しきれず空を見上げる者。
皆、極限の戦いを終えたばかりで息を切らしていた。
その少し離れた場所に、テラー達もいた。
ナギサ*テラー、ミカ*テラー、セイア*テラー。
三人は地上へ転送された直後、まず互いの姿を確認し、それからすぐに空を見上げた。遥か上空。黒い点のように浮かぶ、崩壊を始めた箱舟。そこからすぐに、先生と黒夜が戻ってくるはずだった。
『……黒夜、まだかな?』
ミカ*テラーが呟いた。
その声には、不安が滲んでいた。だが、まだ恐怖そのものではなかった。黒夜は言ったのだ。必ず、と。先生と一緒に行く、と。だから、すぐに戻ってくるはずだった。
『焦らないでください。先生が一緒です。すぐに――』
ナギサ*テラーが言いかけた瞬間、再び光が地上に弾けた。
転送の光。
三人は一斉にそちらを向く。
ミカ*テラーの顔が一瞬だけ明るくなる。
『黒夜――』
けれど、そこに現れたのは先生だけだった。
黒夜はいなかった。
ほんの数秒、誰も言葉を発しなかった。
先生は地面に膝をつくようにして転送されてきた。呼吸は荒く、伸ばした手は空を掴むように前へ出ている。
その顔には、安堵ではなく、信じられないものを見たような強張りが浮かんでいた。
ミカ*テラーの表情から、血の気が引いていく。
『……え?』
ナギサ*テラーが一歩、先生へ近づいた。
『先生』
その声の奥には、震えがあった。
『黒夜さんは?』
先生はすぐに答えられなかった。
息を整えようとする。何かを言おうとする。けれど言葉が喉に引っかかり、出てこない。
先生の視線は、まだ空に残されている誰かを追うように揺れていた。
その沈黙だけで、周囲にいた者たちも異変に気付き始める。
「先生どうしたの……?」
シロコが近づく。
ホシノも、いつもの緩い雰囲気を消して先生を見る。
「黒夜君は……一緒じゃないの?」
ナギサ、ミカ、セイアも、少し離れた場所から駆け寄ってきた。ヒナ、マコト、カヨコ。リオとヒマリ。アツコもいる。
皆、黒夜が無事に戻ってくるはずだと、信じていた。
だからこそ、先生だけが戻ってきたという事実が、場の空気を一瞬で凍らせた。
先生は、ようやく声を出した。
「黒夜が……」
その名前に、全員が息を呑む。
「黒夜が、僕を引き込んだ」
ミカの唇が震えた。
「どういう…こと?」
先生は、自分の手を見下ろした。
その手には、もう黒夜の腕の感触は残っていない。転送の光が立ち上がる直前、黒夜が自分の腕を掴んだ。
よろよろと立っていたはずの身体で、最後の力を使って、先生を脱出シーケンスの範囲へ引き込んだ。
そして、自分は外へ出た。
「僕は黒夜を送ろうとしたんだ。でも、黒夜が……僕の腕を引いて入れ替わった」
「そんな……」
ナギサの声が掠れる。
先生は続けた。
「僕だけが、脱出シーケンスの範囲に入った。黒夜は……外に残った」
その言葉が、ゆっくりと全員の胸へ落ちていく。
黒夜が残った。
崩壊する箱舟の中に。
先生を無事に地上に転送する為に。
ミカ*テラーが一歩後ずさった。
『嘘……』
小さな声だった。
『だって、黒夜……すぐ来るって……必ずって……』
『ミカさん』
ナギサ*テラーが呼ぶが、彼女自身も顔色を失っていた。
『先生』
セイア*テラーが低い声で問う。
『黒夜は、最後に何と言った?』
先生は目を伏せた。
耳に、あの声が残っている。
困ったように笑った黒夜。
申し訳なさそうで、それでもどこか既に決めてしまっている顔。
「……ごめんなさい…って…」
先生がそう答えた瞬間、ミカ*テラーの表情が完全に崩れた。
『なんで……?』
その声は、怒りにも悲鳴にもなりきれない。
『なんで謝るの……? なんで、そんなこと言うの……?』
ミカも、両手を握り締めていた。
「黒夜……また、自分を犠牲にしたの……?」
ヒナは黙っていた。
だが、拳が震えている。
カヨコは唇を噛み、リオは顔色を失い、ヒマリはいつもの飄々とした表情を完全に消していた。
アツコはただ、空を見上げていた。
その時、先生の手元にあるシッテムの箱が、短い電子音を鳴らした。
全員の視線が集まる。
「アロナ?」
先生が呼びかけると、画面に乱れた映像が浮かんだ。通信は不安定で、ノイズが走っている。だが、確かに箱舟内部の映像だった。
崩壊の進むアトラ・ハシースの箱舟。
砕けて抜け落ちている床。
爆発で揺れている映像。
崩れ落ちる瓦礫の山。
そして、その中に立つ一人の影。
「黒夜!」
先生が叫ぶ。
映像の中の黒夜は、崩れかけた中枢区画の片隅にいた。身体は明らかに限界を迎えている。壁に手をつき、よろめきながら、それでも立っていた。
服は乱れ、頬には疲労の色が濃く、足取りも危うい。
けれど、その目だけは、不思議なほど冷静だった。
地上にいる者たちの声は届いていない。
映像の中の黒夜は、こちらを見ていない。ただ、崩壊していく箱舟の中で、自分のするべきことを確かめるように、ゆっくりと呼吸を整えていた。
「聞こえてないのか!?」
先生が叫ぶ。
アヤネが慌てて端末を操作する。
「接続を試しています! でも、箱舟側との通信が不安定で……こちらからの音声は届いていません!」
「映像は?」
「映像だけ、かろうじて拾えています……!」
つまり、こちらは黒夜を見られる。
だが、黒夜にはこちらの声が届かない。
それを理解した瞬間、空気がさらに冷たくなった。
「黒夜!」
シロコが短く呼ぶ。
届かないと分かっていても、呼ばずにはいられなかった。
アリスが画面に向かって身を乗り出す。
「黒夜! こちらです! 帰還してください!」
「黒夜さん!」
ユズの声も震えていた。
だが、黒夜は反応しない。
映像の中で、彼はゆっくりと顔を上げた。
その表情に、先生は息を呑んだ。
黒夜は泣いていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、ひどく静かな顔をしていた。
まるで、既に答えを決めてしまった人間の顔だった。
「黒夜……何をするつもりなの……?」
先生の声が震える。
その問いに答えるように、映像の中の黒夜が動いた。
彼は、ゆっくりと懐へ手を入れる。
ミカ*テラーが、不安そうに目を見開いた。
『……何?』
黒夜の指先が、何かを取り出す。
一枚のカード。
黒い光を帯びた、見覚えのあるカード。
それが映像の中に映った瞬間、空気が止まった。
まだ誰も、その意味を完全には理解していなかった。
先生は驚きで目を凝らす。
黒夜はそのカードを、両手で包むように持っていた。
まるで、それが最後に残された手段であるかのように。
その姿は、あまりにも覚悟を決めていた。
崩れゆくアトラ・ハシースの箱舟。その中心部。瓦礫が落ち、床が軋み、警報の赤い光が乱れる中で、黒夜だけが不自然なほど静かに立っている。
誰もが、その光景を見つめていた。
先生も、トリニティも、ゲヘナも、ミレニアムも、アリウスも、アビドスも。
そして、テラー達も。
最初に異変に気付いたのは、セイア*テラーだった。
『……待て』
その声は、かすれていた。
ナギサ*テラーとミカ*テラーが、反射的に彼女を見る。
『セイアちゃん……?』
セイア*テラーは画面から目を離さない。
映像の中の黒夜が持っているカード。
それを見た瞬間、彼女の奥底に、遅れて記憶が蘇る。
箱舟の中で黒夜を見つけた時。
憔悴しきって、まともに歩けず、自分に身体を預けていた黒夜。
ふらついた彼を支えた時、彼の指先が自分の服の内側へ触れた。
あの時は、ただバランスを崩しただけだと思った。
そう思い込んだ。
黒夜が弱り切っていたから。
黒夜が自分に支えられていたから。
まさか、その状態で何かを抜き取るなど、考えもしなかった。
『……あれは』
セイア*テラーの声が震える。
『私たちの……カード……?』
その言葉に、ナギサ*テラーの表情が固まった。
ミカ*テラーも、ゆっくりとセイア*テラーを見る。
『え……?』
セイア*テラーは自分の懐へ手を伸ばした。
そこにあるはずのものを探す。
だが、ない。
あるはずのカードが、ない。
指先が何も掴まない。
その瞬間、セイア*テラーの顔から血の気が引いた。
『……ない』
小さな声だった。
『カードが……ない!』
ミカ*テラーの唇が震える。
『嘘……』
『あの時……』
セイア*テラーは、呆然と呟いた。
『私から……抜いていたのか……?』
その声は、誰かに問いかけるものではなかった。
ただ、自分自身を責めるための声だった。
『どうして……』
セイア*テラーの指が震える。
『どうして、気付けなかった……!!』
彼女は未来を読む。
違和感を拾う。
細かな変化に気付く。
そういう役割を、自分に課してきた。
だというのに。
黒夜の決意に気付けなかった。
黒夜が自分からカードを抜き取ったことにも気付けなかった。
あれほど近くにいたのに。
肩を貸して、身体を支えて、息遣いまで聞こえる距離にいたのに。
何も分からなかった。
『違う……』
セイア*テラーが画面へ一歩近づく。
その目が、大きく揺れていた。
『違う、黒夜……それは駄目だ……!』
ナギサ*テラーが息を呑む。
『セイアさん……まさか!?』
『それは……』
『それは、かつて私たちがやろうとしたことだ……!』
その一言で、空気が変わった。
意味を理解できなかった者たちも、テラー達の表情を見て、ただならぬことだと悟る。
ミカ*テラーが画面へ向かって叫んだ。
『やだ……』
声が震える。
『やだやだやだやだやだ!!』
彼女は画面に手を伸ばした。
届くはずがない。
それでも、伸ばさずにはいられなかった。
『黒夜! それだけは駄目!!』
ミカ*テラーの声が地上に響く。
『消えないで! 私たちの中からいなくならないで!!』
その言葉に、先生が凍りついた。
「消える……?」
ナギサ*テラーは、両手を胸の前で握り締めていた。
必死に冷静を保とうとしている。
けれど、その声はもう震えていた。
『黒夜さん……お願いです……』
彼女は画面の中の黒夜へ向かって、祈るように言う。
『それだけは、やめてください……!』
映像の中の黒夜は、反応しない。
声は届かない。
届くはずがない。
それでもナギサ*テラーは続けた。
『貴方が消えてしまったら……私たちは、何を信じればいいのですか……?』
その言葉で、周囲もようやく理解し始めた。
黒夜が持っているカードを使ってテラー達がやろうとした事。
自分たちの存在を、記憶を、痕跡を世界から消し去ろうとした時の手段。
黒夜は、それを使おうとしている。
自分と関わった人すべての記憶から自分を消し、痕跡を消し、この世界から自分という存在そのものを消そうとしている。
そう、全員が思い込んだ。
「黒夜!」
先生が叫ぶ。
「待って、黒夜! 何をするつもりなの!?」
先生は画面へ身を乗り出す。
「黒夜、違う! 君が消える必要なんてない!」
声は届かない。
映像の中の黒夜は、静かにカードを握っているだけだった。
ナギサが、ふらつくように一歩前へ出た。
「黒夜さんが……自分の存在を……?」
その声は、信じたくないものを口にしてしまったように震えていた。
「そんな……そんなこと、認められるはずがありません……!」
ミカが両手を握り締め、目に涙を浮かべる。
「やだ……黒夜、嘘でしょ……?」
彼女は首を横に振る。
「そんなの嫌だよ! 黒夜のこと忘れるなんて絶対嫌!」
セイアは静かに画面を見つめていた。
だが、その顔は青ざめている。
「記憶からも、痕跡も消える……」
彼女は呟く。
「それでは、喪失すら残らない……」
その意味が、あまりにも恐ろしかった。
失う痛みすら残らない。
忘れたことも、忘れてしまった相手の存在も分からない。
ただ、黒夜という人間が最初からいなかった世界になる。
それは、本当に救いなのか。
それとも、喪失を喪失として抱く権利すら奪う、最も静かな絶望なのか。
「黒夜……君は、そこまでして私たちを守ろうとしているのか……?」
セイアの声が、かすかに震えた。
「駄目だ……それは、守ることではない……」
ヒナはしばらく黙っていた。
画面の中の黒夜を、ただ見つめていた。
その背中、その横顔、その手にあるカード。
彼に戦い方を教えた。
前に出ることを教えた。
危険を見極めることを教えた。
けれど、こんな選択をするために強くしたのではない。
「黒夜……何をしているの……」
ヒナの声は低かった。
「貴方は、そんなことをするために強くなったんじゃないでしょう……」
ヒナの表情が、少しずつ崩れていく。
「戻ってきなさい……お願い……」
強く在ろうとする声が、途中で折れた。
「私は……貴方が思っているほど強くないの!」
その叫びに、周囲が息を呑む。
ヒナは涙をこぼしそうな顔で、画面に向かって言った。
「だから……消えないで!」
マコトは拳を握り締めていた。
怒鳴りたい。叱り飛ばしたい。
いつものように大げさに笑って、黒夜の馬鹿な選択を踏み潰してやりたい。
だが、声が震えた。
「ふざけるな……」
それでも彼女は叫んだ。
「そんな勝手なことを、この私が許すと思っているのか……!」
画面の中の黒夜は、静かにカードを見つめている。
「黒夜! 貴様は私を尊敬しているのだろう!?」
マコトの声がひび割れる。
「ならば勝手に消えるな! 私の前からいなくなるな!!」
カヨコは、ほとんど表情を変えていなかった。
だが、その瞳は苦しげに揺れていた。
「……黒夜」
静かな声だった。
「それを選んだら、誰も傷つかないと思った?」
届かないと分かっている。
それでも、言う。
「違うよ」
カヨコは小さく首を横に振る。
「忘れたくないって思うことまで、奪わないで」
最後の声は、ほとんど願いだった。
「お願い……戻ってきて」
リオは画面を見つめたまま、唇を噛んでいた。
存在情報の消去。
記憶干渉。
世界規模の痕跡改変。
もしカードの力でそれを実行するなら、理論上は可能かもしれない。いや、可能かどうかではない。黒夜はそれを可能にしようとしている。
自分が周囲を壊す原因になると知ったから。
自分という存在を、世界から取り除こうとしている。
「黒夜、駄目よ」
リオの声は震えていた。
「それは解決ではないわ」
かつて、自分も自己犠牲を選ぼうとした。
誰かのためだと思って、すべてを抱え、自分が消えることで解決できると思った。
その過ちを、黒夜が繰り返そうとしている。
「貴方が消えることで成立する未来なんて、私は認めない」
ヒマリは、いつもの軽口を言おうとした。
自分は超天才清楚系病弱美少女であると、いつものように誇張し、場を少しでも動かそうとした。
だが、言葉は出なかった。
代わりに出たのは、弱く震える声だった。
「黒夜さん……まさか、本気で……」
彼女は画面へ向かって身を乗り出す。
「そんなものは看過できません……!」
けれど、そこで一度言葉が詰まった。
いつもの飾った言葉が剥がれていく。
「貴方が消えてしまったら……どれほど退屈で、味気なくて、つまらない世界になると思っているのですか……?」
ヒマリの声が震える。
「私はもう、黒夜さんのいないつまらない世界になんて戻りたくありません……」
そして、縋るように言った。
「お願いです、黒夜さん……消えないでください……」
アツコは、ずっと動けなかった。
視線は画面に固定されている。
シャーレの近くで会って、ファミレスで食事をした。皆で話して、笑って、別れ際に言った。
“ちゃんと帰ってね”
黒夜は、もちろんですと答えた。
穏やかに笑っていた。
その笑顔が、今の画面の中の黒夜と重なる。
「黒夜……」
アツコの声は、小さかった。
「ちゃんと帰ってねって、言ったのに……」
唇が震える。
「もちろんですって、言ってくれたのに……」
彼女は自分の胸元を握り締める。
「私、まだ償えてないよ……」
「忘れたら、償うこともできなくなる……そんなの嫌だよ……」
アビドスの面々も、声を失っていた。
シロコが短く言う。
「黒夜」
それだけで、彼女の感情は十分だった。
シロコは画面を睨む。
「勝手に消えるなんて、聞いてない」
ホシノは画面の黒夜を見つめ、苦しそうに眉を寄せる。
「黒夜君……それはさぁ……」
声が、普段よりずっと低い。
「守ることじゃないよ……」
アビドスで教えたこと。
守るとは、ただ耐えることではない。
そして、自分を消すことでもない。
「君、まだ私との訓練終わってないでしょ……」
ホシノは無理に笑おうとして、失敗した。
「勝手に居なくなろうとしないでよ……」
ノノミは涙をこぼしていた。
「黒夜さん……駄目です……」
両手を胸の前で握る。
「そんな悲しい守り方、誰も望んでいません……!」
セリカは歯を食いしばり、涙を怒りで押し込めようとしていた。
「馬鹿じゃないの……!」
「そんなの、誰が納得するのよ!」
「戻ってきなさいよ!」
アヤネは端末を操作し続けていた。
「通信、繋がりません……!」
涙声になりながらも、手は止めない。
「こちらの音声は届いていません……!」
それでも画面を見る。
「黒夜さん、お願いです……気付いてください……!」
ゲーム開発部も叫んでいた。
アリスが一歩前へ出る。
「黒夜!」
その声は真っ直ぐだった。
「勇者は、仲間の記憶から消えたりしません!」
目に涙を浮かべながら、それでもアリスは言う。
「一緒に帰るのが、ハッピーエンドです!」
モモイが叫ぶ。
「そんなエンディング、バッドエンドじゃん!」
拳を握り締める。
「勝手にスタッフロール流そうとしないでよ!」
ミドリは涙を拭いながら首を振った。
「黒夜さん……それは優しさじゃないです……」
「そんな終わり方、誰も望んでません……!」
ユズは小さな声で、それでも必死に言った。
「消えないで……ください……」
抱えた端末をぎゅっと握りしめる。
「黒夜さんとの思い出、消したくないです……」
美食研究会もまた、画面を見つめていた。
ハルナは唇を噛み、静かに言う。
「美食とは、記憶に残るものですわ」
その声はいつもよりずっと低い。
「貴方という味を、世界から消すなど……あまりにも無粋です」
アカリは目を潤ませていた。
「えっ、黒夜さんが消えちゃうんですか……?」
いつもの食欲も、今はどこかへ消えている。
ジュンコは画面に向かって叫んだ。
「ちょっと待ちなさいよ!」
「勝手に消えるとか、そんなの反則でしょ!」
イズミはぽつりと呟く。
「黒夜がいなくなったら……」
その顔は、いつもよりずっと寂しそうだった。
「一緒に変なもの食べられない……」
その場の全員が、黒夜を呼んでいた。
止めようとしていた。
だが、音声は届かない。
どれだけ叫んでも、映像の中の黒夜は振り返らない。
少し離れた場所で、シロコ*テラーが空を見上げていた。
彼女は皆の叫びを聞いていた。
黒夜がしようとしていることも、理解した。
少なくとも、彼女はそう思った。
「世界を壊さないために……自分の存在ごと、痕跡も、記憶さえも消し去る……」
静かな声だった。
誰に聞かせるでもない。
ただ、ぽつりとこぼれた言葉。
「私は、失った世界を終わらせようとした」
彼女は、自分の手を見る。
何も掴めなかった手。
「貴方は、世界を終わらせないために、自分を消そうとしている」
その違いが、胸に刺さった。
「……私とは、選び方が違うんだね」
シロコ*テラーは目を伏せる。
そして、ひどく小さな声で呟いた。
「ごめんね……黒夜」
映像の中で、黒夜がカードを掲げた。
光が、少しずつ集まり始める。
先生が叫ぶ。
「黒夜! やめてくれ!!」
だが、届かない。
映像の中の黒夜は、静かに目を閉じた。
その唇が、何かを呟いた。
音声は乱れていて、言葉の全ては拾えない。
ただ、途切れ途切れに、わずかな音だけが地上へ届いた。
『……皆さんを……』
『……悲しませたりは……しません……』
その言葉に、全員が息を呑んだ。
黒夜が、カードを使う。
眩い光が、崩れゆく箱舟の中に広がった。
白く、強く、すべてを塗り潰すような光。
黒夜の姿が、その中に包まれていく。
「黒夜!!」
全員の叫びが響く。
ミカ*テラーの悲鳴が重なる。
ナギサの祈りが、ヒナの叫びが、アツコの涙声が、アリスの声が、皆の声が、地上に溢れる。
けれど、光は止まらない。
次の瞬間。
映像の中から、黒夜の姿が消えた。
誰も声を出せなかった。
シッテムの箱に映るのは、崩壊していく箱舟の残骸だけ。
黒夜はいない。
カードの光も消えている。
そこに、彼の姿はなかった。
沈黙が落ちた。
重く、冷たく、息もできないほどの沈黙。
やがて、誰かが小さく名前を呼んだ。
「……黒夜」
それを合図にしたように、地上にいた者たちの心が、音を立てて崩れていった。