お兄さまに誘われて、私とブルボンさんの三人で、日本ダービーの観戦に行くことになった。
「日本ダービー。すべてのホースマンが目指す頂点だ。私たちがそこに立てるとしても二年後だが、今のうちにその空気を肌で感じておくことは、きっとプラスになる」
そう語るお兄さまの瞳は、まるで少年のような輝きを帯びていた。
お兄さまがそこまで言うのなら、間違いはない。
それに、今日は私たちの友人であり、ライバルでもあるメジロマックイーンさんの晴れ舞台だ。応援に行かないという選択肢はなかった。
会場となる東京レース場は、想像を絶する熱気に包まれていた。
一〇万人を超える観衆。地響きのようなざわめき。
普段のトレセン学園の模擬レースとは、空気がまるで違う。酸素の濃度さえも濃いような、ヒリヒリとした重圧が肌を刺す。
「はぐれないように、しっかり捕まっていてくれ」
「うん! お兄さま!」
「了解。左舷、確保しました」
お兄さまが差し出してくれた右手を、私は両手でぎゅっと握りしめた。
反対側では、ブルボンさんがお兄さまの左手をしっかりとロックしている。
人混みに酔ってしまいそうな圧迫感があったけれど、お兄さまの大きな手の温もりと、少し汗ばんだシャツの匂いが、私の不安を拭い去ってくれた。
役得、というやつだ。
こんな状況でなければ、お兄さまの両手を二人占めして歩くなんて、恥ずかしくてできなかったかもしれない。
どうにか前列の方に場所を確保し、私たちはパドックから本馬場入場を見守った。
鮮やかな緑のターフに、選び抜かれた18人のウマ娘たちが現れる。
「あ、マックイーンさんだよ!!」
私が大きく手を振ると、勝負服に身を包んだマックイーンさんがこちらに気づき、優雅に手を振り返してくれた。
遠目からでもわかる、気品あふれる佇まい。
初めて見る彼女の勝負服姿は、本当に綺麗で、強そうで、お姫様みたいだった。
これから始まる過酷な運命を知ってか知らずか、彼女の表情には微塵の曇りもない。
――ファンファーレが鳴り響く。
その瞬間、世界から音が消えた気がした。
ゲートが開き、一斉にスタートが切られる。
飛び出したのは、アイネスフウジンさんだった。
逃げ。
ためらいのない、強烈な逃げ。
その背中を見た瞬間、私の隣にいたブルボンさんが息を呑んだのがわかった。
彼女が目指しているスタイル。
誰よりも前に出て、誰にも影を踏ませず、そのままゴールまで駆け抜ける「逃げ」の極致。
レースは壮絶だった。
アイネスフウジンさんが刻むラップタイムは、常識では考えられないほどのハイペースだった。
普通なら、第3コーナーあたりでスタミナが切れて失速するはずだ。
けれど、彼女は止まらない。
第4コーナーを回っても、最後の直線に入っても、その脚色は衰えるどころか、さらに加速していくようだった。
後ろからは、マックイーンさんやメジロライアンさん、ハクタイセイさんが必死の形相で追い上げてくる。
マックイーンさんの走りは完璧だったと思う。位置取りも、仕掛けるタイミングも、末脚の爆発力も。
それでも、届かない。
先頭を行く「風」は、あまりにも速く、遠かった。
レコード決着。
アイネスフウジンさんの逃げ切り勝ち。
10万人の大歓声が渦巻く中、私はただ呆然と、掲示板に表示されたタイムを見つめていた。
怖い、と思った。
あの背中に追いつけない絶望感が、観客席にいる私にまで伝染していた。
もし、あのマックイーンさんが私だったら?
もし、あの先頭を走っているのがブルボンさんで、追いかけているのが私だったら?
私の脳裏に、二年後の日本ダービーの光景が浮かび上がる。
先頭を走るミホノブルボン。
必死に追いかける、青い薔薇をつけた私。
手を伸ばしても、声を上げても、その差は縮まらない。
1バ身、2バ身……決定的な差がついたまま、ゴール板が近づいてくる。
冷たい汗が背中を伝った。
今のままじゃ、勝てない。
私とお兄さまが目指す未来に、暗雲が立ち込めたような気がした。
レース終了後、お兄さまはマックイーンさんたちの慰労会に出席することになった。
トレーナー同士の付き合いもあるし、何より傷心の彼女たちを労うのは大切な役目だ。
「悪いな、二人とも。気をつけて帰るんだぞ」
「はい。お兄さまも、飲みすぎないでね」
「了解。サブトレさん、マックイーンさんに『ナイスランでした』とお伝えください」
お兄さまを見送り、私とブルボンさんは二人きりで帰路についた。
夕暮れ時の道はあの熱気が嘘のように静かだった。
会話はなかった。
私達は二人とも、瞼の裏に焼き付いたあのレースの余韻に浸っていたのだと思う。
トレセン学園へと続く桜並木を歩き始めた頃には、空はすっかり茜色に染まり、影が長く伸びていた。
「……ライスさん」
沈黙を破ったのは、ブルボンさんだった。
彼女は前を向いたまま、淡々とした、でもどこか熱を帯びた声で問いかけてきた。
「私たちの二年後の日本ダービー、どうなると思いますか?」
ドキリとした。
まるで私の心の中を見透かされたようだった。
私は視線を足元に落とし、弱気な言葉を吐き出した。
「……出れるかも、わからないよ。ダービーは選ばれたウマ娘しか出られないしトライアルで負けちゃうかもしれないし」
それは、自分を守るための予防線でもあった。
けれど、ブルボンさんはそれを許さなかった。
「……貴女は、そんなこと欠片も思っていないでしょう?」
ブルボンさんが足を止め、私の方を向いて、微かに笑った。
いつもの無表情ではない。挑戦的な、競技者としての笑み。
「貴女の心拍数、瞳孔の動き、そして筋肉の緊張。データは語っています。貴女はすでに、どうやって私に勝つか、それしか考えていないと」
図星だった。
私は顔を上げた。
出られない可能性? そんなもの、建前だ。
私は、出る。そして、勝つ。
お兄さまを日本一のトレーナーにするためには、日本ダービーの栄冠が必要なのだから。
「……うん。考えてた」
私は正直に認めた。
「今日のレースを見て、怖くなったの。逃げ切るって、あんなにかっこよくて、あんなに強いんだって。……ライスが最後の直線で追い上げても、ブルボンさんの背中は遠いままなんじゃないかって」
「私もです」
ブルボンさんが静かに言った。
「私はシミュレーションしていました。私が先頭を走り、ゴールを目指す時……背後から迫りくる足音を。貴女の、青い炎のような気配を」
ブルボンさんは自分の胸に手を当てた。
「恐怖を感じました。私の計算を超える速度で、貴女が追い抜いていく未来を予測してしまいました。……今日のアイネスフウジンさん以上に走らなければ、私は貴女に捕まる」
私たちはお互いに、同じ幻影を見ていたのだ。
私は、逃げ切るブルボンさんを。
ブルボンさんは、差し切る私を。
それは、お互いを最強のライバルだと認めているからこその恐怖だった。
ウマ娘として、ランナーとして、絶対に負けたくない相手。
「ライスも、ブルボンさんにどうすれば追いつけるか、考えてたよ。……あの足りない2バ身を、どうやって埋めるか」
私は拳をぎゅっと握りしめた。
「お兄さまと一緒に、もっと強くなる。スタミナをつけて、スピードを磨いて……絶対に、ブルボンさんの前に出る」
「負けませんから」
ブルボンさんが、私に向かって拳を突き出した。
夕日に照らされたその拳は、鋼鉄のように固く、意志の強さを物語っていた。
「私はマスターと共に、最強の逃げを完成させます。誰にも、貴女にさえも追いつかせない、完璧な逃走劇を」
「……負けないよ」
私は自分の拳を、ブルボンさんの拳に合わせた。
コツン、と小さな音が響く。
硬い感触。
そこから伝わってくる熱は、間違いなく私と同じ温度だった。
今はまだ、お互いにデビューすらしていないけど。
けれど、この瞬間、私たちは二年後のダービーゲートに立ったのだと思う。
どうなるかわからない未来だ。
怪我をするかもしれない。スランプに陥るかもしれない。他に強いライバルが現れるかもしれない。
それでも。
「……楽しみだね、ブルボンさん」
「肯定。胸の回路が熱くなっています」
私たちは顔を見合わせ、小さく笑い合った。
お兄さま二号に誓ったお嫁さんへの道。その道のりには、こんなに素晴らしいライバルが待っている。
それを乗り越えた先にこそ、本当のハッピーエンドがあるはずだ。
帰り道、並んで歩く私たちの足取りは、行きの時よりも少しだけ力強くなっていた。
お兄さま、早く帰ってきてね。
ライス、お兄さまに相談したいことが山ほどできたから。