夏。
「夏を制する者はレースを制する」という格言がある通り、この時期のトレーニングの質が、秋以降のレース結果を大きく左右する重要なシーズンだ。
私とライスも例にもれず恒例の夏合宿へとやってきていた。
青い海、白い入道雲、そしてどこまでも続く砂浜。
リゾート気分? とんでもない。ここは地獄の強化合宿所だ。
砂浜でのランニングは、舗装されたトラックとは比べ物にならないほど足腰に負荷をかける。蹴り出した力が砂に吸収されるため、より強く地面を捉えなければ前に進まない。さらに不安定な足場は体幹を鍛え上げるのに最適だ。
来年デビューを控えるライスにとって、この夏は基礎体力を完成させるための正念場である。
当然、担当トレーナーである私の気合いも入るというものだ。
「よし、ライス! 準備運動は済んだな。まずは軽く流すぞ!」
「は、はいっ! ……って、お兄さま?」
気合十分で振り返った私を見て、ライスが目を丸くした。
そして次の瞬間、その顔がボッと音を立てて赤く染まった。
「なんで……なんでお兄さまも水着なの!?」
ライスの視線が、私の首元から胸板、腹筋、そしてブーメラン型の水泳パンツへと泳ぐ。
私は自分の格好を見下ろし、極めて合理的な説明をした。
「そりゃあ、見てるだけでも暑いし、並走もするし、最後はクールダウンで泳ぐからな。ジャージだと濡れた後が大変だろう?」
ここ数年、ライスを守るトレーナーになるべく体を鍛え続けてきた。ウマ娘のスピードに完全についていくのは不可能でも、ある程度の並走やサポートには体力が必要だ。それに、海辺で服を着ている方が不自然だろう。
しかし、ライスは納得していないようだった。
それどころか、周囲をキョロキョロと見回し、何か焦ったように私の前に立ちはだかった。両手を広げて、バリケードのように。
「だ、ダメ! ダメだよお兄さま!」
「何がダメなんだ? ここでの水着着用はルール違反じゃないぞ」
「そうじゃなくて! ……みんなが見てるの!」
ライスが半泣きで訴える。
言われて周囲を見渡すと、確かに休憩中の他のウマ娘たちがこちらをチラチラと見ている気がする。
「あら、あのトレーナーさん、いい体してる……」
「腹筋すごくない? 触ってみたいかも」
「ライスちゃんのトレーナーさんよね? 優しそうだし、あとで声かけてみようかな」
風に乗って、そんなひそひそ話が聞こえてきた。
……なるほど。
どうやら私の筋肉は、トレーニングの成果としてそれなりに仕上がっているらしい。トレーナー冥利に尽きる評価だ。
だが、私の「自慢の妹」のご機嫌は、急降下していた。
「ライスが気になるよ!!」
「え、俺としてはちゃんと鍛えているつもりなんだが……どこかにムダ毛でも残ってる?」
「違うの! お兄さまの水着姿に、みんなが悩殺されてるって言ってるの!!」
「悩殺?」
私は首をかしげた。
いやいや、いくら何でも過大評価だ。
確かに腹筋は割れているし、大胸筋もそこそこあるが、所詮は人間の男の体だ。神秘的な美しさを持つウマ娘たちに比べれば、無骨なだけの肉塊に過ぎない。
「ライスの気にしすぎだって。自意識過剰はよくないぞ」
「気にしすぎじゃないもん! あそこの先輩も、向こうのクラスの子も、みんな目がハートになってるもん!」
ライスはプクーッと頬を膨らませ、砂浜にある私の荷物置き場へと走った。
そして、脱ぎ捨ててあったパーカーを引っ掴んで戻ってくると、それを強引に私に押し付けた。
「いいから! さっさとこのパーカー羽織って!! 前もチャック閉めて!」
「えぇ……この炎天下で長袖パーカーは拷問に近いんだが……」
「ダメ! お兄さまの筋肉は、ここじゃ露出禁止なの!」
ライスの剣幕に押され、私は渋々パーカーに袖を通した。
直射日光は遮られたが、サウナスーツのような暑さが襲ってくる。
だが、これでライスの機嫌が直るなら安いものだ。彼女の集中力を乱す要因は排除せねばならない。
「……ふぅ。これで安心」
完全にガードされた私を見て、ライスは満足げに頷いた。
やれやれ。独占欲が強いのは可愛いが、熱中症で私が倒れたら介抱してもらうからな。
さて、私の露出問題が解決したところで、今度はこちらが見る番だ。
もちろん、いやらしい意味ではない。トレーナーとしての観察眼の話だ。
トレーニング用の競泳水着に身を包んだライス。
その姿を改めてまじまじと見ると、ジャージ姿では気づきにくかった体の変化が見て取れる。
まず、太腿だ。
昔はポキッと折れそうなほど細かった足が、今は違う。
大腿四頭筋のラインがうっすらと浮かび上がり、砂地を蹴るたびにしなやかに収縮する。太くなった、というよりは、密度が増したと言うべきか。
そして、尻。
前世の記憶や、幼い頃のライスの印象では、どこもかしこも薄くてペタンコだった。
しかし、今はどうだ。
中殿筋から大殿筋にかけてのラインが、美しい曲線を描いている。
女性らしい丸みを帯びつつも、指で押せば押し返してきそうな弾力(ハリ)がある。
これは今までのトレーニング、特に坂路調教の賜物だ。長距離を走り抜くためのエンジンが、着実に完成しつつある。
素晴らしい。
実に良い尻だ。機能美として、百点満点をあげたい。
「……お兄さま、何を見てるの?」
視線を感じたのか、ストレッチをしていたライスが怪訝な顔でこちらを見た。
私はトレーナーとして、正直な感想を述べた。
「ライスの尻と太もも。太くなったなって」
「――ッ!?」
ライスの動きが止まった。
時が止まったかのような静寂の後、彼女の顔が茹でダコのように真っ赤になった。
「お、お兄さまのエッチ!!」
「えっ」
怒られた。
いや、事実を述べただけなのだが。
「だ、だって! そんな真顔で……じろじろ見て……!」
「いや、見惚れていたんだよ。素晴らしい成長だと思って」
「み、魅了されてたの!?」
「ああ。ライスの体に魅了されてしまって、目が離せなかった」
「きゃーーーっ!!」
ライスが悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。
あれ? 言葉のチョイスを間違えただろうか。
「筋肉の付き方に感心していた」と言うべきところを、暑さのせいで脳がショートして「体に魅了された」と言ってしまった気がする。
「体目当てってこと!? お兄さまは、ライスの体が目当てだったの!?」
「どこからそういう言葉を覚えてくるんだ。少女漫画の読みすぎだぞ」
「だって! 妹の、しかも中等部の体を見てハァハァするなんて……!」
「してない! 断じてハァハァはしていない!」
「お兄さまがロリコンだったなんて!?」
「自分をロリって言うのはどうなんだ! 君はもう立派なレディだろう!」
ライスの勢いは止まらない。
涙目になりながら、両手で体を隠しつつ、チラチラとこちらを見てくる。
……ん? 隠しているようで、実はそこまで嫌がっていないような?
ライスはもじもじと指先を合わせ、蚊の鳴くような声で言った。
「……でも」
「でも?」
「お兄さまなら……いい、よ」
上目遣い。
羞恥に染まりながらも、どこか期待を含んだ瞳。
「見てほしかった」と言わんばかりの、甘い響き。
……これは、まずい。
非常にまずい空気が流れている。
ここは神聖なトレーニング場だ。これ以上、このピンク色の空間に身を置いていたら、きっと面倒なことが起きる。具体的にはたづなさんあたりに怒られる。
私はパンッと手を叩き、強引に空気を切り替えた。
「よし! じゃあランニングに行ってこようか!」
「えっ、あ、うん……」
「今日のメニューは砂浜ダッシュ20本だ! 俺も走る! ついてこい!」
「ええー!? いきなりスパルタ!?」
私は逃げるように走り出した。
背後からライスの「待ってよお兄さまー!」という声が聞こえる。
熱い日差しの中、私たちは砂を巻き上げて走り続けた。
汗か涙かわからないものが頬を伝うけれど、振り返ればそこには、逞しく、そして誰よりも愛らしい私の担当ウマ娘が、必死に食らいついてきていた。