夏といえば、夏合宿。
青春の1ページであり、恋する乙女にとっては勝負の季節でもある。
私とお兄さまも、トレセン学園恒例の夏合宿へとやってきていた。
青い海、白い砂浜、照り付ける太陽。
本来なら、リゾート気分で「キャッキャウフフ」なバカンスを楽しみたいところだけれど、ここは地獄の強化合宿所。砂に足を取られながら走り込む、過酷なトレーニングの日々が待っている。
けれど、私にとってはそんなこと関係ない。
だって、お兄さまと四六時中一緒にいられるのだから。
汗を流すお兄さま、真剣な眼差しで指導するお兄さま、夜風に吹かれるお兄さま……。
この合宿中に、トレーナーと担当ウマ娘という関係を一歩進めて、あわよくば「男女の仲」に持ち込む。それが私の裏メニューだ。
気合十分で砂浜に向かった私だったけれど――そこで私は、いきなり心臓を鷲掴みにされるような衝撃を受けた。
「よし、ライス! 準備運動は済んだな。まずは軽く流すぞ!」
振り返ったお兄さまの姿を見た瞬間、私の思考回路はショートした。
「……は、はいっ! ……って、お兄さま?」
嘘でしょ。
なんで、なんでお兄さまも水着なの!?
そこにあったのは、あまりにも無防備に晒された、男性の肉体美だった。
普段はジャージやスーツに隠されていてわからなかったけれど、お兄さまの体は完璧に鍛え上げられていた。
彫刻のように割れた腹筋、厚みのある大胸筋、そして引き締まった腰回りから伸びる、しなやかな脚。
水着の面積は驚くほど小さく、それがお兄さまの男らしさをこれでもかと強調している。
――ッ!!
鼻血が出るかと思った。いや、実際少し出ていたかもしれない。
これは凶器だ。
思春期の、しかもお兄さまに恋い焦がれているウマ娘に見せるには、あまりにも刺激が強すぎる「歩くフェロモン発生装置」だ。
当然、私の目は釘付けになる。
あそこをツンツンしたい。あの胸板に顔を埋めたい。あの腕に抱きしめられたら、きっと骨抜きにされてしまう。
妄想が暴走し、顔から湯気が出そうになったその時。
「あら、あのトレーナーさん、いい体してる……」
「腹筋すごくない? 触ってみたいかも」
風に乗って、そんな不穏な声が聞こえてきた。
ハッとして周囲を見渡すと、休憩中の先輩や他のクラスの子たちが、熱っぽい視線をお兄さまに向けているではないか!
ダメ。
絶対にダメ!
その体はライスのものなんだから! タダ見なんて許さない!
私は瞬時に「独占欲全開モード」に切り替わり、お兄さまの前に立ちはだかった。
両手を広げて、これ以上その危険な魅力を周囲に振り撒かないようにバリケードを作る。
「だ、ダメ! ダメだよお兄さま!」
「何がダメなんだ? ここでの水着着用はルール違反じゃないぞ」
お兄さまはキョトンとしている。
この人は……自分がどれだけいい男で、どれだけ周囲の女豹たちを刺激しているか、全く自覚がない!
「そうじゃなくて! ……みんなが見てるの!」
「ライスの気にしすぎだって。自意識過剰はよくないぞ」
気にしすぎなものですか!
現に、あそこの先輩なんて目をハートにしてよだれを垂らしそうになってるじゃない!
「いいから! さっさとこのパーカー羽織って!! 前もチャック閉めて!」
私は脱ぎ捨ててあったパーカーをひったくり、お兄さまに無理やり着せた。
ブーブー文句を言うお兄さまのチャックを首元まで閉めて、ようやく一安心。
ふぅ……危なかった。
とりあえず封印完了だ。でも、あの水着姿は私の脳内に完全保存した。あとで二人きりの時に、こっそりアンコール上映をお願いしよう。そうしよう。
お兄さまの露出対策も終わり、気を取り直してストレッチを始めた時のことだ。
背中に、熱っぽい視線を感じた。
お兄さまだ。
お兄さまが、私の体をじっと見つめている。
私の鼓動が跳ね上がる。
今日の私は水着だ。
スクール水着のような競泳用だけど、体にフィットするデザインで、体のラインがはっきりと出る。
お兄さまのために、プロテインを飲んで、スクワットをして、少しは女性らしい体つきになったつもりだ。
もしかして、気づいてくれたのかな。
ライスがもう子供じゃなくて、魅力的な女の子になったって。
「……お兄さま、何を見てるの?」
期待と羞恥を込めて尋ねると、お兄さまは真顔で答えた。
「ライスの尻と太もも。太くなったなって」
――ッ!!
ド直球!
あまりにもストレートな指摘に、私の思考は真っ白になった。
し、尻!? 太もも!?
そ、そこを重点的に見ていたの!?
「お、お兄さまのエッチ!!」
私は思わず叫んでしゃがみ込んだ。
顔が熱い。全身が火照る。
まさかお兄さまが、そんな目で私の下半身を見ていたなんて!
「だ、だって! そんな真顔で……じろじろ見て……!」
「いや、見惚れていたんだよ。素晴らしい成長だと思って」
み、見惚れていた……!?
「み、魅了されてたの!?」
「ああ。ライスの体に魅了されてしまって、目が離せなかった」
決定打だった。
お兄さまの口から「魅了された」なんて言葉が出るなんて!
これはもう、愛の告白と受け取っていいのでは?
私の体に欲情してしまったということだよね? そうだよね?
「体目当てってこと!? お兄さまは、ライスの体が目当てだったの!?」
「どこからそういう言葉を覚えてくるんだ。少女漫画の読みすぎだぞ」
お兄さまは慌てて否定しているけれど、男の人の本能は隠せないはずだ。
だって、「目が離せなかった」んだから!
私はドキドキする胸を押さえながら、お兄さまを見上げた。
困ったような、でもどこか熱を帯びたように見える瞳。
もし、お兄さまがそれを望むなら。
私が大人になるのを待てずに、今すぐ私のすべてを求めているなら。
……覚悟を決めるしかない。
私はもじもじと指先を合わせ、勇気を振り絞って蚊の鳴くような声で言った。
「……でも」
「でも?」
私は潤んだ瞳で、上目遣いにお兄さまを見つめた。
私の精一杯の、愛の誘惑。
「お兄さまなら……いい、よ」
好きにしていいよ。
お兄さまになら、ライス、何されても受け入れるよ。
さあ、優しく抱きしめて!
甘い沈黙が流れた。
波の音が遠のく。
お兄さまが、ハッとしたように息をのむ音が聞こえた。
伝わった。私の想いが、覚悟が、お兄さまの男心に火をつけたんだ!
お兄さまが大きく口を開く。
どんな甘い言葉が飛び出すのか。
「好きだ」? 「愛してる」? それとも「部屋に行こう」?
「よし! じゃあランニングに行ってこようか!」
……はい?
「今日のメニューは砂浜ダッシュ20本だ! 俺も走る! ついてこい!」
「え……えええーーー!?」
お兄さまは爽やかに言い放つと、脱兎のごとく走り出した。
ま、待って!
今の流れは、どう考えてもラブシーンへの導入だったじゃない!
なんでそこで「砂浜ダッシュ20本」が出てくるの!?
色気より食い気、ならぬ、色気より走り込み!?
「待ってよお兄さまー!」
私は慌ててお兄さまの背中を追いかけた。
悔しい!
せっかくの決死の誘惑が弾き返された!
この鉄壁の鈍感要塞め!
けれど。
砂を巻き上げて走るお兄さまの背中は、やっぱり大きくて、頼もしくて。
パーカー越しでもわかる逞しい筋肉が躍動しているのを見ると、胸がキュンとしてしまう。
……まあ、いいか。
私の誘惑は失敗したけれど、こうして二人で汗を流して、同じ方向に向かって走れるなら。
それに、お兄さまは私の体を「魅力的だ」と言ってくれた。それは事実だ。
今はまだ、トレーナーと選手としての信頼関係が勝っているだけ。
いつか必ず、その理性のタガを外させてみせるんだから。
私は砂に足を取られながらも、必死にお兄さまの後を追った。
というかお兄さま速くない? 全然追いつけないんだけど!?