夏合宿といえども、四六時中トレーニングをしているわけではない。
むしろ、トレーニングをしていない時間の方が圧倒的に長いのだ。
理由は単純。トレーニングメニューが、常軌を逸してハードだからだ。
砂浜ダッシュ、坂道インターバル、水中トレーニング。
午前中の数時間で、普通のウマ娘ならば精魂尽き果ててしまうほどの運動量をこなす。そのため、午後は完全休養に充てることが多い。
大抵のウマ娘は部屋で泥のように眠るか、マッサージを受けて疲労回復に努めるのだが――私の担当ウマ娘、ライスシャワーは違った。
「お兄さま! 遊びに行こう?」
昼食を食べて一時間もすれば、彼女はケロリとして私の部屋にやってくる。
恐るべきスタミナだ。
ステイヤーとしての資質か、あるいは「お兄さまと遊びたい」という執念か。どちらにせよ、彼女の元気な姿を見るのは喜ばしいことだ。
私は喜んでパソコンを閉じ、彼女のエスコート役を買って出ることにしている。
今日のライスは、いつにも増して破壊力が高かった。
「どうかな……お兄さま。似合う?」
待ち合わせ場所に現れたライスは、純白のワンピースに身を包んでいた。
清楚な白が、彼女の少し焼けた肌と艶やかな黒髪を際立たせている。
頭には、大きなつばの麦わら帽子。風に飛ばされないように押さえる仕草は、どこかの国の避暑地にたたずむ深窓の令嬢そのものだ。
先日、合宿所近くのブティックで「これだ!」と直感して私が買い与えたものだが、想像をはるかに超える似合いっぷりである。
「似合うなんてもんじゃない。天使かと思った」
「えへへ……」
「いや、天使というより女神か? とにかく可愛い。世界一可愛い。この姿を写真に収めてルーブル美術館に寄贈するべきだ」
「もう、お兄さまったら! 大げさだよぉ」
ライスは顔を真っ赤にしてモジモジしているが、私は本気だ。
あまりの可愛さに、周囲の景色がキラキラと輝いて見えるフィルターがかかっている気がする。
私たちは並んで、リゾート地として賑わう街へと繰り出した。
海沿いの遊歩道は、夏真っ盛りということもあり、多くの観光客で賑わっていた。
そして、場所柄なのか、季節のせいなのか。
視界に入るのは、幸せそうなカップルばかりだった。
手を繋いで歩く男女。
一つのアイスを分け合う二人。
海をバックに自撮りをする恋人たち。
……眩しい。
物理的な日差しの強さとは別に、精神的なダメージが私の心を蝕む。
思えば、私の人生において「恋人」という存在がいたためしがない。
前世の記憶を辿っても、仕事や趣味に没頭し、気づけばトラックに轢かれて転生していた。
今世でも、物心ついた時からライス中心の生活を送り、青春時代はトレーナー試験の勉強に捧げた。
つまり、恋人がいない歴=年齢どころか、前世と今世を足せば年齢の三倍近い期間、私は独り身なのだ。もはや魔法使いを通り越して賢者になれるレベルである。
ふと、隣を歩くライスを見る。
白のワンピースが風に揺れ、絵画のように美しい。
傍から見れば、私たちもカップルに見えるのだろうか?
いや、無理があるか。
どう見ても、歳の離れた「仲の良い兄妹」だ。
私が彼女に向ける視線は保護者のそれだし、彼女の無邪気な笑顔は妹そのものだ。
カップル特有の、あの甘酸っぱいような、互いを異性として意識し合うような独特の雰囲気が、私たちには欠けている。
そう考えると、なんだか急に寂しさがこみ上げてきた。
ライスはいつか素敵な男性を見つけて、私の元を巣立っていく。
その時、私は一人でこの海を見ることになるのだろうか。
「……はぁ。恋人がほしいなぁ」
心の声が、つい口をついて出てしまった。
あまりに不用意な独り言だった。
隣を歩いていたライスの足が、ピタリと止まる。
「……えっ?」
ライスが目を見開いて私を見上げている。
しまった、聞かれたか。年頃の娘の前で「彼女ほしい」なんて嘆く父親のようなムーブをしてしまった。
「あ、いや、忘れてくれ。周りがカップルだらけで、つい当てられちゃっただけだ。私みたいな仕事人間には、縁のない話だよ」
私が苦笑いで誤魔化そうとすると、ライスは真剣な表情で、私の一歩前に踏み出した。
「ライスが、なるよ?」
「え?」
「ライスが、お兄さまの恋人になってあげる!」
その瞳は、真っ直ぐで、強くて、そして痛いほどに優しかった。
私は胸がキュンとなるのを感じた。
ああ、なんていい子なんだろう。
寂しがる兄を見かねて、自分が相手をしてあげようと言ってくれているのだ。
幼い頃、「お兄ちゃんと結婚する!」と言っていたあの頃の純真さを、彼女はまだ失っていない。
「ははは、それは嬉しいな。世界一可愛い彼女だ」
「むぅ……お兄さま、本気にしてないでしょ」
「本気にしているさ。こんな素敵なレディに求婚されたら、男冥利に尽きるよ」
私はライスの麦わら帽子をポンポンと軽く叩いた。
妹を恋人に仕立て上げて寂しさを埋めるというのは、兄としていささか情けない気もするが、今日のところはこの甘い提案に乗っからせてもらおう。
せっかくの休日だ。寂しいなんて言っていないで、楽しまなければ損だ。
「よし。では、今日一日限定で、私は君の彼氏だ」
「……うん!」
「恋人役として、君を最高にエスコートいたしましょう、マイ・プリンセス」
私が恭しく手を差し出すと、ライスはパァァッと花が咲くような笑顔を見せ、その小さな手を私の掌に乗せた。
「よろしくお願いします、お兄さま……ううん、ダーリン?」
「ぶっ! ではまいりましょう。マイ・プリンセス」
危ない。あまりの可愛さに心臓が止まるかと思った。
ともあれ、私たちは「一日限定の恋人ごっこ」をスタートさせた。
海に突き出したテラス席がある、お洒落なカフェレストランに入った。
普段なら、定食屋やファミレスを選ぶところだが、今日は「デート」だ。奮発して一番景色の良い席を確保する。
「ご注文はお決まりですか?」
「この『カップル限定・愛のメロンソーダ』を一つ」
「お兄さま!?」
「ん? 恋人ごっこなんだから、形から入らないと」
運ばれてきたのは、巨大なグラスに注がれた鮮やかな緑色のメロンソーダ。
そして、その上にはハート型に曲げられた二本のストローが刺さっていた。
昭和のアイドル雑誌でしか見たことのないような、コテコテの演出だ。
「さあ、ライス。一緒に飲もう」
「……恥ずかしいよぅ」
「周りを見てみろ。みんなやってるぞ」
「むぅ……」
ライスは顔を赤らめながらも、グラスの方へ身を乗り出した。
私も反対側から顔を近づける。
距離が近い。
ライスの長いまつ毛が震えているのが見える。
ふわっと、甘い香りが鼻をくすぐる。
これが……カップルの距離感……!
ズズッ、と二人同時にストローを吸う。
炭酸の刺激と、シロップの甘さが口いっぱいに広がる。
視線を上げると、至近距離でライスと目が合った。
「……おいしい?」
「……うん、おいしい」
ライスがはにかむように微笑んだ。
その瞬間、心臓がドキンと大きな音を立てた。
なんだろう、この感覚は。
ただのメロンソーダなのに、最高級のワインよりも酔いが回りそうだ。
妹相手にドキドキするなんて不謹慎だが、このシチュエーションは卑怯すぎる。
「お兄さま、顔赤いよ?」
「き、気のせいだ。日焼けしたかな」
「ふふ。……ねえ、お兄さま」
ライスがストローから口を離し、じっと私を見つめた。
「ライス、早く大人になるからね」
「ん? ああ、そうだな」
「そしたら、ごっこじゃなくて……本当にしてくれる?」
波の音が、ザザァンと響いた。
本当にしてくれる?
それは、本当のデートに連れて行ってくれるか、という意味だろうか。
それとも、一人前のレディとして扱ってくれるか、という意味だろうか。
私はグラスの結露を指でなぞりながら、優しく答えた。
「ああ。ライスが立派な大人になったら、こんなごっこ遊びじゃなくて、もっと素敵なエスコートをしてあげるよ」
「約束だよ?」
「約束だ」
ライスは満足そうに頷き、再びストローを口に含んだ。
こうして、私たちの一日限りの恋人ごっこは、甘いメロンソーダの味と共に過ぎていった。
帰り道、つないだ手は、行きよりも少しだけ強く握られていた気がする。
私が感じた寂しさは、もうどこかへ消え去っていた。
隣にこんなに可愛い「恋人(仮)」がいるのだから、これ以上の贅沢を望んだらバチが当たるというものだ。