ライスシャワーはお義兄さまと結婚したい   作:雅媛

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7-2 夏の合間に Side:RiceShower

 夏合宿の朝は早い。

 そして、その午前中は永遠に続くかと思われるほど長く、過酷だ。

 

 砂に足を取られる浜辺でのダッシュ。肺が焼き切れるような坂道インターバル。水の抵抗と戦いながらの水中トレーニング。

 お兄さまが組んでくれたメニューは、私の限界ギリギリを見極めた、愛と厳しさに満ちたスパルタ仕様だ。

 お昼ご飯を食べ終わる頃には、手足は鉛のように重く、指一本動かすのも億劫になる。

 普通のウマ娘なら、午後のフリータイムは間違いなくベッドへ直行し、泥のように眠るか、トレーナーさんにマッサージをねだる時間だろう。

 

 けれど。

 私の担当ウマ娘としての、いいえ、一人の恋する乙女としての戦いは、ここからが本番なのだ。

 

 部屋に戻り、シャワーを浴びて汗を流す。

 鏡に映る自分の顔をパンパンと叩く。

 震える太ももに「頑張れ、あと半日だよ」と気合を入れる。

 体は悲鳴を上げているけれど、心は羽根が生えたように軽い。だって、午後は大好きなお兄さまと遊びに行ける、唯一の時間なのだから。

 眠っている暇なんてない。お兄さまとの思い出を作るためなら、これくらいの疲労、根性でねじ伏せてみせる。

 

「お兄さま! 遊びに行こう?」

 

 精一杯の元気な笑顔を作って、私はお兄さまの部屋のドアを叩いた。

 

 

 

 今日の勝負服は、先日お兄さまが買ってくれた、純白のワンピースと大きな麦わら帽子だ。

 正直、着る前は鏡の前で何度も躊躇した。

 こんなに清楚で可愛らしい服、地味で子供っぽい私に似合うのかな。服に着られてしまっていないかな。

 不安で胸がいっぱいだったけれど、待ち合わせ場所にお兄さまが現れた瞬間、その不安は消し飛んだ。

 

「似合うなんてもんじゃない。天使かと思った」

 

 お兄さまは目を丸くして、真剣な顔でそう言ってくれた。

 

「いや、天使というより女神か? とにかく可愛い。世界一可愛い。この姿を写真に収めてルーブル美術館に寄贈するべきだ」

 

 お兄さまの言葉のシャワーが、私の全身に降り注ぐ。

 ルーブル美術館なんて大げさだけど、お兄さまの瞳という美術館に私が展示されたなら、それだけで私は世界一幸せな芸術品になれる。

 足の痛みなんて、もうどこかへ行ってしまった。

 私はお兄さまの隣を歩く権利を得たお姫様として、胸を張って街へと繰り出した。

 

 海沿いの遊歩道は、夏の日差しと潮風、そしてたくさんの人々で溢れていた。

 特に目につくのは、幸せそうなカップルたちだ。

 手を繋ぎ、見つめ合い、二人の世界に浸っている恋人たち。

 

 いいな。

 私も、お兄さまとあんな風に見られているのかな。

 歳の離れた兄妹じゃなくて、付き合い立ての初々しいカップルに見えていたらいいな。

 そんな淡い期待を抱きながら、私はお兄さまの顔を盗み見た。

 すると、お兄さまはどこか遠い目をして、寂しげなため息をついたのだ。

 

「……はぁ。恋人がほしいなぁ」

 

 心臓が、ヒヤリと冷えた。

 お兄さまが、恋人を欲しがっている。

 それはつまり、「今はいない」という現状への嘆きであり、同時に「誰かいい人はいないか」という願望の表れだ。

 

 危機感(アラート)が脳内で鳴り響く。

 このままではいけない。

 お兄さまが寂しさに耐えかねて、合宿先で出会った見知らぬ美女や、あるいは隙を窺っているあのライバルたちに心を許してしまうかもしれない。

 ここだ。ここが攻めるべきタイミングだ!

 

 私は足を止め、勇気を振り絞って一歩踏み出した。

 

「ライスが、なるよ?」

「え?」

「ライスが、お兄さまの恋人になってあげる!」

 

 言った。言ってしまった。

 心臓が口から飛び出しそうだ。

 これはもう、実質的なプロポーズだ。

 お兄さま、気づいて。目の前にいるライスは、ただの妹じゃないの。貴方の寂しさを埋められる、唯一の女性になりたいの。

 

 お兄さまは一瞬驚いた顔をして、それから優しく笑って私の麦わら帽子をポンポンと叩いた。

 

「ははは、それは嬉しいな。世界一可愛い彼女だ」

 

 ……あ。

 その笑顔は、違う。

 それは「愛しい女性」に向ける顔じゃなくて、「可愛い妹の戯言」を受け流すお兄ちゃんの顔だ。

 真剣に取ってもらえていない。

 

「むぅ……お兄さま、本気にしてないでしょ」

「本気にしているさ。こんな素敵なレディに求婚されたら、男冥利に尽きるよ」

 

 口ではそう言うけれど、その軽さが悔しい。

 まだ好感度が足りないのかな。

 それとも、やっぱり年齢?

 あるいは……。

 

 私はこっそりと自分の胸元に視線を落とした。

 白いワンピースの胸元は、悲しいくらいに平坦だ。

 マックイーンさんのような優雅な膨らみも、ブルボンさんのような機能的な曲線美もない。

 やっぱり、これか。

 お兄さまは大人の男性だもの。大人の女性の魅力には抗えないのかもしれない。

 

 牛乳だ。

 今日から毎日、牛乳を1リットル飲もう。

 カルシウムを摂取して、骨を伸ばし、女性ホルモン的な何かを活性化させて、ボンッキュッボンッになるんだ。

 そう決意を固めていると、お兄さまが手を差し出してくれた。

 

「よし。では、今日一日限定で、私は君の彼氏だ」

「……うん!」

「恋人役として、君を最高にエスコートいたしましょう、マイ・プリンセス」

 

 一日限定。恋人役。

 その言葉には「ごっこ遊び」というニュアンスが含まれているけれど、それでもいい。

 既成事実は積み重ねるものだ。今日の「ごっこ」が、明日の「本物」になるための予行演習なのだから。

 

「よろしくお願いします、お兄さま……ううん、ダーリン?」

 

 精一杯の背伸びをして呼んでみたけれど、お兄さまは「ぶっ!」と吹き出してしまった。

 ……ちぇっ。まだ早かったかな。

 

 

 

 私たちは海辺のテラス席がある、素敵なカフェレストランに入った。

 周りは本物のカップルばかり。

 お兄さまが注文したのは、なんと『カップル限定・愛のメロンソーダ』だった。

 巨大なグラスに、ハート型のストローが二本。

 こ、これは……少女漫画でしか見たことがない、伝説のアイテム!

 

「さあ、ライス。一緒に飲もう」

 

 お兄さまは平然と言っているけれど、私の顔はもう沸騰寸前だ。

 でも、これは恋人役としての義務であり、権利だ。

 私はおずおずとグラスに顔を近づけた。

 お兄さまの顔が、近い。

 長いまつ毛、通った鼻筋、優しげな目元。

 至近距離で見るお兄さまは、暴力的なまでにイケメンだった。

 こんな素敵な人と、一つのグラスを共有しているなんて。間接キスどころか、運命共同体になった気分だ。

 

 ストローをくわえて、メロンソーダを一口飲む。

 甘い。炭酸が弾けて、胸が苦しいくらいに甘い。

 ふと視線を上げると、お兄さまと目が合った。

 

「……おいしい?」

 

 お兄さまが優しく聞いてくる。

 私はコクンと頷くのが精いっぱいだった。

 

「お兄さま、顔赤いよ?」

「き、気のせいだ。日焼けしたかな」

 

 お兄さまが照れている。

 妹相手だと思って余裕ぶっていたけれど、この距離感にはドキドキしてくれているんだ。

 チャンスだ。このドキドキを、未来への約束に変えなくちゃ。

 

「ふふ。……ねえ、お兄さま」

 

 私はストローから口を離し、真っ直ぐにお兄さまを見つめた。

 波の音が、私たちの世界を包み込む。

 

「ライス、早く大人になるからね」

「ん? ああ、そうだな」

「そしたら、ごっこじゃなくて……本当にしてくれる?」

 

 これは賭けだ。

 お兄さまがどう受け取るか。

 本当のデートか、本当の恋人か。

 どちらにしても、今の「妹」という枠を超えてくれるという言質がほしい。

 

 お兄さまはグラスについた水滴を指でなぞりながら、優しく、そして真剣な声で答えてくれた。

 

「ああ。ライスが立派な大人になったら、こんなごっこ遊びじゃなくて、もっと素敵なエスコートをしてあげるよ」

「約束だよ?」

「約束だ」

 

 言った。約束してくれた。

 これは契約成立だ。

 今はまだ、お兄さまにとっては「妹の可愛いお願い」かもしれない。

 でも、私は忘れない。この約束を盾に、いつか必ず本当の恋人の座を勝ち取ってみせる。

 

 そのためにも。

 私は残りのメロンソーダを飲みながら、固く心に誓った。

 

 強くなること。速くなること。

 そして――牛乳をたくさん飲んで、早く大人になること。

 マックイーンさんやブルボンさんに負けないくらいの、素敵な女性になって、お兄さまを迎えに行こう。

 

 帰り道、繋いだ手から伝わるお兄さまの体温は、私の震える足を支え、未来への希望を灯してくれていた。




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