私には父親と呼べる存在が三人いた。
一人は、血の繋がった実の父親。
もっとも、その姿は写真の中の静止画でしか知らない。お母さまからは、私がこの世に生を受ける少し前に、病気で遠いお空へ旅立ってしまったと聞いている。会ったことはないけれど、私の命の半分をくれた大切な人。
一人は、義理の父親。
お母さまの再婚相手であり、今、私が「お父さま」と呼んでいる人だ。少し頼りないところもあるけれど、優しくておっとりとしていて、海よりも深い愛情で私とお母さまを包み込んでくれる人。
そして、最後の一人が――義理のお兄さまだ。
お父さまの連れ子であり、私とは血の繋がらない兄。
そして、私の世界のすべてであり、私が全霊を懸けて愛する人である。
記憶というものが形作られたその瞬間から、私の視界には常にお兄さまがいた。
お兄さまは、私の太陽であり、水であり、酸素だった。
何をするにも一緒だった。歩く時もお兄さまの服の裾を掴んでいたし、眠る時もお兄さまの匂いがしないと不安で泣いた。
少し大きくなってから聞いた話だが、お兄さまは私が赤ちゃんの頃、オムツを替えてくれたこともあったらしい。普通なら恥ずかしくて顔から火が出るような話かもしれないけれど、私はその事実を知った時、胸の奥が温かくなるのを感じた。
私の汚いところも、情けないところも、お兄さまは全部知っていて、その上で受け入れてくれている。それは、絶対的な安心感の証明だったから。
大好きなお母さまと、優しいお父さま。そして、誰よりも私を大切にしてくれるお兄さま。
四人家族という小さな箱庭は、私にとって完璧な楽園だった。
お兄さまが私の髪を梳かしてくれる時間。お兄さまが私のために絵本を読んでくれる時間。そのすべてが、永遠に続くと信じていた。
けれど、世界の色が鮮烈に変わり始めたのは、私が小学校に上がった頃のことだ。
お兄さまが「俺は将来、トレーナーになるために勉強する」と宣言し、私と過ごす時間が少しだけ減ってしまった時期だった。
寂しさを紛らわせるためだったのか、それともお兄さまの勤勉な姿に影響されたのか、私は図書室で本を読むことが多くなっていた。
ある日、私は一冊の絵本を手に取った。
それは、どこかの国の美しいお姫様が、困難を乗り越えて素敵な王子様と結ばれ、結婚し幸せになるという、ありふれた童話だった。
王子様は白バにまたがり、竜を倒し、お姫様を助け出す。優しくて、芯があって、頼りがいのある、誰もが憧れる理想の男性。
けれど。
読み終えた本を閉じた時、私の中に渦巻いたのは感動ではなかった。
どす黒く、粘度のある、激しい「嫉妬」だった。
納得がいかなかった。
だって、この本に出てくる王子様より、私のお兄さまの方がずっとカッコいい。
お兄さまの方が優しいし、頭もいいし、何より私を見る目が温かい。
竜を倒す? お兄さまなら、きっと私のために神様だって説き伏せてくれるはずだ。
それなのに、どうしてお姫様は王子様なんかと結婚しているの?
どうしてライスは、お兄さまと結婚していないの?
その時、天啓のように理解した。
そうか、ライスはお兄さまと結婚すればいいんだ。
そうすれば、お兄さまはずっと一緒にいてくれる。朝起きてから夜眠るまで、いいえ、夢の中でさえも、お兄さまを独り占めできる。
それは、この世のどんな結末よりも幸福な「めでたしめでたし」になるはずだ。
私は胸を高鳴らせ、その未来予想図を脳内で描き始めた。
白いドレス、タキシード姿のお兄さま、祝福の鐘。
しかし、その完璧な想像は、一つの冷酷な事実に衝突して霧散した。
学校の先生が言っていた。テレビのドラマで言っていた。
――兄と妹は、結婚できない。
絶望だった。
目の前が真っ暗になるというのは、こういうことを言うのだと知った。
法律? 倫理? そんな顔も知らない誰かが決めたルールのせいで、私の幸せが阻まれるなんて。
私はこの時初めて、三女神様を呪った。
なぜ私をお兄さまの妹として生み落としたのですか。赤の他人として、幼馴染として、あるいは通りすがりの運命の相手として出会わせてくれればよかったのに。
脳内で三女神像を何度爆破し、粉々にしたかわからない。
けれど、いくら神様を呪っても、現実は変わらない。私はお兄さまの妹で、お兄さまは私の兄だ。
数日間、私は食事ものどを通らないほど悩み抜いた。
そして、一つの望みにすがることにした。
お母さまだ。
お母さまは大きな海運会社の重役で、世界中を飛び回っているすごいウマ娘だ。
日本という狭い国ではダメでも、世界のどこかには、兄と妹が愛し合い、結ばれることが許される「理想郷(ユートピア)」があるかもしれない。
お母さまなら、そんな夢の国を知っているに違いない。
ある夜、お母さまが書斎で仕事をしている時間を狙って、私はドアを叩いた。
「……お母さま、相談があるの」
私の真剣な、あるいは悲壮な表情を見て取ったのか、お母さまは眼鏡を外して優しく微笑んでくれた。
「どうしたの、ライス。そんなに怖い顔をして」
私は震える声で、しかしはっきりと尋ねた。
兄妹でも結婚できる国は、この地球上のどこかにありませんか、と。
それは子供特有の戯言に聞こえたかもしれない。けれど、私にとっては死活問題だった。
お母さまは一瞬きょとんとして、次に少しだけ困ったように眉を下げ、そして最後に――何かを納得したように深く頷いた。
そして、私を膝の上に乗せると、秘密を打ち明けるように囁いた。
「ライス。実はね、ライスとお兄ちゃんは、血が繋がっていないのよ」
――え?
「お兄ちゃんは、お父さんの連れ子。ライスは、私の子。二人の間には、血の繋がりはないの。だから……」
お母さまは、悪戯っぽくウインクをして告げた。
「今の日本の法律でも、ライスがお兄ちゃんと結婚したければ、できるわよ」
その瞬間、世界が反転した。
灰色だった視界に、極彩色の花が咲き乱れる。
ファンファーレが鳴り響き、天使たちがラッパを吹き鳴らす。
神様、三女神様、ごめんなさい。貴女たちは最高で、慈悲深い神様です。爆破してごめんなさい。
血が繋がっていない。
それはつまり、私とお兄さまの間には、何の障害もないということだ。
私はお兄さまの「妹」でありながら、将来の「お嫁さん」になる権利を正当に有しているのだ。
私はお母さまに何度も何度もお礼を言い、部屋を飛び出した。
スキップが止まらなかった。廊下ですれ違ったお父さまが「ライス、いいことあったのかい?」と聞いてきたけれど、「秘密!」と答えて自室に飛び込んだ。
さて、法律上の障害が消滅した今、残る課題はただ一つ。
お兄さまを振り向かせることだ。
お兄さまは優しい。誰にでも優しいし、私を妹として溺愛してくれている。
けれど、それはあくまで「庇護対象」としての愛だ。それを「異性」としての愛に変えなければならない。
それに、お兄さまは優秀だ。将来は中央のトレーナーを目指している。
トレセン学園には、きらびやかで才能あふれるウマ娘たちが星の数ほどいるだろう。
もし、お兄さまが担当したウマ娘と恋に落ちてしまったら?
どこのウマの骨とも知れない泥棒ウマ娘に、私のお兄さまを攫われるなんて、絶対に許せない。想像しただけで爆破したくなる。
だから、私がならなければならない。
お兄さまが思わず求婚したくなるほど、強く、速く、美しく、最高に可愛いウマ娘に。
お兄さまの隣に立つことが唯一許される、最強のパートナーに。
私はカレンダーと手帳を広げ、緻密な計算を行った。
私がトゥインクル・シリーズを目指してトレセン学園に入学できる年齢。
お兄さまがトレーナー資格を取得する時期。
お兄さまは優秀だから、きっとストレートで試験に合格するはずだ。そうすると、奇跡のような偶然で、二つの時期は重なる。
完璧だった。
これ以上のシナリオは存在しない。
まず、私がトレセン学園に入学する。
そこで新人トレーナーとなったお兄さまと契約を結ぶ。
二人三脚で挑むトゥインクル・シリーズ。数々のレースを勝利し、喜びも悲しみも分かち合い、絆を深めていく六年間(中等部から高等部まで)。
そして、私がドリームトロフィーを手にする頃、お兄さまは私への愛を自覚し、卒業式の日、伝説の樹の下かどこかでプロポーズをするのだ。
「ライス、俺と結婚してくれ」と。
私は涙ながらに頷き、ハッピーエンド。
完璧な計画だ。
穴などどこにもない。
私はその夜、興奮で眠れないまま、お兄さまの部屋の方角に向かって静かに祈りを捧げた。
待っていてね、お兄さま。
ライスは必ず、お兄さまだけの青い薔薇になってみせるから。
――そう、その時は心から信じていた。
これが誰にも邪魔されることのない、完璧で絶対的な計画なのだと。