初恋とは叶わないもの。
古今の恋愛小説やドラマで擦り切れるほど語られてきたその言葉が、半分は真実で、もう半分は嘘だと理解したのは、クリスマスのイルミネーションが消灯する、まさにその時でした。
私の名前はメジロマックイーン。
栄光あるメジロ家の血を引くウマ娘として、幼い頃から厳しく、けれど大切に育てられてきました。
周囲からの期待は常に高く、それに応えることが私の義務であり、誇りでもありました。けれど、その重圧は時として、まだ未熟な私の心を蝕む毒にもなりました。
あれは、私がまだ本格的なトレーニングを始める前、進路について家と揉めていた時期のことです。
伝統を重んじる家の意向と、私自身の走りへの渇望。その狭間で身動きが取れなくなり、私は広い屋敷の中で、居場所を見失っていました。
誰に相談しても返ってくるのは「メジロ家のために」という言葉ばかり。私は孤独でした。広い空の下で、たった一人、出口のない迷路を彷徨っているようでした。
そんな私を見出し、手を差し伸べてくださったのが、現在の担当である奈瀬文乃トレーナーでした。
彼女は私の迷いを見透かした上で、あえて厳しい言葉と共に、私に「走るための場所」を与えてくださいました。彼女がいなければ、今の私はありません。一生頭が上がらない恩人です。
そして。
厳格な奈瀬トレーナーの横で、いつも困ったように、けれど温かく微笑んで私を支えてくださったのが――サブトレーナーさんでした。
彼は不思議な方でした。
トレーナーとしての技術や知識は確かなのに、どこか「普通」の感覚を持っていらして。
ピリピリと張り詰めた現場の空気を、彼が淹れる紅茶の香りがふわりと和ませてくれる。そんな魔法のような空気感を持った男性でした。
私が彼に恋をするのに、そう時間はかかりませんでした。
ある雨の日のことです。
タイムが伸びず、奈瀬トレーナーに厳しく叱責され、私は悔し涙を堪えながら居残りでストレッチをしていました。
心身ともに疲れ果て、甘いものが食べたいけれど、体重管理のためにそれも叶わない。そんな惨めさと空腹で、心が折れそうになっていた時。
「お疲れ様、マックイーン」
彼がそっと差し出してくれたのは、小さなタッパーに入った手作りのスイーツでした。
「これ、おからと低糖質甘味料で作ったんだ。味は保証しないけど、カロリーは計算済みだから大丈夫だよ」
それは、不格好な形のクッキーでした。
けれど、口に入れた瞬間に広がった優しい甘さを、私は一生忘れないでしょう。
夜遅くまで、私のために慣れない手つきでお菓子を焼いてくれた彼の姿を想像して、胸がどうしようもなく熱くなりました。
優しくて、マメで、私のわがままを「仕方ないなぁ」と笑って許してくれる。
それは、私が求めていた「安らぎ」そのものでした。
これが初恋だと、幼い私の心は高鳴りました。この人と一緒なら、どんな過酷なレースも乗り越えていける。そう信じていました。
けれど、同時に私は気づいていました。
彼の瞳の奥、一番大切な場所には、常に「ある存在」がいることを。
『妹がね』
『ライスがね』
彼が休憩時間に語るその名前は、まるで聖女か女神の名であるかのように、慈しみと愛情に満ちていました。
写真を見せてもらったこともあります。可愛らしい、儚げなウマ娘でした。
彼は彼女のことを「妹」と呼びますが、その執着の仕方は、単なる兄妹の枠をとうに超えているように、私の目には映りました。
それでも、私は諦めませんでした。
今は妹さんが一番でも、私が強くなり、美しい大人のウマ娘になれば、きっと私を見てくれる。
あの優しさを、私だけのものにできる日が来るはずだと。
しかし。
その淡い期待が「勝てない」という確信に変わったのは、あのお茶会の日。
ライスシャワーさんと、初めて腰を据えて話をした時のことでした。
彼女は、私とミホノブルボンさんに向かって、高らかに宣言しました。
『お兄さまは渡さない!』と。
その時の彼女の瞳。
普段の大人しく控えめな彼女からは想像もつかない、青く静かに燃え盛る炎。
それは、嫉妬や独占欲といった単純な感情を超越した、彼女の生きる意味そのもののように見えました。
私はその時、直感してしまったのです。
ああ、これは勝てない、と。
明確な理由を言葉にするのは難しいのです。
容姿で負けているつもりはありませんし、ウマ娘としての実力も、今の時点では私の方が上でしょう。彼との共有した時間だって、ここ二年に限れば私の方が多いはずです。
けれど、決定的な「覚悟」の差を感じてしまったのです。
もし、世界が彼と結ばれることを「不可能」だと断じたら。
私なら、メジロ家の娘としての分別や、現実的な判断から、涙を飲んで身を引くでしょう。それが美しい去り際だと、自分を納得させるでしょう。
ですが、ライスさんは違います。
きっと彼女は、世界そのものを敵に回してでも、不可能を可能にするためにあがき続けるでしょう。
神様がダメだと言っても、運命が邪魔をしても、彼女はその小さな体で壁を壊し、傷だらけになりながら彼の手を掴みに行く。
「兄と妹」という関係性すら、彼女にとっては乗り越えるべきハードルの一つに過ぎないのです。
青い薔薇の花言葉は「不可能」から「夢かなう」へと変わりました。
彼女はまさに、その花言葉を体現する存在。
その狂おしいほどの純粋さと強さを目の当たりにして、私は戦う前から白旗を上げてしまったのかもしれません。
だから私は、このクリスマスの夜を、私の初恋の「終わりの日」にしようと決めました。
思いを伝えて、断られて、綺麗さっぱり諦めて。
そして明日は、笑って彼とライスさんの幸せを願う友人になろうと。
そう、思っていたのです。
あの言葉を聞くまでは。
「……一心同体の関係になってほしいのです」
テラスで伝えた私の精一杯の告白に、彼は誠実に答えてくれました。
『ごめん』と。
『一番にはできない』と。
それは想定通りでした。胸は痛みましたが、納得もしていました。
しかし、その後に続いた彼の言葉が、私の涙を引っ込ませました。
『いつかライスがお嫁に行っちゃったら、俺一人きりだからな』
……はい?
一瞬、耳を疑いました。
あまりの衝撃に、優雅な言葉遣いを忘れそうになりました。
この人、今、なんて言いましたの?
ライスさんが、お嫁に行く? 貴方以外の誰かのもとへ?
『そうなったらあの時答えていればとか思っちゃうと思うなーって』
彼は遠い目をして、寂しそうに笑っていました。
そこには一点の曇りも、駆け引きもありませんでした。
彼は本気で、心の底から信じているのです。
ライスシャワーという愛する妹が、いつか素敵な男性を見つけて自分の元を巣立っていくという、一般的で健全な未来図を。
――嘘でしょう?
あそこまでライスさんを溺愛しておきながら。
ライスさんが、あれほどの執念と情熱を向けているのに。
貴方は彼女を、一ミリたりとも「女性」として見ていないのですか!?
驚きを通り越して、戦慄しました。
ライスさんの恋路に立ちはだかる最大の障壁は、私たちライバルではありませんでした。
サブトレーナーさん自身の、この強固すぎる「兄としての理性の壁」――いえ、もはや「鈍感の要塞」ですわ!
とたんに、ライスさんが不憫でなりませんでした。
あんなにけなげに、必死にアピールしているのに。
彼の中では、それは全て「可愛い妹の甘え」として処理されているのです。
これでは、いくら外堀を埋めても、本丸に届くはずがありません。
私は彼を見つめました。
顔はいい。性格もいい。トレーナーとしても優秀。
けれど、この一点においてのみ、彼は絶望的にポンコツでした。
「……ライスさんも、大変ですわね」
思わず口をついて出た言葉には、心からの同情がこもっていました。
私の初恋は、ここで終わります。
でも、その終わり方は、当初予定していた「美しい悲恋」とは少し違うものになりました。
悔しさよりも、呆れと、そして残されたあの小さな少女への憐憫の情が勝ってしまったのですから。
私はテラスを後にし、会場へと戻りました。
ビュッフェ台に残っていたケーキを皿に取りながら、ふと思います。
このままでは、ライスさんの恋は「夢かなう」どころか、永遠の片思いで終わってしまいかねません。
それは、ライバルとして――いいえ、友人として、あまりにも忍びないですわ。
「……少しは、手を貸してあげたほうがいいかしら」
そんな仏心が芽生えるのを止められませんでした。
もちろん、ライスさんに勝ってほしいわけではありません。
ただ、せめて同じ土俵――「異性」として意識されるラインまでは、引き上げてあげないと、勝負にすらなりませんもの。
フォークでケーキを口に運びながら、私は苦笑しました。
恋敵に塩を送るなんて、私もお人好しですわね。
でも、あの鈍感な彼が、ライスさんの猛アタックに狼狽え、顔を赤くする姿を見てみたい気もします。
窓の外では、雪が降り始めていました。
どこかで私と同じように空を見上げているであろう、青い薔薇の少女へ。
頑張りなさい、ライスさん。
貴女の戦いは、貴女が思っている以上に、前途多難ですわよ。
私は最後の一口を飲み込み、優雅に微笑みました。
失恋の味は少しほろ苦かったけれど、不思議と胃もたれはしなさそうです。
さあ、明日の体重測定のことは忘れて、今夜はもう少しだけ、甘いものを楽しみましょうか。