高校の卒業式を終えたその足で、私は新たな戦場へと足を踏み入れた。
中央トレセン学園。
トゥインクル・シリーズを志すウマ娘たちの聖地であり、彼女たちを導くトレーナーたちの総本山だ。
通常、トレーナー資格を得るためには、専門の養成機関に通い、過酷なカリキュラムを修了する必要がある。だが、そのルートを取ると、トレーナーになってすぐにトレセン学園のことがわからず、結局誰かのもとで下積みが必要になる。それではかわいい義妹が入ってきたときに担当になれないかもしれない。
だから私は違うルートを選んだ。すなわち、現役トレーナーの下での実地研修、いわゆる「見習い」制度である。
とはいえ、誰でもなれるわけではない。コネクションが必要だ。
ここで火を噴いたのが、我が母のコネクションだった。
「あら、なら知り合いにちょっと一本入れておくわね」
夕食の席でさらりと言ってのけた母。持つべきものは、やはり親のコネである。
世の中、綺麗事だけでは大切なものは守れない。ライスのためなら、私は親の脛でも悪魔の尻尾でもしゃぶり尽くす覚悟だ。
そうして紹介された私の師匠となる人物は、奈瀬文乃トレーナー。
まだ二十代という若さながら、緻密なデータ管理と冷静な判断力で数々の重賞ウマ娘を育て上げている、今もっとも勢いのあるトップトレーナーの一人だ。
初対面の日、彼女は書類に目を落としたまま、氷のような声で言った。
「断れない筋からの紹介だから断らなかったけど、使えないなら即刻クビにするわよ。私の現場に、遊び半分の人間はいらない」
背筋が凍るような威圧感。だが、私は内心で安堵していた。
これぐらい厳格な人間でなければ、学ぶ意味がない。私はただのトレーナーになりたいわけではない。ライスの運命をねじ曲げ、彼女を無事にゴール板の向こう側へ連れていける「最強のトレーナー」にならねばならないのだから。
研修の日々は、まさに地獄だった。
早朝四時のバ場点検に始まり、各担当ウマ娘のバイタルチェック、食事管理、トレーニングメニューの補助、膨大なデータの整理、そして夜遅くまでのミーティング。
前世の知識があるとはいえ、現場の「空気」や「生きた判断」は、実際に体験しなければ身につかない。私は必死に食らいついた。
すべては、2年後にやってくる私の天使、ライスシャワーのために。
そんなある日、奈瀬トレーナーから一人のウマ娘の担当補佐を命じられた。
「貴方、意外とマメなようね。明日からメジロマックイーンのサブ担当に入りなさい」
メジロマックイーン。
その名を聞いた時、私はごくりと唾を飲み込んだ。
名門メジロ家の令嬢にして、長距離界の絶対王者となる才覚を秘めたウマ娘。
本来ならば、私のような見習いが触れていい相手ではない。だが、奈瀬トレーナー自身が多忙を極め、また、ほかにも何か事情があったらしく、白羽の矢が立ったのだ。
私の仕事は、トレーニングの直接指導ではなく、日常的なケアや精神的なフォロー、スケジュールの管理といった「身の回り」の世話が中心だった。
お屋敷育ちのご令嬢。さぞかし気位が高く、扱いづらいのではないかと身構えたが――それは杞憂だった。
「よろしくお願いしますわ、サブトレーナーさん」
「サブトレーナーじゃないけどね。よろしく」
ああ、この子は「いい子」だ。
野球観戦が好きで、甘いスイーツに目がなくて、でもメジロ家という重圧の中で必死に「理想のウマ娘」であろうとしている、健気な少女。
専門的なトレーニング理論は奈瀬トレーナーに任せるとして、私がすべきことは彼女の心を少しでも軽くすることだろう。
実のところ、この手の「お世話」に関して、私は絶対の自信を持っていた。
何しろ私は、十年間ライスシャワーという至高の存在を甘やかし、慈しみ、育て上げてきた筋金入りの「お兄ちゃん」なのだ。
紅茶の最適な温度、疲れた足へのマッサージの力加減、落ち込んでいる時にかけるべき言葉のチョイス。それらはすべて、私の魂に刻み込まれている。
練習後、疲れ切ったマックイーンに、私はタオルと特製ドリンクを差し出した。
「お疲れ様。今日のタイム、後半の伸びが素晴らしかったね。奈瀬さんも褒めていたよ。あとで紅茶も淹れてあげるね」
「本当ですの? ……ふふ、ありがとうございます。貴方が入れてくださる紅茶を飲むと、なんだかホッとするのです」
マックイーンは嬉しそうに目を細める。
彼女と良好な関係を築くのは、私にとって造作もないことだった。
妹のように可愛いウマ娘が頑張っている姿を見れば、手を貸したくなるのが「兄」という生き物の性(さが)である。
現場での経験は、私に多くの出会いをもたらした。
奈瀬トレーナーの兄弟子にあたる小内トレーナーや、かつて奈瀬トレーナーの父の師匠であったという黒沼トレーナー。
特に黒沼トレーナーとの出会いは、私にとって大きな意味を持った。彼が手塩にかけて育てている一人のウマ娘がいたからだ。
ミホノブルボン。
その名を聞いた瞬間、私の脳裏に前世の記憶がフラッシュバックした。
坂路の申し子。サイボーグ。そして――私の愛するライスシャワーにとって、最大の宿敵(ライバル)となる存在。
彼女は、正確無比なラップタイムを刻む機械のような走りを叩き込まれていた。
黒沼トレーナーの指導は「スパルタ」の一言に尽きる。
「笑う必要はない。感情は走りのノイズになる」
そう言い放つ黒沼氏は、トレーナーとしては超一流だが、父親としてはあまりに不器用で、厳しすぎた。
ある日の休憩中、ベンチで無表情にプロテインを飲んでいるブルボンに、私は声をかけた。
「ブルボンちゃん、少し休憩しないかい? これ、マックイーンにも好評だったクッキーなんだけど」
「……肯定。しかし、マスターの許可がありません」
「今は休憩時間だ。それに、糖分補給もトレーニングの一環だよ」
私は強引に彼女の手にクッキーを握らせた。
彼女は戸惑いながらもそれを口にし、次いで、その機械的な瞳をわずかに見開いた。
「……甘い。おいしい、です」
「そうだろう? 美味しいものを食べれば、もっと速く走れるようになるさ」
それからというもの、私は黒沼氏の目を盗んではブルボンを甘やかした。
髪の毛を整えてやったり、最新のヒーロー番組の話を聞いてやったり、時には黒沼氏への愚痴(というより業務報告に近いが)を聞いてやったり。
ライスの宿敵を強化してどうする、というツッコミが自分の中になかったわけではない。だが、私は知っていた。ライスが輝くためには、最強のライバルが必要なのだと。それに、壊れてしまいそうなほど張り詰めている彼女を放っておくことは、私の中の「兄」が許さなかった。
私が間に入ることで、ブルボンの表情は次第に柔らかくなっていった。
それを見た黒沼氏も、最初は渋い顔をしていたが、次第に態度を軟化させていった。
「……お前のおかげで、あいつが笑うようになった。余計なことをしやがって」
そう言いながら缶コーヒーを奢ってくれた時の彼の顔は、トレーナーのそれではなく、不器用な父親の顔だった。
こうして、怒涛のような二年間が過ぎ去った。
トップトレーナーの技術を盗み、名家のご令嬢の信頼を勝ち取り、サイボーグ少女に感情の芽生えを促した二年間。
そのすべてが、私の血肉となっていた。
トレーナー資格試験の合格発表日。
掲示板に自分の番号を見つけた時、私は空を見上げた。
長かった。いや、短かったか。
どちらにせよ、準備は整った。
私はポケットから、一枚の写真を取り出す。
まだ幼い頃の、私とライスのツーショット写真。
これを御守り代わりに、私は今日まで戦ってきた。
待たせたね、ライス。
お兄様は、最強のトレーナーになったよ。
君がトレセン学園の門をくぐるその日、一番最初に出迎えるのは私だ。
さあ、始めよう。私たちの栄光の物語を。