お兄さまがトレセン学園のトレーナー見習いとして家を出てから、私はある「ルール」を自分に課した。
それは、自分磨きの期間として、二年間はお兄さまと直接会わない、というものだ。
私の完璧な人生設計において、この二年間は空白ではない。サナギが蝶へと羽化するための、神聖な準備期間なのだ。
ウマ娘の成長期は人間よりも劇的だ。特に十代前半の体の変化は著しい。
この期間に、お兄さまの近くにいて「いつもの妹」として成長を見守られるよりも、あえて距離を置き、再会した時に「あれ? ライス、こんなに大人っぽくなって……」とドギマギさせる方が、異性として意識させるには効果的だと判断したのだ。
毎日顔を合わせていたら、変化に気づきにくい。
けれど、二年ぶりの再会ならば、その落差(ギャップ)は恋の導火線に火をつける最強の武器になるはず。
もちろん、寂しくないと言えば嘘になる。
枕を涙で濡らした夜もあった。
それでも私は耐えた。すべては、将来お兄さまのお嫁さんになるため。
ただの「守られる妹」から、「隣に立つパートナー」へ。
そう決意を語る私に、お母さまは「あらあら、まあまあ」と生暖かい視線を送っていたけれど、今の私にはその余裕すらも応援に思えた。
そして、お兄さまが正式にトレーナー資格を取得し、私がトレセン学園中等部への入学を決めた春。
約束の二年が過ぎた。
鏡の前で、私は自分の姿を入念にチェックする。
……残念ながら、お母さまの遺伝子はちゃんと仕事をしてしまったらしい。
身長は145センチで止まってしまったし、体つきも「ボンッキュッボンッ」というよりは「スッ、トン、スッ」といった風情だ。
けれど、肌の手入れは欠かさなかったし、髪も毎日丁寧にブラッシングして天使の輪ができるほど艶やかだ。小柄だけれど、華奢で儚げな文学少女風の美少女にはなれたはず。そう信じたい。いや、信じる。
私はドレッサーの引き出しから、大切な宝物を取り出した。
かつてお兄さまがプレゼントしてくれた、青い薔薇の髪飾り。
これを着けることが、作戦開始の合図だ。
「よし、行こう。ライス」
私は鏡の中の自分に気合を入れ、新しい制服に袖を通した。
待っていてね、お兄さま。
最高に可愛くなったライスが、今、会いに行きます。
中央トレセン学園の敷地は広大だった。
春の風に乗って漂う芝の匂い。遠くから聞こえる蹄鉄の音。
ここが、私とお兄さまがこれから愛と栄光の物語を紡ぐ場所。
私は地図を片手に、お兄さまがいるはずのトレーナー室を目指した。
心臓が早鐘を打っている。
ドアを開けた瞬間、お兄さまはどんな顔をするだろう。
驚いて目を丸くするかな。それとも、可愛くなった私に見惚れて言葉を失うかな。
想像するだけで頬が緩んでしまう。
目的の部屋の前に立ち、私は深呼吸を一つ。
そして、最高の笑顔を作ってドアを勢いよく開け放った。
「お兄さま!!ライスシャワーが会いにきたよ!!」
高らかに宣言し、私は室内へと踏み込んだ。
感動の再会。涙の抱擁。愛の告白。
そのすべての準備は整っていた。
――しかし。
「あら、いらっしゃいませ」
「……? こんにちは。来客、です」
そこには、私の知らない世界が広がっていた。
室内には、優雅に紅茶の香りが漂っている。
そして、ソファには二人のウマ娘が我が物顔でくつろいでいた。
一人は、透き通るような芦毛のロングヘアを持つウマ娘。
背が高く、スラリとしたモデルのような手足。品の良さが服の上からでも滲み出ているような、完成された美貌の持ち主。手にはティーカップを持ち、まるで王宮のサロンにいるかのように微笑んでいる。
もう一人は、栗毛のロングヘアのウマ娘。
こちらは対照的に、スポーティでありながらも、出るべきところが出ている暴力的なまでのナイスバディ。無表情だが、その瞳には強い光が宿っている。
……だれ?
なぜ、お兄さまの聖域(へや)に、私以外の女がいるの?
部屋を間違えたのだろうか。一度ドアを閉めて確認しようとした、その時。
二人の美少女の間から、見慣れた、そして愛しい長身の男性が現れた。
「やあライス。久しぶり。元気だったかい?」
お兄さまだ。
間違いなく、私のお兄さまだ。
相変わらず優しい声。私を見る温かい目。
でも、その状況が、私の脳内回路を焼き切った。
私のいない二年間。
お兄さまは、一人で寂しく勉強していると思っていた。私の写真を見ながら、再会の日を待ちわびていると思っていた。
それなのに。
こんな、こんな綺麗でスタイルのいい人たちを部屋に連れ込んで、紅茶なんて飲んで優雅に過ごしていたなんて。
私という妹(フィアンセ)がいながら!
「……」
「? どうしたんだライス? そんな入り口で固まって」
「……お兄さまの」
「え?」
「お兄さまの、浮気者おおおおおっ!!!!」
「ふげらっ!!」
私は肩にかけていたスクールバッグを全力で投擲した。
カバンは美しい放物線を描き、お兄さまの顔面にクリーンヒットする。
お兄さまが情けない悲鳴を上げて倒れるのを見届けることもなく、私は回れ右をして廊下へと駆け出した。
嫌だ。聞きたくない。見たくない。
私の場所がなくなっているなんて、信じたくない!
「まあまあ、そんなに興奮せずにちょっとお話ししましょう?」
背後から、鈴を転がすような涼やかな声が聞こえた。
次の瞬間、目の前に灰色の影が滑り込む。
速い!?
あの芦毛の人だ。優雅な見た目とは裏腹に、その足運びは洗練された競技者のそれだった。
「ひっ……!」
進路を塞がれ、あわてて後ろへ下がろうとした瞬間。
「確保、しました」
背後から、鋼鉄のような腕にガシリと抱きすくめられた。
栗毛の人だ。ものすごい力で、びくともしない。
私がまだ基礎トレーニングしかしていない新入生だとしても、これほどまでに力の差があるなんて。
「は、離して! ライスは帰るの! お兄さまなんて知らない!」
「そうです、貴女がトレーナーさんの妹さん、ですよね? 写真で見るよりずっと可愛らしいですわ」
「肯定。マスターのデスクにある写真と一致。ライスシャワーさん、です」
二人は私の抵抗など意にも介さず、まるで迷子の仔猫をあやすように私を抱え上げ、再びあの忌まわしき部屋へと連れ戻したのだった。
カバンの直撃を受けて鼻を押さえているお兄さまは、「書類を出してくるから、その間三人で仲良くしていてくれ」と言い残し、逃げるように部屋を出て行った。
正直、気まずいから逃げたんだと思う。戻ってきたらもう一度投げてやる。
部屋には、私と、芦毛の人――メジロマックイーンさんと、栗毛の人――ミホノブルボンさんが残された。
お兄さまは、一番はライスだから、と言ってくれた。
けれど、私の心の中の嵐は収まらない。
監視を緩めたのが失敗だった。二年という月日は、泥棒猫が入り込むには十分すぎる時間だったのだ。
私はソファの端っこに座り、二人を睨みつけた。
威嚇してやる。ここは私の場所なんだから。
「ふーっ! ふーっ!」
「あらあら、仔猫ちゃんみたいで可愛らしいですわね」
「心拍数上昇。興奮状態にあります。糖分を摂取させて鎮静化を図ることを推奨」
マックイーンさんは優雅に微笑みながら、新しい紅茶を私の前に置いた。
ブルボンさんは無表情のまま、お皿に乗ったクッキーを差し出してくる。
こ、この人たち、余裕だ。私の敵意なんて、そよ風程度にしか感じていない。
「何か誤解しているようですが、私もブルボンさんも、担当のトレーナーさんは別にいますよ」
マックイーンさんが、紅茶を一口飲んでから静かに言った。
「……そうなの?」
「ええ。私は奈瀬トレーナー、ブルボンさんは黒沼トレーナーの担当です。この部屋の主は、私たちのサブトレーナーのようなものでしたの」
少しだけ、胸のつかえが取れた気がした。
なんだ、担当じゃないんだ。お兄さまの「一番」は、まだ誰のものでもないんだ。
「まあ、思うところがないわけではないですが」
マックイーンさんが、不穏な言葉を付け足した。
「……え?」
「見習いとはいえ、二年間、それはもう献身的にお世話をしていただきましたから。練習で疲れた足をマッサージしてくださったり、落ち込んだ夜には朝まで電話に付き合ってくださったり……」
「マッサージ!?」
「ええ。お上手なんですのよ? 彼の手は魔法のようですわ」
マックイーンさんが頬を染めてうっとりとした表情をする。
な、な、なにをさせているのこの女狐! お兄さまの手は私のものなのに!
「ふしゃー!!」
「マックイーンさん、からかうとかわいそうですよ」
ブルボンさんが淡々と言うと、マックイーンさんは「おや、バレました?」と悪びれもせずにクスクスと笑った。
このアマ、絶対に一発かましてやる。
名家の令嬢だか何だか知らないけれど、性格が悪すぎる。
「私もブルボンさんも随分とお世話になりましたから、今日はお礼に来ているだけです。貴女の思いを邪魔することはたぶんないと思いますよ、たぶん」
「最後の一言が余計なのよ!」
「ふふ。でも、貴女がお兄様のことを大好きなのは伝わってきましたわ。私たちにとっても、彼は恩人であり、大切なお兄様ですもの」
「肯定。サブトレさんは、特別な相手です」
二人の目つきが変わった。
ただのからかいではない。その瞳の奥には、確かな好意のような熱が揺らめいている気がする。
担当トレーナーが別にいようと関係ない。
この二人は、お兄さまという「男性」を、正しく評価し、狙っているに違いない。
「ふしゃー!!」
私は最大級の威嚇をした。
両方とも、油断も隙もない泥棒ウマ娘だ。
お兄さまが「妹」としか見ていない私と違い、彼女たちはすでにお兄さまと「対等な仕事仲間」としての信頼関係を築いている。
スタートラインは、私の方がずっと後ろだ。
絶対に許さん。
私の完璧な計画に、こんな強力なライバルが出現するなんて。
お兄さまを取られないように、今まで以上に監視とアピールが必要だ。
ガチャリ、とドアが開く音がした。
お兄さまが戻ってきたのだ。
「あー、喧嘩してないよな……?」
「お兄さま!」
私は席を立ち、お兄さまの腕に抱き着いた。
マックイーンさんとブルボンさんが「あらあら」という顔で見ている。
負けない。絶対に負けないんだから。