お兄さまとの二人三脚。
それは、私が長年夢見てきた甘美な響きであり、これからの輝かしい学園生活を象徴する言葉のはずだった。
しかし、実際に始まったその日々は、私の想像とはいささか――いいえ、全くと言っていいほど違うものだった。
冷静に考えれば、それは当たり前のことなのかもしれないけれど。
私の脳内お花畑計画では、二人きりの時間が無限に続くはずだった。
朝、お兄さまの優しい声で目覚め、二人で登校し、授業中もテレパシーか何かで愛を囁き合い、放課後はマンツーマンでトレーニング、夜は星を見ながら将来を語り合う。
……うん、今にして思えば、これはただのフィクションの妄想だ。
現実は非情だ。
まず、全寮制のトレセン学園において、朝のお目覚めイベントは発生しない。
一日の大半は授業で埋め尽くされており、当然そこにお兄さまの姿はない。
そして、ようやく訪れる放課後のトレーニングタイム。こここそが、私が一番楽しみにしていた「二人だけの世界」のはずだった。
だが、その貴重な時間ですら、私の独占は許されなかった。
「……サブトレさん、心拍数正常。次のセット、行けます」
「あら、私もご一緒してよろしくて? 一人で走るより張り合いが出ますもの」
そう。
ミホノブルボンさんと、メジロマックイーンさんだ。
彼女たちが、あえて悪意を持って邪魔をしに来ているわけではないことは、頭では理解している。
ブルボンさんは、お兄さまが尊敬する黒沼トレーナーの担当ウマ娘であり、お兄さま自身も彼女の指導補助を頼まれている。
マックイーンさんは、すで華々しいデビューを飾っている先輩でありながら、私たち新人の併走相手として胸を貸してくれている。
本来ならば、感謝してもしきれないほど有難い環境なのだ。
この前の「初デート」だってそうだ。
私が勝手にデートと呼んで舞い上がっていただけで、実際は用具の買い出しだ。そこにお兄さまの師匠筋の依頼でブルボンさんが同行するのは、業務効率を考えれば極めて合理的だ。
お兄さまは優秀なトレーナーだから、合理的な判断をする。それは素晴らしいことだ。
でも。
頭でわかっていても、心が「ぶー」と音を立てて膨れてしまうのは止められない。
トレーニング中、お兄さまがブルボンさんのタイムを見て頷く横顔。
マックイーンさんの走りに感嘆の声を上げる瞬間。
その視線の中に、私以外の誰かがいることが、どうしようもなく胸をざわつかせる。
このままではいけない。
ただ拗ねて、お兄さまの袖を引っ張っているだけでは、あの二人には勝てない。
なんとなく胸の奥に溜まったモヤモヤとした黒い煙を吹き飛ばすために、私はある決意を固めた。
――腹を割って、話そう。
日曜日の午後。
私は学園のカフェテリアのテラス席に、二人を招待した。
テーブルには、私が並んで買った限定のスイーツと、マックイーンさんが持ち寄った最高級の紅茶、そしてなぜかブルボンさんが持参した栄養補助ゼリー(これはそっと脇に置いてもらった)が並んでいる。
「あら、ライスさんからお茶会のお誘いなんて、嬉しいですわ」
「肯定。糖分補給は推奨されています。感謝します」
二人は屈託のない様子で席に着いた。
春の風が彼女たちの髪を揺らす。悔しいけれど、絵になる二人だ。
私は深呼吸をして、紅茶を一口飲んでから切り出した。
「今日は、二人に聞きたいことがあって来てもらったの」
「聞きたいこと、ですか?」
「質問内容の提示を求めます」
私は真っ直ぐに二人を見据えた。
テーブルの下で、膝の上に乗せた拳をぎゅっと握りしめる。
「……単刀直入に聞くね。二人は、お兄さまのことが好きなの?」
カチャン、とマックイーンさんがティーカップをソーサーに置く音が響いた。
一瞬の静寂。
カフェテリアの喧騒が、遠い世界の出来事のように感じる。
最初に口を開いたのは、マックイーンさんだった。
彼女は優雅に微笑んだまま、しかしその瞳は真剣な色を帯びていた。
「ええ、お慕いしておりますわ」
一切の迷いもない、清々しいほどの即答だった。
「私の担当は奈瀬トレーナーです。彼女を尊敬していますし、信頼もしています。ですが……彼、貴女のお兄様もまた、私にとってはなくてはならない方ですの」
マックイーンさんは遠くを見るような目をした。
「名家の重圧に押しつぶされそうになった夜、誰にも言えない弱音を、彼はただ黙って聞いてくれました。甘いものが食べたいけれど体重制限が、と泣き言を言ったら、カロリー計算をした特製の低糖質スイーツを夜なべして作ってくれました。……あの方の優しさは、海のように広くて、温かいのです」
……知らなかった。
お兄さまが、私の見ていないところで、そんな風に彼女を支えていたなんて。
「肯定。私も、同意見です」
続いて、ブルボンさんが淡々とした口調で、けれど熱のこもった言葉を紡いだ。
「マスター……黒沼トレーナーの指導は完璧です。ですが、時にその厳しさは私のシステムに負荷をかけます。そんな時、サブトレさんは『潤滑油』となってくれました」
ブルボンさんは自分の胸に手を当てた。
「機械のように走れと言われる私に、彼は『笑ってもいいんだよ』と言ってくれました。雨の日の送迎、メンタルケア、彼がいなければ、私はきっととうの昔にオーバーヒートして、走ることを辞めていたかもしれません。サブトレさんは、私にとって必要なパーツ……いえ、大切な存在です」
二人の言葉は、重かった。
そこには、ぽっと出の恋心ではない、二年間という月日が積み上げた信頼と感謝、そして深い愛情があった。
それは、妹である私ですら立ち入れない、彼女たちとお兄さまだけの物語だ。
私は自分が恥ずかしくなった。
ただ「お兄さまを取らないで」と駄々をこねていただけの自分が、とても幼く思えた。
彼女たちもまた、お兄さまに救われ、お兄さまを愛している。
それは「泥棒猫」なんて言葉で片付けていいような、軽い気持ちではない。
うつむきかけた私に、マックイーンさんが優しく声をかけた。
「でもね、ライスさん。私たちはわかっていますのよ」
「?」
「あの方にとっての一番は、いつだって貴女だということを」
私が顔を上げると、マックイーンさんは少し寂しそうで、でも晴れやかな笑顔を浮かべていた。
「彼が私たちに向けてくれる優しさの根底には、いつも貴女がいました。『妹がね』『ライスがね』……彼の口からその名前が出ない日はありませんでしたわ。彼は、貴女のために最高のトレーナーになろうとして、その過程で私たちを救ってしまった。……罪作りな殿方ですわ」
「肯定。サブトレさんの最優先事項は、常にライスシャワーさんでした」
お兄さま……。
胸が熱くなる。
離れていた二年間も、お兄さまはずっと私を見ていてくれたんだ。
でも、だからこそ。
二人は引くつもりはないようだった。
「ですが、それは『妹として』の一番ですわよね?」
マックイーンさんの瞳が、スッと細められた。そこには、レースの時と同じ、勝負師の光が宿っていた。
「一人の女性として、パートナーとして隣に立つ権利……それはまだ、誰のものでもありませんわ。私は諦めるつもりはありません」
「同意。私も、サブトレさんの隣の席(シート)を譲渡する予定はありません。機能強化を続け、最適なパートナーであることを証明します」
二人の強い意志。
それを受け止めて、私の心の中のモヤモヤは、完全に消え去った。
代わりに燃え上がったのは、青い炎だ。
お兄さまがすごい人だから、素敵な人たちが集まってくる。それは当たり前のことだった。
そんなライバルたちを排除するのではなく、彼女たちよりもっと速く、もっと強く、もっと魅力的なウマ娘にならなければならない。
お兄さまが、妹としてではなく、一人の女性として「お前しかいない」と選んでくれるように。
私は残りの紅茶をぐいっと飲み干すと、二人に宣言した。
「……わかった。ライスの完敗だね」
「あら」
「撤退ですか?」
「ううん、違うよ」
私はニッと笑った。
きっと、今までの私にはできなかった、不敵な笑みだ。
「二人の気持ちはわかった。友達として、それは認める。……でも!」
私は立ち上がり、二人を指さした。
「お兄さまは渡さない! ライスが一番速くて、強くて、可愛いウマ娘になって、お兄さまのお嫁さんになるの! 二人には負けないんだから!」
カフェテリアに私の声が響いた。
周囲の生徒たちが何事かとこちらを見ているけれど、気にならなかった。
私の宣言を聞いた二人は、顔を見合わせ――そして、嬉しそうに笑った。
「ふふ、そうでなくては張り合いがありませんわ」
「了解。ライバル認定を更新。以後、ライスさんを最大警戒対象とします」
そこにあったのは、もうドロドロとした嫉妬や足の引っ張り合いではない。
同じ人を想い、同じゴールを目指して走る、好敵手(ライバル)としての絆だった。
「さあ、そうと決まれば、このケーキも半分こですわ! 戦うにはエネルギーが必要ですもの」
「推奨。マックイーンさんの体脂肪率は現在……」
「お黙りなさいブルボンさん! 今は休戦中(ティータイム)ですわ!」
私たちは笑い合った。
ああ、なんだかご飯がおいしい。
敵だと思っていた二人は、最強のライバルであり、そして誰よりも話の分かる「恋の同志」だったのだ。
その日の夕方。
トレーナー室でお兄さまに会った私は、迷わずその胸に飛び込んだ。
「うわっ、ど、どうしたんだライス? 何かあったのか?」
「ううん、なんでもない!」
お兄さまの匂いを胸いっぱいに吸い込む。
やっぱり、ここが一番落ち着く。
でも、もう膝の上に座って駄々をこねるだけの妹じゃない。
「お兄さま、明日のトレーニング、ブルボンさんとマックイーンさんも誘っていい?」
「え? あ、ああ。もちろん構わないが……仲直りできたのか?」
お兄さまが心配そうに私の顔を覗き込む。
私は精一杯の笑顔で答えた。
「うん! もう仲良しだよ。……二人には、絶対に負けないからね!」
私の言葉の意味を、お兄さまは「レースへの意気込み」と受け取ったようだ。「そうか、その意気だ!」と嬉しそうに私の頭を撫でてくれる。
今はまだ、この鈍感で優しい手のひらの下でいい。
けれど、いつか必ず。
青い薔薇の花言葉は「奇跡」。
奇跡みたいな確率で出会ったライバルたちと競い合い、私は必ず夢を叶えてみせる。
さあ、お兄さま。
覚悟していてね。ライスたちの愛のダービーは、まだファンファーレが鳴ったばかりなんだから。