ここ最近、私はある重大な欠乏症に悩まされていた。
医学的な病名をつけるならば、「妹成分不足症候群」。
症状としては、ため息の増加、虚空を見つめる時間の延長、そして手のひらが無意識に何かを愛でるように動いてしまう、といったものが挙げられる。
いや、反論は予想できる。「お前、毎日トレーナーとして会っているじゃないか」と。
確かに、物理的な接触頻度で言えば、私が実家を出ていたこの二年間とは比べ物にならないほど増えている。朝の挨拶から始まり、放課後のトレーニング、ミーティング、そして寮への送り届けまで、一日の多くの時間を共有している。
だが、あえて言わせてもらおう。それは「業務」というオブラートに包まれた接触に過ぎない!
トレーナーと担当ウマ娘という関係上、学園内では一定の節度を保たねばならない。衆人環視の中で、彼女の頭を無意味に撫で回したり、あのふかふかの耳をハムハムしたり、尻尾を頬ずりしたりすることは、社会的死、および通報案件に直結する。
私が求めているのは、もっとこう、プリミティブで、魂の安らぎを得られるような、純正度100%のスキンシップなのだ。
あの大きな耳の付け根を指でコリコリとした時の、彼女のくすぐったそうな反応。
丁寧にブラッシングされた尻尾が、私の手の中でサラサラと流れる感触。
そういった「兄妹」という特権階級のみに許された聖なる儀式が、圧倒的に不足している。
それに、金銭的な事情もある。
先日購入したシューズや蹄鉄は、実用的かつ高価なものだったが、支払いは母のカードだった。「大事な道具なんだから、家計から出しなさい」という母の言葉に甘えた形だ。
だが、私はもう社会人であり、給料をもらう身だ。
自分の汗と涙の結晶である初任給で、ライスに何かを買ってあげたい。実用品ではない、彼女を笑顔にするためだけの何かを、私の甲斐性でプレゼントしたいのだ。
限界だった。
私の理性という名のダムが決壊する音が聞こえた。
「――ということで、ライス」
「なあに、お兄さま?」
トレーニング終わりのトレーナー室。
プロテインを飲んでいたライスに、私は真剣な面持ちで告げた。
「ゴールデンウィークは、実家に戻ろう」
「お父さまとお母さまに会いに?」
「ああ。久しぶりに家族水入らずで過ごしたいし、何より……私が限界だ」
「限界?」
首をかしげるライス。その耳がぴょこんと動くのを見て、私は拳を震わせた。
待っていろ、私のサンクチュアリ。
連休中は、一秒たりとも無駄にせず、失われた妹成分を補給し尽くしてみせる。
実家への帰省は、私にとって楽園への帰還と同義だった。
父と母は、久しぶりの息子と、愛らしく成長した娘の帰宅を涙を流して喜んでくれた。
豪華な夕食を囲み、積もる話に花を咲かせる。マックイーンやブルボンといった友人ができたことを報告すると、二人は安心してくれたようだ。
そして、夜。
ここからが本番である。
「お兄さま、ドライヤーしてー」
「喜んで!」
風呂上がりのライスが、パジャマ姿で私の部屋にやってくる。
ほんのりと上気した頬、石鹸の香り。濡れた髪が肩にかかるその姿は、破壊力抜群だ。
私は彼女を鏡の前に座らせ、最高級の椿油と豚毛のブラシを取り出した。
まずは髪を乾かす。温風を当てながら、指先で髪をすくう。絹糸のように細く、しかし一本一本に生命力を感じる黒髪。
そして、その隙間から覗く、三角形の耳。
私はドライヤーを止め、震える手でその耳に触れた。
ふわっ。
温かくて、柔らかくて、ビロードのような手触り。
「ん……お兄さま?」
「じっとしていてくれ。耳のマッサージは血行促進にいいんだ」
「ふあ……そこ、気持ちいい……」
嘘ではない。耳には多くのツボがある。だが、それ以上に私の精神安定に効果がある。
指の腹で優しく揉みほぐし、付け根を撫で、先端の毛束を指で弄ぶ。
至福。これぞ至福。私の荒んだ心が浄化されていく。
続いては尻尾だ。
ウマ娘にとって、尻尾の手入れは重要だ。
私は専用のコームを使い、毛先から丁寧に絡まりを解いていく。
シュッ、シュッ、というリズミカルな音。次第に艶を帯び、光を反射して輝く黒い流星。
仕上げに頬ずりしたい衝動をさすがに引かれるかもしれないと必死に抑え、私は完璧に仕上がった尻尾を満足げに眺めた。
「ありがとう、お兄さま。ふわふわになったよ」
「ああ、完璧だ。世界一美しい尻尾だよ」
ライスが嬉しそうに尻尾を振る。その風圧すら愛おしい。
これで今夜はぐっすり眠れるだろう。
そう思っていたのだが――。
「……」
「……ライス?」
深夜。
ふと気配を感じて目を開けると、私の布団の中に何かが潜り込んできていた。
小さな膨らみ。温かい体温。そして、聞き覚えのある寝息。
「……ちょっと待て」
私は慌てて電気をつけた。
布団をめくると、そこには当然のようにライスが丸まっていた。
「んぅ……お兄さま、まぶしい……」
「いや、まぶしいじゃなくて。なぜここにいる?」
「えー? だってお家だもん。昔はずっと一緒に寝てたじゃない」
ライスは眠い目をこすりながら、悪びれもせずに言った。
確かに。彼女が小学生の頃までは、雷が鳴る夜や寂しい夜は、こうして一つのベッドで眠ることもあった。
だが、今は違う。
彼女は中等部の生徒であり、心身ともに成長期を迎えたレディだ。
いくら義兄妹とはいえ、年頃の男女が同じ布団で寝るのは、教育的にも倫理的にも、そして私の理性的にもよろしくない。
「ライス、聞いてくれ。君はもう子供じゃないんだ。こういうことは……」
「やだ」
「えっ」
「お兄さまの匂いがしないと、落ち着かないの。……久しぶりのお家なんだから、いいでしょ?」
上目遣い。
必殺の、上目遣いだ。
潤んだ瞳で見つめられ、「にぃに」と呼ばれていた頃の面影が重なる。
「……今日だけだぞ」
「わーい! お兄さま大好き!」
ギュッと抱き着いてくるライス。
薄いパジャマ越しに伝わる体温と柔らかさに、私は天を仰いだ。
神よ、これは試練ですか。それともご褒美ですか。
結局、私は朝まで一睡もできず、ただひたすら般若心経を唱え続けることになった。
翌日。
寝不足の目をこすりながらも、私はライスを連れて街へと繰り出した。
今日は正真正銘、二人きりのお出かけだ。
「お兄さま、見て! あの服かわいい!」
「よし、試着してみよう」
「あっちのカフェ、限定パンケーキがあるって!」
「よし、行こう。全種類頼もう」
私の財布の紐は、緩むどころか消失していた。
自分の稼いだ金で、愛する妹が笑顔になる。これ以上の使い道が、この資本主義社会に存在するだろうか? いや、ない。
昼食は、少し背伸びをして評判のレストランへ入った。
窓際の席で、オムライスを頬張るライスを眺める。
口の端にケチャップがついているのを指で拭ってあげると、彼女は顔を真っ赤にして、でも嬉しそうに微笑んだ。
ああ、癒される。この笑顔を守るためなら、私は悪魔に魂を売ってもいいし、URAの理事長室にカチコミをかけてもいい。
食後のショッピングモールで、私はふと足を止めた。
ファンシーショップのショーウィンドウ。
そこに、一つのぬいぐるみが飾られていた。
大きな青い薔薇を持った黒猫のぬいぐるみ。
どことなく、ライスの雰囲気に似ている。
「ライス、ちょっと待っていてくれ」
私は店に入り、そのぬいぐるみを抱えてレジへと向かった。
結構な値段がしたが、躊躇はなかった。
「はい、これ」
「えっ……これ、ライスに?」
「ああ。寮の部屋に置いておいてくれ。私がそばにいられない時、こいつが私の代わりにライスを見守ってくれるはずだ」
ライスは大きなぬいぐるみを、壊れ物を扱うようにそっと受け取った。
そして、その顔をぬいぐるみに埋め、それから私を見上げた。
その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「……ありがとう、お兄さま。絶対、絶対に大切にする」
「喜んでくれたならよかった」
「名前、決めたよ」
「お、早いな。なんて名前にするんだ?」
「『お兄さま二号』」
「……そのまんまだな!? いや、光栄だけども!」
ライスは「お兄さま二号」をぎゅっと抱きしめ、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見た瞬間、私の中の「妹成分」は完全に充填された。メーターが振り切れるほどに。
帰り道。
夕焼けに染まる道を、私たちは手を繋いで歩いた。
片手には大きなぬいぐるみ。もう片方の手には、私の手。
ライスの温かい手のひらの感触を感じながら、私は思った。
これでまた、戦える。
トレセン学園という修羅場に戻っても、ライバルたちが虎視眈々と狙ってきても、過酷なレースが待ち受けていても。
この連休で得たエネルギーがあれば、私は最強のトレーナーとして彼女を支え続けられる。
「楽しかったね、お兄さま」
「ああ、最高だったよ」
明日からはまた、トレーナーと担当ウマ娘だ。
けれど、今だけは。
ただの兄と妹として、この幸福な時間を噛みしめていたかった。
私の妹は、世界一かわいい。
その事実を再確認できただけでも、この帰省は大成功だったと言えるだろう。