お兄さまから「ゴールデンウィークは実家に戻ろう」と誘われた時、私は内心で小さくガッツポーズをした。
トレセン学園に入学してから、まだ一ヶ月。ホームシックにかかる人もちょくちょくいるが、私には毎日お兄さまがいるからそんな感情は抱かなかった。
けれど、実家への帰省は別の意味で重要だった。
そこは、私の「ホームグラウンド」だからだ。
実家とは、私とお兄さま、そして私たちを愛する両親だけの、絶対不可侵の聖域(サンクチュアリ)なのだ。
「うん! 行こう、お兄さま!」
私は満面の笑みで頷いた。
実家での日々は、控えめに言っても「お兄さまパラダイス」だった。
夢のような時間とは、まさにこのことだ。
まず、一日のすべてをお兄さまと共有できる。
学校のような授業もない。トレーニングのメニューもない。
ただ、リビングのソファでだらだらと過ごすお兄さまの隣を陣取り、肩を寄せ合うだけで時間が過ぎていく。
テレビを見ているお兄さまを、私は見る。
お兄さまが笑うと、私も嬉しくなる。
時々、感極まって「えいっ」と抱き着いても、お兄さまは「よしよし」と頭を撫でてくれるだけで、決して拒絶しない。
ああ、これだ。私が求めていたのは、この圧倒的な安心感と肯定感だ。
夜になれば、至福の兄妹交流の時間が待っている。
お兄さまの手によるブラッシングとマッサージだ。
お兄さまは「妹成分の補給だ」なんて言っていたけれど、補給されているのは私の方だ。
大きな手で髪を梳かれ、耳の付け根を優しく揉まれると、背筋がぞくぞくして、魂がとろけてしまいそうになる。
尻尾の先まで丁寧にケアしてもらっている間、私はお兄さまの真剣な眼差しを鏡越しに見つめながら、勝利の味を噛みしめていた。
これは妹だけの特権なのだから。
けれど、私はただ甘えているだけではない。
この帰省中に、既成事実を一歩でも二歩でも進める必要があった。
お風呂の時間。
お兄さまが浴室に入ったのを見計らい、私もまた、浴室へと突入しようとしていた。
昔は一緒に入っていたのだ。背中の流しっこくらい、兄妹なら自然なスキンシップとして許されるはず。そこからハプニングが起きれば儲けもの。
しかし。
「……ライス、ストップ」
背後から、低い声がかかった。
振り返ると、そこには新聞を持ったお父さまがいた。
「お、お父さま?」
「それはまだ早い」
「で、でも、背中を流すだけだよ?」
「ダメだ。お父さんが許さん!」
お父さまは私を抱き留め、リビングへと連れ戻された。お父さんが私を止めたのは初めてで、好機とは思っても、どうしても逆らう気持ちが起きなかった。
……そう、実はこの実家において、私の野望はすでに両親公認の事実となっていた。
私が「お兄さまと結婚できないなら一生独身でいる」と泣きながら訴えたあの日から、両親の態度は明確だった。
お母さまは「あらいいじゃない! 血も繋がっていないし、あの子なら安心よ。孫の顔が楽しみだわ!」と、超ノリノリのイケイケだ。最近は結婚式場と新婚旅行のパンフレットまで集め始めている。
お父さまは、最初は複雑そうにしていたけれど、最終的には「ライスが本当にアイツを思ってくれているのはわかる」と、渋々ながらも協力体制をとってくれた。
ただし、お父さまからは厳命されている。
『本人にちゃんと告白して、了承をもらうまでは一線を超えないこと』
『順序を守って、清く正しい交際から始めること』
これが、お父さまが出した「協力の条件」だった。
だから、お風呂への突撃は阻止された。
ちぇっ、と唇を尖らせる私に、お母さまがキッチンからウインクを投げてくる。
『焦らないの、ライス。外堀は埋まっているんだから、あとは攻め落とすだけよ』
頼もしい味方だ。実家はまさに、私のホームグラウンド。
お風呂作戦は失敗したけれど、その夜の「お布団潜入作戦」は成功させた。
お兄さまは少し困惑していたけれど、本気で追い出そうとはしなかった。
同じ布団の中、お兄さまの体温と匂いに包まれて眠る。
ぎゅって抱き着きついていると。寝ているお兄さまの心臓の音が、少しだけ早くなっているのを、私は聞き逃さなかった。
意識してくれている。
妹としてだけじゃなく、女の子として、ドキドキしてくれている。
その事実だけで、私は幸せな夢を見ることができた。
そして翌日。
お兄さまとの、待ちに待った二人きりのデート。
邪魔者はいない。二人並んで街を歩く。
お兄さまは私の手を引いて、かわいい服のお店や、おいしいパンケーキのお店に連れて行ってくれた。
私のために惜しげもなくお財布を開き、「似合うよ」「可愛いよ」と褒めちぎってくれる。
お兄さまの「妹バカ」なところは昔から変わらないけれど、今はその過保護さが心地いい。愛されている実感が、全身を満たしていく。
ショッピングモールのファンシーショップの前で、お兄さまが足を止めた。
視線の先には、ショーウィンドウに飾られた大きなぬいぐるみ。
青い薔薇を持った、黒猫のぬいぐるみだ。
「ライス、ちょっと待っていてくれ」
お兄さまはそう言って店に入り、迷わずそのぬいぐるいを購入して戻ってきた。
結構なお値段がしたはずだ。お母さまのカードではなく、お兄さま自身の初任給で買ってくれたようだ。
「はい、これ」
「お兄さま……」
手渡された黒猫は、ふかふかで、どこかお兄さまの優しさに似ていた。
青い薔薇。私とお揃いの花。
それを、お兄さまが選んでくれた。
「寮の部屋に置いておいてくれ。私がそばにいられない時、こいつが私の代わりにライスを見守ってくれるはずだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸がキュンと締め付けられた。
お兄さまは、いつも私のことを考えてくれている。
離れていても、寂しくないように。私が一人で泣かないように。
このぬいぐるみは、お兄さまの「分身」なのだ。
私は黒猫をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、お兄さま。絶対、絶対に大切にする」
「喜んでくれたならよかった」
「名前、決めたよ」
「お、早いな。なんて名前にするんだ?」
私はぬいぐるみのおでこに自分のそれをコツンと当てて、宣言した。
「『お兄さま二号』」
「……そのまんまだな!? いや、光栄だけども!」
お兄さまは笑ってくれたけれど、私は大真面目だ。
これはただのぬいぐるみじゃない。私とお兄さまを繋ぐ、愛の証。
寮のベッドに置いて、毎晩おやすみの挨拶をするんだ。
辛いトレーニングがあった日も、ライバルたちに負けそうで不安になった日も、この「お兄さま二号」がいれば頑張れる。
帰り道、夕焼けの中を手を繋いで歩きながら、私は確信した。
今回の帰省は、完全勝利だ。
両親のバックアップを確認し、お兄さまの愛情を再確認し、そして何より、私自身がお兄さまへの想いをより強固なものにできた。
「楽しかったね、お兄さま」
「ああ、最高だったよ」
お兄さまの横顔を見上げながら、私は心の中で誓った。
いつか必ず、この場所に「お嫁さん」として戻ってきます、と。
その時は、お父さまもきっとお風呂を止めることはしないはずだから。
ずっと大事にしよう。
ぬいぐるみも、この思い出も、そしてこの恋心も。
そう思った、完璧で幸福な二人きりのデートであった。