日本ダービー。
それは、すべてのウマ娘、すべてのウマ娘関係者、そしてすべてのトレーナーが憧れる、最高峰の栄誉。
「もっとも運のあるウマ娘が勝つ」と言われるそのレースは、単なる競技の枠を超え、一種の神事であり、熱狂的な祭典でもあった。
そんな夢の舞台に、我らが友。メジロマックイーンが出走することになった。
これは応援に行かないわけにはいかない。
場所は東京レース場。トレセン学園からも近く、アクセスは良好だ。
だが、さすがはダービーデー。会場の人口密度は、通勤ラッシュの電車を凌駕するほどの凄まじさだった。
「はぐれないように、しっかり捕まっていてくれ」
「うん! お兄さま!」
「了解。左舷、確保しました」
私は右手にライスの小さな手を、左手にブルボンの少し硬質な感触の手を握りしめ、人波をかき分けて進んだ。
傍から見れば「両手に花」のハーレム状態かもしれないが、当の本人にとっては必死の護衛任務である。こんな人混みで、未来の名ウマ娘たちを迷子にさせるわけにはいかない。
スタンドの前列近くまで移動すると、ちょうどパドックから本馬場入場へ移るところだった。
大歓声の中、色とりどりの勝負服に身を包んだウマ娘たちがターフに現れる。
「あ、マックイーンさんだよ!!」
ライスがぴょんぴょんと飛び跳ねながら、楽しそうに手を振った。
その声が届いたのか、あるいはライスの青い薔薇の髪飾りが目に入ったのか。
入場してきたメジロマックイーンが、こちらに気づいて優雅に手を振り返してくれた。
初めて見る、彼女の「勝負服」姿。
普段の制服姿やジャージ姿とは違う、戦う乙女の正装。
その表情に、過度な緊張は見られない。名門メジロ家の令嬢としての誇りと、大舞台を楽しむ余裕すら感じさせる。さすがは大器だ。
「わぁ……かっこいい……」
「肯定。戦闘用ユニフォームの着用により、マックイーンさんのステータスが上昇しているように見受けられます」
「ライスも……将来、勝負服を着てレースに出たいな」
ライスが憧れの眼差しで呟く。
私は彼女の手をぎゅっと握り直した。
「ああ。俺がそこまで連れていくよ。ライスだけの、最高にかっこいい勝負服を着せてやる」
「うん! 約束だよ、お兄さま」
勝負服、か。
私はふと、前世の記憶にある知識と、目の前の現実を比較していた。
この世界の勝負服は、ウマ娘それぞれの個性や「名前の力」に合わせてデザインされる一点物だ。
だが、前世の記憶にあるデザインと、この世界でのデザインには、多少の差異があるようだ。
例えば、目の前のメジロマックイーン。
私の前世の記憶では、彼女の勝負服は、確かへそ出しルックに生足ミニスカートという、いささか扇情的なものだったはずだ。
しかし、今彼女が着ているのは違う。
メジロ家のカラーである緑と白を基調としているのは同じだが、脚には純白のタイツが着用され、お腹周りもしっかりとガードされた、非常に品のあるドレス風のデザインになっている。露出は抑えつつも、彼女の気品と体のラインの美しさを際立たせる、素晴らしいデザインだ。
お兄さんとしては、中等部の生徒があまり露出の高い服を着るのは教育上よろしくないと思っているので、この変更は非常に好ましい。デザイナーには金一封を送りたいくらいだ。
……待てよ?
私はふと、左手をつないでいるミホノブルボンに視線を落とした。
「なんですか? サブトレさん」
「いや……ブルボンも、デビューしたらどんな勝負服を着るのかなって」
私の脳裏に、前世の記憶がフラッシュバックする。
ミホノブルボンの勝負服。
あれは確か――ピンクと白を基調とした、サイバーパンク風の……レオタード。
いや、あれは服と呼んでいいのか? ほぼ水着ではないか?
胸元は大きく開き、背中も大胆に露出し、下半身はハイレグ気味のレオタードにメカニカルなパーツがついているだけの、極めて露出度の高い代物だったはずだ。一応ついていたスカートもあまり意味を成していない印象である。
私は戦慄した。
あれを? この、まだあどけなさの残る中等部のブルボンに着せるのか?
サイボーグというキャラ付けはいいとしても、あそこまで露出する必要性はあるのか? 空気抵抗の削減という名目だとしても、限度というものがあるだろう。というか空気抵抗ならあのごたごたしたパーツを外すべきだろう。
もし、衣装合わせの日にあの布面積の少ない服が出てきたら、私は全力でデザイナー室にカチコミをかけるべきではないだろうか。「もう少し布を!」と嘆願書を出すべきではないか?
「……サブトレさん。心拍数が上昇しています。体調不良ですか?」
「い、いや。未来の君の姿を想像して、少し興奮……じゃなくて、身が引き締まる思いがしただけだ」
「? 了解。私も、マスターとサブトレさんが選んでくれる服なら、どんなものでも着こなす所存です」
純真な瞳で言わないでほしい。
私は心の中で三女神様に祈った。どうか、この世界線のデザイナーが、ブルボンの勝負服にはもう少し「慎み」という名の布地を与えてくれますように、と。
そんな私の邪念を吹き飛ばすように、ファンファーレが鳴り響いた。
G1、東京優駿。
芝2400メートル。
世代の頂点を決める戦いが、始まろうとしていた。
ゲートが開く。
10万人を超える観衆の歓声が、地鳴りのように響き渡る。
飛び出したのは、アイネスフウジンだった。
逃げ。
大観衆が見守る中、先頭をひた走るその姿は、まさに風神の名の通り。
怖いもの知らずのハイペース。常識的に考えれば、後半でバテて沈むはずの無謀な逃げ。
だが、今日の彼女は違った。
「速い……!」
ブルボンが息を呑む。
逃げウマ娘を目指す彼女にとって、あの走りは教科書であり、そして理想形の一つだろう。
道中、皐月賞ウマ娘であるハクタイセイが追いかける。
中団からは、パワー溢れる走りでメジロライアンが虎視眈々と前を狙う。
そして、我らがメジロマックイーンもまた、好位につけていた。
美しいフォーム。無駄のないスタミナ配分。完璧なレース運びだ。
だが。
第四コーナーを回っても、アイネスフウジンの脚色は衰えなかった。
最後の直線。
東京レース場の長い長い坂を登ってもなお、先頭の「風」は止まらない。
「いけぇっ! マックイーンさん!!」
「がんばれ!! マックイーンさん!!」
ライスとブルボンが叫ぶ。
マックイーンが仕掛ける。ライアンが外から突っ込んでくる。ハクタイセイが食い下がる。
誰もが死力を尽くし、魂を削って走っている。
しかし、あの先頭の背中は、遠かった。
逃げて、逃げて、逃げ粘る。
後ろから迫る豪脚の猛者たちを、その気迫だけで封じ込めるかのような、鬼気迫る逃走劇。
ゴール板を駆け抜けた瞬間、掲示板に灯ったタイムに、場内がどよめいた。
レコード。
過酷なまでのハイペースを刻み続け、最後まで誰も寄せ付けなかったアイネスフウジンの逃げ切り勝ち。
「すごい……」
私の隣で、ライスが呆然と呟いた。
その瞳は、キラキラと輝いている。
これがダービー。これが頂点の走り。
マックイーンは敗れた。ライアンも、ハクタイセイも届かなかった。
だが、その敗北すらも美しいと思わせるほど、勝者の走りは鮮烈で、そして残酷なまでに完璧だった。
「……計測終了。アイネスフウジンのラップタイム、異常値を検出」
ブルボンが冷静に、しかし震える声で分析する。
彼女も感じ取ったのだろう。あの走りが、身を削って成し遂げられた奇跡であることを。
レース後のウイニングラン。
「フウジン」コールが巻き起こる中、汗だくで手を振る勝者の姿を見て、私は強く思った。
いつか、ここに立つんだ。
私の両隣にいる、この小さな原石たちを磨き上げ、あの熱狂の中心へ。
「悔しいね」
私が言うと、ライスは一度だけ頷き、それからマックイーンの方を見つめて言った。
「うん。でも……マックイーンさん、最後まで諦めてなかった。かっこよかったよ」
「ああ、そうだな」
マックイーンは負けた。けれど、その走りは決して恥じるものではない。彼女には菊花賞や天皇賞春という、長距離の晴れ舞台が待っている。ステイヤーとしての真価が問われるのはそこだ。
「お兄さま」
帰り道、興奮冷めやらぬ人波の中で、ライスが私の顔を見上げた。
「ライスも、いつかあそこで走れるかな。あんな風に、誰かの心を動かせるような走りができるかな」
「できるさ。いや、俺がさせる」
「肯定。私も、目標を設定しました。あの『逃げ』を超える逃げを完成させます」
二人の目には、強い光が宿っていた。
今日のレースは、彼女たちの魂に火をつけたようだ。
私は二人の手をさらに強く握り返した。
マックイーンの敗北から学び、アイネスフウジンの勝利から夢をもらう。
最高の観戦だった。
……まあ、それはそれとして。
帰ったらこっそりと、デザイナー宛に「ブルボンの勝負服に関する要望書」をしたためようと思う。
内容はシンプルに。「露出は控えめに、機能美を追求してください」。
ロボットアニメの主人公機のようなかっこよさは歓迎だが、深夜アニメのサービスシーンのような衣装は断固拒否だ。
それが、サブトレさんとしての、私のささやかな祈りであり、義務なのだから。