死霊術師でも英雄になれますか? 作:久川 晶 (旧:パリスタパリス)
結局、その日はそれ以上に何かを話すことはなかった。
俺としては、カレン=シュワルツシルトと喧嘩をしているつもりであったし、日を跨いだとてその認識は変わっていない。
話がひと段落したわけでもなければ、互いに納得したわけでもないからだ。
ただ、冷静になって話をするには直前の一件が気まず過ぎた。
そもそも、喧嘩の熱量などそう長く保つものでもない。時間が経つにつれて頭も冷え、あの勢いのまま拳をぶつけ合う気には到底なれなかった。
そしてどうやら、彼女も同じ心境だったらしい。
それまで堂々たる笑みを浮かべていた少女は、耳の尖端まで朱に染めたまま、まともに俺と目を合わせようともしなかった。
示し合わせたわけでもないが、互いに何となく気まずさを感じて距離を取り――そのまま、自然と解散になったという流れだ。
分かれ際には一言二言あったような気もするが、間違いなく大したことは言っていない。意味の通る言葉かすら怪しかった。
それから、俺たちは微妙な距離感のままに三日間を過ごした。
カレンから再度の呼び出しはなく、偶然顔を合わせても何食わぬ顔で視線を逸らされる始末である。
まあ、気まずいのだろう。
それについては俺も同じなので責めるつもりはないが……喧嘩の途中という以前に、そもそも俺たちは話の途中ではなかっただろうか。
――『私のものになれ、オズリック。その才能、私が役立ててやる』
あの時、カレンはそう口にした。
そんな話に承諾などする筈もないが、さりとてはっきりと断ったわけでもない。
故に、あの話がどうなったのかは少し気になっている。宙ぶらりんのまま放置するのは、どうにも座りが悪い。
まあ……多分、あの話も無かったことになったのだろうな。
麗らかな春の午後。
書斎で読書を嗜みながら、なんとなく俺はそう結論付けた。
まさに、その時だった。
――コン、コン。
ふと耳に届いたのは、家の扉をノックする乾いた音。
エマさんは奥の台所で作業をしており、どうやら気付いていないらしい。
この家を訪ねてくる者など、そう多くはないが……村の回覧でも回ってきたか、エマさん宛ての用事か何かだろうか。
……考えていても仕方がない。俺は本を閉じ、廊下を抜けて玄関へ向かう。
そして、ドアノブを捻った。
「――」
開いた扉の向こうに立つ人物を見て、俺は言葉を失う。
「こんにちは。中々立派な家だな、オズリック」
開口一番に偉そうなことを言ってきたのは、紅玉の瞳を持つ元騎士団長の息女殿。
カレン=シュワルツシルト。
多分しばらくは関わらないであろうと思っていた渦中の少女が、何食わぬ顔で立っていた。
「……用件はなんだ」
予想外の事態に、俺はそう絞り出すのが精一杯だった。
「決まっている。話の続きだ」
「話とは」
「三日前、君を手下に誘っただろう。あれから何も言わなかったのは、なにも諦めたからではない」
まあ、何となく察してはいた。
わざわざ家にまで訪ねてくるとは流石に思わなかったが。
「……誘い直すにしては、随分と間が空いたな?」
「少し立て込んでいて、まとまった時間が取れなかったんだ。気難しい君を説得するには、二言三言では到底済まないだろうからな……心の準備もあったし……」
話の中で、尻すぼみ的に少女の声が小さくなっていく。
あれから数日経ったとはいえ、気まずいものは気まずいらしい。視線まで僅かに泳いでいるのを見ると、つられてこちらまで妙な気分になってしまう。
恥ずかしがるくらいなら、いちいち蒸し返さないで欲しいところだった。
そして、その台詞の内容にも一部
「用件は分かった。ただ、その話ならやはり二言三言で足りると思うぞ」
俺を説得するのに時間が掛かるのではない。
そもそも、説得する余地がないのだ。
俺は扉に手を掛けたまま、少女を真っ直ぐ見返した。
「むしろ一言で充分だ――『断る』。以上」
これ以上、話すことに意味など無い。
彼女が如何に説得などを試みようが、時間の無駄というものである。
「ふむ、どうしてもか?」
「どうしてもだ。邪魔だから、さっさと帰れ」
「む……」
カレンは不服そうに口を尖らせるが、俺としては可能な限り穏当な対応をしているつもりである。
というか、これ以上居座られると少々面倒なことになるのだ。
……俺に女の子が訪ねてくるなんて、もしエマさんに見られたら――
――がしゃーん、と背後で何かが落ちる音がした。
「…………」
嫌な予感がする。
恐る恐る振り返ると、そこにはエマさんが立っていた。
その足元には、たったいま落としたらしい食器類。
金属製ゆえに割れてはおらず、そそっかしいエマさんには陶器よりも割れにくいものがいいんじゃないかと薦めた甲斐があったというものだ。いや、そんなことはどうでもいい。
「――お、お、お、女の子!?」
問題は、彼女の視線がカレンの姿をしっかりと捉えていることだった。
「オズリック、あんた……いつの間にこんな可愛らしい子と……」
「いや、別に――」
弁明しようとした時、隣から妙に柔らかな声が響く。
「お初にお目に掛かります」
カレンが、エマさんににこりとした微笑みを向けていた。
普段から年少組相手に見せている堂々とした笑みや、先ほどまで俺に向けていた不満げな表情など跡形もない。
楚々と両手を揃えたその姿は、まるでどこぞの令嬢のようだった――いや、実際に令嬢ではあるのだったか。一応は。
「私はカレン=シュワルツシルト。まだ村に来たばかりで、オズリック君には凄くお世話になっていて……その、お話したく思いまして」
「……」
ぬけぬけと。
誰かに世話をされる隙など全く見せず、年少組の中心人物に収まって見せた女が、何を儚げなフリをしているのか。
俺の内心を知ってか知らずか、カレンは完璧な笑顔を崩さずに続けた。
「不躾ですが、彼をお借りしてもよろしいですか……?」
「え……ええ、ええ! もちろんよ!」
エマさんの顔が、一気に明るくなる。
どうやら容姿だけは可憐な少女の儚い表情に絆されてしまったらしい。
「是非とも上がっていってちょうだい! こんなところで立ち話もなんだもの!」
「ありがとうございます」
してやったりという笑みを横目に、俺は無言で天を仰ぐ。
少なくともこの一件に関しては、彼女は俺を完全に上回り、俺は完全敗北を喫したのだという事実を受け入れねばならないらしかった。
「これは……なかなか、見事な蔵書だな」
部屋に入ると、カレンが圧倒されたように呟いた。
俺が彼女を案内したのは、家の奥にある書斎だった。
決して広い部屋ではないが、壁の三面を埋め尽くすように据えられた本棚には天井近くまでびっしりと本が並び、机の上には読みかけの本――先日、行商のピーターさんから買った"中等魔法教典"が置かれている。
俺は物心ついた頃から、この部屋で本を読んで育った。
読書量だけで言えば、同年代どころか村の大人たちよりも多いだろう。
年齢の割に小難しい言葉や事物を知っている、と言われることがあるのは、間違いなくこの部屋で過ごしてきた時間の所為だ。
――『簡単なお菓子を作るから、二人とも少し待っていてちょうだい』
カレンを家に上げてすぐ、エマさんはそう言い残して上機嫌に台所へ向かっていった。
ゆえに俺たちはいま二人きりであり、居間で同年代の美少女と向かい合う気まずさに耐えかねた俺は、せめて情報量の多い場所に移れば多少はマシだろうという考えのもと、彼女をここへ通したというわけである。
「母の遺産だ。この書斎……というか、この家丸ごとな」
「母? 先ほどの、エマさんという人が母親じゃないのか」
「……難しい質問だな。俺の認識では、あの人も俺の母親だ。誰が何と言おうとな」
意味深な台詞に、カレンは小首を傾げる。
「つまり、俺が言ったのは……
「――」
そこで、俺の言っている意味が伝わったらしい。
彼女は一瞬だけ目を瞬かせたが、それ以上は何も聞かなかった。
「そうか」
短くそれだけ言って、カレンは再び本棚を見上げる。
複雑な家庭の事情というものを察したのだろうか。
俺としては、絶対に話したくないというほどのことでも無いのだが……気になることがあれば遠慮なく踏み込んでくる人間だと思っていたので、その気遣いは少し意外だった。
あるいは、単にどうでもいいのかもしれないが。
「――三日前の件だが」
少し間を置いてから、彼女はそう切り出した。
「どんな話をしたか、覚えているか?」
「……君が"英雄"を目指していることと、そのために手下を探していることは聞いた」
「ああ。だから私は君を誘った。そして君は、この私を袖にした」
余程不本意だったらしい。
カレンは僅かに眉を寄せ、こちらを咎めるような目で見てくる。
まるで、俺のほうに非があると言わんばかりの態度だった。
「急に手下になれと言われて、頷く奴はいないだろ」
「そうかな? 私は高名な騎士シグルドの娘で、シュワルツシルト家の後継者だ。若輩ながら才能にも恵まれている。例え手下という立場であろうと、私と近しい関係になれる機会を望む者はいるとも」
カレンはゆっくりと顎を上げ、暗色の髪を肩に流しながら誇らしげに語る。
「それに……私のような美少女に求められれば、普通は悪い気がしない筈だ」
「自分で言うのか」
「事実だからな。そして君が健全な男の子である以上、多少無茶な内容でも交渉の余地があると見ている」
そこで、彼女は一歩踏み込んで来た。
花のような香りが鼻腔をくすぐり、吐息が肌に触れそうなほど近くなる。
長い睫毛の奥で、紅玉の瞳が微かに揺れた。
「さあ、オズリック。私に全てを委ねれば、格別の名誉と快楽が――」
「断る」
「まだ最後まで言っていないぞ!」
……まあ、少しは動揺させられた。
心臓が僅かに早鐘を打ったことくらいは認めよう。しかし、俺の結論まで変わるわけではない。
彼女は話を遮られたことに怒り心頭らしいが、どう考えても最後まで聞く価値がある話には思えなかった。
「はあ、まったく君は……人が折角、慣れない色仕掛けまでやってみたというのに……」
「慣れないことはするもんじゃないな」
額を押さえる彼女に、俺は努めて冷静に続ける。
「そもそも、俺たちの年齢で色仕掛けとか……」
失笑ものだろう。
そう言おうとした俺を、妙に細められた紅玉の瞳が射抜いていた。
その鋭い視線の圧に、なんとなく嫌なものを感じたと思えば――
「……私の胸を、あんな風に見てきた癖に」
「!?」
――思わぬところから、特大の爆弾が飛んできた。
数日前の光景が、余計な鮮明さを伴って脳裏に蘇る。
「いや、見ていな……くは、無いかもしれないが、あれは不可抗力というもので、というかすぐに目を逸らしたはず……」
慌てて弁明する俺の顔を、カレンはじっと観察していた。
そこで、彼女の口元が僅かに吊り上がっていることに気づく。楽しげな、悪戯っぽい笑みだった。
「……何が可笑しい」
「ふ、動じ過ぎだ。耳まで赤くなっているぞ」
言いつつ、カレンは指先で自分の耳を摘まんで見せた。
「何にせよ、私に全く興味無しというわけではないようだな。ならば、まだまだ
そう言って彼女は一歩後ろに下がり、得意げな顔で腕を組む。
「言っておくが、私は諦めが悪い。一度断られたくらいで、はいそうですかと引き下がるほど聞き分けがよくないのさ」
「……面倒な奴」
心の底から、そう思う。
彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、再び本棚へと視線を移した。
「――"永久凍土"ニヴル地方」
カレンは、本の一節をやけに朗々と読み上げた。
「それは、決して雪解けの訪れない豪雪の凍土。現在もなお少しずつ拡大を続けており、やがて世界を飲み込むとされる」
その手に持つのは『厄災事典~世界に残された十二の脅威~』。
中央政府によって"厄災"に認定された事物――
紙が擦れる音と共に、彼女は次の頁をめくる。
「"邪神託"エレミア詩篇。暗躍する邪教徒の聖典。これを読みし者は邪な神の存在を確信し、暗黒教団の敬虔な信徒となる」
俺は壁に背を預けたまま、手元の『中等魔法教典』から視線を上げなかった。
厄災事典は既に何度も読んでいる――初めて読んだ五歳の夜、一人でトイレに行けなかったのは余談を越えた余談である――し、その内容も大体覚えている。
改めて読み上げられたところで、多少の懐かしさはあれど新しい疑問や発見などあるはずもない。
「"茫漠の魔獣王"マッドフット。砂漠地帯を徘徊する巨体の魔獣。かつて隆盛を極めたサハラーム王朝を滅ぼした暴力の化身」
故に、俺の頭に浮かぶ疑問符は一つだけ。
どうして彼女は、わざわざ本の内容を音読しているのか。
「"狂女が遺した災いの種"吸血症候。かつて"吸血公女"と呼ばれた死霊術師エリザベートが世界に放った疫病。感染者は邪悪な吸血鬼となって――」
「もういい」
いい加減に止めた。
俺は気だるげに顔を上げ、カレンの方を見やる。
「何のつもりだ」
「何とは? 本を読んでいるだけだが」
「音読してる理由を聞いてんだよ」
そして、白々しくも宣う彼女を一蹴する。
カレンはしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐くと、閉じた本を膝の上へ置いた。
「――オズリック。君は、この世界に"厄災"がいくつあるか知っているか?」
本の表紙――『厄災事典~世界に残された十二の脅威~』と記された表題を、指先でゆっくりとなぞりながら彼女が問う。
……何の脈絡も無い質問だが、答えは解る。
これは、典型的な
「二十六個。
「……可愛くない奴め」
当然のように答えを返すと、カレンは呆れたように眉を寄せる。
「悔しいが、正解だ。世界には歴史上二十六の"厄災"が生まれ、そのうち十二個が未だ解決されぬままだ。私が読み上げた内容は後者に当たる」
何が悔しいのか全く分からないが、後半は単なる事実確認というわけでもなさそうだった。
少女は閉じた厄災事典に指をかけたまま、じっと俺を見る。
「それについて、君はどう思う?」
「どうって……」
俺は少し考えてから、肩を竦めた。
「大変なことだな」
「……他人事だな」
そうは言われても、他人事以外の何だというのか。
「ニヴル地方は遠いし、今のペースだと大陸全土を呑み込むまでに何百年もかかるらしい。砂漠地帯は言わずもがな。邪教徒や吸血鬼の問題も、俺には今のところ関わりがない」
少なくとも、今の日常を脅かすものではない。
世界のどこかで大変なことが起きているからといって、俺が慌てて立ち上がる理由にはならない。
自分の手の届かないものまで背負い込むほど、俺は殊勝な人間ではなかった。
「何より、二十六分の十二が未解決ということは――裏を返せば、半分以上は他の誰かが解決してくれたってことだ」
旧帝国時代の厄災たる"冥王" ヴァニタス。
直近で猛威を振るった"厄災の魔女"。
一度は厄災として認定された彼らもまた、既に葬られている。
"厄災"を越えた者に与えられる、"英雄"の称号。
それに相応しい誰かが立ち上がり、残りも越えられて行くだろう。
「俺は英雄にも、その仲間にもなれないし、なる必要もない」
「……必要がない、か」
彼女はその言葉だけを、確かめるように復唱した。
それから、しばらく口を閉ざす。
「――オズリック。君の好きなものはなんだ?」
やがて、唐突な質問が差し込まれる。
思わず彼女の方を見ると、さっきまでとはまるで違う目をしているのが分かった。
それは、ひどく真剣な眼差しだった。
「……強いて言えば、読書かな」
「私も読書は好きだ。最初に読んだ本は、英雄アレスを謳った英雄譚……幼い私は彼に憧れ、彼のようになりたくて沢山の努力をした」
カレンは、俺が答えるより先に続けた。
「剣術を鍛えた。座学にも励んだ。困っている人がいれば手を貸した。頼まれれば応えた。自分に出来ることなら、出来る限りやった。これまでに幾つかの村や町で暮らしたが……その全てで、私は大いに頼られた。その価値を認められた」
淡々としていながらも、確かな熱を帯びた声色。
感じ入るように目を細め、少女は続く言葉を紡いでいく。
「私は――人に頼られるのが、好きだ。かの高潔とされる英雄たちも、案外似たような心境だったんじゃないかと思う」
あまりにも率直な感情を湛え、彼女は声を弾ませる。
「必要性の有る無しじゃない。だから私は、英雄になりたい。英雄になって、沢山の人に頼られたい。そして――」
その続きを、俺は黙して待った。
「――そのために、君を頼りたい」
遂に、紅玉の瞳が真正面から俺を捉えた。
数秒間、言葉に詰まった。
強く拒絶することも、適当にあしらうことも出来なかった。
「……もう、断ったろ」
ようやく絞り出したのは、我ながら切れ味に欠ける言葉だった。
一つ確かなことは、俺と彼女では価値観が合いそうにもないということだ。
けれど。
「何度でも誘うさ。私は諦めが悪いんだ」
迷いなく言い切る彼女の姿は、俺には少しだけ――否、そこそこ眩しく見える。
それもまた、否定し得ない事実だった。
「……言いたいことは、それで終わりか?」
「ああ。私の用事は半分終わった」
カレンは満足そうに頷いたが、どうにも疑問符が残る修飾が付いていた。
「……残りの半分は?」
「君の
そう言って、カレンは何食わぬ顔で台所の方向へ目を向ける。
反論の余地はない。
全く以て、その通りだった。
翌日の村学校は、いつもと少しばかり様子が違っていた。
普段は老教師の定位置となっている教壇。
そこに立っていたのは、俺にとっては初めて見る老齢の男だった。
印象深いのは、分厚い胸板と逞しい腕。
白髪交じりの頭髪や顔に刻まれた皺にこそ年齢を感じさせるものの、その背筋は真っ直ぐに伸び、風貌には長年鍛え上げてきた者特有の精悍さが残っている。
「その……なんだ」
繰り返すが、その男は俺にとって初見の男である。
しかし――
「まず、私の名前はシグルド=シュワルツシルトだ」
彼は俺たち年少組を一通り見渡してから、どこかやりづらそうに口を開いた。
「私のことは、色々と噂をされているようだが……全て過去の話だ。他の者と同じように接してくれると助かる」
無茶なことを言うものだ。
隠しきれない風格を纏う
「今は、余生を過ごすただの老体――」
肩を竦めながら、彼は続けた。
「――兼、そこに座っているカレンの父親に過ぎん。以後よろしく」
そう言って、自己紹介を締めくくる。
当の
教室にエマさんが入って来たとしたら、俺でも同じような反応をするだろう。内心穏やかでないことは想像に難くない。
教室には、微妙な静寂が広がっている。
無理もない。本人がどれだけ卑下しようが、王都の華やかな騎士たちの棟梁――例え
そんな御人が教壇に立っていることに、一体どういう反応を返せばよいのか。
というか、彼は何をしに来たのだろう。
「……あー、おほん。まこと光栄なことに、本日はシグルド殿に"護身術"の特別授業をして頂くことと相成った」
その疑問は、教壇の隅で成り行きを見守っていた老教師の説明によって氷解した。
……なぜそんなことを、という新たな疑問は生まれたが。
「謙遜なさっておるが、この方の功績など今さら語るべくも無いじゃろう。往年は王都の騎士団を取りまとめ、魔女戦争では
"英雄"アレスの名が出た途端、教室中がざわめき立った。
世界を震わせた厄災の魔女を討ち取り、今なお英雄として語り継がれている人物。
まさに生ける伝説であり、アレスの戦友であるという目の前の男もまた、伝説を彩る
というか、既にアレスの英雄譚は複数作家によって何冊も書かれている。その内の一冊か二冊くらいには、既に登場しているかもしれなかった。
そんな偉人を前に平静を保てるほどに、この村の子供たちは浮世離れしていないのだ。
「普段は居眠りなんぞをしておる者も、今日ばかりは真面目に取り組むこと。この機を逃がすのは、勿体ないにも程があるからの」
そう言って、老教師はじろりと俺の顔を見る。
……授業で教えられるのは"書斎"で既に学んだことばかりなのだから、しばしば睡魔に襲われるのは致し方ないのだと反論したいところだった。
そんな老教師に対し、シグルド卿は苦笑をこぼす。
「……そこまで持ち上げんでも」
「何を仰るか。事実は事実として伝えねばなりますまい」
「しかし、私はとうに隠居した身……」
そこでふと、シグルド卿と俺の目が合う。
そう、目が合っただけだ。
他に何も特別なことはしていない。
「――」
だというのに、彼の表情が止まった。
まるで不意打ちでも受けたかのように目を見開き、俺の顔をじっと見る。
時間にしてほんの一瞬。
その顔から、好々爺然とした柔らかな表情が消えたように感じた。
「……何か?」
「いや、すまん」
思わず訊くと、卿は我に返ったように瞬きをした。
「昔の知人に似ていてな……そんな筈は、無いのだが」
……それだけで、あそこまで驚くものだろうか。
ただ昔の誰かを思い出したというには、表情が硬すぎるように思うが。
「父上……?」
「大丈夫だ、何でもない」
その様子を見ていたらしいカレンが、今日はじめて訝しげに声を掛ける。
眉を寄せる娘に、しかし彼はそれ以上答えなかった。
「さて――」
代わりに、パンと両手を打つ。
強引に話題を切り上げるような、妙に明るい音が響いた。
「授業は外で行うとしよう。護身術というのは、机上で片付くものではないからな」
元騎士団長による"護身術"の特別授業は、滞りなく行われた。
そして、それは俺にとっても非常に有意義なものだったと言わざるを得ない。
普段の格闘や木剣の授業とは雲泥の差だ。どう考えても無理だろうが、今後もその手の授業はシグルド卿にして貰えないかと思えるほどには楽しい授業だった。
最初は木剣の素振りから始める――最初にそれを聞いた時は落胆を隠しきれなかったし、周りの年少組の面々も似たような反応をしていたが、それは良い意味で裏切られた。
まず、卿は一人ひとりの"
腕の振り方。足の置き方。重心の位置。僅かな癖まで見逃さず、ただ正しい形を押しつけるのではなく、なぜそうするのかまで噛み砕いて教えていく。
上手く出来た者には大げさなくらい褒めるし、失敗しても責めることなく、どこが悪かったのかを笑いながら示す。
最初は
授業の後半には案の定というべきか、子供らしく卿を質問攻めにするようになっていた。
「シグルドさん! アレスの話を聞かせてくれよ!」
「ああ、フロックス。授業中でなければ幾らでもしてやるとも」
「シグルドさん。俺、将来は騎士になりたいんだけどさあ、魔力ってやつを感じられたことがないんだよ……才能ないんかな……」
「案ずるな、アスター。己を見限るにはまだ早い」
騎士団長として、これまで多くの部下を薫陶してきた賜物だろうか。
無論、部下に対しては流石にもっと厳しかっただろうとは思うが……教え、諭し、励ますことに関しては、どうやら相当に手慣れているらしい。
「魔法理論を学ぶだけで自然と魔力を扱えるようになる者もいるが、魔力の感覚は日々の鍛錬の中で少しづつ磨かれるのが一般的だ。前者は魔道士向き、後者は戦士向きというだけの話なのだよ」
それを聞くと、アスターはほっとしたように笑った。
……そういえば、俺が級友たちに魔法を教えようとして誰も実にならなかった時、興味本位の連中と違ってこいつだけは割と本気で落ち込んでいたような気がする。
少しはフォローしてやるべきだったか。俺の代わりに彼を励ましてくれたシグルド卿には、感謝しておくべきなのだろう。
「さあ、本日はここまで! 各自、学んだことの一割は覚えておくように!!」
結局、卿は最後まで笑顔だった。
授業を終え、他の連中に倣って木剣を返す。
浮ついた空気の中、俺は珍しく有益な授業の余韻と共に帰路に就こうとし――
「オズリック」
――最近、すっかり聞き慣れてしまった少女の声に振り向く。
そこに立っていたのは、やはりと言うべきかカレン=シュワルツシルト。
父親が来ているという気まずい状況の所為か、今日は普段と打って変わって目立たずにいた彼女だが、堂々とした立ち姿は健在のようだった。
「カレン。良い親父さんだな」
「ん? ああ、友人たちの前に出て来られると、少しばかり気恥ずかしいが……そうだな、自慢の父だ」
そう言って、少女はほんの僅かに頬を染めた。
「……それで、今度は何の用だ?」
わざわざ呼び止めたのだ。
世間話だけ、ということもあるまい。
「丁度いい機会だ。父上に、君を見て頂く」
……なぜ?
素朴な疑問が浮かんだが、それを発するよりも早くカレンは俺の腕を取った。
「理由はついて来れば分かる――ほら、いくぞ」
「……やはり、その子が話に聞くオズリックか」
渋々ながらもカレンに手を引かれ、連れて行かれた先。
いつかの河原で待っていたのは、先ほどまで講師を務めていたシグルド卿だった。
「やはり、とは?」
脳裏に過ぎるのは、最初に目が合った瞬間に見せた妙な反応。
隣のカレンへ視線を向けるが、彼女もまた事情を知らないらしい。小さく眉を寄せ、父親の顔を見上げている。
「父上。オズリックに思うところでもあるのですか? ……もしかして、彼が何か失礼なことでも?」
「いいや。彼に非は無く、今は関係の無いことだ」
卿は首を振り、あっさりと返答する。
それ以上を語るつもりもないらしいが、何もない人間の言い方にも聞こえなかった。
「娘が世話になっているな。ここのところ家の食卓でも君の話ばかりで、男親としては複雑な気分ではあるのだが、それはそれとして娘の成長を喜ばしくも――」
「ち、父上!」
さすがに聞いていられなかったのか、カレンが慌てて口を挟む。
……子の心親知らず、というやつか。
彼女が俺に興味を示しているのは"魔道士として"あるいは"手下候補として"であり、間違っても"異性として"ではない。
「失礼した。それでは、用事を済ませてしまおう」
そう言って、卿は腕まくりをした。
「用事?」
「なんだ、カレンから聞いておらんのか」
意外そうに眉を上げる。
どうやら、本人はとっくに話が通っているものと思っていたらしい。
「来れば分かる、としか言われてませんが」
「……カレン」
「どうせ父上の方から説明されるでしょう? 私は無駄な手間を省いたまでです」
悪びれる様子もない娘に、父はやれやれと息を吐いた。
正直、俺としては甘やかさずに泣くまで叱って欲しいと思わないでも無かった。
「まったく……まあよい。これからするのは、簡単な
触診。
というと、診療所なんかでされる、あれだろうか。
「魔道士の資質というものは、非常に複雑な構成で成り立っている。ゆえに一概に言えるものでは当然ないが……全身を巡る魔力循環系の発達具合によって、ある程度は類推することが出来る」
「――要するに、君の"才能"を看てやろうと言っているのさ、オズリック」
父の言葉を、横から娘が勝手に継いだ。
「……あくまでも傾向や性質を看ようという話だ。"啓示の儀"ほど具体的に分かる訳でもなし、そう身構えんでもよい」
卿は呆れたように苦笑しつつ、俺へと向き直る。
……正直、カレンの思惑通りに動くのは癪だという気持ちはある。
しかし、シグルド卿ほどの人物に見て貰える機会など早々ないか――
「――じゃあ、折角なのでお願いします」
逡巡の末、俺はカレンの思惑にまんまと乗っかることにしたのだった。
卿は俺の背後へ回ると、心臓の少し下あたりへ手を当てる。
俺は指示された通りに深呼吸をし、その状態で幾つかの簡単な魔法も使ってみせる。彼はそのたびに何かを確かめるように黙り込み、時おり手の位置を僅かにずらした。
やがて卿の手が離れ、その気配が背中から遠ざかっていく。
時間にして数分ほどか。どうやら、たったそれだけで十分らしい。
「なるほど――」
シグルド卿は顎に手をやり、しばし考え込んでから口を開いた。
「魔力量は驚異的の一言だな。貴族の魔法学園に通う人間と比較しても、一握りの逸材だろう」
それは、予想よりもずっと高い評価だった。
「カレン、お前が目を付けたのはこの部分か」
「
カレンは素直に頷く。
……手合わせというのは見晴らし台での一件を指しているのだろうが、俺の認識では単なる乱暴狼藉に他ならない。
「でも、今は性格も気に入っています」
「性格?」
ええ、と相槌を打ってカレンは続ける。
「――こう見えて、負けず嫌いなのです。他に類を見ないほどの、ね」
彼女は目を細めながら、じっと俺を見る。
なんかいい感じの雰囲気を出しているが、正直全く褒められている気がしなかった。というか、こいつにだけは言われたくない。
「何かを成し遂げる者としては、案外重要な資質かと思いまして……社会に生きる上では、少しどうかと思いますが」
「……放っとけ」
随分な言いように対して流石に突っ込む。
そんな俺たちの様子を見て、シグルド卿はふっと笑った。
「なるほど、なかなか面白そうな少年だ。この調子で伸びれば、将来は騎士団で要職に就けるな」
「ふふん。そうでしょう父上」
あまりにも大袈裟なことを言う父親にも、なぜか得意げな娘にも閉口する。
……話が飛躍し過ぎていて、はっきり言って着いて行けない。
案外、似た者親子なのかもしれなかった。
「……父上。それよりも、魔力の"質"は如何でしたか? 私としては、むしろそちらを父上に見て貰いたく……」
「――カレン」
それは穏やかな声だったが、有無を言わさぬ圧を孕んでいた。
雰囲気の違いを感じ取ったのだろう、カレンがぴたりと口を閉じる。
「お前は先に帰っていろ。この先は、私とオズリックの二人で話す」
「……なぜです」
「個人の事情に深く関わる話だからだ」
シグルド卿は諭すように言う。
厳しい口調ではないが、この先には踏み込ませないという意思だけは明確だった。
「…………」
そこまで気になるものだろうか、カレンは見るからに落胆した。
それを見かねた卿が、ひとつ息を吐いてから言葉を続ける。
「……どうしても気になるなら、後日オズリックに直接聞くように」
「!」
途端に彼女は顔を上げるが、俺は子煩悩な父親ほど甘くはない。
「内容によるな。話したく無かったら話さない」
「む……」
今度は、俺の方をじっと見つめてくる。
その無言の訴えに、俺はしばらく耐えたが――
「……まあ、よっぽどの内容じゃない限りは隠す理由もない」
結局は、先に折れた。
「っ! 約束だぞ、オズリック!」
それだけ言い残すと、カレンは踵を返した。
少女の背中を見送りながら、シグルド卿が小さく息を吐く。
「強引な娘だ。まったく、似なくてもよいところばかりそっくりになって」
そう呟いて、彼は遠ざかっていく娘の背中をしばらく眺めていた。
やがて娘の影が見えなくなると、卿はようやく俺へと向き直る。
「オズリック。将来はどうするつもりだ?」
そして、何の前触れもなく切り出した。
「……別に、まだ何も」
「そうか」
こちらの戸惑いなど気にした様子もなく、卿はあっさりと頷く。
「王都には"君子蘭院"という騎士団の養成学校がある。グラン=マグノリア――かの"英雄学園"と並び立つ名門だ。三年も経てば、カレンは君子蘭院に通うことになるだろう」
あれは英雄学園の方に行きたがるかもしれんがな、と苦笑しながら続ける。
確かに、彼女なら
「ともあれ――君さえその気なら、一つ余分に推薦状を書こうと思う」
「……えっと。俺にですか?」
「ああ。魔法は専門ではないが、入学までの間は定期的に私が手ほどきをするのも吝かでは無い」
あまりにも当然のように言われ、少しばかり面食らう。
騎士団長を務めていたような人間が、こんな田舎の少年に何故そこまで肩入れするのか。
もちろん、才能を見込んでくれたのは嬉しくもあるが……どうにも話がうますぎるように思えた。
「……そこまでして頂く理由が分かりません。というか、触診の結果についての話はどうなったんですか?」
俺は眉を寄せ、思ったままを口にする。
せっかく自分の魔力を診てもらったというのに、その結果を聞く前に進路の話へ飛ばれては流石に置いてけぼりである。
卿は何も答えず、夕陽の向こうへ目を向けた。
「かつて、一人の魔道士がいた」
また、話が飛んだ。
俺は思わず口を開きかけ――しかし、何も口を挟まなかった。
否、挟めなかった。それは卿の顔を、その表情を見てしまったから。
「女性ながら、我が生涯で最強の
これまで浮かべていた柔らかな笑みが嘘のように、その目は光を喪っていた。
遠い日の光景を鮮明に思い出しているらしい瞳に宿るのは、灰の如く乾ききった憎しみだった。
「この手で殺してやりたいと願っていた……結局、それは叶わなかったがな。彼女にとどめを刺したのは、偉大なる我が戦友だった」
「……その人は――」
思わず訊いた。
卿は僅かに顔を伏せた後、再び俺の目を正面から見据える。
「――"厄災の魔女"」
夕暮れの河原を、一陣の風が吹き抜けた。
それは十一年前の魔女戦争を引き起こし、大陸中に悪名を轟かせた最悪の魔道士。
人の身で厄災に認定され、英雄アレスによって滅ぼされた怪物。
「君は、驚くほど彼女に似ている。その銀髪も、中性的な顔立ちも、昏く冷たい魔力の質でさえも」
そう告げる彼の目に映るのは、俺ではなく。
俺を通して、遠い何かを見ているように見えた。
「……まあ、他人の空似という言葉もあります。シルバニア大陸の人口を顧みれば、似た人の一人や二人いても不思議じゃない」
少なからず衝撃を受けたが、それ以上の感慨はない。
「――ふ、そうだな」
「それに……あなたの話は、俺を嫌う理由にはなっても、目を掛ける理由にはならないと思いますが」
当然の疑問だった。
宿敵と似た姿をした小僧など、普通ならば顔を合わせることすら避けたい筈だ。
卿は否定も肯定もせず、静かに言葉を続ける。
「……かの戦争から何年も過ぎた今になって、ふと思うことがある」
ぽつりと、彼は言葉を零す。
「それは、彼女が如何なる人間だったのかということだ。何を望み、何を憎み、何を抱えていたのか……私は、何も知らずに戦っていた」
そう言って、卿はふと自らの手へ視線を落とした。
「莫大な力を持ちながら、彼女は何故あのような道しか選べなかったのだろうか。ともすれば、手を取り合う道もあったのではないか――」
そこで、卿は一度言葉を止めた。
夕暮れの風が、静かに河原を撫でていく。
しばらくして、卿はゆっくりとこちらへ顔を向けた。先ほどまで過去を見つめていた瞳が、今度は真っ直ぐに俺を捉える。
「オズリック。彼女よりもずっと若く、可能性に満ちた少年よ」
それは、昼の授業で見せていた、穏やかな好々爺の笑みだった。
「君はこれから、何者にもなれるだろう。誰かを救える人間になってくれたなら、これほど嬉しいことはない」