死霊術師でも英雄になれますか? 作:久川 晶 (旧:パリスタパリス)
「――それで、父上はなんと?」
後日。
案の定というべきか、俺はカレンに問いただされることになった。
自分が帰ったあと、俺とシグルド卿が二人きりで何を話したのか。
独り除け者にされた少女は、気になって仕方がなかったらしい。
「別に大したことじゃない。あの人の
「……それだけか?」
「ああ」
卿の話を要約すれば、それが殆ど全てだった。
予想していた答えと違ったのか、カレンは拍子抜けしたように眉を寄せる。
そして、その反応には共感せざるを得ない。俺としても、あそこまで勿体ぶって話すほどの内容とも思えないというのが正直な感想ではあった。
もっとも、似ているとされた人物が人物なので、カレンを事前に帰らせた判断は間違いでもないのだろうが。
俺は少し考えてから、あの後の会話を思い返した。
「あとはまあ……触診だけでは"天命"まで分かるわけでもないが、魔道士タイプなのは明らかなので、魔法の練習は今まで通りにすればいい――とか、その程度だな」
「……そうか」
カレンは、まだ何か引っ掛かっているようだ。
だが、これ以上聞いても答えは出ないと判断したらしい。
小さく息を吐くと、ふいに別の話を切り出した。
「ところで、オズリック。これから何か予定はあるか?」
「……ある」
嘘だった。
彼女がこういう聞き方をするときは、どうせ禄でもない用事を持ち込んでくるに違いない。先手を打って断っておくに限るのだ。
「そうか。では、予定を変更してもらおう」
「は?」
「君に案内して欲しい場所があるんだ。私は越してきたばかりだから、この辺りの地理にまだ疎くてな」
俺の申告はどこへ消えてしまったのだろうか。
こちらの都合など最初から勘定に入れていなかったらしい少女は、俺の不平をガン無視して話を続ける。
「村はずれに、小さな教会があると聞いた」
「……ああ、あるな」
丘陵にぽつんと建つ、古さびた小教会。
祭事や葬儀には使われるものの、普段から人が集まる場所ではない。日頃から礼拝に訪れるのも、村の年寄りが殆どだ。
「あそこにわざわざ何の用だ? 一応言っておくが、王都の大教会みたいに立派な場所じゃない。見物しても面白くはないぞ」
「その……少し、な」
彼女らしくなく、妙に歯切れの悪い答え。
何やら事情があるのかもしれないが、こちらとしては知ったことではない。
俺は小さく息を吐き、面倒な頼みを断るべく口を開く。
「そもそも、俺には予定が――」
「――母上の、お墓参りがしたいんだ」
そして、噤まされた。
「……母上?」
「ああ。私が五歳の時に亡くなった」
その語りは淡々としていたが、隠しきれない湿度を孕んでいる。
俯き気味で、どこか遠くを見るような目。いつもの勝ち気な顔とはまるで違う、少し寂しげな表情。
そんな顔をされてしまうと、どうにも調子が狂ってしまう。
「話が呑み込めないんだが……君の母親のお墓が、一体どうしてこの村にあるんだ?」
「この村は母の故郷なんだ。都会よりこちらの風土を好んでいたのもあって、墓もここに建てた。実際のところ、父上が隠居先にこの村を選んだのはそれが理由だ」
……なるほど、合点がいった。
元騎士団長とその娘が、なぜ王都を離れてこんな田舎へ越して来たのか。
わざわざ聞くほどではなくとも、少しばかり気になってはいたからだ。
そして、それを聞いてなお彼女を撥ね退けられるほど、俺も人でなしではない。
「まあ……そういうことなら仕方ない。案内しよう」
「ありがとう、オズリック」
ほっとしたように、カレンが小さく笑う。
その笑顔が妙に眩しく思えて、俺は目を逸らした。
――忘れがちだが、彼女がこの村に来たのはつい最近だ。
土地勘のない
俺がカレンを助けてやるのは単にそういう理由でしかなく、実は親切心があるだとか、彼女に絆されかけていたりするわけでは当然ないということなど、わざわざ言うまでもないことだった。
舗装もされていない細い道をしばらく歩いた先。
緩やかな丘の斜面に、小さな石造りの教会がぽつんと建っていた。
外壁は年月を経ているが、荒れているというわけではない。
むしろかなり清潔に掃き清められ、窓や鐘楼も磨かれている。管理者の努力が伺い知れるというものだった。
「霊園は、こっちだな」
そして、その教会の隣。
低い石垣と鉄製の柵に囲まれるようにして、そこに霊園が広がっている。
小規模で、豪華な墓地ではない。
だが、丘の上にあるだけあって見晴らしがよく、風通しも良かった。陽の光もよく届いている。
死んだ後に眠るなら、確かにこういう場所が良い。
村の年長者が聞けば十二歳の小僧が何をと言われるかもしれないが、それでも俺は割と本気でそう思った。
その霊園を、カレンは何かを探すように進んでいく。
やがて、ある一つの墓の前で足を止める。
――エリサ=シュワルツシルト。
墓碑に刻まれているのは、それだけだった。
「母上の墓だ」
墓石の周りには雑草一つなく、足元の土もきれいに均されている。
脇に置かれた花瓶には、まだ瑞々しさを失っていない花が活けられていた。
「随分と、綺麗な墓だな」
「父上の仕業だろう。この村に越してから、毎日のように通っているようだからな」
カレンは墓を見つめたまま、淡々と答えた。
「なら……わざわざ俺を案内役にしなくても、それに着いて来れば良かっただろうに」
「駄目だ。それでは、私が父の背中を付いて回る子供のままじゃないと母上に示せない」
俺の疑問に、彼女は墓石を見つめたまま小さく首を振る。
だが、それはどうにも腑に落ちない解答だった。
理屈が通っていないわけでもないが、娘が母親の墓参りに行かない理由としては弱いように思う。価値観は人それぞれ、という便利な言葉で流せない程度には。
そんな俺の内心が伝わったわけでもないだろうが、カレンはぽつりと付け足すように呟いた。
「……いや、言い訳だな。私はここに来るのを避けていたんだろう」
「避けていた?」
「ああ。結局のところ、母が死んだという事実を直視したくなかったんだ」
やがて小さく息を吐くと、伏せていた顔を上げる。
「今日は私の
そう言って、カレンはもう一度、母親の眠る墓へと視線を向けた。
俺は言葉が見つからず、何ともなしに空を見上げた。
いつの間にか、太陽はとうに真上まで昇っている。降り注ぐ陽射しが墓石を白く照らし、木々の葉を透かした光が足元に淡い影を落としていた。
「――これは珍しい。若者だけで墓参りとは」
その時、不意に背後から声がした。
振り返ると、そこにいたのは白髪の老人。
彼は確か――この教会の管理を任されている、神父のシートンさんだったか。
「久しぶりですね、オズリック君」
「どうも、シートンさん」
会釈を返すと、彼は柔和な笑みを浮かべる。
瞳に深く静かな光を湛えた、穏やかな表情だった。
「確か、二年ぶりですか。お元気そうで何よりです」
「あー……すみません、なかなか礼拝に来れなくて」
というか、正確には
何もせずに祈るという行為が、俺はどうにも苦手なのだった。
毎週とは言わずとも、月に一度くらいは礼拝に訪れる村人は多い。
何年間も教会に足を運んでいない人間など、不信心者と誹られても仕方が無かった。
しかし、シートンさんは俺を咎めるでもなく笑みを深める。
「謝ることではありませんよ。信仰とは強制されるものではなく、若者とは得てしてそういうものですし、何より――」
そこで言葉を切った彼の口元が、僅かに愉快そうに歪む。
……嫌な予感がした。
「――二年前。エマ殿が大けがをされた際、そこの礼拝堂で必死にお祈りをしていた少年を、私はよく覚えていますから」
「……やめて下さいよ、意地が悪い」
これは失礼、と形だけ謝って、彼はふと視線を隣へ移す。
初対面の神父に見られて緊張したのか、カレンは僅かに背筋を伸ばした。
「さて――カレン殿ですね。お待ちしておりました」
「待っていた、とは?」
カレンが訊ねると、シートンさんは目を細めて墓石へと視線を向ける。
「村にいらしてから、殆ど毎日お見えになっているシグルド殿が仰っていました。近い内に、娘が自分に内緒でこの墓を訪れるだろうと」
「……やれやれ、お見通しか」
カレンは額に手を当て、気まずそうに息を吐いた。
「そして――もし貴女がお見えになりましたら、
そう言って、シートンさんは懐から一通の手紙を取り出す。
少し古びれてはいたが、丁寧に保管されていたのだろう。封筒には目立った汚れも傷みもなく、綺麗な状態を保っていた。
「……その手紙は?」
「生前、お母上が貴女に宛てて書かれたものだそうです。当時の貴女は幼かったので、内容を理解できる年齢までシグルド殿が保管されていたようですね」
「!」
カレンの目が大きく見開かれる。
さっきまでの気まずそうな表情が消え、代わりに驚きと戸惑いの入り混じった顔で、差し出された手紙を凝視した。
やがて、恐る恐るといった様子で手を伸ばす。
「……父上が、私に直接渡せばいいのに」
「私もそう申しましたが、母君の墓前で渡された方が情緒があると。ロマンチストな父君ですな」
至極当然の感想に、シートンさんは肩をすくめた。
カレンは苦笑を零し、受け取った手紙に視線を落とす。白い封筒の表には、丁寧な文字で『カレンへ』と記されていた。
彼女はしばらくその文字を眺め、やがて指先でインクをなぞった。
「懐かしいな……柔らかくて丸い、母上の字だ」
そう呟くと、カレンは手紙を胸元へ抱き寄せた。
俺にとってはただの文字でも、当人にとっては違うのだろう。
たった四文字の中に、もう会えない母親の面影まで見えているのかもしれない。
「……さて」
そして、こういう時に第三者が横にいるのは野暮というものだろう。
「俺は外そう。終わったら呼んでくれ」
「……そういう配慮は出来るのか」
「喧しい」
失礼なことを宣う少女に背を向ける。
そんな俺たちのやり取りを見ていたシートンさんが、ふっと笑った。
「では、私も先に戻りますね――オズリック君。カレン殿を待つなら、礼拝堂の椅子をお使い下さい」
「どうも」
俺は彼の厚意に甘えることにし、そのまま連れ立って霊園を後にした。
教会へ続く石畳を歩きながら、ふと振り返る。
カレンは胸元に手紙を抱えたまま、母親の墓標を静かに見つめていた。
シートンさんと二人で教会へ入り、礼拝堂の長椅子に腰を下ろす。
そこでようやく、足がかなり疲れていたことに気がついた。ずっと歩き通しだったので、当然のことではあるのだが。
「……幸運なことですね。親に愛されるというのは」
霊園に一人残ったカレンを思い返しているのだろう。
俺の隣に座ったシートンさんは、どこか感慨深げに呟いた。
「そういえば、エマ殿はお元気ですか」
そして、親の話に関連付けて思い出したらしい。
こちらへ視線を向けた彼が訊ねてくる。
言うまでもなく、あの人も普段から礼拝に足を運ぶようなタイプではない。
「ええ、元気ですよ。少しは静かにして欲しいくらいです」
「それは何より。変わりませんね、あの方は」
彼は椅子に背を預けると、懐かしむように目を細めた。
「思えば――彼女が君を抱えてこの村へ来たのも、もう随分と昔になりますな」
「……まあ、そうでしょうね。全く記憶にありませんが」
「無理もない。あの時の君は、まだ何も分からぬ赤ん坊でしたから」
そのまま、遠い昔を思い返すように礼拝堂の奥へ目を向ける。
「村に来た時の彼女は、それはもうボロボロで、ひどく弱りきっていました。遠く離れた場所から、どうにか故郷であるこの村まで帰って来たのだと聞いています。けれど、どれだけ疲れ果て衰弱していても、連れていた赤ん坊だけはずっと強く抱えていました」
「……」
正直、そんなことを話されても反応に困る。
彼に悪意が無いのは分かっているが、どうにも据わりが悪かった。
「当時は"魔女戦争"の終戦からほどなく、この辺りも治安が悪かった。魔女の残党勢力すら、今以上に蔓延っていた頃です。そんな時代に、赤ん坊を抱えてここまで戻ってくるというのは――まさに、途方もない道のりだったことでしょう」
残党勢力。
この前、行商のピーターさんも彼らについてぼやいていた。
戦後十年以上が経った今でも懲りずに暗躍しているらしいが、終戦直後の規模は現在の比では無かっただろう。
「正直、俺が物心付く前に戦争が終わっていて良かったと思います」
「……ええ。まこと、そうですな」
つくづく、厄災の魔女とは傍迷惑な存在だった。
……そう考えると、シグルド卿が俺と魔女がよく似ていると言ったのも、なかなか失礼な話である。一歩間違えなくとも普通に中傷ではないだろうか。
「かの戦争に未来を奪われた子供も沢山いました。だから私は……この村の子供たちを見ると、時おり無性に嬉しくなるのです」
シートンさんは穏やかな笑みを浮かべ、しばし目を伏せる。
「戦争を知らぬ世代が、健全な心身を育んでいる。明日の命を案じて眠れぬ夜を過ごす必要もなく。己が何をしたいのかを考え、それを目指すこともできる――」
そこで一度言葉を切り、彼は改めて俺へ視線を向けた。
「オズリック君。あなたが望む道を歩み、いつか己が夢を叶えられることを、私は心から願っております」
「……そういう話はカレンにしてやって下さい。あいつと違って、俺には夢なんてありません」
向けられた視線から目を逸らしつつ、俺は続ける。
「特に何かしたいことがあるわけでも無いですし、何というか……俺は、何かを成し遂げられるような器じゃないですから」
それは紛れもない俺の本音だったが、後ろ向きな発言が気になったらしい。
シートンさんは僅かに目を見開き、首を傾げた。
「……なぜ、そう思うのですかな」
「それは……」
その問いに対し、すぐには答えが出てこなかった。
彼は何も妙な質問はしていない。
むしろ、会話の流れからして当然の疑問であり――だからこそ、言葉に詰まってしまうのは
暫しの沈黙。
ふむ、と彼は顎を擦った。
「ここには、他に誰もいません。君が何かを抱えているのなら、この老いぼれに話してはみませんか」
穏やかに笑って、彼は続ける。
「神父として半世紀も神に仕えた身です。人の秘密を聞くことも、それなりに長くやってきました――加えて、見ての通りの老体。秘密を墓まで持っていくことにも、何ら苦労はありますまい」
最後のは、微妙に笑いづらいユーモアだったが。
「……」
別に、わざわざ誰かに話したいような内容ではない。
むしろ逆だ。それは俺にとって話したくない
……しかし、俺も教会という――神に祈りを捧げると同時に、罪を告白し懺悔する場所の雰囲気にあてられているのだろうか。
この機会に
「――終わったか、カレン」
そこで、彼女の気配に気付いて中断する。
ゆっくりと振り返った視界の先。
礼拝堂の入口には、母の手紙を読み終わったらしいカレン=シュワルツシルトが立っていた。
「おや、カレン殿。もうよろしいのですか?」
「はい。ありがとうございました、神父殿――彼を、連れて帰ります」
彼女はすたすたと歩み寄ってきたかと思うと、無遠慮に俺の手を掴んだ。
柔らかな掌から伝わってくる力強い感触に、少し戸惑う。気付けば俺は、促されるままに立ち上がっていた。
「……ええ、承知いたしました」
何が可笑しいのか、シートンさんはそれを見て穏やかな笑みを浮かべた。
それから礼拝堂の中枢とでも言うべき女神像を見上げ、ゆっくりと口を開く。
「オズリック君。最後に、一つだけ言わせてください」
入口へと向かっていた足を止め、俺は振り返る。
「教会は、何のためにあると思いますか?」
「? ……神様を祀り上げるため、じゃないんですか」
「ええ、違います。迷える者に、寄り添うためにあるのです」
見るからに敬虔そうな老神父にしては、随分と意外な答えだった。
「教会に訪れる者の多くは、何らかの大きな問題に直面し、神からの救いを求めています。しかし、神が人の問題を直接解決することは
いや、敬虔な神父だからこその言葉なのかもしれない。
神に祈れば奇跡が起こり、全ての問題に片が付く。
そんな都合の良い光景を、長い人生で一度たりとも見てこなかったのだろう。
「教会は神の威を借り、迷える者の心に寄り添い、その心を癒すだけ――そして、大抵はそれで充分なのです。心さえ無事なら、人間たいていの問題は自分でどうにかしてしまえるものですから」
そこまで言うと、シートンさんはこちらに振り向き、再び穏やかに微笑んだ。
「望むにしろ望まないにしろ――若人たる貴方は、これから多くのものを得る。そして、同じく喪うでしょう。生きる道に迷った時、教会はいつでも門戸を開いています」
教会からの帰り道。
何も言わずに歩き続けるカレンの背を追うように、俺も黙って歩いていた。
そして、やがて村を一望できる丘へと差しかかる。
……上っている時は大して意識していなかったが――
「――この場所は」
懐かし……くも、ないか。
いつかカレンが俺にいきなり剣を向けた、あの見晴らし台だった。
「……あの時は、悪かったな」
「え?」
「この場所で、君に突然切りかかったことだ」
ぽつりと。
彼女の口から、意外な謝罪の言葉が漏れる。
どうやらカレンもまた、俺と同じことを思い出していたらしい。
「……これでも、気にはしていたんだ。少し強引に事を運び過ぎたと」
「少し?」
「意地が悪いぞ」
俺の軽口に、カレンは僅かに口元を緩めた。
丘を渡る風が、しばし二人の間を通り抜ける。
太陽はまだ高く、眼下には穏やかな昼下がりの村が広がっていた。
「思えば……母が亡くなってから、私はずっと焦っていたんだと思う」
それを見下ろしつつ、カレンは静かな声で言う。
「……私が何故"英雄"になりたいのか。君には、その動機を話したはずだな」
「ああ、確か――人から認められたり、頼られることが好きだから、だったか」
確か、書斎で話をした時にそう言っていた。
「その言葉に嘘はない。けれど……実は、それだけじゃないんだ」
カレンはそこで一度言葉を切った。
愛おしい過去を懐かしむように目を細め、ゆっくりと口を開く。
「幼い頃、母上がよくアレスの英雄譚を読み聞かせてくれた。その時に、私もアレスのような英雄になると口にしたのが切っ掛けだ。母上は大のアレス好きだったからな。それはもう、嬉しそうに笑ってくれた……」
その時のことを思い出しているのか、カレンの口元に小さな笑みが浮かぶ。
「だから、今際の際に約束をしたんだ。将来、私は必ず英雄になって……いつか天国で逢ったら、今度は私自身の英雄譚を聞かせてあげると」
その声は、普段の彼女からは想像もつかないほど穏やかで。
母親に喜んでもらいたいと願っていた、幼い少女の面影だけがあった。
「それは、なんというか……親孝行なことだな」
俺はかける言葉が分からず、何だか間の抜けたことを言ってしまう。
カレンはそんな俺を見て微笑を浮かべ――しかし、静かに首を振った。
「そうでもないさ。私は、母の気持ちを何も分かっていなかった」
「……それは、どういう」
「この通りだ」
そう言って、カレンは俺に一枚の紙を寄越す。
それは他でもない、彼女が先ほど読んでいた亡き母の手紙だった。
「俺が読んでいいのか?」
「構わない。当該箇所は最後の数行だ」
当該箇所。
そのあまりにも無機質な言い方に苦笑しながら、俺は紙面の下の方に目を落とす。
そこには、母親から娘へ向けられた最後の言葉が綴られていた。
『――最後に、一つだけ我儘を許して下さい』
それは柔らかく丸みを帯びた、どこか人柄まで伝わってくるような文字だった。
『
そこには、英雄になれとも、立派な人間になれとも書かれていない。
『けれど、決して独りにだけはならないで下さい。健やかな時も病める時も、あなたの隣にはそれを分かち合える"誰か"がいる。それだけが、私の唯一の願いです』
最愛の娘へ、愛を込めて――エリサ=シュワルツシルト。
そう締められた文面は、ただ娘の幸福を祈っているだけの、月並みと言えば月並みな母親の言葉。
母が我が子に望むものなど、結局はそういうものなのかもしれなかった。
「私は"英雄"を目指す。その夢は変わらない」
少女は静かに、しかし強い意志を湛えた声で続ける。
「ただ……これからは、
「……そうか」
その横顔は、眩しいくらいに凛としていた。
「――君は今日、過去を一つ乗り越えたわけだ」
そんな、少しばかりの憧憬を胸にカレンへ向き直る。
そこで初めて、彼女が正面からこちらを見つめていることに気付いた。
「あー、その……そうだな、うん」
「? どうした」
問いかけても、カレンはすぐには答えない。
どういうわけか頬を赤く染め、言い淀むように視線を彷徨わせている。
「なあ、オズリック……この前の話、なんだが」
やがて、意を決したように口を開いた。
「手下になれとは、もう言わない。ただ――友達に、なってくれないか」
あまりにも飾り気のない、真っ直ぐな言葉だった。
ほんの僅かに眉を下げ、カレンがこちらを窺う。
「それも、駄目か……?」
友達なら、それこそ俺である必要はないだろう。
そんな無粋な言葉は、俺の口から終ぞ出ることは無く。
いつかの"色仕掛け"などよりも、その表情は俺に効果覿面だった。
「……分かった、分かったよ」
「! 本当かっ!?」
ここで嘘を吐くほど、俺は人間が終わっていない。
"英雄"なんてものに興味は無いが、ただ友人になりたいという少女の頼みを断る理由など、どこにも無かった。
「よろしくな」
「――ああ、よろしくっ!」
差し出された手を握る。
こうして俺たちは友人になった。
「……ああ、そうだ――カレン」
忘れていた。
上機嫌で歩き出した彼女の背を呼びとめる。
少なくとも今日の内に言っておくべき言葉が、一つだけ残っていた。
「
少女は振り向き、虚を突かれたように目を見開く。
それから、薄く笑った。
――瞬く間に、半年が経った。
いざ振り返ってみれば。
友人としてカレンと過ごした日々は、それまでの人生で最も幸福な半年間だったように思う。
祭りがあれば一緒に村を見て回った。
雪が降れば、子供じみた雪合戦に興じた。
エマさんが焼いた菓子も、カレンは中々気に入ったらしい。いつの間にか、彼女が俺の家を訪ねてくることも珍しくなくなった。
……俺とカレンが急に仲良くなったことについて、村学校の級友たちから何かしらの反応があるものと思っていたが、蓋を開けてみれば特に何も無い。
気になってこちらから尋ねてみれば、返って来たのは『割とこれまで通りだろ』という何とも身も蓋も無い言葉だった。
時にはくだらないことで喧嘩もしたが、翌日にはどちらからともなく話しかけ、何事もなかったように隣を歩く。友人とはそういうものだった。
そして、今年も冬が明け。
雪に覆われた大地から土色が覗き、雪解け水が小さな川となって流れ始めている頃――
「――オズリック。"君子蘭院"についてだが」
広場の長椅子に腰かけたカレンが、唐突にそう切り出した。
「……君子蘭院? 確か、王都の騎士養成学校だったか」
「そうだ。二年後には私も入学する」
「で、その君子蘭院とやらがどうした?」
まさか、この俺に進路相談をしようというわけでもあるまい。
そんなつもりで尋ねると、彼女は呆れたように眉を寄せた。
「いや、どうしたも何も……君は入学しないのか? 父上の薦めを、君が保留にしていると聞いたんだが……」
「えっ?」
言われて記憶をたどり、そして漸く思い出す。
――『君さえその気なら、一つ余分に推薦状を書こうと思う』
もう半年以上も前になるが、シグルド卿から確かにそう言われていたのだった。
「……そういえば、そんな話もあったな」
すぐに答えは出さずとも良いという話ではあったが、色々あって有耶無耶にしていた内にすっかり忘れてしまっていたらしい。
低い声で独り言ちる俺を、カレンはじっと見つめた。
「決して悪い話じゃないはずだが、なにか断る理由があるのか?」
「いや……」
「断る理由は無いんだな? なら、君も入学するということで構わないな。よし、早速私から父上に――」
「ま……待て待て。少し落ち着いてくれ」
忘れていたのはこちらの落ち度だが、幾ら何でも性急すぎる。
少なくとも、この場で即決してしまうには余りにも大きい案件だった。
「そもそも、まだ二年も先の話だろ。すぐに決める必要は……」
「あるんだ」
俺の言葉を遮り、カレンは続ける。
「私は、この春から王都で暮らす」
「――」
唐突な言葉だった。
思わず顔を上げると、彼女は真剣な表情でこちらを見据えていた。
「社交や礼儀作法も含め、入学に先駆けて学ばなければならないことが沢山あるんだ。そのために、
……なるほど。
確かに、この村で学べることには限界がある。王都で貴族たちと付き合うためには、実際にその空気を知る必要があるのだろう。
「だから私は王都へ行く。向こうで暮らしながら、君子蘭院に入るための準備をするつもりだ」
「そう、か」
友人と別々の道を行くことなど、至極当たり前にあることだ。
俺は理性でそれを分かっていて――けれど、予想以上にショックを受けている自分に気付いた。
そうか。
遠くない未来、カレンとは別れることになるのか――
「――だから、一緒に来てくれないか?」
「……え?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
呆気に取られている俺をよそに、カレンは淡々と続ける。
「屋敷の客室に空きはある。君子蘭院だって名門だし、魔道士の育成にも力を入れているから、君の将来にも利するだろう。絶対に損はしないはずだ」
その顔はやはり、眩しいほどの自信に満ちていて――しかし、よく見ると視線が僅かに泳いでいる。
この半年で分かったことだが、彼女は案外、緊張しやすい。
なんだか、それが無性に可笑しかった。
「それに――王都で君と過ごすのは、きっと楽しい。一緒に行けたら、私が喜ぶ」
……ああ、そう。
随分と素直なことで。
俺は内心で斜に構えながらも、彼女の方に顔を向けることが出来ない。
それは赤面しているからではなく……いや、もういい。赤面しているからだ。
捻くれ者を気取っていた癖に、とんだ単純小僧である。彼女と王都へ行く未来に胸が高鳴るのを、俺はまったく否定できなかった。
「少しだけ待っていてくれ。これから、エマさんに相談してくる」
とはいえ、冷静に考えれば俺の一存で決められることでもない。
王都へ行くとなれば、住み慣れた村を離れることになる。至極当然の現実問題として、保護者の同意は必須だった。
家へ戻ると、俺はいつものように扉を開ける。
「エマさん、ただいま。ちょっと話が――」
「――おう、オズリック。おかえり」
「……は?」
しかし、返ってきたのは聞き慣れたエマさんの声ではなかった。
聞き覚えのある、軽薄な男の声。
思わず声の方に視線を向けると、一人の男が何食わぬ顔でテーブルに腰掛けていた。
「ピーターさん……?」
それは、たびたび村を訪れる行商人。
俺に魔法教典を売りつけ、人生を変える転機を作った男だった。
「……エマさんは?」
「別の場所にいる。お前にも来て貰うぜ」
「それはどういう――」
言葉を終えるより先に、首筋へ冷たい感触が走った。
「――こういうことだ」
いつの間に距離を詰められたのかすら分からない。
俺は既に、
「……目的は何だ」
自分でも驚くほど、低く冷たい声が出た。
「はっ、得物を突き付けられてその態度……まったく大したガキだよ、お前は」
ピーターさん――ピーターは愉快そうに笑う。
しかし、その声にはいつもの軽さがない。
「――重畳だ。そんなところまで、"あの人"そっくりに育ったな」
「……あの人」
「お前の偉大なるお母様さ。言うまでも無いが
その言葉に、眉をひそめる。
「……俺の実母が、どうしたっていうんだ?」
自分を産んだ女について、俺は何も知らない。
知っているのは、かつてエマさんに俺を預けた人物だということくらいだった。
「あー……言ってねえんだったか。エマの奴、
まるで呆れたようにぼやきながら、ピーターは肩を竦める。
「あのな、オズリック。お前の母親は――」
――"厄災の魔女"。
彼の口から告げられたのは、この世界で最も悪名高い女の名前だった。