死霊術師でも英雄になれますか? 作:久川 晶 (旧:パリスタパリス)
『知ってしまったわよね――私が、
カレンに呼び出しを受ける、少し前。
寝台の脇で水差しを取り替えていると、病床のエマさんが俺に声を掛けた。
『寝てなよ、エマさん。まだ無理して話さない方がいい』
彼女はまだ本調子には程遠く、上体を起こしているだけでも辛そうだった。
勿論、いつかは話を聞かなければならないだろう。
俺自身、確かめたいことはいくらでもある――が、今すぐである必要はないはずだ。少なくとも、衰弱した彼女に無理をさせてまで聞き出すことはない。
『――最初はね。ただ純粋に、友達を助けてあげたかったの。私も、
しかし、こちらの気遣いを受け入れるつもりはないようだ。
変に話を止めても、かえって体力を使わせるだけだろう。俺の方が折れることにした。
『……あの子?』
『シルヴィア=ローゼンクランツ。あなたの、産みのお母さんよ。世間じゃ"厄災の魔女"なんて呼ばれているけれど、そんな大それた人間じゃないわ』
あまりにもあっさりと告げられた名前に、俺は一瞬返す言葉を失った。
『いや、本当に。ガサツで天然だし、鋭いかと思えば妙なところで鈍感だし、些細な勝負でも本気になるくらい厭に負けず嫌いだし……しかも、一度決めたことは絶対に曲げない頑固者』
『……"厄災の魔女"にそんな評価を下すのは、世界広しと言えどもエマさんだけだろうね』
『事実だもの。思い出したら、少し腹が立ってきたわ』
まるで友人について愚痴をこぼすような口ぶりに、俺は何とも言えない気分になる。
彼女は日頃から俺が母親似だとよく零していたが、少なくとも性格は全く似ていないようだ。俺は天然でも鈍感でもなく、負けず嫌いの頑固者などでもない。
『……そんなあの子だからこそ、どこかで歪んでしまったのね。気が付いた時には、取り返しがつかなかった。罪の意識に耐えられなくなって、それでも
先ほどまでの軽い調子が消え、エマさんの声に陰りが差した。
懐かしむように語っていた表情からも、いつしか笑みが失われている。
『――だから、あなたを連れて逃げるように言われたの。私たちに何が起きても自業自得。それでも、あなたは関係ない。どこか遠い場所で、自分とは関係なく幸せに過ごして欲しい。それが、あの子の望みだった』
それは……どう受け止めれば良いのやら。
俺の知らないところで、俺の知らない母親が妙にしおらしい願いを抱いていた。そう聞かされても、少しむず痒い気持ちになるだけで、特に感じ入るものはない。
『……結局、それも叶わなかったけどね。私が
サンドリオン。
その名を聞いた瞬間、沸騰しそうな怒りが沸いた。
シグルド卿の仇が、今もどこかでのうのうと生きている。その事実を思うだけで、どうしようもなく腹立たしい。
『奴は許せない』
『ええ。あいつの行動には、あいつなりの正義や信条があるのかもしれない。でも、
エマさんは強く口元を結んだ。
けれど、すぐにその表情を緩め、自虐的な笑みを浮かべる。
『……なんて息巻いても、私には何もできないんだけどね。あなたやあなたの母親と違って、私には何の力も才能も無いから』
困ったように眉を下げる彼女の声には、長年抱えてきたであろう諦観が滲んでいた。
『思い返せば、あなたにも大したことは教えられなかったね。十年以上も一緒にいたのに、あなたは書斎の本を読んで、一人で勝手に強く育った――』
『――いいや』
思わず口を挟む。
『エマさんからも、沢山のことを教わったよ』
少なくともその点に関し、俺と彼女の間には大いなる見解の相違があった。
『料理に洗濯。食べ物を粗末にしないこと。約束を守ること。お説教されている時は、あまり納得してなくても反省しているように見せた方がいいこと。お喋りな女性には、とりあえず話を合わせておいた方がいいこと……』
『……最後の二つは教えてないけど』
『あとは、そうだな――』
呆れるようなエマさんの言葉を流しつつ、俺は言葉を続ける。
『――優しさ、とか』
自分で言っておいて、流石に頬が熱くなった。
エマさんは少しだけ目を見開き、じっと俺の顔を見る。
やがて、穏やかに笑った。
『そっか……ねえ、オズ。少しこっちに来てくれる?』
言われるままに近づくと、彼女は俺の額に自分の額をそっと合わせてきた。
『オズリック。強くて優しい、私の息子。間違いだらけの人生だけど、あなたを育てたことだけは大正解だったって信じてる。他の誰が何と言おうと、あなたは胸を張って生きなさい』
額を合わせたまま、エマさんは穏やかな声で語りかける。
しばらくそうしていた彼女は、ふと思い出したように言葉を継いだ。
『ただし――喧嘩は、ほどほどにね』
その声色は、思いがけないほどいつも通りのものだった。
「よくも……血に塗れた手で、私に菓子など振舞えたものだ」
カレン=シュワルツシルトは、怒りに震える声でそう言った。
「どれだけ善良な人間を装おうと――いや、実際に改心したつもりになっていたとしても、過去が消えて無くなりはしない。誰も自分の罪を知らないこの村で、のうのうと平和な暮らしをしようだなどと……図々しいにも、程がある」
その言葉に、俺は反論できなかった。
エマさんが先の戦争で"魔女"の側に付き、悪事に手を染めていたことが事実らしい以上、カレンの怒りを否定することもできない。
けれど。
それでも、あの人は俺の母親なのだ。
「……冷静になれよ」
無神経な言葉を発した自覚はある。
父親を失ったばかりの少女に、冷静さを期待する方がどうかしている。それでも、口をついて出てしまった。その程度には、俺も全く以て冷静では無かった。
「優先して殺すべきなのは、サンドリオンや……現在進行形で悪さをしてる連中の方だろうが」
「そちらも殺すさ。だが、手近にいる方が先だ」
カレンはそれ以上の説明をする気もないらしく、踵を返した。
その
「待て、話はまだ――」
「――庇うのか?」
遮るように返された言葉に、思わず口を噤む。
振り返った少女の視線が、鋭く俺を捉えた。
「君は……魔女の手先と、私と。一体、どちらが大事なんだ?」
俺を責めるような問いかけ。
しかし、その声色はどこか俺に縋ろうとしているようにも聞こえた。
「止まれ――カレン」
「……そう、か」
俺が返したのは、直接的な答えではない。
しかし、カレンはそれを一つの"答え"として受け取ったらしい。しばらく俺を見つめた後、諦めたように視線を外した。
「正しいのは、私なのに」
カレンが、ぽつりと呟く。
誰に聞かせるでもない、吐き出すような声だった。
「友達なのに。約束、したのに」
そして、ゆっくりと俺に向き直る。紅玉の瞳が、もう一度こちらを捉えた。
「――君も、私を裏切るのか」
次の瞬間、少女の剣が閃いた。
「ッ……!」
唐突な一撃に、反応が遅れた。
魔力を腕に纏わせ、かろうじて刃を受け止める。しかし勢いまでは殺しきれず、腕ごと大きく弾かれてしまった。
踏みとどまろうと足に力を込めるが、立て直すには至らない。俺は大きく体勢を崩した。
カレンは、その隙を逃さない。
低く身を沈めたかと思うと、次の瞬間には俺の懐へ飛び込んでいた。不安定な姿勢ではその勢いを殺しきれず、俺は背中から地面へと押し倒される。
背中に鈍い衝撃。息を詰まらせながら顔を上げた時には、すでに彼女が俺の上に馬乗りになっていた。
視界の全面に、彼女の姿が映った。
その顔に浮かんでいたのは、ひどく頼りない、今にも崩れてしまいそうな表情。いつもなら真っ直ぐに未来を見据えていた瞳は頼りなく揺れ、頬には一筋の涙が伝っている。剣を握る手にも力が入りきっていないのか、刃先が小刻みに震えていた。
「……ごめんなさい、母上」
掠れた声が、静かな空気に溶けていく。
ひどく、小さな声だった。
それが目の前にいる俺に聞かせるためのものでないことなど、考えるまでも無い。もっと遠くにいる、届くはずの無い相手に捧げる言葉だった。
「私は、独りになってしまいました」
そこで、俺も思い出してしまった。
カレンと一緒に、彼女の母の墓参りに行った時のことを。そこで受け取った手紙に記されていた、愛を湛えた一文を。
――『決して独りにだけはならないで下さい。健やかな時も病める時も、あなたの隣にはそれを分かち合える"誰か"がいる。それだけが、私の唯一の願いです』
カレンは俺をしばらく見下ろし、やがてゆっくりと目を伏せる。
そこに浮かんでいたのは、すべてを諦めてしまったような、虚ろな表情だった。
そして――強い衝撃が、俺の脳天を揺さぶった。
何が起きたのかを理解する間もなく、視界が暗く沈んでいく。
最後に見えたカレンの顔は、ひどく儚いものに思えた。
そのまま、俺は意識を失った。
目が覚めた時には、日が暮れていた。
周囲を見回すが、カレンの姿はどこにもない。
薄暗くなった空の下、頭にはまだ鈍い痛みが残っていて、身体を起こすだけでもひどく億劫だった。
嫌な、予感がした。
俺は急いで家へと引き返した。
身体に残る痛みや気怠さなど、気にしていられない。慣れ親しんだ家へと近づくにつれて、不安はますます大きくなっていった。
玄関を抜けて、真っ先に寝室へと向かった。
けれど、そこには誰の姿もなく。
昼までは横になっていたはずのベッドは空になっていて、掛け布団も乱れたまま残されていた。家の中を見回し、名前を呼んでみても返事はなかった。
――エマさんもまた、忽然と姿を消していた。
翌朝から、村の大人たちによる捜索が始まった。
彼女が向かいそうな場所を一つずつ当たり、川沿いや森の中まで手分けして探しても、何ら手掛かりを得られないままに時間だけが過ぎていく。
そして、三日後。
自警団の若者が、川の下流でエマさんの亡骸を発見した。
知らせを受けた俺は現場へ向かおうとしたが、大人たちに止められた。
見ない方がいい、と。
結局、エマさんがどんな姿で見つかったのか、自分の目で確かめることはできなかった。
遺体の検分が行われた結果、
衰弱した身で、なぜ川沿いなどを歩いていたのか。
それだけは説明のつかない疑問として残ったものの、雨上がりの増水した川で起きた事故としては、決して珍しいものではなかった。
そして、俺は知っている。
これが事故などではなく、恐らくは明確な殺意を伴った事件であることを。更には、その仕立人が誰であるのかも。
もっとも、それを告発して大事にしようという気には到底なれない。
それをすれば、必然的にエマさんの出自や俺の血筋についても言及せざるを得なくなるから――などという
これ以上、何かを追及したいと思えなかった。この一連の茶番を、一刻も早く終わりにしたかった。
そもそも、カレンは既に
大人たちによれば、シグルド卿の訃報を聞きつけたシュワルツシルト本家の人間が村を訪れ、彼女を王都に連れていったという。
詳しい経緯を知る者はなく、彼女がどんな様子で村を離れたのかまでは分からないが、時系列的にはシグルド卿の死から三日後――俺がカレンと最後に会った日の夕方らしい。即ち、俺が彼女に気絶させられていた間のことだ。
悔しくないと言えば嘘になる。肉親を殺された恨みも、ある。
しかし、俺一人がいくら吠えたところで、証拠もない村の裁判に王都から遥々名家令嬢を召喚することなど出来はしない。裁くことなど以ての外だ。カレンはそもそも、
それを認め、口を噤むことだけが、今の俺にできる精一杯だった。
少年期の俺とカレン=シュワルツシルトの関係は、そのようにして終わった。
独りになった家は、むしろ心地良さすら感じるほどに静かだ。
俺は物置にこもり、エマさんの遺品を整理していた。
棚の中身を一つずつ取り出しては、必要なものと処分するものに分けていく。
彼女の衣服は、もう要らないだろう。食器や小物は、残しておいてもいいかもしれない。そんな風に。
手に取った品を眺め、少し考えてから箱に戻す。
億劫な作業だったが、かといって手を止める気にもなれない。何かやることがあった方が、精神的にも楽だった。何もせずにいるよりは、余計なことを考えずに済む。
――あの事件から、もう一か月が経つ。
不思議なことに、涙はまったく出なかった。
色々なことがありすぎたのだ。辛いとか、悲しいとか、そういう言葉で片付けられるような段階は、とっくに過ぎてしまったのかもしれない。
悲しめばいいのか、恨めばいいのか、悼めばいいのか。それとも、何もかも放り出してしまえばいいのか。自分がどうすべきなのか、どうしたいのかすら、今の俺には分からなかった。
頭がまるで働かない。
というか、何も考えたく無かった。
今の俺の状態は、死んでいるのと大して変わらないのだろう――
「……?」
ふと、視界の端で何かが光った。
遺品の中に紛れ込んでいた小さな輝きに、俺は僅かに目を向ける。何気なく手を伸ばし、それを拾い上げてみた。
それは、銀製の小さな十字架だった。
村のはずれにある教会のシンボルだ。確か、冬の降臨祭の日に教会から各家庭へひとつずつ配られていたものだったか。特別性も何もない、ごくあり触れた代物である。
……そういえば、カレンと一緒に教会へ行ったこともあったっけ。
彼女が母親の墓参りをしたいと言い出して、不本意ながら案内役として同行した。墓前で神父のシートンさんから彼女の母が遺した手紙を受け取って、それで――
――『生きる道に迷った時、教会はいつでも門戸を開いています』
記憶をたどるうちに、シートンさんが別れ際に口にした言葉が蘇った。
「……教会、か」
そういえば……葬儀以来、エマさんの墓にも参っていない。
顔を出すくらいはしてもいいか。
どうせ今の俺には行くあてもなく、ほかにすることもないのだから。
結局のところ。
エマさんの名前が書かれた墓石を眺めてみても、神様に祈りを捧げてみても、俺の心が晴れることはなかった。
無論、何かが変わることを期待していた訳でもないが……こうして実際に何も変わらないと、やはり少しばかり落胆する。
何だか疲れてしまい、礼拝堂の長椅子に腰を下ろした。
「……」
膝に肘を置き、地面を眺める。
どこか卑屈なこの姿勢は、しかし今の俺には心地よい。自然と思考が内側へ沈んでいく。
――エマさんを喪い、カレンもいなくなった。
この状況を招いたのは、俺の無能さと優柔不断さに他ならない。
ピーターに攫われてからというもの、俺は自分でも呆れるくらい何も出来なかった。
年齢や経験の有無なんて、起きてしまった現実の前には何の慰めにもならない。未熟な子供の身であっても、出来ることは幾らでもあったはずだ。
例えば――サンドリオンは俺を必要としていたのだから、自分の命を盾にして交渉することが出来たかもしれない。
あるいは、シグルド卿が助けに来てくれた時に、彼と協力してサンドリオンに挑むことは出来なかったのか。再生能力を持つ吸血鬼が相手でも、やりようはあったはずだ。俺だって魔道士の卵なのだし、隣にはカレンもいた。
そもそも、サンドリオンが吸血鬼だということに俺が勘付いていれば、シグルド卿は不意をつかれることも無かっただろう。
思い返せば、そう推測できるだけの材料はあった。にも拘わらず、恐らくはシグルド卿が助けに来てくれたことに安堵して、俺の思考は半ば止まってしまっていた。
まさしく、愚の骨頂。
救いようのない馬鹿。目も当てられないほどの愚物。反吐が出るほどの役立たず。
今さら自覚しても、もう遅い。
俺の無能っぷりも、それによって齎された悲劇も、既に決定された過去となった。そして、未来永劫変わることは無い――
「――大丈夫ですか? オズリック君」
不意に声を掛けられ、俺は顔を上げた。
そこに立っていたのは、黒い聖職者の衣をまとった、穏やかな佇まいの老人。
カレンの母親の墓参りに付き添った際にも世話になった、神父のシートンさんだった。
「何が、ですか」
「いえ。随分と、怖い顔をしていらっしゃったので」
失礼します、と断ってから、彼は俺の隣に腰を下ろした。
「……エマ殿のことは、残念でしたね」
「ええ」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
慰めの言葉を掛けられたところで、今の俺には余計なお世話としか思えない。
「シグルド殿も……葬儀は本家でするからと、断られてしまいました。何だか、この村も随分と寂しくなったように感じます」
「ええ、そうですね」
村の人たちの間では、シグルド卿の死について『近隣の砦に住み着いていた賊と相打ちになった』という認識になっている。
魔女の残党やサンドリオンについて、俺が口を噤んだからだ。エマさんを殺した
「……シートンさん」
ところで、俺にはかつて彼の放った言葉に思うところがある。
「あなたは以前、こう言いましたよね。教会は神の威を借り、迷える者の心に寄り添い、その心を癒すのだと」
「ええ、覚えていますよ」
「残念ながら、俺には効果が無かったようです。神様に祈ってみても、まるで楽にならない。あなたも俺を慰めるつもりで声を掛けてくれたのかもしれませんが、きっと無駄だと思います」
我ながら嫌味な物言いだが、これは俺の本心である。
シートンさんはすぐには答えなかった。
静かに俺の顔を見つめた後、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……そうですね。短い期間で多くを喪った君には、神への祈りなど何の慰めにもならなかったのでしょう。また、所詮は他人に過ぎない私の言葉が届くとも思えません」
返って来たのは、全面的な肯定の言葉。
教会に足を運んだくらいで、何かが変わるはずもない。
そんなことは、最初から分かっていたことだ。そして、実際に何も変わらなかった。
やはり、ここに来たのは時間の無駄だったのだろう――
「――なればこそ。君を立ち直らせるのは、君に近しい方の言葉なのでしょう」
「……え?」
思いがけない言葉に、俺はシートンさんの顔を見る。
「思い出しなさい。君のことを想い、幸せを願っていた方のことを。君を想って紡がれた言葉の数々を。君がこれからどう生きることを、その方は望んでいたのか――」
こちらを見つめるその眼差しは穏やかで、しかし確かな意志が感じられた。
「――君は、何も託されなかったのですか?」
その問いに対し、俺は答えを探すように記憶を辿った。
やがて思い浮かんだのは、エマさんと最後に交わした会話だった。
『オズリック。強くて優しい、私の息子。間違いだらけの人生だけど、あなたを育てたことだけは大正解だったって信じてる。他の誰が何と言おうと――』
「――胸を張って生きなさいと、言われました」
しかし、今の俺がそんな言葉に応えられるはずもない。
「……あの人はいつも、無茶を言う」
何万人も死んだ戦争を起こした"厄災の魔女"。
その息子であり――つい最近も、一組の父娘を不幸にしたのが俺だ。エマさんの言葉を受け入れるには、背負ったものがあまりにも重すぎる。
もしも、俺が胸を張って生きられる時が来るとしたら。
それは母を越え、あまりにも大きなその影を振り払った時だけだろう。
"厄災を越える者"など、この世界に。
「――」
「……シートンさん。ひとつ聞いても、良いですか」
「なんなりと」
口にするべきか迷いながら、俺は視線を落とす。
突然こんなことを尋ねられれば、きっと困惑するだろう。
それが分かっていてなお、誰かに聞かずにはいられなかった。
「例えば――自分のせいで人が傷ついたり、死んでしまったとして。それを償うために無関係の善行を行うことについて、どう思いますか」
我ながら、随分と身勝手な問いだ。
シートンさんは質問の意味を測るように目を伏せ、やがて珍しく低い声で言った。
「欺瞞ですね。何をしても償えない罪というものは、この世界に存在します。殺人はその最たるものでしょう。どれだけ後悔しても、死者が生き返ることは絶対にありません」
「……です、よね」
それは、完膚なきまでの否定の言葉だった。
予想していた答えとはいえ、こうして真正面から突きつけられると、それなりに堪えるものがある。
――俺が胸を張って生きるには、かつての"厄災"である母を越えるしかない。
しかし、母はもう死んでいる。ならば他の厄災を斃す。
厄災を越えた"英雄"となることで母を越え、母の影を振り払う。
そんな理論は、少しばかり俺に都合が良すぎたか。
彼のようなちゃんとした大人から見れば、欺瞞そのものなのだろう――
「――欺瞞は、お嫌いですか?」
「え?」
不意に投げかけられた問いに、俺は顔を上げる。
対するシートンさんは、どこか愉快そうに目を細めていた。
「私は好きですよ。現実というものは、おしなべて厳しく矮小です。それに対し、欺瞞のなんと優しく偉大なことか」
穏やかな口調とは裏腹に、その声には不思議な熱が宿っている。
俺が返答に迷う間も、彼は構わず話を続けた。
「無償の愛。輝かしい未来への希望。英雄という偶像……神の存在ですらも、所詮はまやかし、欺瞞に過ぎません。優しき欺瞞で己を騙し、己を律する。我々はみな、そのようにして生きている――」
その言葉には、綺麗事だけでは片づけられない
「――それを悪だと、一体誰が咎められましょうか。結局のところ、自分自身の納得以上に優先すべき"現実"など、この世に在りはしないのですから」
……現実よりも自分自身の納得が重要、か。
身勝手な逃避にも思えるが、なるほど確かに一種の真理かもしれない。
俺が何を背負い、どのように生きていくのか――その答えだけは、他の誰でもない俺自身が決めなければならないのだから。
俺は膝の上で組んでいた手をほどき、ゆっくりと息を吐く。
「お世話になりました、シートンさん」
俺は椅子から腰を上げ、彼に向き直る。
大きすぎる目的が出来てしまった以上、立ち止まっている暇はなかった。
「近いうちに、この村を出ようと思います」
「……そうですか」
「きっと、もう戻ることはありません」
俺の言葉に、シートンさんは目を見開く。
けれど、それも一瞬のこと。すぐに小さな笑みを浮かべ、やがて静かに頷いた。
「何かを決められたのですね」
「はい」
「村を出て、何をされるおつもりですか?」
その問いに、俺は少しだけ考えた。
これから成し遂げようとしていることを、今ここで詳しく語るのも粋じゃない。
そもそも、まだ歩き出すと決めただけ。
具体的な展望は何もなく、そんな段階で大言壮語を口にするのは、夢見がちな子供のすることだろう。
「――胸を張って、生きてみようと思います」
だから、俺はそれだけ告げて踵を返した。
振り返ることなく教会の出口へと向かっていると、背中から穏やかな声が届く。
「オズリック=スタンリー殿。貴方の行く手に、神のご加護があらんことを」
その言葉は、まさしく欺瞞だった。
聞く者に勇気を与える、優しい欺瞞。それを胸に抱き、俺は次の一歩を踏み出した。
「――死霊術師。それが、あなたの生まれ持った"天命"です」
"英雄学園"と呼ばれる場所がある。
正式名称は"グラン=マグノリア士官学校"。
歴史ある王立士官学校であり、数多の英雄たちを輩出してきた実績を持つ名門校だ。
そして俺もまた、偉大な英雄となるために学園の門戸を叩いた者の一人である――のだが。
「……マジですか」
「入学に際し、新入生の才能を示す"啓示の儀"。その結果として出てしまった以上は、覆しようもありません」
示された俺の適性は、どうやら癖が強そうだった。
淡々と結果を告げるのは、見届け人を務めていた女性教授。
確か、エルネスタ教授とかいったか。品のある佇まいの老婦人だ。
「それで、どうしますか?」
「……どういう意味ですか」
「死霊魔術は、
まあ、それはそうだろう。
死者を扱う魔法が人々にどう受け止められてきたのか、わざわざ説明されずとも想像はつく。
かくいう俺も死霊術に――というか、大昔の死霊術師を発端とするらしい吸血鬼に良い印象は持っていない。憎んでいると言ってもいい。
「故に、あなたに二つの道を提示します。一つは"啓示"の結果通り、周囲の目線や偏見に耐え忍んで死霊魔術を極める道」
教授はそこで一度言葉を切り、俺の反応を窺うように視線を向けた。
「そしてもう一つが――他系統の魔道を専攻する道。あなたは才能ある若い魔道士で、向上心に溢れています。本来の適性とは異なる系統の魔道士としても、充分一流になれる器でしょう」
「……その場合」
俺は教授の言葉を遮らないよう、少し間を置いてから口を挟む。
提示された二つの道については理解した。
だが、俺にとって重要なのは道のりではない。その先に何があるのか、である。
「適性外の魔法を専攻して、"英雄"になることは出来ますか? それこそ、かつて"厄災の魔女"を降したアレスのような」
「……あなたは、英雄を目指しているのですか」
「はい。そのために、俺は
迷いなく、俺は答えた。
教授はすぐには答えず、俺の顔をじっと見つめる。やがて僅かに目を伏せると、困ったように息を吐いた。
「はあ……ここは、優しい嘘など吐くべきではないのでしょうね」
当然である。
俺が聞きたいのは、耳当たりの良いだけの言葉では決してないのだから。
「不可能です。宮廷魔道士や騎士団員ならばともかく、"英雄"の肩書きは
「そうですか。なら、教授――」
一つの道が閉ざされたなら、残された道は一つだけ。
俺は特に気負うこともなく、まるで次の質問をするのが当然であるかのように、教授の目を真っ直ぐに見据えた。
――死霊術師でも英雄になれますか?
「……オズ?」
誰かに呼ばれた気がして、ゆっくりと目を開ける
ぼんやりとした視界に最初に飛び込んできたのは、涼しげな夏服に身を包んだ少女の姿だった。
「もう。教室で居眠りなんかしてるから、熱中症かと思って心配したわよ」
「……シャル」
シャルロット=シュトラール。
端麗な容姿の、姫騎士然とした監督生。
光を湛えた明るい金髪は、夏の日差しを受けていっそう眩しく輝いていた。
いつもと変わらない、見慣れた姿……の、はずなのだが。
「なんか……凄く久しぶりな気がするな」
「……寝ぼけてるの? 昨日だって、ほとんど一緒にいたじゃない」
「まあ、そうだが」
数か月ぶりくらいに感じるのは何故なのか。
寝ぼけているのか、あるいは本当に熱中症なのだろうか。
「ちょっと、本当に大丈夫? 辛いなら医務室に――」
「大丈夫だ、来なくていい」
身を寄せてくるシャルを、俺は手で制した。
別に体調が悪いわけじゃないし、水でも飲めば頭は冴えるだろう。
今の彼女は、春の平服よりも無防備な夏服姿。
袖が短くて多少布地が薄いだけとはいえ、あまり近くまで寄られると正直落ち着かない。
「――それより、少し練習に付き合ってくれないか?」
話を切り替えるようにそう切り出す。
シャルは一瞬きょとんとした後、小首を傾げた。
「練習?」
「ああ。二週間前の対抗戦――レイアとの一戦では、幾つも課題が見付かった。そこで、新しい運用法を考えてみたんだ。実際に試しておきたい」
あの一戦で得たものは少なくない。
勝利こそ手にしたが、実戦を通じて浮き彫りになった問題もあった。
「……体は大丈夫なのよね?」
「全く問題ない」
「そ。なら、いいわよ」
念を押すようなシャルの問いに、俺は即答した。
彼女はまだ少し心配そうだったが、やがて納得したように頷く。
「まったく、あなたは……呆れるくらい、前しか見ていないのね」
「当然だ」
目指す場所は決まっている。ならば、あとは進むだけだった。
「――英雄になるには、立ち止まっている暇は無いからな」
その後。
「ひぃっ……!」
「お、おい、行こうぜ」
「そ、そうだな。ここで訓練するのはやめておこう……」
演習場に入った途端、周囲の生徒たちは揃って顔を引きつらせた。
……そういえば、俺には
しかも特待生――レイア=ブラッケンベリーを打ち破ってからというもの、今まで以上に恐れられることが増えた気がする。
対抗戦を通じて少しは"死霊術師"の評判も良くなったとは何だったのか。実力を認められることと親しみを持たれることは、どうやら全くの別問題らしい。
居心地の悪さを覚えながらも、ひとまず予定通りに死霊術を使ってみる。
すると小さな悲鳴が上がり、周囲の生徒たちは蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまった。
「……いや」
同行していたシャルは、何とも言えない表情で周囲を見回していた。
彼女は先ほどまで生徒たちがいた空間と俺とを交互に見比べると、やがて呆れたように小さく息を吐いた。
「これで英雄は無理じゃない……?」
「……失礼なことを言うな」
あんまりな言い草に、苦し紛れの反論を返す。
全く以て、未だ前途は多難らしい。
俺は息を吐き、夏の陽光が降り注ぐ空を見上げる。雲ひとつない青空は、どこまでも高く、眩しかった。
兎にも角にも――俺の学園生活は、最初の夏を迎えていた。