――地下迷宮入口前広場。
死霊術師と優等生。
そんな異色の二人組が迷宮へと足を踏み入れてから、およそ三十分が経過していた。
太陽が真上を通り過ぎようとしている今なお、石畳の広場には未だ実戦試験の順番待ちをする生徒たちが疎らに残っている。
多大な緊張を伴う試験などさっさと終わらせてしまいたいというのに、最後尾の順番を引いてしまった不運な生徒たちは、そろそろ本格的に待ちくたびれているようだ。
「……くぁ」
さて、その広場の端。
欠伸と共に、昼行燈の如く地下迷宮の入口を眺めている若い男が一人いた。
彼は試験官――とはいっても正規の教授ではなく、学園に雇われた一般職員の一人である。
名はクライヴ。
生徒たちには殆ど覚えられていないし、彼自身も別に覚えて欲しいと思っていない。
「……今年も多いな」
欠伸混じりに呟き、手元の名簿をぱらぱらと捲る。
生徒たちの才能の有無も将来性も、彼にとってはどうでもよかった。
事故なく終わればそれでいい。
というか仮に事故があっても、自分の責任にならなければ別にいい。
それだけが、試験官としての切実な願いである。
「クライヴ、失礼します」
その時、落ち着いた足音が背後から近づいてきた。
振り向いたクライヴの視界に映ったのは、学園でも厳格さで知られる女性教師。
彼は慌てて背筋を伸ばし、愛想笑いを顔に貼り付ける。
「これはこれは、エルネスタ教授。こんなところまでどういったご用向きで?」
「ちょっとした野暮用です。地下の観測所に届け物を頼まれたのですよ」
教授は、やれやれとでも言いたげに肩をすくめた。
地下迷宮内部には、瘴気濃度や魔獣の動向を継続的に把握するための観測所が存在する。
そこでは迷宮や瘴気、魔獣の生態に関するデータが長年にわたって記録・分析され続けており、勤める職員たちはその研究に生きがいを見出す稀代の変人揃いだという。
「……教授自らがそんなおつかいを?」
「ええ、観測所は迷宮の少し深い場所にありますから。無傷で行ける人間は限られます」
その言葉には、教授自身がその"限られた人間の一人"であるという自負が当然の前提として含まれていた。
なるほど、とクライヴは頷く。
この名門学園で教鞭を執る教授陣は、例外なく超一流の使い手だ。
眼前の老婦人もその一人。
若き日は"華炎"の異名で知られた魔道士であり、とうに現役を退いた今なお界隈に大きな影響力を持つ女傑なのである。
「……そちらは、一年生の実戦試験ですか」
エルネスタ教授は何気ない調子で言いながら、クライヴの持つ名簿へと視線を落とす。
「気になりますか?」
「生徒の臨む試験が気にならない者は、教員として不適格です」
クライヴが探るように問い返すと、彼女はきっぱりと答える。
そこには自身の職務に対する確かなプライドが見受けられ――そんなものを欠片ほども有していない彼は、内心でうへえ、と呻いた。
「教授の心配には及びませんよ。迷宮自体は広大で入り組んでいますが、支給した魔法のコンパスに従えばちゃんと目的地に着くようになってますから」
「魔法のコンパス、ではなく
「これは失礼」
形ばかり頭を下げ、クライヴは話を続ける。
「……ともあれ、今回の試験は実施区画も比較的浅い階層。滅多なことが無ければ大抵の生徒が通過できる難度設定になってますよ。実戦試験とはいえ、初回ですしね」
学園の地下迷宮における瘴気濃度は、深部ほど濃い。
ゆえに強い魔獣ほど深層に棲み付き、浅い階層には競争から逃れた弱小種しか殆ど現れないようになっていた。
実戦試験の危険性は生徒間でも悪名高く、緊張感を持たせるために教員たちも敢えて否定しないが、実際のところ"試験とは生徒の能力を見るために行うものである"という根本的な概念からは逸脱していない。
入学して間もない彼らを篩にかけるような真似をする意味もないのだ。
「それとも、一年に期待している生徒でもいらっしゃるんで?」
「私は全ての生徒に期待をかけています」
即答だった。
嘘や建前はなく、教職者としての信念そのものにすら思える言葉だったが――しかし、僅かに間を置いて彼女は続けた。
「ただ、私が特に手を焼く必要性を感じている生徒が何人かいるのも事実ですが。今年の一年生は、そういった類の――優秀な問題児とでも呼ぶべき生徒が多いですから」
視線で名簿の表面をなぞる瞳は凛としていたが、その奥には心労も見て取れた。
「私たち教員の働きかけ次第で、彼らは"英雄"にも"厄災"にもなり得る。これまでの教員人生において手を抜いた年など誓ってありませんが、今年は緊張感が違います」
重々しく語られる言葉を受け、クライヴは顎に手を当てた。
そこまで言わせるほどの面々となれば、心当たりは一つしかなかった。
「それはやはり、例の
「……ええ、彼らは別格と言っていいでしょう。十年に一人の逸材が同学年に四人も揃ってしまったという触れ込み通り、抜きんでた力を持っています。生徒たちは勿論、教師の中にすら彼らにへりくだる者が出てくる始末です」
まったく嘆かわしい、とエルネスタ教授は息を吐いた。
――大変そうだなあ。
クライヴは内心で呑気に呟く。
教授という立場にない彼にとっては、どこまでも他人事だった。学園の居心地が悪くなれば別の就職先を探すだけである。
「あとは、そうですね。オズリック=スタンリー……彼もまた、個人の資質だけなら彼らに比肩、或いは凌駕し得る器だと思います」
「スタンリー……って、噂の死霊術師ですか? へえ、意外だ」
先ほど迷宮に送り出した少年の顔を思い出し、彼は眉を上げた。
「上級生を決闘で負かしたとは聞きましたが、悪い噂も絶えませんし……正直、すぐ退学にでもなるかと思ってましたよ」
「……クライヴ。学園の職員が、生徒を噂で判断するのは言語道断ですよ」
「おっと、すみません」
静かな叱責に、クライヴはやはり軽い調子で頭を下げる。
教授は彼から視線を離し、迷宮の入り口を見据えて言った。
「……まあ、噂に関してはスタンリーの方にも非が全くないわけでもないですがね。彼は聡明さの割に不器用で、他人からの視線というものに興味が無さすぎるところがありますから」
淡々とした口調。
微妙に重くなりかけた空気を払拭するため、クライヴは冗談めいた口調で話題を切り替える。
「死霊術師といえば……今回の試験、面白いことに監督生のシュトラールちゃんとペアになりましてね。どちらかと言えば、彼女の方が優秀なんじゃないですか? 美人だし」
「……顔は関係ないでしょう。それに彼女は――」
「――た、大変です! クライヴ試験官!!」
教授が言葉を継ごうとした瞬間、切羽詰まった叫び声がそれを遮った。
ばたばたと慌ただしい足音。
研究棟の職員らしき女性が、息を切らしながら駆け寄ってくる。その顔色は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいた。
「直ちに試験を中止してくださいッ!!」
張り上げられた声が、石畳の広場に反響する。
周囲で待機していた生徒たちが、何事かと一斉に視線を向けた。
「落ち着きなさい、どうしたというのです」
「え、エルネスタ教授……」
職員は一瞬言葉に詰まり、喉を鳴らしてから続きを吐き出す。
「観測所からの信号ですっ……たった今、学園直下の竜穴に原因不明の乱れが観測されたとのこと……! 実戦試験の攻略区域に、深層の魔獣が入り込む可能性があります!」
「――な」
短い声が、エルネスタ教授の細い喉から零れ落ちた。
「……もしかして、相当マズいですかね?」
「マズいなんてものではありません。急いで生徒たちの救助を」
教授は即座に首を振り、指示を出す。
「深層の魔獣は教員ですら手を焼く存在。このままでは死人が出ます――!」
「よし、終わったぞ」
包帯の端を結び、俺はシュトラールの足から手を離した。
地下迷宮の冷えた空気の中、布を引き締める衣擦れの音だけがやけに響いた。
「……ありがと」
瓦礫に腰掛けた彼女は、視線を逸らしたまま小さく礼を言った。
監督生として毅然としている普段の彼女からは想像しづらい、拗ねた子どもを思わせる声音。
そんなに俺に礼を言うのが嫌なのだろうか。
「
「……ん」
彼女は俺の言葉に短く応じ、各ペアに一つずつ支給された法具を手渡して来る。
淡い魔光を帯びた針が円盤の上で静かに揺れ、やがて一定の方向を指し示す。
この指針通りに進めば、本試験の目的地へと到達できる。実に単純明快だった。
「そういえば、他生徒の姿が見えないな。広場にはあれだけいたのに」
ふと思い立ち、俺は周囲を見回した。
試験開始前、入り口前の広場は試験を受ける生徒――流石に、一年生全員が集合していた訳では無いが――で溢れていたというのに、周辺にはまるで人の気配が感じられない。
「……迷宮は広大だし、目的地が同じでもそれぞれが別のルートを通るようになっているんだと思う。生徒同士で鉢合わせて、もし秘密裡に手を組んだりなんかしたら試験の公平性が失われてしまうもの」
なるほど。
逆に魔獣と間違えて他の生徒に攻撃してしまう危険もあるだろうし、至極当然の措置と言えた。
……そして、それは何か起きても誰かに気付かれにくいことを意味する。
「行けそうか?」
シュトラールは間を置かずに頷く。
「当然よ。もともと大した傷じゃないんだから」
「よし、さっさと――」
――突如、凄まじい重圧を感じた。
言葉の続きを話す前に、胸を押しつぶすかの如き異様なプレッシャーに喉を塞がれる。
空気が、重い。
ただでさえ淀んでいた迷宮のそれが邪気を孕み、肌へまとわりついてくる感覚。
「な、何なの、これ……?」
「……分からん」
耳鳴りにも似た低い振動が、床を伝ってきた。
最初は錯覚かと思うほど微かなものだったが、やがてそれは確かな揺れとなり、足裏から臓腑まで響いてくる。
これは、何かの足音だ。
圧倒的な何かが、俺たちの方に近づいてきている。そういう感じだった。
やがて回廊の奥、闇の向こうが揺らぎ――
「――!」
――鬼が、姿を現した。
三メートルほどはあろうかという、人型の輪郭。
全身が岩の塊じみた筋肉で覆われており、四肢は丸太のように太い。皮膚は赤黒く硬質で、相貌は悪魔の如く凶悪だった。
まさしく、暴力そのものが形を成したかのような威容。
その圧に俺は一瞬怯み――
「――汝、死を忘れる勿れ」
気づけば、反射的に詠唱を終えていた。
現れる、九体の
空間の狭さを考えれば、数はこれくらいが限度だろう。
そのまま三行三列の陣形を構築するよう命令し、前列は盾を、中列は槍を低く構えさせる。後列は予備役。古代の兵法に着想を得た密集陣形。
前で受け、後ろで刺す、ただそれだけを徹底する、単純にして堅牢な構え。
だが――
「グオオオオオオオッ!!」
「ッ……! マジかよ、おい……!!」
"鬼"は咆哮とともに突進した。
凶悪なまでに太い腕が振るわれ、最前列のスケルトンを吹き飛ばす。
盾で受け止めようが、槍で突こうが意に介さない。まさに単純な暴力の化身だった。
……さて、どうするか。
冷や汗が流れる。
予備役を放出し、陣形の穴を埋めながら思考を巡らせていると――
「――はあああああッ!!」
足運びは鋭く、素早い。
狙うは脇腹、防御の薄い一点。
振るわれた魔剣が、爆炎をまとって唸りを上げる。
その威力は、亡者が振るう槍など比べものにならない。肉も骨も焼き斬る、必殺の一撃。
――の、はずだった。
「……嘘、でしょ」
刃は確かに届いた。
だが、鬼の肌を裂いたのは、爪で引っ掻いたかのような浅い傷だけだった。
威力不足。
振りかぶった姿勢のまま硬直したシュトラールに、巨体の反撃が迫る。
「ッ!」
二者の間に、一つの影が滑り込む。
大盾を担いだスケルトン。
彼女の身代わりとなったそれは鬼の一撃で砕け散り、骨片が宙を舞う。
稼がれた一瞬の隙にシュトラールは地面を転がり、間一髪で致命の一撃を免れた。
「無事か」
「助けてなんて――」
「言ってる場合か」
視線の先では、鬼がこちらを見据えている。
「下がってろ。あれを相手に接近戦を仕掛けるのは危険すぎる」
「っ……でも、あなたの骸骨だって……!」
通用していない。
そう言いたいのだろうが、俺はそれを肯定しない。
スケルトンが力負けすることなど織り込み済みだ。
そしてまだ、死霊術の真価は何一つ発揮されていない。
「骸骨を出すだけが死霊術だと思ったら大間違いだ――汝、死を忘れる勿れ」
この術式は、骸骨を増やすだけのものではない。死者を戦場に引き戻す力の対象は、人間だけに限らない。
そして今回、俺が従僕に選んだのは――
『カチッ、カチッ!』
『シュウゥゥゥ……!!』
――先ほどシュトラールが斃した、大蜘蛛の群れだった。
「……! それ……!」
先ほど自分が打ち倒した魔獣たちの再誕に、彼女は息を呑む。
魔剣に焼かれ、斬り刻まれた身体が再生していき、それらはやがて俺の支配下へと組み込まれていく。
次の瞬間。
蜘蛛たちの口腔が一斉に開き、白い糸が奔流のように吐き出された。
「ッ! ゴアアアアアアアッ!!」
粘つく糸が、鬼の四肢と胴を絡め取る。
それは何重にも巻き付き、その巨体を繭のように雁字搦めにしていく。
無論、引きちぎれないはずはない。
あの怪力なら、いずれは力任せに振りほどくだろう。
しかしそれでも、多少の時間は稼げたはずだ。
「今の内に逃げるぞ……!」
「……いいえ――」
思いがけない否定の言葉に、思考が一瞬止まった。
反射的に彼女を見ると、その瞳は――逃走でなく、確かな好機を見据えた光を宿している。
まさか、こいつ……!
「動きを止めてる今ならきっと斃せる……! そのまま抑えててッ!!」
「待ッ……」
制止の言葉は、間に合わなかった。
シュトラールの魔剣がかつてない唸りを上げる。
刃に纏わりつく炎が一気に膨張し、まるで太陽を宿したかのように眩く輝いた。
恐らくは渾身の炎熱。
彼女から離れていてなお、皮膚が焼けつく錯覚すら覚えるほどの高熱が、周囲の空気を歪めていく。
彼女は踏み込み、全霊を一太刀に乗せた。
振り下ろされる魔剣は、先ほどとは比べものにならない威力を秘めていた。
「あ――」
――しかし、嫌な予感が現実になった。
熾烈な炎刃は魔獣の体表を薙ぎ、赤黒い皮膚に深い焼痕を確かに刻んだ。
だが、斃れない。致命には至っていない。威力不足、二度目だった。
それどころか。
「……最悪だ」
魔獣の体表を奔った剣は、絡みついていた蜘蛛糸を焼き切った。
自由を取り戻した巨体が、ゆっくりと彼女に迫る。
その眼には、理性の欠片もない。あるのはただ、傷を負わされた獣の憎悪だけだった。
「ッ……!」
シュトラールは無防備だった。
回避も防御も間に合わない。考えるより先に、俺は踏み出していた。
腕を伸ばし、彼女を引っ張って、前に割り込む。
……あれ。何をやってんだ、俺は――
そんな遅すぎる疑問が脳裏を掠めた直後。
「ごッ……」
視界が真白に弾けた。
次いで、衝撃。
圧倒的な暴力が、俺の身体を撃ち抜いた。
「……え?」
そんな素っ頓狂な声が、シュトラールから漏れる。
呼吸が奪われる。音が遠のく。
床に叩きつけられる。その感覚すら、曖昧だった。
そして、俺は意識を失った。
「――ごめんなさい、ごめんなさい……!」
か細く震える声に、意識が引き上げられた。
瞼を持ち上げようとして、ようやく自分が横になっていることに気付く。
後頭部に、柔らかな感触。温もりと、微かな揺れ。
視界が焦点を結ぶと、視界いっぱいに広がったのはシュトラールの端正な顔。背景には、迷宮の天井も見える。
彼女の膝枕で介抱されているらしいことを認知するまで、たっぷり数秒を要した。
「あ、ああ、うぅ……!!」
嗚咽を堪えきれず、シュトラールは顔を伏せる。
堰を切ったように零れた涙が、ぽたぽたと俺の顔に落ちてきた。
「……泣くのは後にしてくれないか。状況が知りたい」
歯を食いしばりながら上体を起こし、近くの石壁に背を預けた。
動かした瞬間、全身が痛みを訴えてくる。
特に、左腕と肋骨。
力を入れようとすると、内側で何かが軋む。嫌な違和感だった。
……彼女を庇った一瞬、全身に最大限の魔力を纏って
しかし、それだけで死霊術師の貧弱な体躯があの怪力を防ぎきれるとは到底思えない。折れてしまっているかもしれなかった。
俺の一言で、彼女ははっとしたように顔を上げる。
自分の置かれている状況を――恐らく泣いている場合ではないことを思い出したのだろう。袖で涙を拭い、乱れた呼吸のままに言葉を紡ぎ始めた。
「――」
半ば錯乱状態にあった彼女の説明は支離滅裂で、文の途中で嗚咽に詰まり、同じ内容と非生産的な謝罪を何度も繰り返した。
要点を拾い上げるのに少しばかり時間を要したが、大筋はこんなところらしい。
まず、俺があの魔獣の一撃を受けて意識を失った直後。
シュトラールは倒れた俺を担ぎ上げ、迷うことなくその場を離脱した。
魔獣は致命傷でこそ無かったものの、彼女の攻撃で相当な深手を負っていたらしい。逃げる俺たちを追撃することはなかった。
あの巨体に撃ち抜かれた俺が一時的に昏倒した程度で済んだのも、その深手が原因だろう。万全の状態なら、俺の身体は破壊を通り越して粉々になっていた。
ともあれ、迷宮を走り回って少しでも安全そうな小部屋を見付けた彼女は、俺が目を覚ますまで身を潜めていた。
そして、今に至るというわけらしい。
「落ち着いたか?」
「……ごめんなさい」
再三の謝罪。
彼女はようやく泣き止んでくれたが、未だ視線を伏せたままだ。
「どうして、庇ったの。私のことなんて、見捨てれば良かったのに」
ぽつりと、疑問が零れる。
それに答えるべく、俺はあの瞬間の心境を改めて思い返し――
「――いや、自分でも全く分からん。咄嗟のことだったし……悩む時間が数秒でもあれば、多分見捨てたと思うんだが」
「……正直すぎよ、あなた」
取り繕っても意味は無いだろう。
呆れと安堵が入り混じった声で、彼女は小さく息を吐く。ほんの僅かだが、肩の力が抜けたのが分かった。
「あの魔獣のことだが」
「……理由は分からないけど、多分深層から迷い込んできたんだと思う」
だろうな。
この階層に出るには明らかに不釣り合いな力、そして重圧。
あんなのが適正強度だとしたら、実戦試験は毎年屍の山を築いている筈である。
「こちらの最大火力で仕留めきれなかった以上、俺たちの勝ち目は薄いな。奴を躱しながら出口を目指す。その方針でいいか」
「残念だけど、それは無理よ」
低く、深刻な声音。
「昔、あいつの姿を魔獣図鑑で見たことがあるの――恐らく、
種類にもよるが、魔獣の再生能力は人間とは比較にならない。
まして、ここは瘴気濃度の高い迷宮の中。奴らが傷を癒すには、これ以上ない環境だ。
「――タイムリミットは、あと十五分くらいだと思う」
未だ震える手で自身の胸元を押さえながら、彼女は言った。
「そうか」
「私のせいでこんなことになって、本当にごめんなさい。償えるなら何でも――」
「しつこい。来るというなら、迎え撃つだけだろ」
頭はふらつくし、全身が痛まないと言えば嘘になるが、動けないほどではない。
勝ち目が薄いとは言ったが、勝てないつもりもなかった。
「……やっぱり、強いのね。あなたは、私なんかよりも、ずっと」
ぽつりと漏れたその言葉は、静かな迷宮の中で妙に響いた。
称賛にしては熱がなく、どこか卑屈で湿り気を帯びた生々しい感傷が混じっている。
俺が何か返すより先に、彼女は小さく息を吸う。
「――ねえ、聞いてくれる? 私、ずっとあなたに嫉妬してたの」
縋るような声色で、彼女はそう切り出した。
「死霊魔法。みんなは、ただ怖くて、罰当たりで、悍ましい魔法だって言ってる。ゼイン先輩との決闘を見て、私もそう思ったわ」
彼女は視線を落としたまま、淡々と語り始める。
「でも……あなたは真正面から、正々堂々と上級生を圧倒した。入学から一か月足らずの新入生が、覚えたての魔法でね。それは、厳然たる事実だった」
それは、どこか理性で感情を押し殺しているような声だった。
「それに気付いた時に、思ったのよ。私たちの学年で一番"英雄"に近いのは、実は嫌われ者の死霊術師なんじゃないかって。少なくとも私には、同じ真似は決してできない――」
言葉の途中で、彼女の喉が小さく震える。
一瞬の沈黙の後、覚悟を決めたように彼女は続けた。
「――啓示の儀で"天命がない"と判定された私には、決して」
「……!」
その告白は、俺の予想の遥か外側から投げ込まれたものだった。
――大抵の者には、"天命"と呼ばれる才能がある。
俺の死霊魔法や、恐らくはゼイン先輩の鋼鉄魔法がそれだ。
自らの天命と合致する分野において、人は他の追随を許さぬ魔力的資質を発揮する。
だが、天命を持つことと、それを磨き上げて唯一無二の力へ昇華させることは別問題だ。
自分の天命が何なのかを知らない者は少なくないし、知っていても活かせず、無用の長物として放置してしまう者も多い。
ゆえに、入学に際して行われる、天命を見定める啓示の儀。
その結果に基づいて組まれる、専門的な
それこそが、グラン=マグノリア士官学校を"英雄学園"たらしめている所以だと言われている。
だからこそ、俺は疑いもしていなかった。
シュトラールは剣術使いか、或いは法具使いあたりの"天命"を有しているのだろう、と。
「人より少し器用なだけで、どこまで行っても優等生止まり。私はね、天才にも――英雄にも、なれないの」
彼女の眼は、絶望の先にある諦観を宿していた。
「だから、あなたが死霊魔法の話をしてた時。周りの評判なんて歯牙にもかけず、楽しそうに自分の可能性を語ってるあなたを見て……頭が、どうにかなりそうだった。オズリック=スタンリーのことが、私は大嫌いになった」
感情を押し殺そうとしていた声が、わずかに荒れる。
「さっきも、あんなに強い魔獣を足止めしたあなたを見て……何も出来ないのが嫌だった。あなたを見返してやりたかった。そんな子供じみた理由で無謀なことをして――結局、足を引っ張った」
拳が、太腿の上でぎゅっと握り締められる。
「馬鹿で幼稚で、才能も無い。お勉強が出来るだけで優等生なんて呼ばれて、監督生なんてものに選ばれたって、結局はそれが本性なのよ」
吐き捨てるような自己評価と共に、彼女は口元を歪めた。
「英雄どころか、本当はこの学園にいる資格すら……」
「シュトラール」
ここで、俺は言葉を遮る。
いい加減に我慢の限界だった。
一応ここまで口を挟まずに聞いていたが、はっきり言って彼女の話はさっきから――
「意味が分からん」
自分でも驚くほど、平坦な声が出た。
「っ……そうよね。あなたに、弱者の気持ちなんて――」
彼女は一瞬だけ言葉に詰まり、すぐに納得したように息を吐いた。
しかしながら、俺が分からないのはまさに
「――俺より、君の方がずっと強者だろうが」
「……え?」
今度は、彼女の方が固まった。
……こんなことすら、自覚していないのか。
優等生殿は、どうにも視野狭窄に陥っているらしい。エルネスタ教授が心配していた理由も、なんとなく分かるというものだった。
「まず、君は顔が良い」
「……急になんなのッ!?」
一気に上がった声量と同時に、彼女の頬が赤く染まった。
驚愕、困惑、羞恥。
急変する百面相はそこそこ面白かったが、俺は触れずに話を続けた。
「真面目な話だ。君は人目を惹きやすい美少女な上、人の世話を焼くことを苦に感じない性分で、いつも人に囲まれている。君の頼みは大抵の人が快く引き受けるだろうし、困っていれば手を貸すだろう。それは監督生であるからという以上に、君自身がそれだけの魅力を持っているからだ」
「いや、ちょ、ちょっと。なんなの、やめてよ、もう、もう……!!」
彼女はあわあわと両手で耳を押さえ出した。
逃げ場を探すように視線を泳がせ、ついには俺から顔を背けてしまう。
……先ほどまであれだけ一方的に話したのだから、俺の話も真面目に聞いて欲しいのだが。
もっとも、完全に耳を塞いでいるわけではなく、耳朶を押さえているだけだ。多分聞こえているだろう。俺は話を続けた。
「魅力――言い換えれば、求心力か。それは即ち、人を動かすための"力"だ。実際、君は俺より圧倒的に人望がある」
……まあ、俺よりも人望を無くす方が人類には難しいんだが、それはそれだ。
俺以外の他生徒と比べても、彼女はかなり好かれている方だった。
「君がその気になれば、仲間を沢山引き連れて俺を袋叩きにすることだって出来る。結局のところ、最強なのは数の暴力だ。これは歴史が証明している」
死霊術師は魔法で味方の数を増やせる。
しかし、100体のスケルトンよりも100人の生きた戦士の方が強いのは自明の理だ。
かつて亡者の軍団を率い、厄災に認定された"冥王"すらも、結局は時の皇帝と英雄の前に膝を屈したのだから。
「……人に力を借りたところで、それは私の力とは」
「人に力を借りられるのも力の内だろ」
試験や決闘のように、自分だけの力で出来ることの方が世の中には少ないものだ。
個人が持つ武力の多寡など、はっきり言って誤差の範疇でしかない。
単なる喧嘩自慢よりも、地位や権力を持つ人間の方が強者である。そのことに異論を唱える者などいないだろう。
「客観的に見て、君は俺より遥かに強者で"英雄"に近い。自分自身の力、とかいう狭い括りで卑下されても嫌味にしか聞こえないな」
俺は淡々と話すが、彼女の話にはずっと僅かな苛立ちを感じていた。
完全無欠の優等生と謳われ、監督生にまで選任されている女が、何を寝ぼけたことを言っているのかと思わずにはいられなかったからだ。
「というか、最初は喧嘩を売られてるのかとすら思った。恵まれてる人間が自分の力に無自覚なのは、本当に始末が悪い――」
「……あの、もしかして」
躊躇いがちに声が差し込まれる。
彼女は視線を彷徨わせ、やがて恐る恐るこちらを見上げた。
「あなた、私に嫉妬してるの?」
隠す気など、端から無かった。
「悪いか」
「――」
自分が持たないものを持っている相手と言うのは、眩しく見えるものである。
他者に嫉妬しない人間は、きっと成長することも出来ないだろう。
「……はあ、話し過ぎたな。それより、奴を迎え撃つ作戦を立てないと――」
「――ふっ……あははっ……!」
不意に、笑い声が弾けた。
肩を震わせながら、彼女が笑っている。
その様子は、どこか緊張の糸が切れたようにも見えた。
……気でも違ってしまったのだろうか。
訝しげに見ていると、彼女は目尻に浮かんだ涙を指で拭った。
「ありがとう」
「は?」
意味が分からない。
礼を言われるようなことは、何一つしていなかった。
「そっか……うん、確かにそうかも。今までごめんね、スタンリー」
彼女は小さく頷き、悪びれることもなく謝罪の言葉を口にする。
「作戦があるの――協力、してくれる?」
差し出された言葉には、先程までの無理な気負いも、焦燥もなかった。
先ほどまでの陰りはどこへやら、彼女の表情は晴れやかで――曇天の隙間から差し込む光のように柔らかく、しかし確かな意志を宿していた。