あれは、いつの頃の話だっただろう。
正確な年や季節を思い出そうとすると、記憶は途端に形を失う。高校二年だったか三年だったか、それすら自信がない。けれど、夕方の光だけは、今も妙に鮮明だ。
校舎の窓に差し込む橙色。床に伸びる影。遠くから聞こえる部活の掛け声。意味を持たないはずの情景が、今になって胸の奥に沈殿している。
大人になってから気づいたことがある。
人は、人生を変える瞬間ほど、その重要さを理解しないまま通り過ぎる。何かが始まったことにも、何かを置き去りにしたことにも気づかない。
あの頃の俺は、きっとその真ん中にいた。
放課後の校舎は、昼間よりも広く感じられた。
人が引いた分だけ、空間が正直になる。ざわめきが消え、代わりに残るのは、足音と、風と、光の移動だけだった。
視聴覚室の鍵を開けると、埃と機材の匂いが混ざった空気が流れ出す。
古いアンプは、電源を入れるたびに低く唸った。その音を聞くと、理由もなく落ち着いた。誰にも注目されず、ただ役目を果たす音。
俺は配線を繋ぎ、音量を確かめる。
表に立つより、裏に回る方が性に合っていた。目立たない位置で、全体が滞りなく進むかを見る。その癖は、この頃にはもうはっきりしていた。
「またここにいる」
背後から声がした。
振り返らなくても、誰かわかる。
「暇なんだな」
「ひど。ちゃんと探してあげたんだけど?」
彼女は、いつもそうだった。
人の時間に、当然の顔で入り込む。距離の詰め方が自然で、拒まれることを最初から想定していない。
机に腰をかけ、足をぶらぶらさせる。制服の着方は少し雑で、声はよく通る。
沈黙が苦手で、間が空くと何かを話さずにはいられない。
「文化祭、裏方担当でしょ」
「まあな」
「やっぱり。そうだと思った」
彼女は室内を見回した。
暗い天井、スピーカー、コードの束。クラスの中心から少し外れた場所。
「私だったら無理。黙ってたら、なんか不安になる」
笑いながら言う。
その笑顔はよくできていたけれど、どこか落ち着きがなかった。
今ならわかる。
彼女は、ずっと試していたのだ。声の高さ、言葉の選び方、自分がどう見られているか。高校生にしては、少しだけ早く、大人の世界を意識していた。
「ねえ」
「なに」
「私さ」
その一言で、空気が変わった。
声の調子は同じなのに、言葉の置き方が違った。彼女は、いつもより少しだけ間を置いてから口を開いた。笑っていない。
「アイドル、やってみようって思ってるんだ」
リアルタイムで、顔を出して、喋る。
そう続ける彼女は、こちらの反応を注意深く見ていた。期待と不安が、同じ比率で混ざった目。
「目立ちたいって思ってるわけじゃないんだよ」
近くにあった机の端を指でなぞる。その仕草が、珍しく落ち着かなかった。
俺はアンプのつまみから手を離さず、返事を探した。けれど、それを探すより先に、理解してしまった。
これは相談じゃない。
確認だ。
「向いてるんじゃないか」
今思えば、逃げた言い方だった。
背中を押すほど強くもなく、止めるほど冷たくもない。
彼女は一瞬だけ黙り、それから笑った。
「なにそれ。曖昧すぎ」
「悪い意味じゃない」
「……そっか」
それ以上、踏み込んでこなかった。
あの沈黙が、後になって何度も思い返されることになる。
時間は、気づかないうちに距離を作った。連絡は減り、会話は短くなり、放課後に並ぶこともなくなった。高校を卒業してから、彼女とは完全に連絡を取らなくなった。
意識して距離を置いたわけじゃない。ただ、理由を探すのをやめただけだ。
進学先を決めるとき、俺は迷わなかった。
音や映像に関わること。それだけが、自然と選択肢に残った。視聴覚室で過ごした時間が、思った以上に体に染みついていた。
大学では、裏方の仕事ばかりしていた。
撮影補助、編集、音響。誰かが前に立つための準備を整える役割。
華やかな現場にも何度か足を踏み入れた。照明の熱、カメラの列、笑顔の裏側に張り付く緊張。
画面越しに見ていた世界と、よく似ていた。
業界に残る決定打になったのは、特別な成功体験じゃない。
ある現場で、誰にも気づかれないまま音声トラブルを回避したことがある。失敗していれば、空気は一瞬で冷えただろう。それでも収録は何事もなく進み、俺の名前が呼ばれることはなかった。
そのとき、妙に落ち着いている自分に気づいた。
ああ、ここだ。
俺が立つのは、きっとここだ。
誰かが輝くための場所を、少しだけ整える。
中心には立たない。けれど、遠くにも行かない。
就職先を選ぶときも、条件は単純だった。
裏方であること。長く続けられること。そして、できるなら、画面の向こう側にいる人間を近くで見られること。
理由を言語化したことはない。ただ、心のどこかで思っていた。
もし、また会うことがあるなら。
そのとき、何も言えなかった過去を、少しだけ違う位置から見つめ直せるように。
⭐︎
今日の案件に、彼女の名前があることは知っていた。資料を開いたとき、視線が一度、そこで止まった。
MEMちょ。
今では、そう呼ばれる存在。引き受けない理由は、探せばいくらでもあった。でも、断るほどの理由も、もうなかった。
見なければいい、と思っていた。
同じ空間にいても、交わらないことはできる。そうやって、これまでずっとやってきた。
――それでも。
ここに来たのは、自分だ。
あれから七年ほど時が流れた今でも、スタジオの隅は、相変わらず落ち着く場所だった。
光の中心から外れた位置。機材と影が集まり、必要な音だけが残る。
俺はケーブルをまとめながら、無意識に全体を見渡していた。誰かがミスをしそうな動線、危うい配線。そういうものが、どうしても目に入る。
変わっていないな、と自分でも思う。肩書きが増えても、立つ場所は同じだ。
「よろしくお願いしっまーす!」
その声が、空気を切った。
一瞬、理解が遅れた。挨拶としては軽すぎて、でも、場を止めるだけの力がある声。
俺は反射的に足を引いた。
顔を上げる。
ライトの中に、人がいた。正確には、光に慣れすぎた動きがあった。
よく通る声。大きな身振り。周囲の空気を自然と自分のテンポに引き寄せる立ち方。懐かしい、と思うより先に、胸の奥がざわついた。
視線が合う。
彼女の目が、一瞬だけ泳いだ。
仕事用の表情が、ほんの僅かに遅れて追いつく。そのズレを、俺は見逃さなかった。探していた、というより、いつか見つかればいいと思っていたものが、準備のない場所で、突然現れたときの揺れだった。
「……え?」
短い声。
驚きというより、確認に近い。台本にも、段取りにもない音。彼女は俺を見ている。けれど、今見ているのが“誰”なのかを、まだ判断しきれていない。ただ、ここに来てほしいと思っていたのに、本当に来るとは思っていなかった。そんな矛盾が、その一音に滲んでいた。
スタジオの音が遠のく。カメラの駆動音も、スタッフの足音も、膜を一枚挟んだみたいにぼやけていく。
彼女は一歩、こちらに近づいた。距離の詰め方が、昔のままだった。眉がわずかに寄る。目が細められ、視線が俺の顔をなぞる。その仕草を見た瞬間、確信が走る。
ああ。
これは、覚えている目だ。
「……朝凪?」
名前を呼ばれるまでに、ほんの数秒。でも、その間に、いくつもの時間が行き来した。
学校の校舎。
夕方の光。
視聴覚室の匂い。
このまま何も言わなければ、きっとまた、すれ違ったことにできてしまう。でも、彼女は、それを選ばなかった。
「久しぶり」
声が、思ったより低く出た。それしか言えなかった。けれど、それで十分だった。
彼女はすぐには笑わなかった。笑おうと思えば、できたはずだ。MEMちょなら、こういう場面でも、一拍で表情を作れるはずだ。なのに、そうしなかった。場をつなぐ表情も、声の高さも、もう体が覚えている。それでも、その選択をしなかった。
一度、俺を見る。視線が、逃げも誤魔化しもなく、そのまま、置かれる。何かを確かめるみたいで、でも、答えを求めているわけでもない。
ああ、と思う。
これは戸惑いじゃない。驚きでもない。話せないことを、そのまま受け取ってしまった顔だ。
名前を呼べば、きっと、彼女は応えただろう。昔みたいに、軽く文句を言って、それから笑ったかもしれない。
でも、そうしなかったのは俺だ。
彼女はアイドルで、俺はただの裏方。その選択が正しいことも、必要な距離だということも、分かっている。
――分かっているからこそ、彼女の沈黙が、少しだけ刺さった。
それから、ようやく息を吐いた。
「……なにそれ」
スタッフの声、機材の動き、時間。周囲の音が戻ってくるように、彼女の声も、少し遅れてやってくる。
「ほんとに、久しぶりじゃん」
その笑顔は、完成しきっていなかった。仕事で使うものよりも、少し柔らかくて、少し不器用で。それでも。どこか、寂しそうだった。
「ねえ、あさな──」
「――MEMちょさん、スタンバイお願いしまーす」
その名前は、感情を断ち切るには十分すぎる音量だった。
彼女の肩が、ほんの少しだけ揺れる。
「はーい」
返事は、きれいだった。いつも通りで、何も問題はない。
振り返らない。
立ち止まらない。
仕事に戻る背中は、もう、迷っていない。
それでも――あの一瞬だけは、確かに、名残を抱えたままだった。
再会は、なかったことにはできない。でも、続きを始める余地もここには残されていない。
だから俺は、彼女が消えた方向を、一度だけ見て、目を離した。
⭐︎
控室のドアが閉まる。カチリ、という音が思ったより大きく響いた。外の音が遮断されて、スタジオのざわめきが、別の世界の出来事みたいに遠ざかる。
静かだ。
さっきまで、あんなに人の声に囲まれていたのに。
照明はついている。椅子も、テーブルも、鏡も、仕事をするには何一つ不足がない。
それなのに、急に広くなった気がした。
バッグを置く。上着を脱ぐタイミングを逃して、そのまま立ち尽くす。座ってしまったら、何かが終わってしまう気がして。鏡の前に立つ。そこにいるのは、煌びやかなアイドルの衣装に身を包んだ
少し口角を上げてみる。
できる。問題なく、いつも通り。
――だからこそ、その表情が、今は少しだけ遠い。
会えただけで十分。昔の自分なら、きっとそう言えた。
でも、今は違う。会えてしまったからこそ、話せなかったことが、思っていた以上に残っている。
でも、何を話したかったんだろう、と考える。
特別な言葉じゃない。近況でも、昔話でも、ほんの一言でよかった。
「久しぶり」
それだけで、ちゃんと今に戻れた気がした。
椅子に腰を下ろす。背もたれに体重を預けて、天井を見る。深呼吸をひとつ。でも、胸の奥の重さは、まだ動かない。
「……変なの」
声に出すと、少しだけ現実味が増す。
今更だ。こうなることは、とうに分かっていたはずなのに。
名前を呼ばれなかったこと。呼ばなかったこと。どちらが正しかったのか、もう考える意味はない。それでも、どちらも少しだけ、寂しい。
手持ち無沙汰に、スマホを手に取る。
目的は、決めていなかったはずなのに、指は迷わず、画面を滑った。連絡先一覧。スクロールする必要はなかった。そこにあることを、知っていたから。
朝凪。
名前は、何も変わっていない。アイコンも、最後に見たときのままだ。開けば、メッセージ欄は空白で、最後のやり取りは、ずいぶん前の日付だ。何て送るつもりだったんだろう。
「久しぶり」
それとも、何事もなかったみたいに──。
想像しただけで、胸の奥が、少しだけ縮む。
今、連絡したら。きっと、優しく返ってくる。そういう距離に、まだ、いる。それが、分かってしまうのが、少し怖かった。
でも、文字を入力しようと彷徨った指は、動かない。指が止まったまま、しばらくして、スマホの画面が暗くなる。それを、ただ見送る。連絡しなかった理由を、考えなかったわけじゃない。でも、言葉にしてしまったら、何かが変わってしまう気がした。
ここで繋がったら、また、続きを欲しくなる。
今日じゃない。
今じゃない。
スマホを置いて、小さく息を吐く。
「……今は、これでいい」
そう言い聞かせるみたいに、誰もいない控室で、小さく呟いた。